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2009/11/30

400年、節目のイベント ver.9

400年、節目のイベント ver.9

 400年のイベント。6月以来、更新をさぼってきてしまった。年内で捕捉できるものを挙げておく。他にご存知の方いらしたら、ぜひ教えてください。

◇◆◇


 400年の節目を契機にしたイベントを、気づく範囲で挙げておきたい。(新しいニュースに気づいたら随時、記事を更新します)

 今日(4/15)時点で気づくのは、東京以外は、薩摩軍が上陸した地点あるいは島でイベントが企画されていることだ。

 5/9の県立博物館のものはタイムテーブルも載っていたので掲載する。充実した内容だと思うが、語り手の顔ぶれの反復が気になってきた。

 7/5のカルチュラル・タイフーンのテーマがはっきりしたので、更新。立教大学での開催があると知り、追加。

 あまみ庵の記事で6/13に名瀬であったのを知り、追加。


1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」

 場所:沖永良部島 和泊町歴史民俗資料館
 時期:2009年

2.「薩摩の琉球侵略 400 年・琉球処分 130 年を問う学習会」

 場所:大阪
 時期:3月20日

3.「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」

 場所:沖縄島 那覇市
 時期:3月29日

 記事「「薩摩の琉球支配400年」で熱い議論」

4.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」

 場所:奄美大島
 時期:4月12日
    1)13:30:戦跡の顕彰と慰霊のゆらい
    2)15:00:津代で400年を語る会

5.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」

 場所:徳之島 亀徳秋津神社境内
 時期:4月15日

6.「さつま(薩摩)の琉球侵攻と今帰仁グスク」

 場所:沖縄島 今帰仁村コミュニティセンター
 日時:4月22日(水)18:30~20:00
 講師:上里隆史(うえざとたかし)

7.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
  テーマ「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」
  (「懐かし画像~」)

 場所:徳之島 徳之島町文化会館
 時期:5月2日

8.シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』

 場所:沖縄島 県立博物館
 日時:5月9日(土)
 主催:沖縄県立博物館・美術館
 共催:榕樹書林・首里城友の会・メディアエクスプレス

 1:00 - 1:05 総合司会:玉城朋彦
 1:05 - 1:10 館長あいさつ:牧野浩隆
 1:10 - 2:00 基調報告:島津氏の琉球侵略その要因・過程・結果 上原兼善(岡山大学)
 2:05 - 2:30 徳川幕府の対明政策と琉球侵攻 紙屋敦之(早稲田大学)
 2:30 - 2:55 奄美からの視座 弓削政巳
 2:55 - 3:20 女性史からみた琉球・薩摩 真栄平房昭(神戸女学院大学)
 3:20 - 3:45 琉球史への衝撃 高良倉吉(琉球大学)
 15分休憩
 4:00 - 6:00 パネルディスカッション
 司会(豊見山和行)+パネラー(各報告者)

9.「琉球侵略400年シンポジウム 
  <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」

 場所:沖永良部島
 時期:5月17日

10.「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)

 場所:東京 早稲田大学
 時期:5月29日

11.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)

 場所:大島、名瀬市
 時期:6月13日

12.「奄美を語る会」(「奄美にとって1609以後の核心とは何か」喜山荘一)

 場所:鹿児島市
 時期:6月20日

13.「島津氏の琉球出兵400年に考える―その実相と言説―」

 場所:東京 立教大学
 時期:6月27日

14.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」

 場所:東京 東京外国語大学
 時期:7月5日

15.「薩摩藩島津氏琉球侵攻400年展」

 場所:那覇市歴史博物館
 時期:9月4日~(「琉球王国と日本・中国」歴史講座も)

16.「奄美の未来を考える集会」

 場所:鹿児島県教育会館
 時期:10月3日

17.「海が繋いだ薩摩-琉球 〔交錯するヒトとモノ〕」

 場所:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館
 時期:2009年10月16日(金)~2010年1月13日(水)

18.「奄美と沖縄をつなぐ」

 場所:新宿区箪笥区民ホール
 時期:11月14日

19.「薩摩侵攻400年シンポジウム」

 場所:喜界島
 時期:11月14日

20.「沖縄・鹿児島連携交流事業」

 場所:奄美大島
 時期:11月21日

21.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」

 場所:神戸市
 時期:11月22日

22.「アジアの中の琉球・沖縄400年」

 場所:那覇市県立博物館・美術館講堂
 時期:11月27日

23.「琉球・山川港交流400周年事業」

 場所:鹿児島県山川
 時期:11月28日

24.「薩摩侵攻四百年を考える-史学の諸分野と地域-」

 場所:琉球大学
 時期:12月12日

25.「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」

 場所:沖縄国際大学
 時期:12月19日


※更新日 4/1、4、9(徳之島「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」の紹介サイトを追加)、4/15 今帰仁(4/22)を追加、4/19、県立博物館のシンポジウム(5/9)を追加、5/17、東京外語大学でのパネルディスカッションのテーマ(7/5)を更新。5/30、立教大学でのイベントを追加。6/14、名瀬市のイベントを追加。11/30、6月以降を追加。

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2009/11/29

「琉球・山川港交流400周年事業」シンポジウム

 昨日の「琉球・山川港交流400周年事業」の様子を、さわり伝えてもらった。

 原口泉の書くものは、生々しい現場を観光地として語る頬かむりを感じるのだが、それは声においてもそのようだ。大事を他人事のように語ること、明るくかつ女性のようなかん高さで語ること。それが施される装飾だ。

 伝えてくれた人は、「しゃべりすぎだけど、意味不明」と評していた。ぼくもそう思って聞いていると、実に明るい声で、「琉球侵略」と言ってのけて、少々驚いた。

 甘藷の伝来に触れた後、「道之島がいかに琉球と薩摩をつないできたか」と言うのが、奄美に触れた唯一だったと思うが、そこから、政治的に難しい関係にあるときほど民間の交流は深くなった。色んな対立などがあっても、共に生きていかなければならない。それを沖縄の人に教えてもらった、と。「意味不明」というのは、すり替えが、過剰な単語量とかん高い声と明るいトーンのもとでなされる空虚感のことを言っているのだと分かった。

 でもこうは言った。薩摩の木曽川の工事を黒糖もささえたのであり、奄美は影の功労者だった、と。奄美の人の発言に続いて思わず出たろうか。言おうと思えば言えるんじゃないか。知った上での知らぬ顔。父譲りか?

 しかし、シンポジウムのメンバーに副知事を交えるのは、問題の所在を曖昧に隠蔽する手段として採られただろうか。奄美の代表者は、人がいいのでしょうね、それで招かれたのでしょう。



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神谷バーで『南島旅行見聞記』、出版祝賀会

 昨日は、浅草は神谷バーで、酒井卯作さんの『南島旅行見聞記』の出版記念祝賀会だった。

 『南島旅行見聞記』は、柳田國男の『海南小記』のもとになった手帳のメモに酒井さんが丁寧な注釈をつけ、また柳田の素顔のわかるエッセイを添えたものだ。

 神経を張り詰めるようなことの多いこの頃、ゆったり構えること、歩くこと、無駄をすること。そんなことの大切さを、もう自身のオーラとして放ってらっしゃる酒井さんに触れることができるのはありがたかった。

 帰りの電車では、奄美での不思議な出来事のいくつかを聞かせてもらった。奄美はまだ人智を超えたものを感じさせてくれる、と。


   『南島旅行見聞記』

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2009/11/28

「薩摩侵攻400年にあたっての児童・生徒用副読本の必要性について」

 「奄美侵攻400年で副読本」について、森本さんが奄美市教育委員会の趣意書を送ってくださった。このところ、島のみなさんのお世話になりっぱなしである。

「薩摩侵攻400年にあたっての児童・生徒用副読本の必要性について」
  (平成21年11月26日奄美群島広域事務組合 教育長 徳永昭雄)

 過去、旧大島教育事務局を中心に、郷土の先人の顕彰を行うため、「先人に学ぶ」5巻を発行し、その生き方を群島内の児童・生徒に副読本として配布しました。
 名瀬市誌(上)第5章には「島津氏の琉球入りと奄美」の項を設け、薩摩世の状況を記載していますが、迫害・被虐の記述が児童・生徒用こは、いささか判りにくい嫌いがあります。
 多くの子どもたちは、高校を卒業すると、一度は島を離れ、都会で暮らします。しか.しながら、奄美の子どもたちは親世代から薩摩に虐げられてきたことを教わっても、「奄美の黒糖製造」の歴史が、近世において又、明治維新において、財政的に大きな役割を果たしたことを教えられていません。
 島で生れ育ったアイデンティティの確立と、誇りを奄美地域の歴史を語れる子どもたちの育成を図る上からも、近世において、奄美地域が薩摩藩にそして近代日本発展に果たした役割を、子どもたちに伝えておくことは極めて肝要なことと思量します。

 そのための副読本を作成することは、一地域の歴史と言うことで、鹿児島県当局は作製について消極的と思いますが、薩摩侵攻400年を契機として、奄美群島広域事務組合で発行することは意義ある事業であると考えます。
 おりしも、民間団体から、子どもたちに奄美の歴史を教えていただきたい旨の陳情書が提出され、県議会においては、継続審議となりましたが、奄美地域の多くの議会において採択されています。
 また、沖縄県教育委員会は、沖縄県の歴史を県内の小・中・高校生に伝えるため、数多くの副読本の提供を行っています。
 各市町村におきましては予算面において、厳しい環境にあることは、承知していますが、奄美の子どもたちが将来において誇りを持って、生きていくうえでの教育資産として副読本の発行を切望するものであります。

 「島津氏の琉球入りと奄美」は、「児童・生徒」に「いささか判りにくい嫌い」があるだけではない。大人にとっても判りにくい。与論出身のぼくにとってもそうなのだから、本土の人にはなおのことそうだろう。ここにある判りにくさは、それこそが奄美的なものでもあるのだが、奄美の困難を近代ナショナリズムによって強引に解釈し、そこで薩摩・鹿児島を優性に立てるところに由来している。別の言い方をすれば、出自にまつわる個人的煩悶を普遍化しえていないために、書き手の一族の救抜にしかなっていない。読み手は書き手の煩悶を通じて、奄美的困難の一端を知るという迂回路を強いられる。 これが「名瀬市誌」の過去であるだけでなく、現在なのだ。

 ここに、奄美の歴史副読本を誰が書くのかという課題が顔を出す。奄美の歴史の扉はいまだに内側からしか開かない。それなのに外側から鍵をかけられて閉じ込められてきた。ぼくたちは言葉にならない叫びをあげるか、裏声で痛切に歌いあげるしかない。それは内側からしか開かないのに、外に委ねてきたからだ。

 厳密にいえば、書き手は奄美の人でなければならないわけでは必ずしもない。奄美外の書き手であっても、柳田國男や島尾敏雄がそうであったように、奄美の内側からの視線を保持できるなら可能だろう。しかしこれまではそんな書き手は得られなかった。ために、奄美の人が書いたとしても、外側からの視線を内面化した記述になってしまったのである。それが、「島津氏の琉球入りと奄美」の無残さでもある。擬態していたらそのまま植物になってしまったようなものだ。いやしかしこれは擬態する虫たちに失礼というものだろう。虫は擬態していても、自分が虫であることを忘れず植物だと思い込むことはないからである。

 奄美には歴史の専門家が不足している。それは確かにそうだだろう。だからといってこれまでのように外側に委ねたら同じ轍を踏むのが落ちである。外側の権威に奄美への配慮を求めるより、お粗末でも自分たちで記述すべきではないのか。現に、外側からの配慮はこの半世紀にも得られなかったことが、その期待の無効さを物語っているではないか。それよりは、奄美発のものを書き、薩摩や鹿児島にどんな配慮を示せるかを問うべきである。それが真っ当な努力というものだ。そろそろ原口虎雄の抑圧を克服すべきときだ。それは、侵略の400年を克服するぼくたちの課題である。そうして初めて、冷静になれているか、史実を根拠にしているかという問いに向き合う土俵に立てる。


奄美郷土読本(歴史編)の作成について
                                   H21.11.25
                            奄美市教育委員会

1 日的
 奄美の歴史について丸ごと学ぶことをとおして先人の生き方にふれ、奄美で生まれ育ったアイデンティティーを確立し,誇りを持って奄美の歴史を諸ることのできる生徒の育成を図る。

2 対象
  中学生

3 利用方法及び作成冊数
(1)社会科の歴史学習の補助資料あるいは,自主学習の参考資料とする。
(2)当番中学校の1学年分(便宜上H23.5.1の第1学年の人数)を配布し,学校保管とする。
(3)2,100冊{上記(2)及び予備(学校・市町村教委・事務局)}

4 奄美郷土読本(歴史編)の主な内容
(1)歴史編
 ① わたしたちの奄美
 ① 中世までの奄美
 ③ 琉球統治の時代
 ④ 薩摩統治の時代
 ⑤ 近代の奄美
 ⑥ アメリカ統治時代
 ⑦ 日本復帰、そして、現在

5 作成スケジュール

平成21年度 基本構想作成
平成22年度 執筆者会議(年3回)
平成23年度 編集委員会(年3回)
平成24年度 使用開始

6 執筆者及び編集委員
(1)執筆者 5名(学識経験者・歴史研究者等から選考)
(2)編集委員14名(小・中学校の社会科を研究する教員をもって充てる。原則として各市町村から1名とする。)

7 諸経費
 4,000,000円
【内訳】
(1)執筆者関係(執筆者委員会3回) 165,000円
(2)編集委員関係(編集委員会3回) 588,480円
(3)印刷費関係             3,150,000円
(4)予備費等               96,520円

 経費400万は、315万の印刷費が馬鹿にならない。待望の企画なのだから、ひろく奄美出身者や奄美に心を寄せる人々へ寄付を募ったらどうだろう。そして執筆者や編集委員の労に報いるものが多くなるようにできたらいいと思う。


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「奄美の受難 いま問う」

 前利さんに26日の朝日新聞記事を送ってもらう。「奄美の受難 いま問う」、「『黒糖地獄』の島、未来みすえ」と題された記事。

 薩摩藩による琉球侵攻から400年になる今年、鹿児島、沖縄両県で歴史を検証する催しが盛んに開かれている。今月は帝展知事が交流拡大宣言をした。ただ、「黒糖地獄」に象徴される苦難の歴史を歩んできた鹿児島・奄美の島民からは「侵略の歴史が総括されていない」との声も出ている。400年前の出来事を未来にどうつなげていくか、南の島で模索が続く。(斎藤徹)

 全国紙で取り上げてもらうのは嬉しい。それに茶々を入れる必要もないのだが、でもぼくたちは「模索」しているのではなく主張しているのであり、異議申し立てをしているのである。

 「真の隣人として関係を新たに構築するとともに、未来に向けて交流を拡大し、相互の繁栄を目指して協力することを宣言する」
 奄美大島で21日、沖縄県の仲井真弘多知事と鹿児島県の伊藤祐一都知事が「沖縄県・鹿児島県交流拡大宣言」に署名した。宣言には「薩摩による琉球出兵・侵攻400年という節目を迎え、過去の出来事や成果をしっかり踏まえる」という前置きがあった。

