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2009/10/31

「七島灘に感性の断裂線」

 幸いなことに、安達征一郎の講演について、南海日日新聞に載っていた(10月27日)。

 記事によれば、直木賞の二度の選外は「非常に不満」だったこと、「日本文学は長く読んでいない」と語ったと伝えている。長く、作家の心の傷になったことが、わかる。

 また、こう語った。

安達さんは自身の初期作品で出現した、文壇と奄美の対照的な評価例などを挙げて、「本土の人は悪意があって分からないのではなく、奄美の感性が七島灘を越えるのが難しかったのだろうと思っている」と語った。

 現場に居合わせていないので、この真意は推し量らなくてはならない。本土と奄美の感性は、七島灘に断絶線を挟んでいるということだろうか、奄美の表現が七島灘を越える普遍性を持てなかったということだろうか。後者のように思うのだが、選外の傷心を思うと前者のようにも思える。でも、どうあれ、ぼくたちがかみしめるべき言葉だと思う。『奄美自立論』は七島灘を越えることができただろうか。

 
 ハンサムさんである。

Adachi09_2

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釘づけ

 都心でよくもまあと思うくらい、素直な子たちだ。古い土地柄には強い地域性が残っているので、それがシールドを張っているのかもしれない。いつもながら合唱も吹奏楽も懸命に向き合っている。でもって水準が高いものだから、見守るより純粋に鑑賞する気分でいられる。最優秀の金賞には体育館が割れんばかりの拍手が起きて、受賞したクラスも誇らしげなことこの上ない。

 思い出せば、自分のときは、校内暴力が激しく、校舎も教師も生徒も荒んでいて、こんな文化祭など想像もできなかった。中学のときに、この水準の達成を体験できるのは、これから生きていく中で大きな励みになるだろうなと思う。

 ときに、あるクラスのとき、指揮者をやっている子が息子のガールフレンドだと聞いて、目が釘づけになってしまった。踊るような指揮を眺めながら、なんというか、切ないような懐かしいような何ともいえない気持ちになるのだった。なんだろう、これはと不思議に思ったが、子どもが生まれたときの感情に似ていた。


Chitochusai2009

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2009/10/30

「内地と本土」

 甲(きのえ)は、内地と本土という言葉にこだわる。なぜ、奄美は、内地と本土という言葉を使うのだろうか、と。正確にいえば、内地の代わりに本土を使うようになっているが、それにしてもなぜ、本土というのか。甲は、「やや時期遅れの感もあるが」と断りつつ、そう自問している。

 しかし、この問いは時期遅れとは決して言えなかった。以前、見たように、基俊太郎もまたなぜ、本土というのか、とこだわっていたが、基がそう問うたのは、甲から11年後の1973年だったのである(「わが内なる奄美」)。

 それでは今私たちが使っている「内地」及び「本土」ということばはどうなっていくのだろうか。結論を言えば十年後には両者とも殆ど使用されなくなっていると思う。なぜ我々は今「内地」とか「本土」とかいうことばを使っているのだろうか。距雑感があるからである。国のはるか隅っこにある島として奄美をとらえているからである。国の中に溶け込んだ奄美としてでなく国と対している奄美として意識しているからである。交通の便が良くなるにつれて今後このような意識は薄れていくに違いない。そのような意識が薄れれば「内地」「本土」とかいうことばも薄れていくであろうことは明らかである。

 しかし、もう一つの理由もある。国土観念の未分化である。日本というものが頭の中で具象化されていないということである。即ち頭の中に日本の地図が詳しくできていないで単に一つの漠然としたかたまりとしてしかないからである。よく考えてみるとわれわれは必ずしも「内地」や「本土」ということばばかりは使っていない。「Aさんはどこへ行ったか」「大阪に行ったそうだ」などとはよく使うところである。東京、大阪、鹿児島などは我々と縁が深いため、日本全体の中で分化されて頭の中にあるから、容易にその名を使うのである。また本土に行く本人に桟橋でたずねたらどうだろうか。

 「どこまで」に対して「ちょっと本土まで」と言わずに、多くの場合「福岡まで」などとその地名を言う筈である(ただし、面倒くさい場合、はっきり言うのが都合が悪い場合、相手が長崎の位置について全く見当のつかない老人であった場合、数県へ行く場合などは別である)。それは実際に行くとなると本土などという漠然としたのではすまず、その目的地が頭の中ではっきり分化するからである。

