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2009/10/05

「奄美 の人々は薩摩の船に乗っていた場合と琉球の船に乗った場合とで服装や風体を変えていた」

 弓削政己の「冊封体制下の島民と交易」と題した講演(「南海日日新聞」2009/09/27)。

 県立奄美図書館生涯学習講座「あまみならでは学舎」は26日、6時間日の授業があり、弓削政己氏(奄美郷土研究会)が「冊封体制下の島民と交易」と題して講演した。弓削氏は漂流、漂着に着目。「奄美の人々は薩摩の船に乗っていた場合と琉球の船に乗った場合とで服装や風体を変えていた」と指摘し、薩摩側だけではない、琉球や中国との関係も視野に入れた近世奄美の歴史観構築を提唱した。

 薩摩直轄支配化において、見えない関係が見える瞬間があった。それが漂着だった。ぼくは、『奄美自立論』で見えない関係を二重の疎外という構造で考えたけれど、その内実がよく分かるのが漂着時なのだ。

 冊封体制とは中国との朝貢関係を指す。薩摩藩(鹿児島藩)は朝貢貿易の利益を確保するため、実際は直轄支配していた奄美の島々を対外的には琉球国とした。服装などを大和的にすることを禁じた。これを「琉球国之内」政策という。
 弓削氏は今回、東京大学本居宣長文庫所蔵の「文化十二年中山国大嶋漂流人一件」を奄美で初めて紹介した。史料は1815年5月、西聞切(瀬戸内町)の住民が三重県に漂着した際の記録。
 住民の呼称に「琉球領分ノ嶋人」「サツマ大嶋」「中山国(琉球)大嶋」との記述があり、当時の奄美島しょが置かれた位置が把握できる。このほか、積荷に材木や芭蕉布、鉄砲があったことが記述されている。
 弓削氏は「船は喜界島との交易の途中、漂流した」と指摘。喜界島へ砂糖樽を作るための材木を運び、農耕のための革界属を購入する。しかも、船は奄美に漂着した船だった。「(奄美側に)漂着した船を買う財力、修理して使う技術力があった」

 「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外は、薩摩の琉球支配を中国に秘匿しただけでなく、薩摩の奄美直接支配を幕府に対しても秘匿したことを発生源にしている。そして漂着が、見えない関係が露呈する瞬間であったとしたら、日本国内において漂着した場合、何が起きたのかという点は非常に気になる。日本内においてこそ直接支配は露呈してはならなかったはずだから、奄美は琉球として振る舞ったはずである。

 そこで、「住民の呼称に「琉球領分ノ嶋人」「サツマ大嶋」「中山国(琉球)大嶋」との記述」のそれぞれの文脈が重要である。「琉球領分ノ嶋人」、「中山国(琉球)大嶋」は分かるが、「サツマ大嶋」はどんな文脈で語られているのか。

 さらに、沖永良部の代官が帰鹿の途中、漂流し、朝鮮に流れ着いた事例も取り上げた。船に乗っていた沖永良部の住民は大和風に名前を変え、髪も大和風にした。琉球の船に乗って漂着した場合は大和の貨幣などは海中に捨て、「琉球の船です。貢ぎ物を持っていく途中」と説明した。
 弓削氏は「冊封体制は薩摩と琉球の利益が合致した。差別と受け取られがちだが、奄美の歴史を総括する上で重要な視点」と問題損起した。

 二重否定されている存在が、その否定を隠ぺいするように強いられた。それが奄美の失語を生んだのだ、とぼくは思う。


 Nankai0927

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コメント

喜山さん、はじめまして。大和に住むウチナンチュです。数日前に「奄美自立論」を購入しました。まだ半分しか読んでないですが、「正常」奄美(与論)人のメンタリティーが分った気がします。

小生もサイトを持って、「集団自決」研究をしてますが、最近それに関わる「特殊」奄美人をブログで罵っています。自分でも少々乱暴な書き方と思いますが、佐野眞一の本を批判する形で奄美の批判もしています。
宜しければご一瞥ください。

投稿: キー坊   | 2009/10/07 19:16

キー坊さん

本を読んでくださり、ありがとうございます。

佐野の本は反響の在り方が興味深かったですね。キー坊さんの研究も読ませていただきます。

投稿: 喜山 | 2009/10/08 07:05

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