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2009/10/03

「奄美人の本土観」

 甲(きのえ)は、奄美人に共通するものとしてコンプレックスについて書いている。

 それでは何故このようなコンプレックスが生じるのだろうか。もちろんそのひとつは現実の経済的、文化的劣位や地理上の僻地性である。第二には歴史的な条件である。奄美は長い間薩摩藩を支配者として仰いでこなければならなかった。薩藩人は、薩藩人であるというだけで奄美人に畏怖畏敬された。また琉球との交流を制限されたから、学問の大部分は藩からの流人(例えば西郷隆盛)によって啓発された。島の有力者は彼らから手習いを受け、そのことによって更に島民からの尊敬を増すことが出来た。薩藩人が島の女との間に残した子は、父が去っても、島の上層階級として与人等の職につき、それを代々の子孫に伝えた。今でも奄美の有力者の中には、その祖先に薩藩人を持つ場合が多い。

七、八年前「同じ復帰するなら鹿児島でなく、東京都の一郡にでもなったらどうだろう」という声が、軽い茶飲み話としては出たことがあった。鹿児島人に対する反感が今はもう奄美人の胸の中にくすぶっていないとは言えない。しかし「薩藩の圧制の下に我が奄美は云々」と一方では考えながらも、一方では祖先が薩落人であることを我が家の誇りとする場合は多い。明治が始まると薩藩に代わって、(しかし薩藩流の圧制者としてではなく)より高度の富と文化の具現者として輝かしい姿で出現したのがいわゆる「内地」であった。薩藩によって強いられた卑屈な精神は、内地の出現によって幾分解放されたが、なお内地人対大島人という劣等感として残らざるを得なかった。

 「鹿児島人に対する反感が今はもう奄美人の胸の中にくすぶっていないとは言えない」ということは、今も同じだ。このエッセイが書かれたのは1960年だから、半世紀近く前と何も変わっていない。そういうことに、思いたらざるをえない。

 けれど甲のいう「内地の出現」に背中を押されるように考えると、それに相当することは格段に拡がり、現在では違う様相をぼくたちは持っていると思えてくる。ひとつには鹿児島を経由せずに内地へ行く方法が広がり、そうした人も増えていること。また大阪や神奈川に移り住んだ奄美の人の子どもたちの生も一定の歴史を持っていること。そして鹿児島での生も抑圧の度合いを減らしていること。などだ。

 ぼくたちは、そんな小さな脱出劇も見逃さないで視野に入れていきたいと思う。それはどこかで大きな転換を迎えるかもしれない。


『わが奄美考―奄美の心・方言・島唄』

Wagaamamikou

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