 「成果」って何だ? 「過去の出来事が過去にならず現在も引きずっている問題」というなら分かるが。

 宣言は真知事が伊藤知事に持ちかけたことで実現した。奄美市で沖縄との交流を進める民間ボランティアの花井恒三さん(62)は「節目の年に奄美で宣言がなされたのには感動した」と話す。

 ほんまかいな(苦笑)。この声がいったいどれだけの奄美の声を代弁しているというのだろう。

 だが、会場外では島民ら約10人がプラカードを掲げて抗議を繰り広げていた。「奄美の歴史にふたをするな!」「奄美をバカにするな!」
 奄美大島で薩摩軍に殺害された島民を弔う慰霊祭を毎年開く元教諭の薗博明さん(75)=奄美市=は、鹿児島県が明治以降もサトウキビから作る黒糖の収益を独占し続けたことや、奄美の予算を県予算から分離し、経済的に切り捨てたことを忘れてはならない歴史だと指摘する。
 鹿児島と奄美のいびつな関係を正常に戻すためにも、鹿児島県は自らの歴史を総括すべきだ」
 こうした声に対し、伊藤知事は「歴史はいろんな見方があっていいと思う。お互いの交流の中で解決していけばいい」と言う。奄美同様に侵略された側の仲井真知事も「過去ののあつれきが今後の課題を克服していく大きなエンジンになるのでは」と話す。

 「歴史はいろんな見方があっていいと思う」だと? 寝とぼけたものだ。そもそも、「色んな見方」を封じるのがきみが引き継ぐ県の政治意思ではないか。

 「しわじゃ、しわじゃ うぎ切りしわじゃ うぎぬ高切り札はきゅり」
 鹿児島・喜界島で14日、地元の郷土研究会のシンポジウムがあり、島の高校生が薩摩藩支配下で生まれた悲哀を歌詞にした島唄「糸繰り節」を歌った。歌詞はサトウキビを根元から高く切ると薩摩役人から罰せられるので心配だ」という内容だ。
 研究会事務局の北島公一さん(60)は「特に島の著者に、先人の苦労やたくましさを知ってほしいと思い企画した」と語る。「大事なのは、歴史をこれからの未来にどうつなげていくかだと思う。過去を知ることで、島おこしのきっかけになれば」

 その通りだけれど、奄美の困難を「黒糖地獄」に収斂させるのは、問題の部分化だということを見落としてほしくない。「先人の苦労やたくましさ」にしても、その「たくましさ」はただ、生き残ることを主題にしてきたそれである。

 この記事は伝えないが、沖縄県と鹿児島県の交流事業が、その内容をほとんど知らせることなく、まるで秘密裏に進めてきたことには触れていない。こうした経緯そのものがことの本質の一端を教えている。


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2009/11/27

「琉球人鎮魂墓碑、望郷の碑が完成」

 「琉球・山川港交流400周年事業」のブログ(「琉球・山川港交流400周年」)にも挙げられた記事。

 「琉球人鎮魂墓碑、望郷の碑が完成 指宿・山川港周辺」

 薩摩藩の琉球侵攻に伴い琉球と本土との交流の玄関口となった指宿市の山川港周辺に、琉球人鎮魂墓碑と望郷の碑が完成した。遠く離れた地で亡くなった琉球の人々を慰霊しようと、「琉球・山川港交流400周年」事業実行委員会が建立を計画。29日に望郷の碑がある愛宕山の戦没者慰霊塔横で除幕式を予定している。
 実行委によると、薩摩藩による琉球統治時代、同港には琉球から1000回近く使節船が来航したとの記録がある。遭難、客死した使臣も約500人に上り山川には琉球人墓地が多数あったが、1880年、福元墓地の一角に西南の役戦没者招魂塚を建立した際、撤去されたという。

 鎮魂墓碑は近隣の墓地の一角に建立。高さ約1.7メートル、で沖縄特有の墓石のデザインを一部取り入れ、沖縄の風習に合わせて紙銭(うちかび)を燃やす器も用意した。望郷の碑は高さ約1メートル。サンゴ石を使用し、沖縄の方角に向けて立てられた。「往還逝去琉球人望郷の地」と書かれた陶板を埋め込んだ。
 整備費用は合わせて約200万円で、現在集めている協賛金で賄う予定。

 「琉球・山川港交流400周年事業」実行委員会は市民団体だろうから?、市民同士であれば交流が可能なのだと安堵する。そう、市民同士なら難しくはないのだ、と。ただ、こうした鎮魂の想いが奄美に向けられることはあったのだろうかというさびしさも過ぎる。
 
 しかし一方、沖縄、鹿児島の両副知事が列席するように、ここに政治的な意思がかぶさるのであれば、ぼくは言葉にならない声で叫ばずにいられない衝動が、瞬間、こみ上げてくる。

 鹿児島が薩摩の共同意思を継続する者として、400年前に端を発した歴史を踏まえて、奄美に向けられたことのない慰霊を行う。しかも奄美に対しては、ことが終わらないまま継続しているのだから慰霊だけでは足りない、鎮魂では追いつかない。さらにそのことを、琉球人の鎮魂という、ぼくたちも心からそうしてほしいと願う題目で行われる。ここでも、黙殺は美名のもとに遂行されていく。二重に三重に言い知れない熱がこみ上げてくる。そのとき、生霊が乗り移るように、言葉にならない叫びを身体で聞くのだ。


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「奄美侵攻400年で副読本」

 mizumaさんのツイッターで知り、「バナナからの手紙」の記事に導かれて新聞記事にたどり着いた。

 南海日日新聞(11月27日)。

「薩摩侵攻400年で副読本 -島に誇り持つ子供の育成へ- 広域事務組合」

奄美群島広域事務組合(管理者・平田隆義奄美市長)の定例会が26日、奄美市名瀬の奄美会館であり、徳永昭雄奄美市教育長が薩摩藩の奄美侵攻400年を契機に、「奄美郷土読本(歴史編)を作成する」と公表した。対象は中学生。2012年度の配布をめざす。徳永教育長は「島に誇りを持ち、地域の歴史を語ることができる子どもたちを育成する上からも重要」と強調した。

副読本の作成について徳永教育長は「奄美の子どもたちは薩摩に虐げられたことは教わっても、『奄美の黒糖製造』の歴史が近世、明治維新で財政的に大きな役割を果たしたことを教えられていない。奄美地域が果たした役割を子どもたちに伝えていくことは極めて肝要なこと」と指摘した。

さらに、「一地域の歴史という事で県当局は消極的だと思うが、薩摩侵攻400年を契機として、広域事務組合で発行することは意義ある事業」と延述べ、委員からも趣旨に賛同する意見が続出した。

郷土読本は「奄美の歴史を学ぶことで、アイデンティティーを確立し、誇りを持って奄美の歴史を語ることができる生徒の育成」が目的。中学校社会科の補助資料、自主学習の参考資料として使用する。2100冊と予備の作成を計画。事業費は400万円を見込んでいる。

郷土教育の充実を求めて県議会や市町村議会に陳情していた奄美大島「三七の会」の薗博明さんは「副読本は喜ばしいことだ。古里に誇りを持つ子どもたちを育てるためには奄美の歴史と文化、環境を教えていくことが大切。歴史の真実を伝えてほしい」と述べた。

 奄美がその地理と歴史の姿を現すことは、400年の節目のゴールともいうべきものだから、あるべき事業だ。「消極的」も何も、本来、県当局が進めるべきことなのだが、戦後でもい復帰後でもいい、半世紀経ってもないのだから、遠慮なくやればいい。

 その上でだが、現時点での注文。

・奄美大島史にしないでほしい。奄美史であってほしい。
・関連するが、「黒糖製造」だけを困難の象徴にしないでほしい。つまり、モノの疎外の他に、二重の疎外という関係の疎外に触れてほしい。

 奄美の黒糖製造が、明治維新に貢献した。この語り口はどうあればいいだろう。
 奄美の黒糖製造が、明治維新の財源を用意し、薩摩が実行した、なんてやってしまったら、矛盾を見ぬふりをした鹿児島県的一体化を演出してしまうだろう。奄美も一緒になって維新以降の時間を止めることになりかねない。

 奄美の黒糖製造は、明治維新の財源を用意した。しかし、奄美の島人はそれを知ることはなく、また奄美自体に近代が到来するのも明治維新ではなく、大島商社の解体を待たなければならなかった。奄美の先人はそれと知らずながらも日本の近代化を支えたのである。こういう語り口だろうか。

◇◆◇

 あまみ便りblogの記事(「薩摩侵攻400年で副読本」)をみて、そうだそれもと思ったのは、この副読本は、奄美自家製にすべきだと思う。奄美の人による奄美の歴史本である必要が。排他的にするという意味ではない。そこから始めて広場に出していくという意味で。これはとてもとても大事なことだ。何のために、ということになりかねない。



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2009/11/26

週末の「琉球・山川港交流400周年事業」のこと

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントを反芻したいのだが、まだそういうわけにいかない。今週末の28日、29日に 「琉球・山川港交流400周年事業」が行われる。山川港は、薩摩が琉球に向けて軍船を放った港である。

 「琉球・山川港交流400周年事業」

 ぼくはこの事業を知って、市民交流に水を差すつもりはないが、黙する奄美に当て込んでなされるなら看過できないと、ほぼひと月前に書いた。

 「琉球・山川港交流400周年事業の趣旨」とは何か(10月21日)

 ぼくは、「五人番のアコウ」の由来である琉球へ里帰りさせ、交流を深めようとする鹿児島の市民の善意を疑う者ではないし、それ自体に水を指そうとは思わない。

 しかし、このイベントが行われる文脈については黙しているわけにいかない。ぼくたちはまたぞろ「奄美谷間論」におびえてしまう構図のなかに置かれている。しかし、それは黙する奄美にあてこんでなされるものだ。 ぼくたちは何が行われ、何が語られるか、注視しなければならないと思う。

 (中略)ぼくたちは、薩摩と琉球との間に、一方通行ではない相互浸透の交流があったことにほっとする。しかし、それならそれは、具体的な個々の文化交流に留めるべきものだと思える。「薩摩の琉球出兵400年」の名の元に行えば、大きく文脈を変えてしまうだろう。そこには大きな捨象が伴う。

 まず、「薩摩が琉球統治から得た莫大な資力」という史実のマクロ化で、「奄美」が捨象される。そして、「昔の人々の苦労を思い」という情への訴えかけのなかで、「加害と被害の構図」が捨象されるのである。

 kayanoさんはじめ、何人かの人がぼくにそう伝えてくれたが、その通り、「侵略」を「交流」に置換したすり替えである。またしても、ことの本質を隠蔽することで、薩摩は自己直視の機会を消そうとしている。「歴史の波濤を乗り越えて新しい未来へ舵をきろう!」などと言う前に、すべきことがあるのは言うまでもない。 


 しかし翌日、事業のプログラムを見て、懸念を膨らませることになった。

 「琉球・山川港交流400周年事業」のモチーフは何か(10月22日) 

 「琉球・山川港交流400周年事業」の趣旨で、「五人番で繰り広げられた歴史もアコウの来歴も、人々の記憶から消え去っていました」とあるのを見、薩摩の琉球出兵を植物の移植に回収する視線変更への疑念を感じたが、それはシンポジウムの構成をみたとき、さらに膨らむ。

 基調講演を原口泉が努め、パネルディスカッションのコーディネーターも彼が努めるという。原口泉とは何者か。ここで何度も見てきたように、彼は、奄美の困難の歴史を観光のネタに塗り替えて、薩摩史観を頬かむり的に延命することしかしていない。何度もなんども。その基調講演が頬かむりを越えた直視を可能にし、そのコーディネートが奄美を無視しないとは到底、思えない。いったい原口は何をコーディネートするというのか。最大の困難を奄美に強いながら、その黙殺の上に、時間の経緯をあてにして鹿児島と沖縄とのシェイク・ハンズを演出しようというのか。

 パネリストを見れば、鹿児島県と沖縄県の副知事が名を連ねている。ぼくたちはここでも披露感に襲われる。これは、5/2に行われた徳之島でのシンポジウムの縮小反復ではないのか。聞くところによれば、当初、徳之島は、尚と島津を招き歴史の転換を図ろうとした。あいにく尚は訪れず、島津だけが交流を呼びかけたのだが、今回は歴史上の人物の末裔ではなく、現政策担当者を招くということか。これは、歴史上の人物の末裔を招くのがお門違いであるのに対し、焦点は合っている。だが、資格はない。何の断りがあって「交流元年」などと言うのか。徳之島のシンポジウムでの尚と島津の共演の目論見も実現した島津の呼びかけも茶番をしか感じなかったが、今回はお茶濁しにしかならない。

 いかにそこで「交流」を標榜しようと、それを拒否する者もいることを忘れてはいけない。

 「拒否」、と語気は強く気負っている。とぼけているわけではなく、ことに接した時の身体の第一次反応を逃さないように保存するのが精一杯だから、自分が書いたものも忘れてしまう。ただ、改めて見ても、ここに書いたことを修正する気持ちにはなれない。市民交流の拠点を担うだろうブログ(「琉球・山川港交流400周年」)も、おとつい、ひと月半ぶりにやっと更新された。いやそれは問うことではないだろう。それより、21日に奄美大島で沖縄、鹿児島両県知事が「沖縄・鹿児島連携交流拡大宣言」を行ったその一週間後に、こんどは山川で、両県の副知事が列席するのを時系列で捉えれば、両イベントに関連や作為はないとしても、政治的な意味はおのずと生まれてしまう、そこには注視せざるをえない。

 ここに生まれるのは、直接支配の最大拠点だった奄美大島で知事が交流宣言を行った後に、こんどは侵略の起点で副知事が交流を具体化するというストーリーだ。これをシンプルに市民の交流事業と言うわけにはいかない。鹿児島の頬かむりを領導してきた歴史家が基調講演を行うのであれば、政治的な色彩はさらに膨らむだろう。

 ぼくは山川の近くに住んだことがある。開聞岳を臨み、桜島と異なるたおやかな稜線が描く曲線の地形は、彼の地の風土がその奥に押しやっている柔らかさを肌に感じさせてくれる。そこで開催されるものを批判したくはないが、市民交流の名を借りて、政治として「侵略」を「交流」に置き換える頬かむりには黙っていられない。何が語られ何が行われるのかを、見届けなければならないと思う。


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2009/11/25

「新しい琉球弧像訴える」

 17日の南海日日新聞に、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの記事が出ていた。記念に画像であげておきたい。唄者とマタハリダンサーズがいい感じだし、パネラーの後ろの地図画像もうっすら見える。

 「沖縄・鹿児島連携交流事業」を経て、地元が切迫しているのに、呑気なことをしてしまっただろうかと一瞬、思いかけたが、いやいや、交流にふさわしいのはこちらのほうだ。やってよかった、と思うことにした。だいたい、あれだけ大勢の方に動いてもらって呑気は失礼だろう。それにこちらは確かに交流したのだ。あまみんちゅもうちなーんちゅも、やまとぅんちゅも、外国の方も在日の方も、関係なく。