 従ってお互いの頭の中に、日本全体が漠とした一つの単位としてでなく更に細かな単位、例えば山形県、宮崎県とまではゆかなくても本州、四国、九州などというように納まる頃になりさえすれば、「内地」も「本土」も共に要らなくなるのではないかと思う。また現にそうなりつつあるといえよう。(1962年)

 さて、甲がそう問うてから47年と半世紀近く経った現在、ぼくたちは、「内地」は無くなってはいないがあまり使うことはない。しかし、「本土」はいまだに多いに使っている場所にいる。甲のこだわりとは別に、ぼくたちはどうして現在も使い続けているのかと問うことができる。いやむしろ、いまのぼくたちには、「本土」という言葉を使うのに、甲のようなこだわりがないことを問うべきかもしれない。

 なぜ「内地」ないし「本土」という言葉が生きるのか。それは距離感があるからだと、甲は答えている。だから、交通の便がよくなるにつれ、本土という言葉も使われなくなるだろう、早晩そうなると、甲は考える。しかし、実際はそうならなかった。どうしてか。

 ひとつには、「本土」を主たる土地というように合理的に捉えているからである。したがってそれは、交通の便がよくなろうが、事態は変わらない。またあるいは、交通の便がよくなったとしても、「本土」との「距離感」あるいは奄美の場末感が消えないからである。そして、主たるものを中心とみる視点が消えないからである。それは、大島がときに、大島本島を自称することと同じである。

 こう考えれば、遡って、甲や基はなぜ、両者がともに、「本土」という言葉にこだわり、そこに違和感を見出し、使われないほうがよい、と考えたのだろう。それは、「本土」という言葉に、日本という範囲を想定しているからであり、「本土」と呼ぶということは、自分たちを国外に位置づけたようなニュアンスを感じたのだと思う。ここには、日本復帰にまつわる奄美の精神的外傷の名残りを見ることができると思う。


『わが奄美考―奄美の心・方言・島唄』

Wagaamamikou

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2009/10/29

「薩摩侵攻400年シンポジウム」

 喜界島でも400年イベントが計画されている。日は、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントと同日の11月14日だ。

 高橋一郎の「海域社会としての歴史像を描き出す試み」という講演も聞いてみたいが、シンポジウムの司会もパネラーも喜界島郷土研究会の会員が行うのが好もしい。予算の都合もあるだろうけれど、遠方からの先生の話を聞かせてもらうのではなく、自分たちで語ろうとする、等身大の視点が、今年続いたイベントのなかで新鮮だ。どことなく、おだやかなおおらかなこの感じは、喜界のよさではないだろうか。

喜界島郷土研究会より
薩摩侵攻400年シンポジウムのお知らせ

今年2009年は薩摩藩が奄美沖縄支配のために侵攻してから丁度400年になります。
今回「喜界島郷土研究会」ではこの節目の年に薩摩藩支配のシンポジウムを企画しました。
なにとぞ、おいでいただきますようお顔いいたします。

1.日時 2009年11月14日(土)
    13:30~17:00
2.場所 役場コミュニティーホール
3.プログラム
 (1)基調講演
「海域社会としての歴史像を描き出す試み」
 ~慶長14(1609)年を視座に~ 高橋一郎氏
 (2)島唄 豊愛さん 上田昂のさん
 (3)シンポジウム(司会、パネラー当会員)
  パネラー○歴史分野 ○史跡分野
       ○産業分野 ○教育分野
       ○民俗芸能分野

4.後援 喜界町 喜界町教育委員会 きばろう会

*入場無料
*当日喜界島特産茶も用意しております。
連絡先 得本:090-9687-8437 むちゃかなの碑
     野間:090-2084-2113
     北島:090-2589-2704

この案内は此れまでに喜郷研の催しに参加して頂いた方にお送りしています。

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2009/10/28

「鹿児島・沖縄 歴史・交流促進シンポジウム」

 あまみ庵の森本さんから、「鹿児島・沖縄 歴史・交流促進シンポジウム」の案内を見せてもらった。

 やっぱり具体的に見ると、ぼくの最初の反応は過敏だと思う。でも同時に、残念な想いも確認せざるをえない。

「鹿児島・沖縄 歴史・交流促進シンポジウム」の開催について

1.目的
 沖縄県や奄美地域、特に沖縄県においては、琉球出兵についで格段の思いがあることから出兵から400年を機に改めてその事実を掘り下げ、琉球の置かれている現状を問い直そうとする動きが見られる。
 現在、沖縄県との間では、県政だけでなく産業をはじめ様々な交流がなされているが、県民が、このような歴史や各地域住民の思いなどを正しく理解することこそが、今後の交流を大きく発展させていく上で重要である。
 このため、出兵から400年のいま、歴史学者や経済人等によるシンポジウムを開催し、県政や県民レベルの交流を深め、経済を含めた、未来に向けての発展的な交流の拡大を図る契機とする。

