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2009/10/21

「南の島の先生 命がけの密航記」

 色んな人から教えられて、NHKの「南の島の先生 命がけの密航記」を観た。

 「南の島の先生 命がけの密航記~教え方を求めて3000キロ」

 奄美が戦後、米軍統治下に置かれたため、日本あるいは本土が彼岸と化し、獲得すべき世界と化したさまが伝えられていた。しかし、琉球から薩摩への支配者交替は単色に語られ、教育への渇望が本土復帰への流れを生んだと語られる。これは事態の矮小化とは言えないまでも、窮屈な部分的な理解には違いない。奄美が復帰に躍起になったのは、米軍統治のせいばかりではない。そのせい、はごく一部だ。この、断片的な番組化は残念なところだ。

 復帰を導いたとされた教育熱は、二ヶ月半の本土滞在と金十丸(かなとまる)での往復による二人の教師の密航に媒介される。この番組も「密航」をテーマとはしているのではあった。ここでも欲を言えば、密航、密貿易は番組でもそう言われたように、闇夜に紛れて漁船で決行されることが多かった。それは命がけの行為に違いなかったが、そこには解放感もあったこと。そして、教科書を持ち帰るといういかにもな動機だけでなく、商売のためのという動機もあった。その、密航の実相を伝えてほしかった。

 終わり近く、教師が教育の目的として、「どこへ行っても奄美出身者と言えることに尽きる」と語った。この言葉の意味を、奄美を知らない人は少し奇異に聞きこそすれ正確な意味はつかめないのではないだろうか。このひと言だけはことの真相を問わず語りに伝えていたと思う。


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コメント

再び失礼します。
昨日チャンネル変えたら、この番組やっていたので半分ぐらい見ました。

>「どこへ行っても奄美出身者と言えることに尽きる」
私も、40代位の教師が発したこの言葉が耳に残りました。この気持ち解るような気がしますが、沖縄でこのような言葉を発するとすれば、70歳以上の人ではないかと思います。
意地悪に解釈すれば、事大主義の露われとも受け取れます。沖縄も事大主義なのですが、奄美のそれは、より色合いが濃いように感じました。

それにしても、この番組には沖縄の「お」の字も出ませんでした。奄美出身者が制作に参加したのでしょうね。
小生の手元に東京で行われた「奄美群島日本復帰50周年記念式典・文化祭」のパンフがあるのですが、これにも、沖縄の影さえ見つけることができません。

私のように、わずかばかりの関心がある沖縄人には、奄美人が沖縄に向ける眼差しはかなり冷たいように感じます。
沖縄人一般は、奄美に関心がないから、そういう事さえ気が付いてないとは思いますが。

投稿: キー坊   | 2009/10/22 03:55

キー坊さん

コメントありがとうございます。
主義というほど主体的に選んだものではないでしょうから、重い抑圧が長く続いたんだなと、ぼくは感じますよ。

沖縄のことも少し触れられていました。ただ、奄美はいつも省略されてさびしい思いをするので、逆に沖縄のことを視野に入れてないのはぼくも気になりました。

投稿: 喜山 | 2009/10/22 08:37

>そこには解放感もあった

当時、舟で島から沖縄へ生きた豚、鶏を持っていくと10倍の値で売れたようで、そのお金でNESの缶入りコーヒーを買い入れ、島へ持ち帰り鹿児島へ密航、汽車で大阪まで出て闇市業者へ売り渡す、蓄えた資金で米軍の払い下げ上陸艇を買い、夜陰に乗じて沖縄へ家畜を運ぶ途中、徳之島犬田布沖でエンジンの調子がおかしくなり、ヒューズをライターで暖めていると、その火がエンジンに引火し更に燃料にも火が着きあえなく沈没、近くにいた漁船に助けられ一命を得たが、翌日水上警察に呼ばれ死んだ家畜を突きつけられて観念して白状し数日牢屋にいれられた後帰島が許された。この話をされている時の老人の生き生きとした表情が印象的でした(瀬戸内町Sさんからの聞き取り)

>奄美人が沖縄に向ける眼差しはかなり冷たいように感じます

関西沖縄文庫のKさんの講演で戦後、沖縄人の賃金が内地の人に比べて7,8割しか貰えなかった話をされていたんですが当時沖縄では奄美人の賃金は沖縄人と比べると半分程度しか貰えませんでした、靴を踏まれてた事は記憶に残るんですが、踏んでいた事は忘れてしまうもんですね。