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2009/11/24

「沖縄・鹿児島連携交流拡大宣言」

 いかに両県の知事に熱意が無かったとしても、奄美市長が、抗議に対して不快感を露わにしながら、沖縄県知事を鹿児島県知事と紹介してしまう間抜けであったとしても、薩摩と琉球の共同意思の系譜を継ぐ者が、両者の矛盾を解く前に「交流」などと言ってしまった汚点は消えない。しかも、こともあろうにそれを大和と琉球の矛盾を担った奄美の地でなすなど、茶番を通り越して破廉恥である。沖縄からの申し出を受けることが意味してしまうことを知りながら頬かむりする鹿児島県知事の高圧さ、この企画が自分たちを踏みにじる行為であることに気づくことさえできなくなった奄美市長の能天気さを記すために、宣言書のひな形を挙げておく。 


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琉球弧図(「奄美と沖縄をつなぐ」)

 沖縄・鹿児島連携交流事業があって、はるか昔のことのようになってしまったが、もっと「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの余韻に浸っていたかったのである。

 というわけで、これは当日、スクリーンにスライドショーで投影した奄美、沖縄の地図。地図も県で区切られたものが多いので、奄美と沖縄を俯瞰できるものにはなかなかお目にかかれない。それで全体を眺めてみたかった。かつ、少なくとも有人の島の名は載せたかった。島が小さくて載ってないものもあるが、他意はなく、画像処理上、溶けてしまったのだ。申し訳ない。

 パネラーとしてはこの絵を背にしていたので、よく見ていないのだが、参加者の方は奄美、沖縄のイメージを絵として持っていただけたのではないだろうか。いつかトカラにつながる企画もやってみたいものだ。

 syomuさん製作。このおかげで奄美、沖縄が概念的になりすぎず、ビジュアルとして広がっていったと思う。感謝だ。


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2009/11/23

やがて哀しき

 前利さんから、画像とレポートをいただく。

 式次第を見ても、熱意が感じられない。地元の地図なのに、愛がない。日本政策投資銀行の水野雄司南九州支店長のプレゼン資料の「なぜ交流が広がらないのか」に答えて、「歴史的背景?」には苦笑を禁じえない。

 なんだか、やがて哀しき実態である。いったい誰のために、何のためにやったのだろう。ここに解消されていない問題があることをあぶりだすためにやったということか。


Shiki

Tizu

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「奄美搾取の歴史を隠蔽」と「『真の隣人』新たに構築」

  「沖縄・鹿児島連携交流事業」当日の模様を伝える地元紙の記事を森本さんが送ってくれた。南海日日新聞は、「奄美搾取の歴史を隠蔽」を一面に挙げ、関連記事として「薩摩侵400年機に交流」と、交流事業を別面に挙げている。奄美新聞は何面かは分からないが、「『真の隣人』新たに構築」として交流事業を主体に、「宣言は『時期尚早』」とした市民行動を続きの記事として挙げている。

 知事伊藤のコメントは両紙に載っており、地元紙ならでは詳しさは嬉しい。ただ、他紙は交流事業を主、抗議を捕捉扱いしているところ、南海日日は、抗議行動を主としており、主張が感じられる。けれど、市民の声を代弁しているかといえば、交流事業促進も抗議も、市民からはどちらも遠いのだと思う。

 奄美パーク側は事前に「施設内で横断幕、チラシの配布はできない」と掲示していた。制止に入った県職員と住民グループが押し問答になる場面も。抗議は式典直前まで続き、式典中にはやじも飛び出した。(南海日日)

 確かに当日の写真を見ても、「式典会場」の立て看板よりも「施設内で横断幕、チラシの配布はできない」に目が行くが、県・市側はこうした抗議を予想していたということだ。知事、伊藤は、

 「歴史が検証されていない」との指摘に対して伊藤祐一郎知事は「人によって見方が違う。何が検証され、検証されていないかはお互いの関係が深化していく中で考えていく問題。世界中の国が過去を持ち、未来に向かっている」と述べ、抗議行動を批判した。(南海日日)
中止要求に対して伊藤知事は「過去の検証はお互いの関係が進むにつれて解決すべきこと。検証だけにとらわれて、今の事業をとめるのは賢いやり方ではない。連携を進めるのは時代の流れであり、中国など生産大国に対する我々の課題。具体的なことは決まっていないが、人的交流を中心にステップ・バイ・ステップで進めていきたい」と話した。(奄美新聞)

 と述べている。「人によって見方が違う」というのは、第三者的ないかにも頬かむり的発言だが、「議を言うな」という内心の声が聞こえてくるようだ。矛盾に蓋をし隠し声を封殺することによって歴史を進めてきた慣性だ。「関係の深化」とは、奄美の非在化の完成のことなのだろう。奄美新聞は、彼がよく使うというカタカナも挙げていて肉声らしさが伝わってくる。

現場で市民グループから意見を求められた平田奄美市長は「意見を言う立場ではない。賛成するお客さんもいる。今やっているのは抗議行動。帰ったほうがいい」と答えた。(奄美新聞)

 帰るどころか退場しなければならないのは平田だろう。

「大島の会」の薗博明さんは「400年は現実の問題。島津による植民地支配は近代社会でも関連して続いている。自分たちは過去の事実、真実を語り合おうと主張しているだけ。交流拡大して一緒にやっていくには、きちんと歴史を検証・整理する必要がある」と話した。(奄美新聞)

 抗議行動というと、怖い印象を持つかもしれないが、薗の発言は穏やかでシンプルなものだ。実際、ただそれだけのことなのに、と思う。

基調講演では、日本政策投資銀行の水野雄司南九州支店長が「沖縄県・鹿児島県の経済交流拡大について」をテーマに県境を越えた交流の可能性を提案。①沖縄と奄美をつないだ観光のルート化を図る②特産品販売など両県共同で一つのプロジェクトを手がける③顧客の視点から、情報を受信する④インターネットや動画で全世界に発信する-などアイデアを示し、「交流により豊かな未来が子どもたちに開かれることを願っている」と呼びかけた。(奄美新聞)

 「全世界に発信」などというのは、インターネット初期の頃の台詞のようだが、こうしたそうに違いないと思える提案が空振りのように聞こえてしまうのは、ひとえにこの交流事業が行政主導かつ市民不在のままに行われてしまう、その点に問題を置いていると思う。平田が「賛成するお客さんもいる」と言うのなら、奄美、鹿児島、沖縄の市民に開かれていなければならなかったのだ。せこい。

 式典に続いて文化交流があり、奄美高校郷土芸能部や海勢頭豊さん(沖縄)、鹿児島古典舞踊協会、琉球舞踊の団体が出演した。(南海日日)

 きちんと告知すれば、これだって観たかった島人は多かったろう。何が問題なのかも、自分のこととして考える契機もあっただろう。


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2009/11/22

「沖縄―奄美―鹿児島 連携交流2009」

 11月20日、琉球新報の「金口木舌」には、こうある。

「泣きやまない子には「護佐丸が来るぞ」と脅していたと奄美市で聞いた。中城按司の護佐丸は県内では英雄だが、奄美では鬼のような認識だ。かつて奄美諸島は、琉球王府の領土だった

▼1609年の薩摩侵攻後は、薩摩藩の直轄地となった歴史がある。その奄美市であす、交流イベント「沖縄―奄美―鹿児島 連携交流2009」が開かれる。薩摩侵攻400年の節目に、共通の政策課題解決に向けて連携を深めることが目的だ。式典では、仲井真弘多知事と伊藤祐一郎鹿児島県知事が共同宣言に署名する

▼そのイベントに異を唱える動きがあった。南海日日新聞(奄美市)によると、奄美関係者で結成した市民グループが18日、鹿児島県知事に宣言中止を求める要請書を提出した。「奄美の虐げられた歴史が総括されない中、奄美での宣言に違和感を覚える」という理由だ

▼琉球王国統治時代を奄美では「那覇世(なはんゆ)」ともいう。那覇世から薩摩藩統治の大和世、アメリカ世、そして鹿児島県と、翻弄(ほんろう)された奄美

▼奄美の市民グループの訴えは、衆院予算委員会の公聴会で「沖縄同胞の心情を人ごとと思わず、小指の痛みは全身の痛みと感じ取ってください」と発した祖国復帰協議会会長の喜屋武真栄さんの思いに通じるものがある
▼「奄美の痛み」にも思いが至る、あすの交流イベントに期待したい。

 琉球新報では、21日のイベントを「沖縄―奄美―鹿児島 連携交流2009」と表記している。そういえば、kayanoさんに教わった沖縄県産業振興公社の表記もそれと同じだった。

 「沖縄 ~ 奄美 ~ 鹿児島 連携交流2009」開催のご案内

 この表記は鹿児島では見られなかったものではないだろうか。奄美市もイベントは、「沖縄・鹿児島連携交流事業」と表記した。沖縄からは奄美は見えるが、鹿児島からは奄美は見えない。そういうことだろうか。だとしたら、沖縄の視野に奄美が入ったことだけは、進展なのかもしれない。

 「金口木舌」の「護佐丸」の強調や「那覇世から薩摩藩統治の大和世、アメリカ世、そして鹿児島県と、翻弄(ほんろう)された奄美」という言い方は奄美への配慮だと思う。しかし、それは奄美を知る手がかりがないため、奄美から発せられる声に配慮したものだと思う。

 「護佐丸」にしても「那覇世から薩摩藩統治の大和世、アメリカ世、そして鹿児島県」の並置にしても、奄美からときに聞かれる紋切り型の歴史観だからだ。

 「護佐丸」の話題は、ぼくは民話のように語られていると思った。少なくとも与論ではそのように聞いた気がしてきた。ところが、それは那覇世が「楽土」ではなかったことの引用として語られる文脈に気づいて驚いた。なぜ、15世紀のことが批判の根拠になるのだろうか。いやこういう言い方は十分ではない。ぼくも、17世紀のことを問題視しているのだから。しかし、1609年以降のことが問題だと考えるのは、何度も繰り返すように、それが現在も終わっていないと感じられるからである。しかし、「護佐丸」のことは終わっている。それは昔話と言っていいのではないか。「那覇世、大和世、アメリカ世、再び大和世」の並置にしてもそうだ。このなかで奄美固有の困難が現在まであるものとしして問題なのは、大和世のことなのである。どうして、護佐丸や世の並置は強調されなければならないのだろうか。ぼくはときに、それは、現に直面しなければならないものを回避するためのレトリックではないかと思う。現に困難を強いている薩摩、県としての鹿児島という当事者に直面しないための。


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歌物語「愛加那」 [Original recording]

 萩原かおりさんの歌物語「愛加那」が、アマゾンにも掲載された。

 「歌物語『愛加那』

 奄美の表現はどこまで行けるか。その波状のフロントラインのひとつにこの作品もある。


Aikana

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「沖縄・鹿児島連携交流事業」、各紙が報道

 「沖縄・鹿児島連携交流事業」について、各紙が報道している。奄美からの抗議があったのを伝えているのは、読売、西日本、南日本。ただ、各紙、論旨は微妙な違いしかないので、全体をひとつのようにみなしてみる。

 「侵攻から親交へ 交流宣言書署名/沖縄・鹿児島県知事が握手」(沖縄タイムス)

 「県と沖縄奄美で交流拡大宣言」(読売新聞)

県生活・文化課によると、今年秋、沖縄県側から「節目の年を交流を広げるきっかけにしないか」と提案があり、まず今月4日に両県議会の議長同士が共同声明を出し、今回の両知事の宣言の運びになった。
 今回の宣言に反対する複数の市民団体の約20人も式典に参加し、「400年間の歴史が検証されていない」「奄美の不幸な過去の歴史を繰り返さないように、過去の事実関係をはっきりしてほしい」などと訴え、来場者にチラシを配るなどした。現時点での宣言に怒りを感じるという「奄美を語る会」の仙田隆宜世話人(62)は「奄美は薩摩からも、琉球からも支配、収奪された地であり、そうした検証を踏まえず、奄美で今回の宣言が行われたことに憤りを感じる。こうした思いを草の根で訴え続けたい」と語った。

 「琉球侵攻400年機に交流 沖縄、鹿児島知事が宣言書署名」(産経ニュース)

署名の式典は、鹿児島県の奄美大島で開催。琉球王国と薩摩藩の二重支配下に置かれた歴史を踏まえて選ばれた。平田隆義奄美市長は「過去の歴史を乗り越え、新たな第一歩を踏み出すべきだ」とあいさつ。琉球舞踊や奄美島唄など両県の郷土芸能が披露された。

 「琉球侵攻400年 「新たな隣人関係を」 鹿児島、沖縄両知事が宣言」(西日本新聞)

奄美群島は1609年の薩摩の侵攻で、琉球支配から薩摩支配に転じた歴史を持つ。会場の入り口では、住民ら十数人が「歴史の検証がない」などと訴え、宣言の中止を求める抗議活動をした。

 「薩摩侵攻400年、新たな関係構築へ 沖縄・鹿児島が宣言」(琉球新報)

琉球王国と薩摩藩の二重支配下に置かれた歴史を踏まえ式典会場となった奄美市の平田隆義市長は「奄美は苦難の時代を乗り越え、今日を迎えた。未来に向けた新たな第一歩を踏み出し、奄美のアイデンティティーを確立したい」とあいさつした。

 「「琉球侵攻400年機に交流拡大」 鹿児島、沖縄両知事が宣言/奄美市」(南日本新聞)

鹿児島県によると式典開催地を奄美に選んだ理由は「今後の交流で大きな役割を果たすと期待されるから」という。4日には両県議会が同様の趣旨の共同声明に調印している。
 同宣言の中止を求めていた奄美出身者や在住者でつくるグループ(仙田隆宜代表)は式典前、「奄美の苦難の歴史を検証しないまま、奄美の地で両県が宣言するのは許せない」などと抗議し騒然となる場面もあった。

 会場が奄美になったことについて、琉球新報は、「琉球王国と薩摩藩の二重支配下に置かれた歴史を踏まえ」たとあり、南日本新聞は、「今後の交流で大きな役割を果たすと期待されるから」ということを、鹿児島からの回答として載せている。

 言葉をたどればそれらしき仮象をまとって黙殺は行われることを示しているようにみえる。この態度には既視感があるというか、原口泉とそっくりである。このイベントは、歴史家と同様、頬かむり的態度によってなされているということだ。

 そうだとすれば、もっとも愚劣な役回りを任じているのは、「過去の歴史を乗り越え、新たな第一歩を踏み出すべきだ」をあまりにも軽く発言する奄美市長、平田だと言わなければならない。


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2009/11/21

「沖縄県・鹿児島県交流拡大宣言」

 mizumaさんのツイッターで知り、「沖縄県・鹿児島県交流拡大宣言 全文」の記事に導かれる。

 「奄美」の文字はなく(というのは早合点で、文末、添え物のようにある)、内容も何も言っていないに等しいものだ。

沖縄県・鹿児島県交流拡大宣言


 沖縄県と鹿児島県の両県は、「琉球弧と呼ばれる広大な南の海洋に連なる島々によってつながる「黒潮文化圏」の中にあり、古来から海の道による文化の交流があった。

 海を通じてアジアや世界に開かれたこの二つの県は、周辺地域の文化を吸収しながら、また、多くの激動にさらされながら、それぞれ独自の個性を築いてきた。

 さらに、両県は、政治的・経済的な関係にとどまらず、生活文化の面での深い交流を通じてお互いの個性を磨いてきた。

 薩摩による琉球出兵・侵攻400年という節目を迎えたこの年、過去の出来事や成果をしっかり踏まえつつ、両県が真の隣人としての関係を新たに構築するとともに、未来に向けて交流を拡大し、発展させることが重要である。