2.内容
(1)主催者挨拶(鹿児島県知事)
(2)基調講演
テーマ「薩摩及び琉球それぞれの立場から見た出兵の背景・歴史」
講演1:紙屋敦之氏(早稲田大学享受(日本近世史)、鹿児島出身)
講演2:上原兼善氏(岡山大学特任教授(日本近世史)、沖縄出身)

(3)パネルディスッション
  テ一マ「経済・文化・子どもたちの交流の今と将来に向けて~さらなる交流拡大を目指して~」

1.コーディネーター
 宮廻甫允氏(鹿児島大学教授)

2.パネラー
経済
1.大城肇氏(琉球大学副学長)
2.水野雄司氏(日本政策投資銀行南九州支店長)
3.水村由美子氏(ドリーきかく有限会社代表取締役)
文化・子供
4.長嶋俊介氏(鹿児島大学多島圏研究センター教授)
5.出水沢藍子氏(作家)
6.園田明氏(NPO法人奄美スポーツアカデミー理事長)
7.多和田真一氏(沖縄県宜野湾市スポーツ少年団団長)

(4)両県の若者による未来に向けた交流メ・ツセージ
  -パネルディスカッションの成果を踏まえ-

(5)アトラクション
   中孝介氏による島唄など両県に馴染みのある歌曲の披露など

3.開催日時
平成21年11月1日(日)13:00~17:00

4.開催場所
南日本新聞社・みなみホール(鹿児島市与次郎1丁目9-33 Tel 099-813-5003)

5.対象者
 一般県民等

6.入場料
無料

 最初から躓いてしまうのだが、「沖縄県や奄美地域、特に沖縄県においては」と、奄美は顧慮なく飛びこされてしまう。なぜ、そうなってしまうのだろう。奄美もまた、特別な想いを持ってこの年を迎えているのだ。あとの文脈をみると、ここで奄美の段は終わり、両「県」の問題に移ってしまっている。

 県知事の挨拶はともかく、基調講演はほっとする、というか聞いてみたい。お二人とも、時勢になびいたり威を借りたり頬かむりしたりはしない(と思う)。紙屋は鹿児島出身だが、事実の前に薩摩的史観は関係なくなるし、上原は『島津氏の琉球侵略』では、奄美まで視野に入れた包括的な論考をものにしている。

 しかし残念だけれど、お二人の書いたものも、侵略後のことになれば、奄美のことはあっと言う間にフェイドアウトする。やはり、奄美のことは奄美の人ですくい上げるしかないのだと思うところだ。

 パネラーのなかで、奄美の切実さに触れてくれる人のいるのを願う。

 対象者は、「一般県民」だそうだ(苦笑)。


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2009/10/27

不透明な動き

 あまみ庵で、鹿児島での400年イベントがもうひとつあるのを知る。

 「絆・ふれあい2009~ 鹿児島・沖縄 歴史・交流促進シンポジウム」

 基調講演 「薩摩及び琉球それぞれの立場から見た出兵の背景・歴史」

 これ以上の内容は明らかにされていない。


 11月1日 鹿児島
 「鹿児島・沖縄 歴史・交流促進シンポジウム」

 11月21日 奄美大島
 「薩摩侵攻400年で記念交流イベント」

 11月28、29日 山川
 琉球・山川港交流400周年事業


 ここへ来て、鹿児島が主体となった400年のイベントが一気に開催されようとしている。
 このうち山川のイベントは、市民参加で以前から告知されていた。しかし、あとの二つは市民参加の気配もなければ、広く告げようとしている感じもない。まるで既成事実を作ってしまおうとしているように見えてしまう。しかも、奄美不在は共通しているのだ。

 1日のイベントにしても、ゲストとして招かれている中孝介が痛々しくみえる。

 しかし、らしいといえばらしい。「議を言うな」的、不透明なやりようだ。



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2009/10/26

「安達征一郎 南島文学を語る」

 昨日24日、県立奄美図書館で、安達征一郎の講演会があったんですね。うう、聴きたかった。

 安達征一郎氏(本名・森永勝己)は1926年東京生まれ。6歳の時に両親の出身地の奄美大島に帰郷し、少年時代は喜界島で過ごした。小説家として数々ゐ作品を世に送り出し、「怨の儀式」で第70回直木賞候補、「日出づる海 日沈む海」で第80回直木賞候補となった。(南海日日新聞10月19日)

