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2009/11/02

『昇曙夢とその時代』1

 『昇曙夢とその時代』には、「大奄美史」を読んでいるのに、その人となりや来し方をほとんど知らなかった昇曙夢(のぼりしょむ)について、その来歴を教えてもらった。

 昇曙夢は、本名、昇直隆。1878年、明治11年に加計呂麻島で生まれている。明治11年といっても、その前年に西南戦争があり、11年はあの大島商社が解体される、そういうタイミングだから、奄美にとって近代の意味が始まろうとしているときだ。昇は、奄美近代の起点でその生を受けている。

 16歳のとき、鹿児島に行き、ギリシャ正教の洗礼を受けているが、鹿児島で初めて出会ったのではなく、加計呂麻島に訪れた商船会社のキリスト教徒に教示されていた。その紹介で、昇は鹿児島の協会に行く。岡程良の依頼を受けてカトリックの神父が大島を訪れるのが明治24年だから、昇もその時代の流れを受けていたのだ。ただ、昇が出会ったのは、カトリックでもプロテスタントでもなく、のちにロシア正教と呼ばれることになるギリシャ正教会だった。これが、昇がロシア語の世界に入っていく契機にもなっている。

 昇は、すぐに上京。ニコライ正教神学校に入学。卒業後、同校の講師になるが、そのときにはすでに論文を発表していた。明治40年、29歳で結婚。

 日清、日露戦争が起こるなか、昇は非戦論者の内村鑑三に傾倒。「内村先生の思い出」のなかで、こう書く。

 この文章の中で、昇はペンネームの「曙夢」の由来についても書いている。内村の西洋詩人の訳詩集『愛吟集』の中の「詩は英雄の暁の夢なり」の一句が「ひどく気に入って、曙夢というペンネームはその中の『暁の夢』という語から思いついた」。後年、このペンネームについて「ロマンチックな筆名であるが、先生に傾倒していた時代の一つの記念」と回想する。

 曙夢、それは「暁の夢」のことだった。

 昇の年代であれば、柳田國男との接点も気になる。

 ただ、昇と柳田は師弟の間柄ではない。すでに、昇はロシアの文学と民俗の分野で一家を成していた。農務官僚でもあった柳田とは少し距離があったようだ。昭和十五年、東京で文化、民俗を研究する「奄美大島文化協会」の発足の際、顧問就任要請に対して柳田は 「外出困難」とやんわりと断りの手紙を昇に出している。柳田の中では軽重でいえば奄美より沖縄だったこともありそうだ。柳田、折口といった本土人の「南島の発見」は奄美人の昇にとっては刺激とともに焦燥感も混じった悼惜たる思いもあっただろう。また、大正末期に起こったこの南へのまなざしはその後のアジア植民地路線に向かう「南進論」の政治的な文脈につらなる面もあった。

 柳田の真意は知らない。けれど、さもありなんと思えるリアリティはある。そしてこの、ありそうだという信憑は、「軽重でいえば奄美より沖縄」という事態は、いまも変わらないと思うからだ。もちろん、沖縄より奄美と主張したいからでは毛頭なく、奄美も、であってほしいと思うからだ。

 そして昇にとっても、「大奄美史」は大きな意味を持っていたようだ。

 「まるで喜びの三重奏だ。もう、これで死んでもいい」
 七十七歳になった昭和三十(一九五五)年は、昇曙夢にとって幸福な年であった。シベリアに抑留されていた長男の隆一が無事に帰還した。加えて、大著『ロシャ・ソヴエト文筆史』を刊行し、これが芸術院賞、読売文学賞を受賞した。ただ、昇のライフワークは昭和二十四年に刊行した奄美諸島の民俗誌『大奄美史』(奄美社刊)だった。
 『大奄美史』は先史時代から説き起こし、昭和二年の奄美への「天皇陛下の行幸」までを記した歴史、民俗誌だ。「方言・宗教・土俗・風習・歌謡・伝説等」が盛り込まれた奄美の百科全書でもある。もちろん、六十年近く経った現在から見れば事実誤認の個所もあるが、昇は「後進のために道を開く先駆者としての役割に過ぎない」と次世代に書き継ぐことを託している。(中略)

 「渡された原稿は何千枚という分厚い資料であった…東京で刊行会までできながら出版の運びに至らなかったものだが、郷土のためにぜひ完成しておくべき仕事と思って、奄美の人々に呼びかけ、千二百部を予約出版した」
 昇一人の力ではなく、奄美の人々の支援によって初めて日の目を見た。

 驚くのは、「大奄美史」を発表したとき、昇はすでに77歳であったことだ。たしかにこれはライフワークと言うべきものだった。そしてそれを奄美の島人も待ち焦がれていた。ぼくは、奄美の二重の疎外による空虚感満たす役割をカトリックは担ったと考えてきたけれど、それだけはない、「大奄美史」もそうなのだと知る。

 明治、大正、昭和の三代を生きてきた昇の人生はこの『大奄美史』を書くための苦難の長い旅路であった。奄美-東京-ロシア-奄美。『大奄美史』は見事な昇の人生の円環を示す遺書ともいえる。
 昇にとって『大奄美史』は単なる民俗誌ではない。それは聖書であり、叙事詩であり、長編小説だった。近代の旅路の中で交錯した西郷隆盛、内村鑑三、二葉亭四迷、柳田囲男、ニコライ、トルストイ、ドストエフスキーなどの文章、思想などを血肉化することで初めて完成することができた。くじけそうなときには彼らの戦いを思い浮かべたに違いない。