 このため、今後、両県は、あらゆる分野・世代でより一層の交流を推進し、相互の繁栄を目指して協力することを、ここ奄美の地において宣言し、両県知事が署名する。


2009年11月21日

 この全文を伝えてくれる「バナナからの手紙」のコメントのほうが、よほど何事かを語っている。

沖縄は、鹿児島、奄美に対して興味がある。 鹿児島、奄美と交流を深めたいと思っている。

鹿児島は、東京・大阪・福岡などの大都市に目が向いていて
沖縄・奄美に対しては、関心が無い。


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沖縄・鹿児島連携交流事業、画像速報

 「沖縄・鹿児島連携交流事業」について、前年さんから50枚ほど画像が届いた。画像のみなので、詳細は待つしかないが、伝わるものはある。

 式典会場の看板より、チラシ、横断幕を禁止した注意書きに目がいく。二枚目、時代劇のようにいかにもな絵、だ。抗議行動の人数の少なさに胸が痛むが、会場の規模をみれば、いかに市民不在の儀礼的なものかもわかる。関係者以外、来てほしくないことがあらわだ。宮崎緑は自分が何を演じているか、分かっているだろうか。自分で学んで自分の言葉で話してほしいと思う。最後は、空疎な握手。

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『月桃夜』

 読み進むにつれて引き込まれ、一気に読み終えてしまった。遠田潤子の『月桃夜』である。

 兄と妹の物語に妹として苦悶し、なかば死を覚悟して海を漂う茉莉香(まりか)が、二百年前に、同じ兄と妹の物語に、兄として苦悶し、いまは鷲として空を飛びながら、「この世の終わり」で妹との再会を待っているフィエクサの話を聞いて、生の世界へ帰還するまでの、これは小説だ。

 茉莉香はわざとパドルを海に放ち、カヤックを漂流させ、死か生かの裁きを受けようとするのだが、そこでマブリ(魂)が抜けかかっている状態なので、鷲と話すことができる。鷲もまた生と死のあいだを彷徨っている存在だからだ。

 その舞台が奄美大島の海だというのは、最適だと思う。奄美もまた、どちらでもありどちらでもない、というあわいの歴史と地理を生きてきた島だからである。この、生と死のあわいの世界を奄美に見たとき、遠田は奄美の世界を内在的に描く鍵を手にしたのだと思う。現に、歴史も民俗も、『月桃夜』は、ぼくたちに身近なところまで迫ってくる。たとえばそれは、

 「アンマの手にはきれいな模様があった。それで、機を織っていた」
 「針突(ハヅキ)か」

 と、「針突(ハヅキ)」を憧れとして、島の民俗の内側から描いている点などに現れている。ぼくたちは奄美の物語としてこの作品を読むことができるだろう。もちろん、史実へのアプローチや、たとえば、山の神が西洋の女神に思えてしまうようなところなど欲を言いたくなった箇所もあった。しかしそれは贅沢というものだろう。奄美ならではの舞台設定で奄美を感じさせてくれる作品にまずは感謝したい。

 途中まで読んで眠りについたが、夜中目が覚め、眠れそうになかったので続きを読みだしたら、終わるまでやめることができなかった。『月桃夜』は深夜に向いている。


   『月桃夜』

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「どっちもどっち」、ではない

 南日本新聞(11月20日)に「沖縄・鹿児島連携交流事業に思う 大和・琉球 両文化を吸収 奄美は「結節」の拠点に」(福島義光)と題した記事が載ったという。あまみ庵からの転載だが、全文引用する。

 今年は薩摩藩の琉球への侵攻から400年。21日には奄美市笠利の奄美パークで「沖縄・鹿児島連携交流事業」があり、伊藤祐一郎鹿児島県知事と仲井真弘多沖縄県知事が「交流拡大宣言」をする予定と聞く。

 会場となる笠利は、琉球王朝と薩摩藩のいずれの支配下でも、奄美統治の地元官庁所在地として政治の中心地をなしていた場所である。従って今回の両知事の行為を、地元目線で表現すれば、「旧支配者同士の旧領地現場での会談」となるのである。

 奄美では、薩摩藩による砂糖地獄に象徴される過酷な収奪ばかりが強調されるが、それ以前の琉球治世下でも「無税の理想郷」などではなかった。沖縄の泊港には奄美からの米の収税をつかさどる「泊御殿」があり、奄美での現地役人に集めさせた米を収納する「大島倉」も存在していた。

 奄美の民族(民俗?)行事の中に女性祭祀集団であるノロの祭りがある。彼女らノロは「稲作儀礼」である祭祀を執行し、「祭政一致」の琉球王国を支えていたとされる。集落のいくつかには、祭りのための免税地である「ノロ田」があったが、周囲の土地は課税地として王府へ納税し、琉球王朝の絢爛豪華な文化を支えた。海外との中継貿易と中国への朝貢貿易が強調されるあまり、領内での「収奪」を見逃しがちである。

 首里城の周りには、王府の「衣食住」の作品を制作する大勢の「専門職人群」が配された。彼らを賄う膨大な費用を確保するには、領内末端の納税者への「稲作の精励」が欠かせなかった。そのための「稲の豊穣」の祈願であり、それこそがまさにノロの政治的役割であった。決して集落民のための「稲の豊穣」を祈願していたわけではなかったと思うのだ。

 薩摩ばかりが「収奪者」扱いされるが、奄美の者にとってみれば、どっちもどっちだ。「奄美からの視点」で言えば、その間を通じて島民は「双方への税の供給源」としての位置づけに押しとどめられていただけなのである。

 奄美は過去の歴史のように両者が代わる代わる足を乗せる「踏み台」なぞではなく、これから将来にわたっては、双方を「結節」するのに欠かせない最重要地点となり得るといいたい。

 なぜなら、奄美には今でも大和文化と琉球文化が混在しており、両文化を吸収、租借してきた懐の深さを持つ。また地図上で奄美を中心に同心円を描くと、東京と同じ距離に東南アジアがあり、中国大陸も多くが含まれることに気づく。これから到来するであろう中国を中心とした「環東シナ海」経済の時代に、必ずや奄美にしか担えない貢献をするものと思う。

 ともあれ、会場を提供する奄美への「配慮」が、両者の言辞と「交流拡大宣言」にどう表記・表明されるのか。注目して見届けたいものである。(おわり)

 いったい、「薩摩ばかりが「収奪者」扱いされるが、奄美の者にとってみれば、どっちもどっちだ」と言えるのは、どういう視点だろう。それは、琉球、奄美、薩摩に対しての距離が等しくなるほど遠点か、原口虎雄が重石として置いた薩摩に対すること挙げを抑圧する視点か、だ。

 「どっちもどっち」ではないから、ぼくたちはこと挙げをしているのではないのか。「どっちもどっち」が、みんな同じだったというところまで均質化されれば、すべては過去の歴史であり、イベントはただの儀礼になる。あるいは、「どっちもどっち」が、薩摩と琉球の支配は「どっちもどっち」だがそれは他地域に比して過酷であったとするなら、こと挙げをする動機を得るが、その際、ぼくたちは、薩摩(鹿児島県)と琉球(沖縄県)の双方に対してこと挙げをするだろう。しかし今回はそのどちらでもない。

 薩摩の奄美支配が特異であり、それは現在まで継続している部分があると感じるから、まず、県としての鹿児島にこと挙げをしているのである。「奄美では、薩摩藩による砂糖地獄に象徴される過酷な収奪ばかりが強調されるが、それ以前の琉球治世下でも「無税の理想郷」などではなかった」などと言うが、琉球支配下が「無税の理想郷」ではないのは当たり前ではないか。薩摩と琉球は有税で同じだったというのなら、何も言ったことにはならない。薩摩の黒糖収奪の徹底度と二重の疎外というモノとコトの収奪を、固有性として抽出し、それがなお永続化していることを問題としているのである。

 「無税の理想郷」というのは、「那覇世はよかった」という古老の言葉を引用しているのだろう。原口虎雄もこんな古老を言葉を引いた上で、「理想郷」ではなかったと強調していた。歴史書において、なぜ古老が史実として主張しているわけでもない言葉を引き、それを否定しなければならないのか。それはむしろ、自分が経験した時代のことでもないのに、思慕を抱かせるのはなぜかという心理的、民俗的な関心として取り出すべきものだろう。そこで、わざわざ「「無税の理想郷」などではなかった」と言うのは、薩摩への批判に蓋をする抑圧として機能するのである。

 「会場を提供する奄美への「配慮」が、両者の言辞と「交流拡大宣言」にどう表記・表明されるのか。注目して見届けたいものである」などという呑気な場所に、ぼくたちは立っているわけではない。


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2009/11/20

「沖縄・鹿児島連携交流事業を契機とした鹿児島への要望」

 自分の言葉にしたくなり、急ごしらえで舌足らずではあるが、要望書を作成した。


「沖縄・鹿児島連携交流事業を契機とした鹿児島への要望」

 明日21日に予定されている沖縄・鹿児島連携交流事業は、県としての鹿児島が薩摩の琉球出兵から何も学んでいないことを露呈しています。しかも、400年目の今年、奄美、沖縄、本土の各地でイベントが開催され、さまざまな声が発せられたことを踏まえると、そこから何も学ぼうとさえしていないと感じられます。それどころか、舞台を奄美大島に選ぶについては、黙殺を強いる姿勢すら継続していると思わざるを得ません。これに代わるべき姿がなければならないと考え、ここに要望書を提出します。

 薩摩の琉球出兵以降、奄美がこうむった困難は、薩摩の借財返済と明治維新の資金源となった北奄美中心の黒糖収奪と、奄美を直接支配しながら「琉球国之内」であることを内外に隠蔽したために、「琉球でもない、大和でもない」と二重に否定的な関係に置かれたことです。重要なのは、これからが過去のことではなく、現在も続いてしまっている点にあります。薩摩の琉球出兵400年を過去のものにするために、以下の三点を要望します。

1. 奄美群島振興開発事業(奄振)窓口の奄美への移管

 いわゆる奄振は、黒糖収奪以降の物質的な収奪に対する補償であると捉えることができます。にもかかわらず、奄振の窓口を県としての鹿児島が持つのは矛盾であるだけでなく、収奪の続行を意味しています。現行の奄振は問題を多く孕みますが、それ自体、奄美が主体的に解決すべきものであるはずです。奄振の窓口を奄美へ移管し、収奪の終息を図るよう要望します。

2. 鹿児島の教育過程における奄美の歴史、地理、言葉の組み込み

 鹿児島において空気のように当然になっている、奄美への配慮不要の状況を解消するために、教育過程で、鹿児島の歴史、地理、言葉を教えるのと同等に、奄美の歴史、地理、言葉を扱うこと。この際、奄美への配慮不要の歴史に加担してきた学者の関与は不要とし、奄美の歴史、地理、言葉のテキストは奄美がつくるものとする。これらのことを要望します。

3. 奄美と沖縄の交流拡大の支援

 沖縄・鹿児島連携交流とは、本来、薩摩が分断を強いた奄美と沖縄の交流拡大を支援すべきものです。奄美と沖縄を横断する市民交流や、那覇経由の経済活動、奄美から沖縄への進学など、文化・経済・教育における両者の交流促進を支援することを要望します。

 以上です。

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すべきことは奄美の顕在化と奄美と沖縄の交流拡大の支援

 21日に予定されているらしい鹿児島、沖縄の交流拡大宣言に対し、中止を要求する会(仙田隆宜代表)が、鹿児島の県知事、伊藤あてに中止を求める要請書を、一昨日18日に提出した。

 琉球侵攻400年 沖縄と交流宣言へ 奄美の団体反対

「薩摩の奄美・琉球侵略を『不幸な歴史』と清算して、過去を隠蔽(いんぺい)し、謝罪すべき事を『交流』と称し、奄美を愚弄(ぐろう)することは許せない」

 隠蔽しているのは、過去だけではなく、過去および現在であるということが、中止の要求を生んでいる。読売新聞の記事の写真を見る限り、要請書を提出しているのは、鹿児島在の奄美出身者だ。これはぼくなどが、東京にいてものを言うのとは異なり、とてもきついことだと思う。鹿児島での日常の摩擦やあつれきを予定しながらしなければならなくなることだからだ。そうせざるをえない状況を、県は何も感じないだろうか。

 記事は、歴史に触れて結んでいる。

 薩摩藩は、琉球貿易を独占することなどを目的に出兵。琉球王国を支配下に置き、与論島以北の奄美群島を直轄地にした。

 鹿児島・沖縄両県の交流拡大宣言 奄美出身者ら中止要求

 南日本新聞は、中止要求の主体を「奄美」ではなく、「奄美出身者」としているところ、要請書の提出者について単純に触れただけかもしれないが、事態を矮小化しているようにも見える。

「交流拡大そのものを批判しているわけではない。今でも差別を受ける島の人もいる。400年の節目を安易に利用せず、歴史教育や検証をしっかりした上でやってほしい」

 この仙田さんの発言は抑制のある冷静なものだと思う。交流拡大そのものを批判しているわけではない。

 中止要求の向こう側に、提案を置くとしたら、県としての鹿児島がすべきことは二つ。400年前から非在化を強いている奄美を鹿児島のなかで顕在化させること、そして、400年前から絶った奄美と沖縄の「交流拡大」を支援すること。この二つである。これを、県としての鹿児島が沖縄に提案し、奄美大島を舞台に選ぶなら、中止の要求を呼ぶはずがない。それは、明治維新で時を止めた鹿児島の時間をふたたび進め、過剰な武士団を封じ込められた薩摩のやむなさへの奄美からの配慮を喚起させもするだろう。400年目の節目においてもなお、県としての鹿児島は自己直視をやり過ごして終わるだろうか。絶好の機会だというのに。


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2009/11/19

「似姿をみつける」(「唐獅子」11)

 藤木勇人さんが、「奄美に行ったら、昔の沖縄みたいだった。懐かしかったよ」と言ったとき、思わぬ角度から奄美が照らし出される気がした。

 こういうとき、「奄美、沖縄には昔の日本がある」といって民俗学が宝探しの視線を向けて、ときにはた迷惑な気分を覚えてきたのを思い出す。だが、藤木さんの発言はそうは響かなかった。沖縄の似姿としての奄美。その視点が新鮮だったのだ。

 奄美(大島)に初めて行った時、「山原だと思った」という上里隆史さんの言葉も同じだ。山と森が豊かでシマ(集落)はその裾野に小さくある、そのたたずまいに沖縄の似姿を、上里さんは見たのだ。

 また、大学の折、奄美から来た一字姓の同級生を、鹿児島からだなと漠然としか思わなかったが、奄美を知るようになり奄美は遠いものではなくなった。そう上里さんは続けた。これも同じ意味に響いてくる。

 上里さんからは、奄美には奄美の自画像が必要だという提案があり、ぼくもそう思った。確かに奄美は奄美の自画像を描けておらず、ぼくたちはそのことで過剰に疎外感を覚えてきたし、悪戦苦闘もしている。