 どなたかお聞きになった人がいたら、教えてください。


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2009/10/25

「しほの生命(いのち)を守る会」

 沖永良部島の和泊小学校一年生の内山詩穂ちゃんが、「拡張型心筋症」により心臓移植が必要と診断された。「しほの生命(いのち)を守る会」が、募金を呼びかけている。

 「しほの生命(いのち)を守る会」

 振込み口座
 QRコードで、口座番号を送れるようにもなっている。

 ぼくもこれからしっかり読んで、できることをしたいと思う。

 ※「和泊の小1・内山さん米で心臓移植へ 支援団体が募金活動」

 ※追記。朝日新聞でも報道されている。「心臓病の女の子を救え 鹿児島・沖永良部島に支援の輪」

 ※追記2。読売新聞に掲載。「沖永良部の小1、心臓移植で募金よびかけ」

 

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パンフレット制作、大童

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントは、目下、パンフレット制作中。大童というより、焦ってるに近いかも。

 なにしろ初経験で、目算違いも多い。チラシはこんなにどんどん無くなるものだとは思ってなかったし、パンフレット制作に着手するのが遅かったので、充分な広告営業ができなかった。夜のみの活動となるし、いたしかたないとはいえ、反省多しである。

 昨日、アドリブの澤渡さんへ原稿の一部を渡して、構成を打ち合わせ。不備が多く、出直しであった。

 いささかへとへとなのだが、でも、パネラーの上里さん、藤木さん、圓山さんの原稿は、とてもいいんです。ぼくなどはこれ読んだだけで満足気味。疲れも和らぐ、というものです。

 というわけで、途中経過でした。みなさんのお申し込み、引き続き、お待ちしています。



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「つながりたい」(「唐獅子」9)

 実のところ、「奄美と沖縄をつなぐ」というイベント名には何によってつなぐのかという手段が欠けている。というか明示されていない。

 もちろん、イベントの後半は、シマウタ・コンサートなのだから、唄と踊りによってつなぐのははっきりしている。しかも、奄美だけをやるのでも、八重山だけでも、沖縄だけでもなく琉球弧全体に視野を届かせたいと思っている。するとそこでは、こことそこに同じものがあるという発見と、にもかかわらず、こことそこではアレンジが違うという発見も同時に味わうことができるだろう。元となる唄をそれぞれの島が自身のものとして消化しながら、また次の島へと引き継いでいったつながりに思いを馳せられたらいい。

 しかし、唄うだけでは物足りない。だから踊るのだ。でも、唄い踊るだけでも満たされない。だから、語りの場を持とうと思っている。

 そして語りは、「奄美と沖縄をつなぐ」がテーマであって、「奄美と沖縄をまとめる」ことをテーマにしていない。つまり、政治的な共同性の議論を前提にしていない。ただ、それは、道州制などの議論が大切ではないということでも、政治的なあり方の議論を退けたいわけでもない。

 ぼくたちはいつでも、圧倒的な強者の前に自分自身を見失い、正体不明のまま彷徨うことを繰り返してきた。そして深いふかい無力感のなかに打ちひしがれてきたのだ。奄美も、そしてきっと沖縄も。

 そうなら、「まとめる」話の前に、「つながる」話をしたい。結果的に、つながらないという話になっても構わない。少なくとも、つながらなければ、まとめることもできないから。
 
 ぼくたちは、唄い踊る島が琉球弧だと知っているから唄と踊りでつなぐことはできると期待している。でも、唄い踊るだけでは満たされないとしたら、何によってつながるのか。実はそれは決して自明ではない。だからそれを探したいのだ。

 ぼくはそれがほんの少しでも見えてくれば嬉しいと思っている。

 人は、人とつながりたいと思ったとき、どうするだろう。きっと、手を差し出し、相手の手を握ろうとするのではないだろうか。東京新宿で開催する11月のイベントで、どんな手が差し出されるのか、見つめたいのだ。(マーケター)