投稿: 伊喜与穂之兵屋 | 2009/10/22 13:33

>伊喜与穂之兵屋さん

なるほど、祖母らが「体当たり」で挙げた戦果は、そのような経路を辿ることもあったのですね。大きな商売のお話しは、ヒンスーでも五反百姓していた親や海外へ再移民した親戚からは聞くことが出来ないので、大変勉強になります。

賃金の件は、どういった制度・企業の下での話しなのか、例えば地域給だったのか、「物語の島」で終わらせないためにも、相互に検証出来るようにしたいですね。

投稿: 馬調越 | 2009/10/22 18:52

また失礼します。

>伊喜与穂之兵屋さん。
>当時沖縄では奄美人の賃金は沖縄人と比べると半分程度しか貰えませんでした

講演会の時、この話をKさんにしてみたのでしょうか?
これはご自身の経験でしょうか?

沖縄復帰前のs30年代~40年代、私はまだ子供だったのですが、奄美の人がそんな酷い差別を受けていたような記憶はないですね。とても信じられないことです。
当時とは、何時頃なのでしょう。

投稿: キー坊   | 2009/10/22 20:51

 伊喜与穂之兵屋さんの仰っている関西沖縄文庫のKさん、とは金城馨さんのことですか?金城さんならすごくやさしい方なので、ひとの痛みはひと一倍理解されていると思いますよ。多分、奄美人を身内だと思っておられるので講演では言葉が足りなかっただけではないでしょうか。これは私くしごとですが、今から33年も前、昇曙夢の「大奄美史」という本の存在を私に教えて下さったのは金城さんですし、ふたりで道頓堀の天牛書店という古本屋さんにその本を買いに行って値切り交渉をして下さったのも金城さんでした。それにその頃に金城さんに〝これは面白いから読め〟と言われて頂いた〝沖縄の郷土月刊誌「青い海」〟の1976年8月号(奄美特集号)は今も手許にあります。結局、奄美の連綿とした不幸な歴史の原因は地域として真に自立できなかったことが大きいのではないでしょうか。戦後も沖縄に出稼ぎに行ったり、本土と密貿易せざるをえなかったですからね。それからやっぱり沖縄と奄美はどうしても手を携えて行くべき補完の関係だと思いますよ。

投稿: 加計呂麻人 | 2009/10/22 22:23

佐野眞一「沖縄 誰にもかかれたくなかった戦後史」という、沖縄の戦後裏話を面白おかしく書いたルポ本があります。その中に「『空白の琉球弧』ー 奄美群島」という項があって、戦後、沖縄人が在沖奄美人に対し、いかに露骨な差別と非人間的な扱いをしたか、という事をレポートしています。佐野氏に資料を提供したのは、沖縄在住の二人の特殊奄美人です。この中で、村山家国著「奄美戦後史」から

「公務員の給与べースは、沖縄三・六一二円、奄美二、八九〇円で沖縄奄美のあいだには七二二円の格差がついた。」

という文言を引用して、沖縄行政に物凄い奄美差別があったかのように書いています。しかし、本文は「奄美および宮古、八重山は給与表も沖縄から切り離して別表とした。… 比嘉主席は、『給与の改訂』を約束した。しかし、給与差は『地域給』によるものて、これを差別扱いとする解釈は妥当でない、という姿勢をしめしたのだ。」という記述が後に続いているのです。

同じ部署で働いている奄美人に対する露骨な差別ではなく地域によるものでした。しかも、それは奄美だけなく宮古・八重山にも適用されています。それでも差別には違いなく、行政府の長はその改善を約束したのです。「沖縄人による酷い奄美差別」というイメージは、旧世代の沖縄在住経験者が膨らませた固定観念ではないでしょうか?

投稿: キー坊 | 2009/10/23 10:07

伊喜与穂之兵屋さん

「瀬戸内町Sさんからの聞き取り」の話、これこそ映画で観たいですね。


馬調越さん

> 賃金の件は、どういった制度・企業の下での話しなのか、例えば地域給だったのか、「物語の島」で終わらせないためにも、相互に検証出来るようにしたいですね。

そう、ぼくも検証が要ると思います。


加計呂麻人さん

>それからやっぱり沖縄と奄美はどうしても手を携えて行くべき補完の関係だと思いますよ。

そうですよね。


キー坊さん

> 「沖縄人による酷い奄美差別」というイメージは、旧世代の沖縄在住経験者が膨らませた固定観念ではないでしょうか?