 ぼくは藤木さんもそう思うかと投げかけると、「自画像が無いのは沖縄も同じ。沖縄の自画像と思っているのは、あれは外から作られたもの。自信がないのよ」と応える。ここでは、奄美の似姿としての沖縄が照らし出されるようだった。

 大島出身の圓山(えんやま)和昭さんは、「奄美と沖縄をつなぐ」と聞いたとき、「自分たちのシマ(島)のことを考えるのに精一杯でそんな余裕は無かった」と話す。これも奄美も沖縄もある意味で自画像は未成だという議論の後には、シマ(島)こそが考えるべき足場であるという共通の根拠として浮かび上がってきた。

 似姿という言葉に、本物/偽物という意味を込めていない。親しんできたものからみて似ているという意味だ。思えばぼくも沖縄に与論の似姿を見出し「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマを育んできた。つなぐということは似姿を見つけること。それは視点としての収穫だった。

 いま、イベントを終えてその興奮の余韻のなかでこれを書いている。マブイは抜けたような状態だが、この気づきのおかげで心身の疲労が心地いい。(マーケター) 11月15日記


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2009/11/18

「沖縄・鹿児島連携交流事業のお知らせ (2009年11月17日更新)」

 mizumaさんに、奄美市のWebサイトに「沖縄・鹿児島連携交流事業のお知らせ」があるのが分かった。11月17日、昨日、更新されたものだ。(「『交流拡大宣言』の中止を要求する要請書」

 しかし、中味の具体性に乏しい。たぶんに儀礼的なものであることがあからさまだ。


                               (生活・文化課)

         沖縄・鹿児島連携交流事業

1 事業の目的
 2009年は,島津氏の琉球出兵から400年という大きな歴史的節目の年に当たる。
 出兵から400年のいま,沖縄・鹿児島両県知事による交流拡大宣言を行い、今後県政の共通する諸課題等についてさらに連携した取組を進めるとともに、県民レベルでの交流も進め、未来に向けた両県の発展的な交流の拡大を図る契機とする。

2 主  催
  沖縄県,鹿児島県

3 開催白時
 平成21年11月21日(土)15:00~17:00・


4 開催場所
 鹿児島県奄美パーク内・奄美の郷(奄美市笠利町節田1834)

5 事業内容
(1) オープニング
 ・沖縄,鹿児島両県において,これまでに開催したシンポジウムの様子をVTR等で昭介
(2) 開催地市長あいさつ
 ・平田奄美市長あいさつ
(3) 基調講演
 ・水野日本政策投資銀行南九州支店長による講演
(4) 両県知事による交流拡大宣言
 ・交流拡大宣言書に両県知事が署名
 ・両県知事が交流拡大宣言
(5) 記念品交換.
 ・両県知事による記念品の交換
(6) アトラクション
 ・エイサこ,琉球舞踊
 ・おはら節 など・
 ・島唄,八月踊りでフィナーレ

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「『交流拡大宣言』の中止を要求する要請書」

 開催を今週末に控えているというのに、鹿児島県と沖縄県が奄美大島で行うという薩摩侵攻400年交流イベントの詳細が分からない。両県や奄美市のWebサイトを見ても案内はない。どなたかご存知であれば教えてほしいが、告知なしでことは進められているように見える。極秘裏とまでは言わなくても、なぜ知られないようにするのだろう。むろん秘密裏というところは、いかにも県としての鹿児島らしくて、さもありなんとは思ってしまうのだが。

 この交流事業、舞台を奄美大島に選んだということの意味は、画期的か破廉恥かの両極にぶれる。このイベントの報を聞いたときのぼくの第一次反応は、破廉恥、だったが、それが誤解なのかどうかも今のところ判断がつかない。内緒で進めているので苛立たしさが募ってしまう。

 市民不在のものだったらすべきではないだろう。まして、奄美の人が求めているのでなければ、奄美大島を舞台になぞ、すべきではない。それは、奄美の気持ちを踏みにじる行為であり、大和と琉球の矛盾に蓋をすることである。薩摩の琉球出兵がもたらした困難は、過去ではなく、現在も続いているからだ。そのことを、県としての鹿児島が知らぬはずがない分、ひでえことしやがる、と思わざるを得ない。

 そんな中、あまみ庵の森本さんから、「『交流拡大宣言』の中止を要求する要請書」をもらう。以下、全文、引用する。ぼくが書くとしたら、違う書き方をすると思うところはある。しかし、何かをせずにはいられない切迫感は共有するものだ。


                      2009年11月18日(11/20更新)
鹿児島県
伊藤祐一郎知事 様

        「沖縄・鹿児島連携交流事業」における
      「交流拡大宣言」の中止を要求する要請書

                    「交流拡大宣言」の中止を要求する会
                                 代表 仙田隆宣
                             鹿児島市坂元町38-3

                                  他賛同団体
                         中止を要求する喜界島の会
                         中止を要求する徳之島の会
                        中止を要求する沖永良部の会
                           中止を要求する与論の会
                       中止を要求する鹿児島住民の会
                        中止を要求する沖縄住民の会
                        中止を要求する関東住民の会
                        中止を要求する関西住民の会
                   中止を要求する琉球弧の先住民族の会

1【項目】

 私たちは、「沖縄・鹿児島連携交流事業」における「交流拡大宣言」の中止を断固として要求します。

2【理由】
 11月21日、鹿児島県知事と沖縄県知事による「沖縄・鹿児島連携交流事業」が行われると聞いています。
しかし、島津軍による武力侵略から400年の今年、奄美の地でそれがなされることには深い違和感を覚えざるをえません。
 1609年の琉球侵略に伴い、奄美の島々は琉球国の領土から転じて、薩摩藩の隠された直轄地となりました。明治期に鹿児島県に編入されてからも米軍政下の8年間を除いて現在に至るまで、この奄美が本土統治下に置かれ、差別と収奪の対象にされていたと見ることができます。

 私たちは、加害者と被害者の立場の違いによって歴史の評価は大きく異なることを学んできました。
 為政者側からの歴史は、徳之島犬田布(1864 年)において無実の罪で拷問された「為盛」救出が「騒動」であり、母間(1816年)において無実の罪で投獄された「喜久山」救出と薩摩藩直訴もまた「騒動」でしかなかったのです。
 斉彬の近代化政策とは奄美の人々を酷使し、餓死させた政策であり、これを推進した行政改革者・調所広郷の改革とは大阪商人からの500万両の借金踏み倒しと偽金作り、密貿易、奄美諸島の民衆を奴隷と化した黒糖収奪でありました。今の時代なら極刑であります。しかし、斉彬と調所は薩摩のヒーローとして鹿児島の歴史学者は賞賛しています。

 薩摩の奄美・琉球侵略を「不幸な歴史」と精算し、過去の歴史を隠蔽し、蓋をすること、謝罪すべきことを「交流」と称し、奄美を愚弄することを奄美の民衆は許すことはできません。
 今、やっと奄美の人々が言葉を発する時代(とき)が来たと、私たちは考えてきました。そこへまたもや亡霊のように薩摩と琉球が立ちはだかるとしたら、我々の先祖は地の底から這い上がり、きっとこう叫ぶでありましょう。

 「武器を持たぬ豊かな恵みの島を襲った島津軍、黒糖地獄、あの苦しみを忘れろと言うのか!餓死した同胞は今も山中に、海岸に骸となってさまよっているのだ!今もなお薩摩代官のごとく島ん人を見下す輩がいるのがみえないのか!哀しいことだ・・・」と。
 薩摩の奄美・沖縄侵略を契機に奄美の人々のアイデンティティは末梢され、「薩摩であって薩摩でない、琉球でなくて琉球の内」として扱われてきました。

 明治の世、黒糖は自由売買の世になりましたが、鹿児島商人(大島商社等)は専売によって暴利を貪ってきました。そして、自由売買嘆願の一行は投獄され、一部の人々は西南戦争へ従軍。疲弊した奄美は、県議会によって「遥かに遠い絶海の離島で文化も違う」と異端視して切り離され、屈辱的な差別政策である「大島独立経済」を強いられてきました。さらに敗戦後、奄美の島々は米軍統治となり、1953(昭和28)年12月25日、やっと我々は薩摩侵略以来の自由を取り戻したかに見えました。しかし、これも鹿児島の官僚政治で、奄美群島振興開発特別措置法という鹿児島県と本土企業の利権を誘導するための事業と化し、奄美の貴重な自然を食い物にするだけの形を変えた植民地政策となっています。こうしたアメとムチの時代がまたもや奄美を沈黙させているのです。
 薩摩と奄美は永遠に「侵略、略奪」する側と「奪われ、生殺与奪の牛馬のごとき」関係でしかないのでしょうか!

 しかし、奄美の人々は島人(シマンチュ)としての誇りを捨てることはありませんでした。私たちは、長い苦難の時代にあってもシマの生活と文化を守り、誇りを失わずに歩みを止めなかった先祖を尊敬し続けてきました。
 それ故、私たちには、絶滅寸前であるといわれている奄美の島々のシマグチやシマウタなどを始め、文化や歴史、自然まるごと奄美のアイデンティティとして継承する義務と責任があります。今、薩摩に同化されることはそれらを失うことになります。

 私たちと志を同じくする「三七(みな)の会」は、こうした意志を表明するため、本年9月、鹿児島県議会に「郷土教育に関する陳情書」を提出し、鹿児島県と奄美に係わる歴史教育の必要性を促しましたが、継続審議となりました。

 奄美侵略400年を機に、鹿児島県でも奄美に対する歴史の検証と総括、これからの歴史教育への取り組みを含め、真摯な取り組みが開始されるものと期待していました。
 鹿児島県民の中で、奄美と薩摩の過去の歴史を知るものが、果たして何人いるでしょうか。鹿児島県知事は、その歴史を語ることができるでしょうか。

 鹿児島県及び鹿児島県知事は、2009年の今回の計画において大きな過ちを重ねようとしています。それは、第一に、鹿児島県民に奄美の歴史を広く知らしめる責にありながら放置していること、第二に、その歴史と現実を「沖縄・鹿児島連携交流事業」という美名で隠蔽しようとしていること、そして、このイベントを今日、現在においてすら奄美の住民に告知せず、開催しようとすることなどであります。

 奄美と鹿児島県の歴史を語らず、逆に奄美の住民感情を黙殺するに等しい計画に対して、私たちは、400年前の1609年、島津藩の奄美侵略によって数百名余もの命が奪われた先祖の無念を思うとき、「無神経にも程がある!」「恥知らず!」と耳障りになるような言葉を投げかけるほかないのです。しかも、こうした歴史に目を閉ざし、それらの歴史的事実がさも無かったかのようにして、この計画を奄美の地で行うなど、言語道断であり、これは時期尚早という以前の問題であります。なぜなら、今日に至るまで奄美と鹿児島県との400年間の歴史認識(検証と総括)の問題はなに一つ解決されていないからであります。

 このようなことから、私たちは「沖縄・鹿児島連携交流事業」における「交流拡大宣言」の中止を断固として要求します。

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2009/11/17

国際琉球沖縄学会(IAROS)

 ウィルヘルム(Johannes Wilhelm)さんからメールをいただき、国際琉球沖縄学会(International Association of Ryûkyûan/Okinawan Studies)、IAROSを教えていただいた。

 国際琉球沖縄学会(IAROS)

 IAROS、ウィルヘルムさんにお聞きしたら、イアロスと呼んでいるそうだ。すでにこのブログのリンクを張って、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの紹介もしてくださっていたので驚いた。嬉しいですね。他、琉球系のイベントも見落としがちなので、助かる。

 ウィルヘルムさんは、ヨーゼフ・クライナーさんと一緒に、IAROSの活動をしてらっしゃるとのこと。

 国際琉球・沖縄学会の設立へ向けて動き出した、とある。ご覧ください。



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2009/11/16

詩穂ちゃんのご冥福をお祈りします

 めぐみさんから内山詩穂さんが亡くなられたと連絡をいただいた。

 恐れていたのはこのことだと今ごろ分かったようで言葉が見つからないと、めぐみさんは書いていたけれど、ぼくもほぼ同じ気持ちだ。ささやかな縁だったけれど、隣島の小さな命のことを覚えていたいと思う。

 ご冥福をお祈りします。



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「奄美と沖縄をつなぐ」異種格闘型トークセッション

 まず、大真面目にいえばこのイベントは、薩摩の琉球出兵400年を考えるなかで企画されている。今年、奄美、沖縄、本土の各地で開かれたイベントは、東京で開催されるものはなるべく足を運び、奄美、沖縄の場合は、新聞やブログの記事を追ってきた。それはとても意義深いものだと思う。しかし一方、歴史家の歴史研究報告がほとんどであることから、その意義とは別に、未来へ向けた志向をどうつくればよいのかという課題は残るように思えた。名目だけ未来へと銘打ったイベントも21日、奄美大島で予定されているが、県主導の、露骨に市民不在のものであり、ぼくたちの未来だとは思えない。

 歴史家ではないぼくたちに何ができるだろう。そう考えると、この歴史を乗り越えるために、さまざまなアプローチが考えられるが、ぼくはぼくにとって切実なテーマから始めるしかない。そう考えれば答えは自然で、「奄美と沖縄をつなぐ」ことだった。それはなにしろ、ぼくにとっては数十年来、やむことのないものだから。

 人選は難航した。ただ、難航したと言っても依頼しては断られを繰り返したのではない。「奄美と沖縄をつなぐ」に関心のある奄美、沖縄の人を他に知らなかったからである。唄者の層の厚さに比べて何ということだろう、と思ってみたりした。でもそんなことはなく、ぼくが知らないだけなのだ。そんな自問自答を繰り返したが、その期間が長かった。ブログを見返してみると、5月に会場を決めたのを書いているが、パネラー決定はずっと先の9月。4か月も悩んでいたことになる。決まってみると、意外なところでそれぞれに接点を持っている方々になった。

◇◆◇

 ところで当日のことは、トークセッションが終わると、続けて出番の藤木さんを残し、上里さん、圓山さんとは言い足りなかったことを吐き出すべくディスカッションを継続したが、それもあってシマウタコンサートの部は、残念ながら全体観をつかめていない。録画をはやく観たい。ああ、全体を通して聞く側になりたかったなあ。

 トークセッションは、上里さんが顔ぶれをみて、異種格闘型ですね、と言い当ててくれたのでそれを使わせてもらった。トークセッションの中味は、なんとツイッターのツイートをgacchikoさんが編集してくれているので、なんとなくの流れは伝わると思う。

 奄美と沖縄をつなぐkokogikoさんのtsudaり

 政治的な内容にはせず、統一見解を出すのが目的でもなく、立つ位置の違う四者それぞれの声から、つながることへの接点や糸口が見えて、それが会場に来ている人の立つ位置からも接点や糸口をみつけてもらえるような波状の広がりを目標にしていた。パネルディスカッションの司会は初チャレンジであり、ぼくの技量は心もとなかったが、いくつかその場で伝えられなかったことを含めてメモしたい。