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2009/10/24

「琉球王国がわからん!」

 この400年の節目で強調されているのは、王国としての琉球の主体性だ。10月15日の朝日新聞の「ザ・コラム」(外岡秀俊)でもそのことに触れている。

 以前なら、琉球が中国風の装束を強制され、見せ物のように「ヤマト」の視線にさらされた「屈辱の歴史」を強調していただろう。
 ところが今回の展示では、琉球使節団が、当時最先端の衣装や音楽を携えて各地で歓迎されたことや、琉球側も日本から、多くの情報や文物を吸収したという「交流」の側面に光をあてている。
 「過酷な支配にあえいだ沖縄」という単純な図式ではなく、沖縄側も、王国の体裁を保ちながら巧みに外交力、文化力をみがいた」という新しい見方だ。

 「近世では、日中両方に帰属することはマイナスではなかった。江戸幕府は『お国柄』だとして琉球が中国に朝貢することを認め、そこから中国情報を吸収した。薩摩も琉球を従えることで幕藩内の地位を高め、むしろ朝貢を勧めている。琉球側も『中国カード』を使いながら巧みに王国を守った」
 そう語るのは、展示に協力した琉球大の豊見山和行教授だ。同じく琉球大で王国の歴史を長く研究してきた高良倉吉教授がいう。
 「軍事力などハードルワーを持たない琉球は、外交力を使って薩摩を対中運命共同体に引き入れ、利用した面もある。踊りや織物など、沖縄文化の多くも、薩摩支配下の270年で培われた」

 琉球弧の根拠としての琉球王国に永遠性はないが、関係論からその歴史をほぐすのには意味があると思える。どうしてこういう観方は出てきたのか。

 ソフトパワーで、日中二つの大国と巧みに渡り合った王国。そんな新たな琉球像だ。なぜ歴史が見直されるようになったのか。
 戦後、米軍統治下に置かれた沖縄では、日本から分離策をとる米軍に対し、祖国統一論に立って復帰運動を続けた。「そんな中で、独立王国・琉球を研究することが、研究者の間でタブー視された面がある。今はなってようやく、王国を客観的に振り返ることができるようになった」と、琉球大名誉教授の比屋根照夫氏はいう。

 言い換えれば、日本へ復帰して、琉球王国を正面から研究できるようになったということだろう。ぼくは、400年のタイミングが琉球王国の主体性見直しと重なっているのは、近代民族国家の衰退を背景にしていると付け加えたい。

 歴史の節目をめぐる論議は、研究者だけでなく、県民の間でも盛んだ。「どの会場も満員で、聴衆の熱気に驚いた」。そう語るのは、仲間とともに来月、「薩摩侵略400年」について、今年4回目の市民討論会を企画している映像批評家の仲里効さんだ。
 「みんなは今の問題として400年前を考えている。基地問題など今の閉塞状況を破るには、沖縄を対日、対米との関係だけで考えるのではなく、アジア全体の文脈に置き直し、アジアの中での沖縄の将来を考えるしかない。400年、130年前は、私たちにとって昔の也来事ではなく、目の前にある歴史なんです」

 過去の問題ではなく、現在の問題であること。そうだと思う。

 しかし、ぼくたちにとってそうであったとしても、日本においては必ずしもそうではない。そういう前に、琉球弧のなかでだって多数にはならないだろう。これはもう、『1Q84』的問題なのかもしれない。


 

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2009/10/23

「奄美--薩摩侵攻400年の意味を問う」

 10月の末日に、400年にちなんだイベントが神戸で行われる。

 「奄美--薩摩侵攻400年の意味を問う」

 これは少なくとも二つの点で新しい。
 ひとつは、コミュニティFMのラジオワークショップとして行われるということ。だいたいラジオワークショップは初耳である。

その語りの手法として、「南の風」の番組で培った経験を生かします。つまり、島唄を聴衆のみなさんに聞いてもらって、その歌詞が意味するところを、私なりに解題することで、歴史と社会を振り返りたいと思っています。島唄は決して歴史資料ではないのですが、<民(しまんちゅ)の歴史>であり、<民(しまんちゅ)の記憶>であるのです。いま歌い継がれているしまうたは、奄美の人たちにとって、歴史の記憶の再確認であり、<民族の物語>の反芻でもあるのです。

 もうひとつは、ラジオワークショップに関わるだろうが、島唄を余興や懇親としてではなく、歴史に接近する媒介として取り扱おうとしている点だ。

◆日時/10月31日土曜日16時から18時まで「ラジオワークショップ」
 場所/FMわぃわぃ 二階フリースペース
    場所は、FMわぃわぃのホームページをご覧になってください。
  http://www.tcc117.org/fmyy/index.php
    カトリックの鷹取教会の中にあります。
    参加費無料です

