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2009/10/15

「しかし、奄美が鹿児島県であるかどうかは、文化の独自性に比すればどうでもいいことかもしれない」

 あまみ庵の森本さんが、「紙上には載らなかったことなどをひとこと」として、「奄美の未来を考える集会」について書いている。

山下欣一:「1700年代、大島の宇検に漂着した薩摩役人の文書では、島民は男か女か判別がつかなかった・・・」
山田隆文:「私は幼心にジュウ(祖父)の話を聞かされたため、自分の先祖がヤンチュで奴隷だったことを少年時代には認識していました・・・」
向原祥隆:「さっさと分県運動なりして、独立すればいい。(略)しかし、奄美が鹿児島県であるかどうかは、文化の独自性に比すればどうでもいいことかもしれない・・・」
沈 壽官:「韓国に留学したとき、教授から、君は400年間の日本の垢を落としなさい、と言われ、バカらしくなった。本当の朝鮮人とか日本人とかあるものだろうか・・・」

 どの方の言葉も心に残るが、沈さんに共感しつつ、向原さんの背中を押すような発言に止まると、ぼくは『奄美自立論』では、奄美の「独立」とまでは考えを進めることはできなかった。考えたことがなかったからだが、それは不可能だと思えるからというより、現状のまま「独立」したところで、大島あるいは名瀬中心主義を免れ得ないだろう。それなら那覇中心主義とさして変わらない。与論はいずれ場末中の場末に止まるしかないのは同じだから、魅力に思えない。

 むしろ、「独立」などしようとしなかったところに奄美の可能性を見出すことはできないか。そこで、奄美を非国家地帯と見なした。そこでは、「奄美が鹿児島県であるかどうかは、文化の独自性に比すればどうでもいいこと」と言えるものだ。そこで、それぞれの島(シマ)を主人公にしたつながりによる連帯を模索するのである。

 そう考えたのだった。しかし、独立を仮に奄美県と想定してみると、このとき鹿児島県と言わなくて済む解放感の大きさは、それはそれは計り知れないものがある。それは、確かなのだ。




 

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