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2009/10/12

『薩摩藩士朝鮮漂流日記』2

 もちろんぼくたちが『薩摩藩士朝鮮漂流日記』にのめり込むようになるのは、あの、奄美の二重の疎外とその隠蔽がどのように露出したかを見ることができるからだ。

 こうした支配を維持するために、薩摩藩士が代官として島々に数年任期で派遣され、懇意を排除しつつ任地での勧農に努め、特産物の収納に努めた。日高与一左衛門は代官として、安田喜藤太と川上彦十郎は代官付として、文化十四(一八一七)年五月から永良都島に勤務していたのである。離島勤務の精神的な重圧は想像を絶するものだったらしい。奄美五島にたどり着くまでの航海の危険性もそうだったが、無事に任地にたどり着いたところで、島々における琉球的な社会慣習の一掃は「置目条々」に言うほど容易なものではなかった。歴史的紐帯に培われて存続してきた人口四千人(与論島)から四万人(奄美大島)に及ぶ島社会に対し、わずか数名の薩摩藩士代官が何をなしえただろうか。敢えて薩摩藩の権威を振るおうとすれば島社会の厚い壁にはじき返されて失意に陥り、任期が終わるのを指折り数えて待つ日々を過ごすこととなった。さもなくば、島社会に圧倒的な影響力をもつ長老と手を結び、実質的な支配を長老らに委ねながら妥協的な態度で任期を全うするかであった。

 薩摩の支配が、「長老と手を結び」という牧歌的なものではなかたのを、ぼくたちは知っているが、しかし、代官の直面した困難さはリアリティがあると思える。島の抵抗とは、この「置目条々」程度でどうにかなるものではない島社会の厚みのことであるかもしれない。

隠蔽される「琉人」
 ところで、実は乗員のなかに永良部島の「琉人」六人がおり、事情聴取の官吏が登船したおりに、彼らの目に触れないよう船底に隠し置いた。身なりや髪型が一見して違ったからである。ところが船中が朝鮮人であふれかえり、船内の点検も隅々にまで及んだから、髪型を和風にしたり、髭鬚(ししゅ)を剃るなどして変装させた。さらに船頭勘右衛門は六人について、蓑里(みのさと)を三助、中里を中右衛門、田儀名(タキナヰ)を田右衛門、次郎金(カネ)を次郎、也麻(ヤマト)を山助、麻坐(まさ)を政右衛門、と機転をきかせて読み上げた。名前も和風にしたのである。

 そう、これが二重の疎外とその隠蔽の行為のひとつ。乗り合わせた大和の船が漂着した場合は、出で立ちと名を大和風にするべし、というものだ。変名の方法は実名に近い安直なものだが、徹底ぶりは目を見張るものがある。

 池内は最後にもう一回、この件について考察している。

 ところで、松元の「誠実」な回答に基づいて対馬藩が作成した漂流者名簿に三助・中右衝門・田右衛門・次郎・山助・政右衛門と記録された人たちは、本来そうした名ではなかった。彼らは永良部島から連れ帰った「琉人」であり、本来はそれぞれに蓑里・中里・田儀名・次郎金・也麻・麻坐という名をもっていた。対馬藩が作成した名簿は江戸幕府へ提出されたから、少なくとも幕府は漂流船にそうした「琉人」がいたことを知るよしもなかった。「琉人」としての本名と、漂着地でつけられた仮の名とがともに分かるのは安田「漂流日記」においてだけである。

 これは、漂着民が朝鮮を離れ、対馬藩に移って以降のことである。

 この場合、倭館の対馬藩士が「琉人」の存在に気づかなかったわけではない。九月八日付の国元あて倭館館守報告書には、漂流日本人のなかに「琉球大乗組居候次第」を記しているからである。倭館官吏は、漂着地馬梁で「琉人」六人の髪型・名前を日本風に変えたことを確認済みであった。しかし、敢えて変名をそのまま調書に掲載し幕府へ提出することとした。琉球人の薩摩船への同乗は薩摩藩としての秘匿事項だったから表だって問い質すわけにもいかないこと、釜山到着まで朝鮮に対しては変名で問題なく済ませてきたこと、そうである以上はいまさら事を荒立てる必然性もない、というのが対馬藩の判断であった。その存在を知りながらも敢えて目をつむったというあたりだろう。

 ぼくたちはここでも、「敢えて目をつむったというあたりだろう」と言って済ませるわけにはいかない者である。薩摩の奄美支配の特異性は、琉球支配は中国に対して隠蔽していたが、奄美支配は中国はもちろん、日本(幕府)に対しても隠蔽していたことである。したがって素朴に知りたいのは、奄美の島人が日本国内に漂着した場合、奄美の島人はどう振る舞い、漂着した地の支配層はどう振る舞ったのかということである。対馬藩の対応はその実相を示唆している。

 池内によれば、「琉球人の薩摩船への同乗は薩摩藩としての秘匿事項だったから表だって問い質すわけにもいかない」ということだ。つまり、知らないふりをする、ということである。これは真実だろうか。しかし、対馬藩の対応をみれば、そう見なさざるをえない。すると、対馬藩は、幕府に対して薩摩に加担したということになる。それは積極的なものではなく事なかれに処したものであるかもしれないが、加担に変わりはない。二重の疎外は、他藩の加担によっても維持されたということになる。

 ここからさまざまな疑問がむらむらと湧きあがってくるが、ここでとどめる。それを正面から考察したわではない論考を対象に深入りするわけにはいかない。ひとつのケースとして、記憶に留めようと思う。

    『薩摩藩士朝鮮漂流日記 「鎖国」の向こうの日朝交渉』

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