 藤木さんについては、その話芸を真横で聞いていられたのがぼくの贅沢だった。間の置き方、声の強弱。まるで音楽だ。また、パンフレットに載っている藤木さんの文章は、ご自身がリライトしたものだ。原稿依頼をして最初に届いたのは心温まるメッセージだった。これで十分と思っていたが、すぐに藤木さんはこちらを使ってほしいと送りなおしてきた。内容は変わってないけれど、大きく変わっていた。何か? 言葉、語り口が、だ。最初のが標準語バージョンで、次に来たのが、沖縄大和口バージョンだった。文章の親近感が俄然、変わる。ここにも芸を見る思いだった。

 上里さんは、「奄美と沖縄をつなぐ」具体案を持っていたのだが、進行役の力不足と時間切れで果たせなかった。これはとても残念で、改めて公開する場があればと思う。パンフレットでは「奄美の自画像」の必要性を提案しているが、その通りでトークセッションのたどり着く先をガイドしてくれた。上里さんは、『琉日戦争一六〇九  島津氏の琉球侵攻』の出版も控えている。こちらも楽しみだ。用意した既刊の本は完売とのこと。よかった。

 圓山さん。ずっと座っているので分かりにくかったかもしれないが、彼は「奄美の家」の店員さんスタイルで登場していた。おかげでぼくにはいつもの圓山さんとして接することができたが、「奄美の家」のお客さんは気づきましたか? 圓山さんは冒頭、自分たちのシマ(島)のことに精一杯で余裕がなく「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマは考えもしなかったと話した。しかし議論はめぐりめぐって最後には、シマ(島)を根拠にした自画像を奄美も沖縄も自分たちの手でつくる必要があるというような流れになったから、冒頭に結論を話してもらったようなものだった。

 みなさんにとっても感じることの多い場であったのを願っています。


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2009/11/15

「速報『奄美と沖縄をつなぐ』-Only iPhone movie-」

 gacchikoさんが、イベントの速報を youtube に挙げてくださった。

 完全映像版とはいかないけれど、試行錯誤で iphone でやってのけているすごさも一緒に味わってください。遠くから撮っているのに、徳原大和くんの声の響くこと。すごいです。


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みなさん、ありがとうござました。(「奄美と沖縄をつなぐ」)

 一夜明けて透き通るような青空。昨日のことをうなずいてくれているみたいでほっとする。
 みなさん、楽しんでもらえたでしょうか。得るものはあったでしょうか。それが気がかりだが、最後、六調やカチャーシーで踊っている姿をみたときはやっぱり嬉しかった。

 ぼくが写せたのは下の一枚。あとはツイッターにちょっと投稿するのが精一杯で、現場をあちこち歩き回っていた。横断パネルがとても立派で、それを組み立てているとき、本当にやるんだと実感が湧いてきて(遅い?)、気が引き締まってきた。トークセッションはリハーサルなしで(当たり前か?)やることに。

 あとで、報告レポートを書きたいが、いまはしばし、マブイ抜けの状態に浸らせてください。演者の方、スタッフの方、来てくれたみなさん、ほんとうにありがとうございました。


Panel

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2009/11/14

「奄美と沖縄をつなぐ」、はじめに

 イベントのパンフレット冒頭に書いたメッセージです。


 琉球が薩摩の出兵を受けてから400年に当たる今年、奄美や沖縄の島々を中心に、400年の意味を問うシンポジウムがいくつも開催されています。これまでのところ、そこで語られているのは、戦闘の実態を明らかにすることや、これまで従属的な歴史として見られがちだった琉球について主体性を見出すのが特徴になっているように見えます。

 わたしたちはそこに2009年の意義を感じますが、一方で、いくつかのことが気になってきました。それらは主に、歴史の現場である奄美 ・ 沖縄で開催されていること、語り手は歴史家がメインで他の声があまりないこと、また、シンポジウムの掲載記事などで見る限り、若い世代の参加がみられないこと、です。

 わたしたちは次第に自分たちにも何かできないかと考え始めました。歴史家ではない者が、奄美や沖縄を離れた場所で、歴史を引き受けることに参画できないだろうか。何かをせずにはいられないという焦慮もありました。でも結局、この歴史を超えていくには、自分たちにとって切実なことから始めるしかありません。それは何か。そう考えて、「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマに辿りつきました。400年前の出兵による島伝いの戦闘は、奄美と沖縄はつながっており、同じ歴史を共有したことを思い出させてもいます。この歴史を超えていくひとつの道筋として「奄美と沖縄をつなぐ」ことはひとつの可能性を示してくれないでしょうか。

 そしてつなぐのに、シマウタほど格好の材料を提供してくれるものはないでしょう。でも、奄美と沖縄がお互いの唄と踊りを共有したことはあまりなかったのではないでしょうか。語りあうことはなおさらです。唄うだけでは物足りない。だから踊るのだ。でも、唄い踊るだけでも満たされない。だから語るのだ。ともに、語り、唄い、踊りましょう。

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2009/11/13

「沖縄と鹿児島に何があったの?」

 ねえねえ、どうしておじちゃんはこの話題になると怒るの? おじいちゃんもこの話になると怖い。と言われた後に、小さな子に質問されてるみたいだ。「沖縄と鹿児島に何があったの?」、と。でも、この問いから始めなきゃいけないんだと思う。さまざまな400年イベントへの参加者が年長者に限られがちになるのは、このテーマへの接点が日常生活のなかでは希薄になっているのだと思う。

 「教えてニュース塾〈37〉沖縄と鹿児島に何があったの?」

 記事は、出兵の背景と歴史を伝えたあと、書いている。

 政権が豊臣から徳川家康に移ると、家康は琉球を通して明と交渉しようと考え、薩摩に琉球との関係を取り持つよう命じます。そこで薩摩は日本に漂着した琉球人を送り届け、家康にお礼を述べる使者(謝恩使)を派遣するよう求めました。しかし琉球は明との関係を考え、日本へ使者を出すことをためらい、送りませんでした。何度か催促した後、薩摩は武力で解決しようと考えます。そして1609年3月、薩摩は琉球に攻め入ります。琉球は抵抗しますが、日本有数の強さを誇る薩摩には勝てず、降伏しました。以降、琉球は奄美諸島を奪われ、対外的には独立国の形を保ちながら薩摩に従うことになります。

 ただ、「沖縄と鹿児島に何があったの?」と言われると、いつも「奄美」のことは捨象されてしまう。それなら、どういえばいいのか。たとえば、「琉球は奄美諸島を奪われ」というのだけでは足りない。ここは奄美を主語にして、奄美は、対外的には琉球に含まれるという対面を保ちながら、実は、薩摩の直轄領であることを強いられた。しかも、そのことは幕府へも内密であった。その含みに触れる必要があるのではないだろうか。というか、そこまで言ってほしいのである。

こうした歴史のせいか、鹿児島と沖縄はこれまで、隣県なのに交流が少ないと言われてきました。しかし薩摩侵攻400年の節目に、負の歴史を乗り越え、新たな関係を築こうという友好ムードがたかまってきました。すでに県内や奄美諸島では関連シンポジウムが開催されており、21日には奄美市で沖縄の仲井真弘多知事と鹿児島の伊藤祐一郎知事が「交流拡大宣言」を行うことも決まっています。長い年月をへて、ようやく両県の本当の交流が始まろうとしています。(高良由加利)

 そういう含みがないので、奄美で開催されるというこはアリバイにしかならず、実質、矛盾に蓋をすることのになってしまう。奄美での開催が奄美からの要望であり、イベントの中味にも市民が参加しているなら、別の意味を持つが、そういう声は聞こえてこない。「本当の交流」がこれでは始められるわけではないと思うし、始めたとしたら、またしても奄美は黙殺されることになるのだ。高良さんにはそれを伝えたく思った。


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「奄美と沖縄をつなぐ」、明日やります

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベント、いよいよ明日です。

 まわりのみなさんの力のおかげでようやくここまでたどり着きました。明日は、会場の予約が13時なので、13時から関係者は大童で動いています。泥染め、もずく、本など、販売をされる方もそのあたりでいらしてください。準備に加わっていただくと後がスムーズになると思います。

 トークセッションとシマウタコンサートをご覧になる方は、15時半に会場ですので、そのころおいでください。当日参加ももちろん歓迎です。

 場所は新宿区牛込箪笥区民ホール。都営大江戸線の牛込神楽坂駅がいちばん近くて、出口をあがるとそこはホール入口です。でも、利用者は少ないですよね。地下鉄の神楽坂駅からは10分くらい。いちばん利用者が多いだろう飯田橋駅からは、10分から15分で着きます。近くには、タリーズや喫茶店もあります。それから、ホールの中も一部、公道扱いになっていて、その上にあがると小さな公園です。明日、肌寒いかもしれませんが、早めに着いた方はそこで時間まで待っていることもできます。

 それでは、明日お目にかかるのを楽しみにしています。いだうぁーちたばーり。


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2009/11/12

「沖縄の発見」(「唐獅子」10)

 祖母やパラジ(親戚(しんせき))の話しぶりから抱く沖縄への思慕が親近感に変ったのは、80年代の後半から90年代にかけてだった。具体的にしてくれたのは、りんけんバンド、『おきなわキーワードコラムブック』、映画『ウンタマギルー』だった。

 西武百貨店池袋店の屋上で、初めてりんけんバンドのライブを観(み)たときの衝撃は生々しく覚えている。知らないはずの音楽なのに、琉球音階のメロディーとリズムは、好きだというのでは足りない、血が騒ぐほどに響いてきた。そして、歌われる言葉がある程度分かり、親近感が増す。初期のコピーの、「すみやかに沖縄の逆襲が行われんことを」というフレーズ(だったと思う)は、胸がすくようだった。

 『おきなわキーワードコラムブック』は、沖縄のことが書かれているにもかかわらず、言葉や出来事に共通性があって自分たちのことを読むように楽しめた。まぶい組の組長、新城和博が同い年だと分かって同世代的な共感も加わる。つながっている、と思った。沖縄を「沖縄」でもなく「オキナワ」でもなく、平仮名で「おきなわ」としたのも理解しやすかった。ぼくもまた、「与論」でも「ヨロン」でもなく、「よろん」と表現したい欲求があったからだ。「まぶいぐみ」に込められた意味も、ぼくにも必要なことに思えた。

 そして映画『ウンタマギルー』で、親近感は一体感まで高まった。言葉や音楽への親近感だけでなく、高嶺剛監督がその向こうに描こうとした、琉球の聖なるけだるさ、「オキナワン・チルダイ」は、それこそぼくの場合は、与論の本質として感じているものだ。それは、「アマミヌ・チルダイ」と言ってもいいもので、まさに琉球弧そのものを見るようだった。言ってみればそれは、人が動物や植物の言葉を解する世界のことだ。ぼくはもちろん話せないけれど、祖母の振る舞いはそうだとしか思えないものだったし、かすかではあってもぼくの身体もそれを知っている、そう思えるからだ。少なくともその気配をぼくは与論で感じてきた。

 これらがぼくにとっての沖縄の発見だった。しかしそこから同時に、そこに奄美は含まれないというメッセージも受け取り、それが今の「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマにも底流している。


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惜しいなあ

 黒糖焼酎のロゴが決まったという。

 奄美黒糖焼酎のロゴマーク決まる

奄美群島の地図を中心に据え、太陽や海を周囲にデザインした。「南国のイメージをシンプルに表した」としている。

 これは、奄美大島酒造協同組合が募集したものだというが、惜しいなあ。これは奄美黒糖焼酎のロゴではなく、奄美大島黒糖焼酎のロゴだ。他島は大島の添え物ではないのだから、もちょっと、島はそれぞれが主役の理念が表現されたデザインだといいと思う。


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2009/11/11

「第19回 ヨロンマラソン2009」

 少し前から、ヨロンマラソンの申し込み受付が始まっていますね。

 「第19回 ヨロンマラソン2009」

 申込期間は、1月22日までだ。

 もうすっかり与論の風物詩。
 ありがたい紹介記事も。
 「今日からヨロンマラソン2010の申込開始!」

フルマラソンとハーフマラソンとリレーマラソン(フル)があり、フルは制限時間7時間。そしてハーフに関してはなんと5時間という制限時間の長さ。21.0975km全部歩いても完走できるぐらいの制限時間です。しかもヨロンマラソンは制限時間を超えても温かくゴールを迎えてくれて、しかもその制限時間を過ぎたくらいの時間にはゴール地点近くで完走パーティを開催しているので、逆に目立ちます(笑)。完走したみんながそのゴールの瞬間のアナウンスを聴いています。

そういう意味でも初マラソンにはとてもおすすめの大会なんですよね。本土の大会みたいに堅苦しくなくて、特にハーフ参加の人はピクニック感覚で来ている人も多いですからね。途中、沿道からの差し入れなどをたしなみながら^^;


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2009/11/10

「不分明の文化」

 甲東哲(きのえとうてつ)は、奄美の文化の特徴を「堺がはっきりしないこと」と捉えている。

「この境がはっきりしないということは、奄美の文化の特徴ではないかとぼくは思うんだ」
「もっと具体的に言ってくれ」
「第一に自然がそうだ。夏は格別として、春、秋、冬はけじめがはっきりしない。例えば、島の一月末は冬であると同時に、秋の終わりであり、春の初めである。寒さにふるえた翌日、額に暑さを覚えるほどの好天気が突然訪れることもある。庭の隅では菊も咲き、すみれも咲いている。本茶峠などを通ると、はぜの木が真赤に紅葉している近くで桜が咲いている」
 「なるほど」
「それからあの珊瑚礁だ。ある時間ふと気がつくと、広大な平地が海中に出現している。三月頃は人だって大勢出ている。そこは島民の大切な蛋白源でもある。珊瑚礁があることによって、海と陸との境界がぼかされているとも言える」

 「境がはっきりしない」ことの根拠が珊瑚礁に行きつくのは、ぼくにはとても自然に思える。それは松山光秀のコーラル文化圏の思想にも共有されているものだ。

「要するに、けじめがないということなのか」
「けじめがない、ということばには、それはいけないことだという決めつけがあるような感じがする。けじめのないことの気楽さ、温かさだってあるし、けじめをつけることの窮屈さ、冷たさだってない訳ではない。ここでは、良いとか悪いとかということからは一応離れて見ていきたいと思う。そのためには、価値判断の付いていないことばを探さなければならない。ぼくは、境界がおぼろだという意味で『朧界性の文化』と名付けたのだが、これは残念ながら字が難しい。それで『不分明の文化』と秘かに命名している。これで奄美の事象の大半は説明できるような気がする」

 甲は、境がはっきりしないことを、「不分明の文化」と命名している。甲はこれを価値判断として言わないよにしたいと言っているが、よくわかるにしても、ぼくたちは不分明さを奄美の困難と捉えているわけだから、それを固定化してしまわないかという危惧はよぎる。

 そこで、というわけではないが、ぼくは「不分明」をさらに進めて、境界無化の力を与論島クオリアの極限に思い描いてきた。これは直感の言葉で、「朧界性の文化」というのと同じようにわかりいいとは言えず、課題として持ち越したままだ。「境がはっきりしないこと」を積極的に見ようとしている、と補足することはできるけれど。

『わが奄美考―奄美の心・方言・島唄』

Wagaamamikou

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2009/11/09

東京与論会、初参加

 昨日の8日、東京与論会に行ってきた。本とチケットを販売したかったのだ。不義理と現金なことに初参加で、勝手がわからかなかったが、事務局の方々に親切にしていただいて、席を設けてもらった。

