『昇曙夢とその時代』3
もちろん、『昇曙夢とその時代』には、昇直隆の素顔も映し出されて、それもこの手記の魅力のひとつだ。
特に印象的なのは、癇癪持ちだったという昇を伝えるエピソード。手記のはじめから藤子は、ランプ磨きが苦手だと書いているのだが、あるときもうお払い箱にしてもよさそうだと感じて売ってしまう。
この頃ようやく宅の室内に電燈がつくようになりましたが、昇の書斎だけは相変わらずランプを使っておりましたので、毎日毎日ランプのお掃除をしながら、このお役目はいつになったらなくなるのだろうかと思って居りました。その後二度目の引越しの頃にはどうやらランプをあきらめたように思われましたので、引越しの時がらくた道具と一緒に昇の許可も受けないでくず屋に売ってしまいました。ところが移転後間もなく大暴風雨がありまして停電となりました。早速二階から「ランプを持っておいで」とさけばれました。私は豆ランプを持って行って、ランプを売ってしまったことを話しますと、さあ大変、昇は目をつり上げて「ああいう記念の品を粗末に扱ったばかりでなく、両も僕に相談もせずに安々と売ってしまったというのは人間のすることではない」と暴風に劣らぬ声で叱られました。その声をきいて、婆やが自分の使っていたランプを持って来てくれ ましたので、やっと助かりました。
「この頃」というのは結婚四年目、明治44年のことだが、藤子の内心の冷やっとする気持ちが伝わってくる。「さあ大変」なんて、童謡のような言葉に、ぼくたちはつい、微笑ましい場面のように受けとってしまいそうになるが、明治を背にしたときの昇の気質を知らせる一幕だ。
奄美を背にしたときの昇のことで、書いてくれて本当によかったと思える箇所がある。
その翌年の秋、昇は久し振で郷里の大島へ帰りましたが、その留守中に西川松子さんが逝去なさいました。御良人と共に長い間御苦心なさってお建てになりました工場がますます栄えて行くことを稲村ケ崎へおいでになります毎にお話し下さいまして、共にお喜び申して居りましたのに、と電報を拝見いたしました時には三十年前からの事をいろいろと思い出しまして悲しみに堪えませんでした。その頃から昇は翻訳の仕事にあきまして、郷里の奄美大島の事に夢中になってしまいまして、その揚句に代議士になって大島の為に働くのだと言いはじめました。そのことをちらりと聞いた大島出身の若い人達が「昇先生是非是非」ということになり、昇はそれを本気にして、明日保証金を持って行くからお金の支度をしておけと私に申しました。その時私は、「法律も分らない者がロボット代議士になって議会に列席するなんて正気の者には出来ません、絶対に反対です」と怒りまして、早速に大審院長の泉二新熊博士と親友の佐藤さんとに電報でお知らせして、すぐに宅へ来て頂き、昇を説得して頂きました。そこでようやく正気にたちかえり、それから大島史と、中断していたロシア文学史とを書きはじめました。
これは昭和11年のことだ。ぼくは昇が奄美の復帰のとき、「奄美大島日本復帰対策全国委員会」の委員長に就任し、東京における運動の先頭に立ち、参議院外務委員会の公聴会で参考意見を述べるというような行動に対して、文学者らしからぬ違和感を感じてきたのだが、もともと政治家への志向があったということだ。昭和22年には、『ロシヤ知識階級論』という書物もものにしているから、知識人として先導するという想いもあったに違いない。
しかしここはランプ事件の意趣返しではないが、藤子はよく止めてくれたと思う。代議士昇より、『大奄美史』のほうがはるかに永続した仕事に違いなかったからである。ぼくは、ここの藤子の「正気の者には出来ません、絶対に反対です」という叱責とそれを記してくれたことは余人にはできないことで、感謝したくなる。
ただ、昇の「大島の為」という想いは痛いほどわかる。こと大島のこととなると、自分を見失うほどに猛進してしまいそうになるのだ。「その頃から昇は翻訳の仕事にあきまして、郷里の奄美大島の事に夢中になってしまいまして」という「飽きた」という観察は、昇は怒りそうな気がするが、翻訳では満たされない想いも切実だ。奄美とは、時の経過が和らげてくれない痛切さのことだからだ。
その意味で手記を読んでいちばん気になったのは、昇の帰省の回数だ。年譜や手記に頼ると、昇は父の他界を虫の知らせでわかったように帰省した明治44年と、大正12年と昭和11年の、計3回しか奄美大島へ行った形跡がない。たった3回である。一回ごとの帰省はいまのように世知辛くはなく、3回目は40日間、奄美の各島を巡ったようだが、それにしても、16歳で加計呂麻島を離れて以来、たった3回しか故郷の島の土を踏めなかったのだろうか。そして、記述の範囲内では、妻の藤子は一度も大島を訪れていない。
時代の制約があるだろうが、これほど想っている場所へたった三回というのはやるせない。逆に、この少なさは昇の奄美への想いをいやましに強くさせたに違いない。もっと帰りたかったことだろう。同情を禁じえない。
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