この件は、話者が激しい感情とともに語る段階を抜け立ていないように感じます。冷静な検証が必要だと思います。

投稿: 喜山 | 2009/10/24 15:31

瀬戸内町出身の亡父も戦後沖縄へ働きに出ました、力仕事の土方でした、賃金は沖縄人に比べ低かったと語ってました(雇用形態は不明)

古謝美佐子さんのお父様が駐留米軍の車に轢かれて亡くなられた際、補償金が僅か200ドルだったそうですが、私の兄が(昭和28年当時5歳)コザで米軍のジープに轢かれて死にましたが補償金はありませんでした(母からの聞き取り)

>「瀬戸内町Sさんからの聞き取り」の話、これこそ映画で観たいですね

Sさん(旧衆多)のお話は戦後奄美でダイナマイト漁が盛んに行われていた話をお聞きしたくて何回も訪ねさせてもらい、ずいぶん打ち解けてきたので出てきた話です、やはり密輸密航闇市の話題は話しにくいのかもしれませんね、父母、祖父母の話を確認する手立てとして古老を訪ね、話を伺わせて頂いて再確認するしか方法はないと考えています、戦中戦後の奄美の姿をSさんを描くことで生々しい歴史が浮かび揚がって来るんではないかと思います。

投稿: 伊喜与穂之兵屋 | 2009/10/26 13:09

私が、奄美復帰後沖縄復帰前までの時期に沖縄人による奄美人への「酷い差別」が在ったと、奄美人全般に思われていると知ったのは、7年ほど前「奄美独立」についての議論がされていたヤフーの掲示板でです。
沖縄人2.3名に奄美人7.8名が書き込んで居たでしょうか。その中にはM庵のMさんも居たと思います。何かにつけて「沖縄では奄美は酷い差別を受けた」「琉球王朝は奄美を搾取収奪した」と、奄美人カキコ者は口にしました。少し反論を述べると、一斉に語気鋭く数倍の反論が返ってくる状況に成ったものです。

昔、沖縄では物凄い奄美人への差別があった――。これは自分の生活経験からはとても受け入れ難いものです。非難してくる人達に、それは自分の経験かと訊いたら、一人も沖縄で生活した事無い人達でした。なぜ、奄美の人々は点検も無しに、聞いた事だけで、沖縄非難で、全員一致するのでしょうか?

私は昭和二十年代の新聞記事を調べたりしていますが、その当時から米軍車両、米兵による犯罪記事は目立つようなっています。記事からは、それらにどの程度の補償がされているのか知る由もありませんが、伝聞だけで言えば、沖縄人が米軍にひき殺されても補償どころか、警察・MPの捜査もされなかった事もあると、聞いたことがあります。
終戦後、戦時中の米兵沖縄人捕虜への強姦・殺害も無数に在ったと言われますが、それは記録にも残ってない事です。
 「沖縄誰も…」という佐野眞一のルポ本は、どういう取材源を基にして書かれているかも、よく批判的眼差しを持って読んで頂きたいと思います。どうも長々と。

投稿: キー坊 | 2009/10/26 14:33

>伊喜与穂之兵屋さん

私の伯父(74)も米軍車両に轢かれて後遺症が残っていますが、補償どころか立件もされませんでした。現在と比べ捜査体制・技術が発達していませんでしたから、立証は困難な事だったかも知れません。補償金が出ない、立件されない、起訴出来ても無罪というケースは、エアベース周辺ではしばしば出た話しであり、出身に因るものとは言えないでしょう。
立証できたケースに関しては刑事罰が科されており、全てが不当な判決だったとは言えないと思います。とはいえ、不当と思える様な状況を間々生んだ暴力的な支配構造まで包埋するつもりはありませんし、当事者の遺恨が晴れることもありません。
前述の伯父などは教組で反基地運動に参加しておりました。(親兄弟は必ずしも反米運動に賛意的だったわけではありません。)