 12時半の開会と同時に電話が来て、あまみFMの米澤さんのインタビューを受ける。こちらは携帯にしゃべってるだけなのに、その向こうには奄美大島のリスナーとつながっているというのは不思議な感覚だった。うまく声が届いていますように。米澤さん、どうもありがとうございました。

 与論会では、やはり与論献奉の急襲(苦笑)を受けたが、演目に琉球系のものが多いのに驚いた。御前風に始まり、琉舞や空手、エイサーなどが続き、カチャーシーで終わる。与論ものは、与論小唄と道イキントーだったかな。与論小唄で手拍子が始まり、カチャーシーではみんな踊ってた。でもいちばん驚いたのは、結構みんな飲んでいるのに、終了後、協力しあって会場を片付けてあっという間にきれいにしたことだった。一体感ありました、はい。もっとも、その後、場所を変えて飲みなおすので、早く次の会場に行きたかったということかもしれない(笑)。

 携帯でお粗末だが画像です。それにしても子どもたちの表情のなんと生き生きしていることか。これは和田州生さんが1964年から1966年にかけて与論を撮ったものだという。与論に水道が敷かれたころだ。



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まちゃん

 気がつけば終わってしまってるけど、これは観たかったな。12分だけど。惜しい。

『まちゃん(待網漁)─与論島─』
1988年/12分/自主制作/「まちゃん」は、珊瑚礁での漁をイキントウ節で綴る映像詩。

 2009年10月24日(土)アチック・フォーラム

 「民族文化映像研究所」のイベントだ。

 なんか、ツイッター風というか、ツイッター向きの記事だ。



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2009/11/08

「奄美に期待、沖縄と交流」

 と、おっと思わせる一面の見出しで思わず引き込まれる(南海日日新聞11月2日)。

 【鹿児島総局】1609年の島津氏による奄美・琉球出兵から400年の節目に、その歴史を振り返るとともに、今後の鹿児島、沖縄両県の交流拡大策を探る「鹿児島・沖縄歴史・交流促進シンポジウム」が1日、鹿児島市の南日本新聞社みなみホールで開かれた。基調講演やパネルディスカッション、子どもたちによる「未来に向けた交流メッセージ」披露などがあり、県境を越えた経済、文化、スポーツ交流を積極的に推進する必要性を確認し合ったほか、中間に位置する奄美が果たすべき役割を期待する指摘が相次いだ。

 「奄美が果たすべき役割を期待する指摘が相次いだ」というのは具体的に誰がどのように語ったのか、知りたいところだ。もしそうなら、嬉しい。       

文化庁、鹿児島県、県地域文化芸術振興プラン推進事業実行委員会の主催で、両県から約300人が参加。伊藤祐一郎県知事は「島津氏の琉球出兵400年を機に、未来に向けた鹿児島、沖縄両県の発展的な交流拡大を念願している」とあいさつした。

 伊藤の黙殺的な「鹿児島、沖縄両県の発展的な交流拡大」に、「奄美の役割」を埋め込むとしたらどういえばいいか。それは「中間に位置する」が地理にとどまらないことが必要だ。奄美は大和的なものと琉球的なものが交わるところであるにもかかわらず、「鹿児島ではない鹿児島県、沖縄県ではない沖縄」として、二重否定的な関係性におかれてきた。この「中間」を、当事者である奄美は、「付録」や「ぼかし」として言い習わしてきたが、なぜ単なるグラデーションのように色を次第に変える中間地帯であるのではなく、「付録」や「ぼかし」などと言わなくてはならないのかといえば、両者から否定的な契機に置かれた場所だからである。言い換えれば、大和的なものと琉球的なものとが否定的な関係であることの投影が奄美なのだ。

 だから、単に伊藤が「鹿児島、沖縄両県の発展的な交流拡大」と言ったとしてもそれが両者の関係の内実を問うた後のものでない限り、空虚な宣言にとどまるだろうし、そこで奄美は黙殺される他ない。「奄美が果たすべき役割を期待する」としたら、二重否定が二重肯定としてポジ化しなければならない。それを中孝介の唄にだけ託すのは酷というもの。そこで何が発言されたのか、知りたいと思うところだ。


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2009/11/07

愛車は耕運機!?

 福島の方が、耕運機で四国八十八カ所巡礼を果たした、と。

 福島の男性、耕運機で「結願」/四国八十八カ所

愛車は耕運機、のんびり1400キロの旅が結願―。古い小型耕運機で四国霊場八十八カ所巡礼に挑戦していた福島県の男性が6日、香川県さぬき市多和の88番札所・大窪寺に到着し、念願の結願を果たした。

 伝えたいのは、この耕運機巡礼の発想の源が与論にあったということ。与論で、「現地の人が耕運機に乗っている姿を見て「こんな移動手段もあるのか」と感動」したことから、始まっている。すごい。

 すごいのは、旅をしてのけた小島さんだが、アイデアを提供した与論もすごい(ということにしたい)。耕運機が愛車。これは与論島クオリアですね。


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『月桃夜』の装丁です

 遠田潤子の『月桃夜』、アマゾンでは予約可になっている。

 新潮社のサイトをみると、「月桃夜」の装丁が見られる。黒と赤、どきどきする配色だ。楽しみですね。


Photo

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2009/11/06

コミュニティサイクルと松丸本舗

 水曜の昼、コミュニティサイクルを使ってみた。マリオン横のトラベルゲートで申し込んで、その足で電気ビル横に駐輪してある自転車に乗る。昼ごろは暖かくて、自転車を走らせるにはいい天気。左手に皇居、右手に東京駅を眺めながらビル街を突っ切るのは気持ちよかった。

 丸の内のビルの前でいったん停止、駐輪場にオートロックで止める。ところが、施錠されてないと思い、自転車を抜いたところ赤ランプがついて施錠できなくなってしまった。で、パンフレットをみて電話して問い合わせると、赤ランプのついている駐輪スペースをモニタリングしてくれて、隣に止めてくれればいいとアドバイスを受けて、そうした。「いま10番に止めていただけましたね?」と、これもモニタリングされている。

 コミュニティサイクルは、初期登録料で1000円必要だが、あとは30分以上につき100円と、小さく続く。専用の駐輪場を使わなくてはいけないので、今回も目的地までは行けず、途中の駐輪場に止めて歩いたのだった。あ、もしかして、チェーン式の鍵を持ち歩けば、目的地まで行って留めておくこともできるかもしれない。それがルール違反かどうかは確認してないけれど。

 ときに、向かった先は、丸の内オアゾは丸善の「松丸本舗」。松岡正剛が丸善にプロデュースした書店内書店である。久ぶりにこだわりの書棚を見た。本ではなく、書棚をでばらせて書棚にものを言わせ、そこにPOPも書いてあったりした。棚のあいだの通路は曲線を描く。真ん中の行きどまりのところは、エロスの棚で、本を見て歩くのが、子宮を目指したり離れたりしているようでもあれば、路地を行ったり切ったりしているようでもあり、また城の内部を行き交うようでもあった。要するに、きっとそう広くはないスペースだろうけど、飽きずまた見終わることがなかった。上の棚には手が届かない。そこは脚立?を使って手にとってみたりした。本は必ずしも背表紙を見せて立っているわけではない。並ぶ本たちの前に、横に積まれていたりする。また新刊だけがあるのでもない。古書もある。個人の書棚と書店と図書館がミックスされたような空間だった。琉球弧の書籍を一堂に会したらどんな棚編集ができるだろう。想像は膨らんだ。また行ってみたい。

 帰りは、ふたたびコミュニティサイクルを使って有楽町に戻った。快適だった。考えてみれば、コミュニティサイクル「松丸本舗」も実験的な試みだ。成功するといいと思う。


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2009/11/05

『昇曙夢とその時代』4

 『昇曙夢とその時代』には、著者の田代俊一郎に資料を提供した長縄光男の「跋」が寄せられている。

 ただ、コンパクトな著作だけに言い落としたこと、言い足りないことが多々見て取れることも否めない。
 ロシア学者の立場からいえば、翻訳者として曙夢の働きについてもっと深める必要があるだろう。曙夢は明治期にあっては二葉亭の後継者として、大正期にあっては米川正夫、原久一郎、中村自業といった所謂「御三家」の先人として、ロシア文学の紹介の歴史に一時代を画した人なのである。
 また、第1次から4次にわたる日露協商の時代(1906~1916年)にあって、政論家として活躍した曙夢の姿が措かれていないことにも恨みが残る。
 この他、「正教徒」であるはずの曙夢が無神論を国是として信徒を迫害して止まぬ「ソ連」と、内面的にどう折り合いを付けたのか、これも疑問として残る。
 さらに、奄美の復帰運動家の側からは、曙夢流の復帰のあり方に異論を唱える向きもあるのではないか。折りから、本土にも沖縄にも帰属することのない、独自の歴史と文化を持つ島として、「奄美自立論」が語られ始めた今日、曙夢の業績はこうした側面からも光が当てられることになるだろう。
 ともあれ、田代氏のこの度の曙夢伝がこれからのこうした議論の土台として、あるいは出発点として、大きな意義を持ち続けるであろうことは疑いがない。

 ここに挙げられた課題、特に奄美にからめた課題はほとんどぼくたちにものであると言わなければならない。理学者の斎藤憲は、高名なロシア文学者にしては『大奄美史』の歴史認識はあまりにナイーブだが、そこには理由がなければならないと、指摘してくれたことがあるが、トルストイやドストエフスキイなどを昇はどう通過したのかということも、まだぼくたちには見えない。本格的な「昇曙夢論」が待たれていると思う。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

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「奄美農産物、那覇経由で本土出荷」

 奄美の農産物の本土出荷を鹿児島経由から那覇経由へ変更検討、とのこと。

 「奄美農産物、那覇経由で本土出荷」

 奄美から本土向けの農産物輸送は従来、鹿児島市まで約1日半をかけて船で運び、そこでトラックに積み替え、東京などの市場へ向かっている。遠方の地方都市で競りに掛かるまでに4、5日を要しているため、同組合は「花は鮮度が重要だ。深夜にも輸送できる那覇空港の利用は出荷時間を大幅に短縮でき、魅力的だ」と説明。試験で効率的な輸送ルートなどを検討した上で、那覇空港からの周年出荷を目指している。

 これはいいですね。


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2009/11/04

「琉球侵攻400年で共同声明 鹿児島・沖縄両県議会」

 全文を引用しよう。

 琉球侵攻400年で共同声明 鹿児島・沖縄両県議会、「両県発展のため尽力」

 鹿児島、沖縄両県議会は4日、薩摩藩による琉球侵攻から今年で400年の歴史的節目を迎えることを受け、両県の友好関係をさらに深め振興発展のため尽力することをうたった共同声明書に調印した。
 鹿児島、沖縄県両議会事務局によると、両県議会が他の都道府県議会と共同声明を交わすのはともに初めて。薩摩藩の琉球侵攻400年をめぐっては、今月21日、鹿児島県の伊藤祐一郎知事と沖縄県の仲井真弘多知事が、未来に向けた「交流拡大宣言」を奄美市の奄美パークで行う。
 共同声明は、「侵攻により不幸な歴史があったことは否定できない事実」との認識に立った上で、今後について「奄美・琉球諸島の世界自然遺産登録の実現、離島振興といった共通課題で連携し、政策提言を行うなど両県発展のため尽力する」と宣言している。
 4日、鹿児島市のホテルであった調印式では、鹿児島県議会の金子万寿夫議長と沖縄県議会の高嶺善伸議長が共同声明書に署名した。

 おやおや、両県の県議会が共同声明だという。

 ここに、鹿児島市民、沖縄市民の意思は反映されているだろうか。「奄美・琉球諸島の」と、「奄美」は除外されずに入っているが、奄美の市民の意思が反映されてはいない。鹿児島と奄美は、一足飛びに共同声明の席につく関係にない。加害、被害の内実を理解する前に共同声明するなど、黙殺に似た行為だとぼくは思う。特に奄美パークで行うなら、なおさらである。どうして、こういうことができるのだろう。


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『昇曙夢とその時代』3

 もちろん、『昇曙夢とその時代』には、昇直隆の素顔も映し出されて、それもこの手記の魅力のひとつだ。

 特に印象的なのは、癇癪持ちだったという昇を伝えるエピソード。手記のはじめから藤子は、ランプ磨きが苦手だと書いているのだが、あるときもうお払い箱にしてもよさそうだと感じて売ってしまう。

この頃ようやく宅の室内に電燈がつくようになりましたが、昇の書斎だけは相変わらずランプを使っておりましたので、毎日毎日ランプのお掃除をしながら、このお役目はいつになったらなくなるのだろうかと思って居りました。その後二度目の引越しの頃にはどうやらランプをあきらめたように思われましたので、引越しの時がらくた道具と一緒に昇の許可も受けないでくず屋に売ってしまいました。ところが移転後間もなく大暴風雨がありまして停電となりました。早速二階から「ランプを持っておいで」とさけばれました。私は豆ランプを持って行って、ランプを売ってしまったことを話しますと、さあ大変、昇は目をつり上げて「ああいう記念の品を粗末に扱ったばかりでなく、両も僕に相談もせずに安々と売ってしまったというのは人間のすることではない」と暴風に劣らぬ声で叱られました。その声をきいて、婆やが自分の使っていたランプを持って来てくれ ましたので、やっと助かりました。

 「この頃」というのは結婚四年目、明治44年のことだが、藤子の内心の冷やっとする気持ちが伝わってくる。「さあ大変」なんて、童謡のような言葉に、ぼくたちはつい、微笑ましい場面のように受けとってしまいそうになるが、明治を背にしたときの昇の気質を知らせる一幕だ。

 奄美を背にしたときの昇のことで、書いてくれて本当によかったと思える箇所がある。

その翌年の秋、昇は久し振で郷里の大島へ帰りましたが、その留守中に西川松子さんが逝去なさいました。御良人と共に長い間御苦心なさってお建てになりました工場がますます栄えて行くことを稲村ケ崎へおいでになります毎にお話し下さいまして、共にお喜び申して居りましたのに、と電報を拝見いたしました時には三十年前からの事をいろいろと思い出しまして悲しみに堪えませんでした。その頃から昇は翻訳の仕事にあきまして、郷里の奄美大島の事に夢中になってしまいまして、その揚句に代議士になって大島の為に働くのだと言いはじめました。そのことをちらりと聞いた大島出身の若い人達が「昇先生是非是非」ということになり、昇はそれを本気にして、明日保証金を持って行くからお金の支度をしておけと私に申しました。その時私は、「法律も分らない者がロボット代議士になって議会に列席するなんて正気の者には出来ません、絶対に反対です」と怒りまして、早速に大審院長の泉二新熊博士と親友の佐藤さんとに電報でお知らせして、すぐに宅へ来て頂き、昇を説得して頂きました。そこでようやく正気にたちかえり、それから大島史と、中断していたロシア文学史とを書きはじめました。