 『大奄美史』について、日本国家への帰属意識が強く出た皇国史観だ」と否定的な人たちもいる。確かに周縁の奄美に住むことで国家を相対化する視点を持った本土の作家、島尾敏雄は「ヤポネシア論」を提示した。東京も奄美も地方の一つにすぎない、とする集権的国家を解体する思想だ。
 ただ、日本という国家から疎外、抑圧されてきた奄美の人々の恋い焦がれるような帰属意識は奄美人でなければ理解できない感情だろう。とりわけ、明治維新後の天皇制国家の形成の波に洗われた明治の男、昇にとっては、ある意味、無理からぬことだった。
だからといって奄美の空白の歴史を掘り起こし、記録した『大奄美史』の価値が損なわれ、失われることはない。出版されたとき、「本を抱くようにして眠った」という奄美人にとっては、自負と誇りを確認するバイブルだった。

 確かにぼくも、「大奄美史」については、戦後に出されたものにもかかわらず、戦争体験を通過していないことを批判している。それは第二次世界大戦の意味を受け取っていない。しかし、奄美の近代の起点に生を受け、「明治、大正、昭和の三代を生きてきた昇の人生」にとっては無理からぬことかもしれないとも思う。奄美の近代の向こう側へ視線を伸ばすことはできなかった、それを昇への不満として言うことはできないかもしれない。

 しかしだからなおさら、当時の奄美にとってこれがバイブルであったとしても、現在のぼくたちが、これをバイブルとし続けるわけにいかない。古典としなければ。それがぼくたちの課題である。

 奄美諸島は本土の鹿児島と沖縄を結ぶ「道の島」と呼ばれる。美しい呼び名である。昇は自著『大奄美史』の中で「薩摩と琉球との中間を占め…古来交通の要衝であった」と書く。ただ、それは鹿児島と国境の島として位置する沖縄を結ぶ「架け橋」のイメージともいえる。言ってしまえば、どちらにも所属しない中ぶらりんの「橋」である。その「橋」という位置が中央集権国家の中で歴史的、地理的な空白、疎外を生んだ。それだけに昇は「暗い心理より島民を解放して、明るい希望の生活に向け直したい一心から」自らを鼓舞しながら精力的に仕事に取り組んだ。新聞、雑誌に自分の名前を刻むことは、日本という国家への帰属意識を確認、アピールし、空白の地図を埋めていく孤独な戦いであった。

 この「孤独な戦い」はいまも継続している。

  『昇曙夢とその時代』は、彼の来歴を教えてくれる。しかし、駆け足の足取りのせいか、いささか表層的な物足りなさも残る。

 この本は西日本新聞紙上で二十六回にわたって連載したものをまとめた。これまでいくつかの長期の連載をしてきたが、この連載が私の中で印象深いのは九州近代史をライフワークに決めてからの第一弾であることだ。残りの人生を逆算して仕事を考える年齢になった。過日、宴の席で「星を決めた奴は振り向かぬ」といった言葉を口にしたことがあるが、それに近い思いを抱いている。ただ、九州近代史、人物史と取り組むにはその才が見合わないとの自己認識もあり、今回の昇曙夢も人物、時代が描けたかどうか自信はない。それでも、九州という風土の中で生きて死んでいった人々の骨を拾う孤独な作業を私なりに続けていきたいと思う。

 著者はあとがきにこう書くのだが、物足りなさは新聞連載の限界なのかもしれない。けれど、昇が生きたのは「九州という風土」のなかではない、と注意したくはなってくる。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

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コメント

始めてお便りします。
 本文中に昇曙夢氏は「16歳のとき、鹿児島に行き、ギリシャ正教の洗礼を受けている」と書かれています。この点について。
 私は、奄美の久慈の郷に住んでいた曽祖父のことを調べています。この方は、幕末の頃に江戸に上京し、医学を学んだという言い伝えを残しています。
 実は、この方と昇曙夢少年とは接点があるようなのです。曽祖父は「江戸で修行後」(もしかすると鹿児島城下だったかも知れません)久慈に戻り、医者と村長を務めていたそうです。
 当時、久慈は薩摩藩の砂糖工場があり、それなりの賑わいをもっていたようです。そこに、ニコライ教の神父が宣教にやってきて、曽祖父の息子を教会の司祭に育てたいという申し出をしたとのことでした。
 曽祖父は、息子は長男であるのでゆだねるわけにはゆかないと断りましたが、代わりに(使用人の息子であった)昇曙夢少年を紹介したとのことです。(真偽は、あくまでも伝承ですので定かではありません)その後、昇曙夢少年はニコライ教の神父とともに「上京した」と伝えられています。

 私は、この話は私の母や奄美にいた親戚たちからも聞いておりますので、相当に信憑性が高いのではと考えています。

 思うに、昇曙夢少年が生まれた時代を考えると、少年の生まれた瀬戸内の田舎郷から鹿児島城下を経て上京することは、「郷士」でもない限り、極めて困難なことが予想されます。奄美の親族の話では、昇曙夢氏はロシア文学者として名を成した後、自らの家系についての「粉飾」を行なったことで、島内では芳しくない評判を受けたとのことでした。

 自らの出生を正直に語ることは、昇曙夢氏にとっても難しかったのではないだろうか。つい、そう思ってしまします。

投稿: Az猫ロメ | 2010/05/06 13:49

Az猫ロメさん

遅くなってごめんなさい。
昇が上鹿するプロセスがあっさりしていて、経緯が知られていないのかと物足りなさを感じていましたが、書かれているようなことがあるとしたら、理解しやすいですね。

そうだったのかもしれません。
曙夢の書いたものを読んでいると、「自らの出生を正直に語る」のは難しいところもある気がします。近代的価値観から見ているところがありますから。

投稿: 喜山 | 2010/05/30 16:14

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