>密輸密航闇市の話題
は確かに面白いのですが、佐野氏のルポのように検証無く恣意的なトリミングが続くと、奄美本島も「オキナワ」化してしまうのでは、と危惧します。
また、彼らが活躍した舞台の地には、収容所で子を栄養失調で失いながらも堅気を貫いた者も存在すること。そして、彼ら堅気の者にとって、地元を跳梁した者達とそれに結びつくこともあった商人達の話しは、本部勢であれ、久米島勢であれ、検証もしくは再検証可能性の担保無しには聞くことが出来ないということを記憶の片隅に留めて頂けると幸いです。

投稿: 馬調越 | 2009/10/27 11:11

内容に誤りがありました。
伯父(74)ではなく69歳の方でした。失礼しました。

投稿: 馬調越 | 2009/10/27 12:26

>馬調越さん。
>奄美本島も「オキナワ」化してしまうのでは、と危惧します。

奄美は沖縄みたいになりたくない、という事ですね。米軍基地で溢れる沖縄本島のようになるのは御免だという事。奄美人の正直な意志の表れで、別に私は非難しません。
だが、佐野眞一の根底に横たわる、あの本を書いた理由は、沖縄以外に米軍基地を移転させない為だと思いますよ。

鹿児島県である奄美諸島も、沖縄以外の地域です。普天間基地が奄美のどこかに移転されるという事は、検討事項にさえならないでしょう。

投稿: キー坊@沖縄人 | 2009/10/27 14:42

馬調越さん

私的なことまで触れてくださり、ありがとうございます。繊細な背景を持つこと、契機は同じ立場の二者でも両極に別ってしまうこと、改めて確認する想いです。

投稿: 喜山 | 2009/10/27 21:50

キー坊さん

ぼくもこのテーマになると、奄美では過剰に反応する人のいること、なぜなのか、理由を知りたいし考えてもいます。偏見や誤解があればそれは取り除かなければならない課題です。

ただ、奄美の人全員がキー坊さんの言うように考えているわけではないし、このブログにコメントするのは奄美の人ばかりとは限りません。自戒を込めての提案ですが十把一からげの断定や早急な決め付けは控えませんか?

投稿: 喜山 | 2009/10/27 22:20

>キー坊さん

私のせいで奄美の方が誤解を受けてはならないので、訂正させて頂きますと、私はギークシーです。両親もクザーンチュ、二代遡っても皆クザーンチュ、二十代遡ってやっと奄美大島人でしょうか。沖縄タイムスの豊平氏や作家の太田氏と同じく、広義の奄美血筋の沖縄人と言えなくもありません。ですから、彼らと同じく(?)系祖の島を応援しようというわけです。

>佐野眞一の根底に横たわる、あの本を書いた理由は、沖縄以外に米軍基地を移転させない為だと思いますよ。

現在はそれが内地の利益になると考えているから、そういう語調になっているだけで、必要であれば中国批判に絡めて米国批判もしてますよね。次善の防衛ライン内における思想誘導を企図しているとも穿ちえますが、序文からも窺える通り、旧世代の文筆家の鼻を明かしつつ善人面した沖縄に精神注入棒を叩き込みたいというのが動機に思えました。それで、『螢の光』で染め上げた『守礼の光』を書いてみた、と。同じ衝動に駆られた鹿児島なり内地の文化人から地元の一紙に至るまで、よく釣れましたな。

投稿: 馬調越 | 2009/10/28 01:48

馬調越さん。
>二十代遡ってやっと奄美大島人

二十代も遡れば、もう何系と言う事は出来ないと思います。私の先祖だってどこから来たか分かりません。その地への思い入れは、個人の自由意思によるとは思いますが。

>旧世代の文筆家の鼻を明かしつつ善人面した沖縄に精神注入棒を叩き込みたいというのが動機

そういうポーズを取りながら、実は、その旧世代文筆家と沖縄そのものを同時に貶める効果を狙っている気がします。佐野本は通俗がかった読み物としては面白いです。全否定は出来ないですが、「空白の琉球弧ー奄美群島」で本性を顕したというべきです。
惠忠久・奥茂治の「特殊」な奄美人から訊いた事をそのまま流しています。これは恣意的です。
こんな書物に、沖縄の一紙さえも釣られるとは、沖縄人として嘆かわしい事限りないです。