 これは昭和11年のことだ。ぼくは昇が奄美の復帰のとき、「奄美大島日本復帰対策全国委員会」の委員長に就任し、東京における運動の先頭に立ち、参議院外務委員会の公聴会で参考意見を述べるというような行動に対して、文学者らしからぬ違和感を感じてきたのだが、もともと政治家への志向があったということだ。昭和22年には、『ロシヤ知識階級論』という書物もものにしているから、知識人として先導するという想いもあったに違いない。

 しかしここはランプ事件の意趣返しではないが、藤子はよく止めてくれたと思う。代議士昇より、『大奄美史』のほうがはるかに永続した仕事に違いなかったからである。ぼくは、ここの藤子の「正気の者には出来ません、絶対に反対です」という叱責とそれを記してくれたことは余人にはできないことで、感謝したくなる。

 ただ、昇の「大島の為」という想いは痛いほどわかる。こと大島のこととなると、自分を見失うほどに猛進してしまいそうになるのだ。「その頃から昇は翻訳の仕事にあきまして、郷里の奄美大島の事に夢中になってしまいまして」という「飽きた」という観察は、昇は怒りそうな気がするが、翻訳では満たされない想いも切実だ。奄美とは、時の経過が和らげてくれない痛切さのことだからだ。

 その意味で手記を読んでいちばん気になったのは、昇の帰省の回数だ。年譜や手記に頼ると、昇は父の他界を虫の知らせでわかったように帰省した明治44年と、大正12年と昭和11年の、計3回しか奄美大島へ行った形跡がない。たった3回である。一回ごとの帰省はいまのように世知辛くはなく、3回目は40日間、奄美の各島を巡ったようだが、それにしても、16歳で加計呂麻島を離れて以来、たった3回しか故郷の島の土を踏めなかったのだろうか。そして、記述の範囲内では、妻の藤子は一度も大島を訪れていない。

 時代の制約があるだろうが、これほど想っている場所へたった三回というのはやるせない。逆に、この少なさは昇の奄美への想いをいやましに強くさせたに違いない。もっと帰りたかったことだろう。同情を禁じえない。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

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2009/11/03

『昇曙夢とその時代』2

 『昇曙夢とその時代』の価値をことのほか高めているのは、ここに昇藤子の手記が収められているからだ。

 「思い出の記」と題された手記は、「私が昇と結婚いたしましたのは明治四十年一月二十日のことでございます」と始まるように、昇の妻、藤子によって書かれたものである。

 実際、この手記はとてもいい。それは、昇曙夢の妻という形容を除いてもひとつのエッセイとして読みたくなるものだ。島尾敏雄の妻、ミホの作品が島尾敏雄の妻という形容がなくても独立した優れた作品だというようにとまではいかないとしても。

 まず、やってくる印象は、家の懐の深さというようなものだ。

 私が昇と結婚いたしましたのは明治四十年一月二十日でございます。昇は三十歳、私は十九歳でした。鎌倉、江の島の旅行から帰って、いよいよ東京の新居に住むことになりましたが、その家は牛込区の市ヶ谷町で、裏は八幡宮、庭の向うは陸軍士官学校の馬場でございました。六、四半、三、二の四室でしたが荷物の少ない二人にはこの四間の家でも広いように思われました。時々お馬の稽古を夢中で見ていてお魚を黒焼にしたことなど度々でございました。たしか五月頃だったと思いますが、士官学校へ天皇陛下が行幸されましてお馬のいろいろな技術を御覧になった事がございました。その時、陛下の御座所が宅の庭先から二間ほど離れたところでしたので、座敷に坐って拝見して居りますと色々の事がすっかり見えましてお馬の見事な行進や様々な技術がとても面白く、夢中で見て居りましたところ、突然巡査が庭へ入って来まして 「もしもしすぐに戸を閉めて下さい、こんなにまる見えじゃ困るからな」と申しましたので、「今私一人で静かに拝見して居りますのですから障子を閉めるだけではいけませんか」と聞きましたら、お巡りさんはうす笑いしながら「まあよいじゃろ」と申して帰りました。私はそのあと障子の中ガラスからそっとのぞいて居りました。

 ここにいう天皇陛下とは、明治天皇のことだと思うが、天皇のために見せている「お馬の見事な行進や様々な技術」が、家の中から見物できたというのである。これはすぐに家の懐とはつながらないが、家から見える景色がなんというか、広いのである。巡査の態度も、まだ牧歌的なものだ。

 この印象を入口にして、家の懐と思うのは、当たり前のように何度も引っ越しを繰り返しながら、そこには多くの人が訪れ、奄美からは親戚がしばらく居候をしたり、島から連れてきたりということが自然に行われている。出産もふつうになされる

 或る日庭の銀杏の葉があまり美しく色づいたので、須美子を抱いて眺めて居りますと、お客様の声、お玄関にまいりますと、「小杉です」と天外先生が微笑して立っていらっしゃいました。小杉先生には昇が学生時代から大変お世話様になっておりまして、いつもその話を聞いておりましたし、先生の御著書も拝読して居りましたが、お目にかかりますのは初めてでした。私はしどろもどろに御挨拶いたしましたが、折あしく昇が不在でしたので須美子をあやして、すぐお帰りになりました。

 こんなささやかな日常のひとこまにも、懐の深さを思わずにいられない。いや、島にはまだこんな生活はあると思うのだが、いまの生活はそこから隔たってしまっている。その遠さに気づかされる。家が様々な関係を内包する豊かさを持ったいた、それを伝えてくれるのはこの手記のよさだと思う。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

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2009/11/02

『昇曙夢とその時代』1

 『昇曙夢とその時代』には、「大奄美史」を読んでいるのに、その人となりや来し方をほとんど知らなかった昇曙夢(のぼりしょむ)について、その来歴を教えてもらった。

 昇曙夢は、本名、昇直隆。1878年、明治11年に加計呂麻島で生まれている。明治11年といっても、その前年に西南戦争があり、11年はあの大島商社が解体される、そういうタイミングだから、奄美にとって近代の意味が始まろうとしているときだ。昇は、奄美近代の起点でその生を受けている。

 16歳のとき、鹿児島に行き、ギリシャ正教の洗礼を受けているが、鹿児島で初めて出会ったのではなく、加計呂麻島に訪れた商船会社のキリスト教徒に教示されていた。その紹介で、昇は鹿児島の協会に行く。岡程良の依頼を受けてカトリックの神父が大島を訪れるのが明治24年だから、昇もその時代の流れを受けていたのだ。ただ、昇が出会ったのは、カトリックでもプロテスタントでもなく、のちにロシア正教と呼ばれることになるギリシャ正教会だった。これが、昇がロシア語の世界に入っていく契機にもなっている。

 昇は、すぐに上京。ニコライ正教神学校に入学。卒業後、同校の講師になるが、そのときにはすでに論文を発表していた。明治40年、29歳で結婚。

 日清、日露戦争が起こるなか、昇は非戦論者の内村鑑三に傾倒。「内村先生の思い出」のなかで、こう書く。

 この文章の中で、昇はペンネームの「曙夢」の由来についても書いている。内村の西洋詩人の訳詩集『愛吟集』の中の「詩は英雄の暁の夢なり」の一句が「ひどく気に入って、曙夢というペンネームはその中の『暁の夢』という語から思いついた」。後年、このペンネームについて「ロマンチックな筆名であるが、先生に傾倒していた時代の一つの記念」と回想する。

 曙夢、それは「暁の夢」のことだった。

 昇の年代であれば、柳田國男との接点も気になる。

 ただ、昇と柳田は師弟の間柄ではない。すでに、昇はロシアの文学と民俗の分野で一家を成していた。農務官僚でもあった柳田とは少し距離があったようだ。昭和十五年、東京で文化、民俗を研究する「奄美大島文化協会」の発足の際、顧問就任要請に対して柳田は 「外出困難」とやんわりと断りの手紙を昇に出している。柳田の中では軽重でいえば奄美より沖縄だったこともありそうだ。柳田、折口といった本土人の「南島の発見」は奄美人の昇にとっては刺激とともに焦燥感も混じった悼惜たる思いもあっただろう。また、大正末期に起こったこの南へのまなざしはその後のアジア植民地路線に向かう「南進論」の政治的な文脈につらなる面もあった。

 柳田の真意は知らない。けれど、さもありなんと思えるリアリティはある。そしてこの、ありそうだという信憑は、「軽重でいえば奄美より沖縄」という事態は、いまも変わらないと思うからだ。もちろん、沖縄より奄美と主張したいからでは毛頭なく、奄美も、であってほしいと思うからだ。

 そして昇にとっても、「大奄美史」は大きな意味を持っていたようだ。

 「まるで喜びの三重奏だ。もう、これで死んでもいい」
 七十七歳になった昭和三十(一九五五)年は、昇曙夢にとって幸福な年であった。シベリアに抑留されていた長男の隆一が無事に帰還した。加えて、大著『ロシャ・ソヴエト文筆史』を刊行し、これが芸術院賞、読売文学賞を受賞した。ただ、昇のライフワークは昭和二十四年に刊行した奄美諸島の民俗誌『大奄美史』(奄美社刊)だった。
 『大奄美史』は先史時代から説き起こし、昭和二年の奄美への「天皇陛下の行幸」までを記した歴史、民俗誌だ。「方言・宗教・土俗・風習・歌謡・伝説等」が盛り込まれた奄美の百科全書でもある。もちろん、六十年近く経った現在から見れば事実誤認の個所もあるが、昇は「後進のために道を開く先駆者としての役割に過ぎない」と次世代に書き継ぐことを託している。(中略)

 「渡された原稿は何千枚という分厚い資料であった…東京で刊行会までできながら出版の運びに至らなかったものだが、郷土のためにぜひ完成しておくべき仕事と思って、奄美の人々に呼びかけ、千二百部を予約出版した」
 昇一人の力ではなく、奄美の人々の支援によって初めて日の目を見た。

 驚くのは、「大奄美史」を発表したとき、昇はすでに77歳であったことだ。たしかにこれはライフワークと言うべきものだった。そしてそれを奄美の島人も待ち焦がれていた。ぼくは、奄美の二重の疎外による空虚感満たす役割をカトリックは担ったと考えてきたけれど、それだけはない、「大奄美史」もそうなのだと知る。

 明治、大正、昭和の三代を生きてきた昇の人生はこの『大奄美史』を書くための苦難の長い旅路であった。奄美-東京-ロシア-奄美。『大奄美史』は見事な昇の人生の円環を示す遺書ともいえる。
 昇にとって『大奄美史』は単なる民俗誌ではない。それは聖書であり、叙事詩であり、長編小説だった。近代の旅路の中で交錯した西郷隆盛、内村鑑三、二葉亭四迷、柳田囲男、ニコライ、トルストイ、ドストエフスキーなどの文章、思想などを血肉化することで初めて完成することができた。くじけそうなときには彼らの戦いを思い浮かべたに違いない。

 『大奄美史』について、日本国家への帰属意識が強く出た皇国史観だ」と否定的な人たちもいる。確かに周縁の奄美に住むことで国家を相対化する視点を持った本土の作家、島尾敏雄は「ヤポネシア論」を提示した。東京も奄美も地方の一つにすぎない、とする集権的国家を解体する思想だ。
 ただ、日本という国家から疎外、抑圧されてきた奄美の人々の恋い焦がれるような帰属意識は奄美人でなければ理解できない感情だろう。とりわけ、明治維新後の天皇制国家の形成の波に洗われた明治の男、昇にとっては、ある意味、無理からぬことだった。
だからといって奄美の空白の歴史を掘り起こし、記録した『大奄美史』の価値が損なわれ、失われることはない。出版されたとき、「本を抱くようにして眠った」という奄美人にとっては、自負と誇りを確認するバイブルだった。

 確かにぼくも、「大奄美史」については、戦後に出されたものにもかかわらず、戦争体験を通過していないことを批判している。それは第二次世界大戦の意味を受け取っていない。しかし、奄美の近代の起点に生を受け、「明治、大正、昭和の三代を生きてきた昇の人生」にとっては無理からぬことかもしれないとも思う。奄美の近代の向こう側へ視線を伸ばすことはできなかった、それを昇への不満として言うことはできないかもしれない。

 しかしだからなおさら、当時の奄美にとってこれがバイブルであったとしても、現在のぼくたちが、これをバイブルとし続けるわけにいかない。古典としなければ。それがぼくたちの課題である。

 奄美諸島は本土の鹿児島と沖縄を結ぶ「道の島」と呼ばれる。美しい呼び名である。昇は自著『大奄美史』の中で「薩摩と琉球との中間を占め…古来交通の要衝であった」と書く。ただ、それは鹿児島と国境の島として位置する沖縄を結ぶ「架け橋」のイメージともいえる。言ってしまえば、どちらにも所属しない中ぶらりんの「橋」である。その「橋」という位置が中央集権国家の中で歴史的、地理的な空白、疎外を生んだ。それだけに昇は「暗い心理より島民を解放して、明るい希望の生活に向け直したい一心から」自らを鼓舞しながら精力的に仕事に取り組んだ。新聞、雑誌に自分の名前を刻むことは、日本という国家への帰属意識を確認、アピールし、空白の地図を埋めていく孤独な戦いであった。

 この「孤独な戦い」はいまも継続している。

  『昇曙夢とその時代』は、彼の来歴を教えてくれる。しかし、駆け足の足取りのせいか、いささか表層的な物足りなさも残る。

 この本は西日本新聞紙上で二十六回にわたって連載したものをまとめた。これまでいくつかの長期の連載をしてきたが、この連載が私の中で印象深いのは九州近代史をライフワークに決めてからの第一弾であることだ。残りの人生を逆算して仕事を考える年齢になった。過日、宴の席で「星を決めた奴は振り向かぬ」といった言葉を口にしたことがあるが、それに近い思いを抱いている。ただ、九州近代史、人物史と取り組むにはその才が見合わないとの自己認識もあり、今回の昇曙夢も人物、時代が描けたかどうか自信はない。それでも、九州という風土の中で生きて死んでいった人々の骨を拾う孤独な作業を私なりに続けていきたいと思う。

 著者はあとがきにこう書くのだが、物足りなさは新聞連載の限界なのかもしれない。けれど、昇が生きたのは「九州という風土」のなかではない、と注意したくはなってくる。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

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2009/11/01

あと、二週間

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントまで、あと2週間に迫った。

 先日、あまみエフエムの米澤さんから連絡があって、このイベントについて、8日日曜のラジオレターで電話インタビューに応えることになった。8日、ぼくは東京与論会に出席して、このイベントの紹介をしに行くので、その会場で電話することになると思う。米澤さんからは、東京与論会はどんなことをするんですか?と聞かれているが、答えられない(苦笑)。なにしろぼくはこれまで、飲んだくれているというイメージしか持てず出席したことがない不届き者なので、初参加なのである。このイベントをきっかけにすればこその現金な出席なのだ。でも米澤さんからの声かけはとても嬉しいので、喜んでお話させてもらいたい。

 14日当日は、松島さんの「ゆいまーるの集い」と重なってしまってる(2週間後に迫る「ゆいまーるの集い in 平安座島」)。平安座島で行われるので、遠いのだが、ぼくはこの重なりを残念に思ったりしている(苦笑)。

 さて、いささかバテ気味なわたしではありますが、チケットの申し込み、まだまだお待ちしています。


2009lao1
2009lao2

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