投稿: キー坊 | 2009/10/28 07:01

琉球弧に生まれた琉球子たちが見てきた風景、感じた事柄を聞くのは本当に面白いですね。
狭い身内の話ししか聞いたことがなかった私はお一人お一人のお話しが本当に勉強になります。

私は願わくば先島の果つる海からヤマトまで自由に往来していたであろうご先祖様の豊かな精神性を自分のものとしたいです。

11月は『奄美と沖縄をつなぐ』東京のイベントをはじめ、鹿児島でも様々な動きが続きますが、一つ一つの出来事をしっかりと目ん玉開いて確認せんばいかんですよ。

境界線はそこにあるものではなく、心の中で線を引いてしまっているのではないでしょうか。世の中の諸問題の色んなヒントが奄美には隠れているような気がします。
独り言です、失礼しました。

投稿: syomu | 2009/10/28 12:13

馬調越さん。
>タイムスの豊平氏や作家の太田氏と同じく、広義の奄美血筋の沖縄人と言えなくもありません。

この二氏が奄美血筋であるとは初めて聞きました。しかし、推測に過ぎませんが、この年代の沖縄人は奄美の血が入っていても、それほど強くは意識しなかったと思います。強く意識するのは、戦後沖縄に移住してきた親から生まれた二世ではないかと思います。
成長してからウチナー口を覚えて、沖縄芸人としての道を歩んでいる藤木勇人さんは、ウチナーンチュとしてのアイデンティティーを獲得されていると思います。だが、大方の二世は(これも推測ですが)、自分は奄美(大島)人であると自覚しているのではないでしょうか。また、惠某のように、沖縄人の振りして、沖縄の悪口を言いたい放題に書いている物書きも居ます。

私の親は、ギークに隣接したカデナ基地の、今は滑走路になっている土地の生まれです。住民は戦後はそこへ帰れず、とっくの昔に共同体を破壊されています。基地から流れ出るシャブによって、人の精神は相当に汚染されています。ここの町長は最初反対する振りして、普天間統合を受け入れるかもしれませんよ。お騒がせしました。

投稿: キー坊 | 2009/10/28 13:24

11月のイベントが成功するのを期待してます、正直な心境は島唄糸繰り節の歌詞しわじゃーしわじゃー、沖縄人奄美人のからまった心の糸をほぐせる事が出来ますように


佐野真一が月刊プレイボーイで連載していた沖縄コンフィデンシャル、伝説のヤクザ清眞島は中村喬次氏の『南島遡行』(新沖縄文学41号、沖縄のなかの奄美出身者の歴史)をベースに恵忠久氏に取材して書き上げた中々興味深いルポルタージュで読み応えがありました、佐野自ら清水まで取材に行き、奄美興発へ訪問しているんですが奥様、娘さんへの聞き取りは出来なかったのか、書けないのか判断出来ませんがイマ一歩踏み込みの足りないもどかしさを感じずには居れませんでした、そんな時、清眞島の親戚にあたるK教授と知り合い、色々とマジアニョの話を聞かせて頂きその人物像を窺い知ることが出来ました、元子分が居酒屋を経営している処にやってきて飲み食いせず、話をして店を出て行く際、数万円置いて出て行った(瀬戸内町Tさんからの聞き取り)こんな男前な事をする親分は映画かテレビドラマしか知りません、実際の姿形は160㌢、80㌔弱、写真で見る限り、映画『悪名』の朝吉親分を演じていた勝新太郎を彷彿させる風貌でその声は黒声、素晴らしい歌声で島唄を歌っているのをテープで聞かせて頂いたことがあります、前記のSさんにマジアニョがどんな人物だったかと尋ねたところ、やくざっちょ、とバッサリ一声の感想、幼馴染であったSさんには色々な想いがあったであろうと考えていましたが拍子抜けしました、それとも言えないのかもしれません、

投稿: 伊喜与穂之兵屋 | 2009/10/28 16:18

伊喜与穂之兵屋さん

> 11月のイベントが成功するのを期待してます、正直な心境は島唄糸繰り節の歌詞しわじゃーしわじゃー、沖縄人奄美人のからまった心の糸をほぐせる事が出来ますように

想いの幅を全幅で受け取るには、ぼくの範囲はまだ狭いですが、糸を一本ずつという手先でやっていければと思います。励まし、ありがとうございます。

投稿: 喜山 | 2009/11/01 17:29

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