 どんな語りが生まれるか、とても楽しみだ。「奄美--薩摩侵攻400年の意味を問う」というその「意味」が新しく浮かび上がるといい。


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2009/10/22

「琉球・山川港交流400周年事業」のモチーフは何か

 「琉球・山川港交流400周年事業」の趣旨で、「五人番で繰り広げられた歴史もアコウの来歴も、人々の記憶から消え去っていました」とあるのを見、薩摩の琉球出兵を植物の移植に回収する視線変更への疑念を感じたが、それはシンポジウムの構成をみたとき、さらに膨らむ。

 基調講演を原口泉が努め、パネルディスカッションのコーディネーターも彼が努めるという。原口泉とは何者か。ここで何度も見てきたように、彼は、奄美の困難の歴史を観光のネタに塗り替えて、薩摩史観を頬かむり的に延命することしかしていない。何度もなんども。その基調講演が頬かむりを越えた直視を可能にし、そのコーディネートが奄美を無視しないとは到底、思えない。いったい原口は何をコーディネートするというのか。最大の困難を奄美に強いながら、その黙殺の上に、時間の経緯をあてにして鹿児島と沖縄とのシェイク・ハンズを演出しようというのか。

 パネリストを見れば、鹿児島県と沖縄県の副知事が名を連ねている。ぼくたちはここでも披露感に襲われる。これは、5/2に行われた徳之島でのシンポジウムの縮小反復ではないのか。聞くところによれば、当初、徳之島は、尚と島津を招き歴史の転換を図ろうとした。あいにく尚は訪れず、島津だけが交流を呼びかけたのだが、今回は歴史上の人物の末裔ではなく、現政策担当者を招くということか。これは、歴史上の人物の末裔を招くのがお門違いであるのに対し、焦点は合っている。だが、資格はない。何の断りがあって「交流元年」などと言うのか。徳之島のシンポジウムでの尚と島津の共演の目論見も実現した島津の呼びかけも茶番をしか感じなかったが、今回はお茶濁しにしかならない。

 いかにそこで「交流」を標榜しようと、それを拒否する者もいることを忘れてはいけない。


琉球・山川港交流400周年事業

1609年: 薩摩軍(軍船100艘、兵3000名)が山川港より琉球に出兵
2009年: 400年目の節目となる今年、沖縄・鹿児島両県の新たな『交流元年』として様々な事業を開催

◆11月28日(土)

 14:00~16:00  シンポジウム   会場/山川文化ホール

・基調講演 /原口 泉氏 (鹿児島大学教授)
・パネルディスカッション /
◇コーディネーター 原口 泉氏 (鹿児島大学教授)
 ◇パネリスト
安里 カツ子氏 (沖縄県副知事)     岡積 常治氏 (鹿児島県副知事)
上里 隆史氏 (早稲田大学客員研究員)  花井 恒三氏 (奄美のトラさん)
松下 尚明氏 (地域史研究家)      永田 和人氏 (縄文の森をつくろう会)

 17:00~20:00  くるま座文化交流   会場/山川文化ホール

   ・泡盛、芋焼酎、郷土料理を味わいながらの懇親会(会費 2,000円)
   ・ツマベニ少年太鼓、琉球舞踊、奄美島唄 などの芸能交流

◆11月29日(日)

 8:30~ 9:30  除幕式 (琉球人鎮魂墓碑・琉球人望郷の碑建立事業)

・多くの琉球人墓があった福元墓地に「鎮魂墓碑」、愛宕山に「望郷の碑」を建立

 10:00~12:00  芸 能 交 流   会場/山川文化ホール

・琉球舞踊、奄美島唄、琉球笠踊り、ツマベニ少年太鼓などの熱演(予定)


 13:00~15:00  山川港のまち歩き   集合/山川文化ホール玄関前

・「いっど、いっが、山川港ボランティアガイドの会」が案内します。参加無料、当日現地で受付。

☆参加者募集!!  (申込締め切り11月10日)
イベント名 入場料 定員 特記事項
シンポジウム 無料 500名 両県副知事による新交流宣言
くるま座文化交流 2,000円 200名 泡盛、芋焼酎、郷土料理で懇親
芸能交流 無料 500名 重要無形文化財の琉球舞踊保存会が特別出演
 ※事前に申し込まれた方に整理券を発行し、優先的に入場していただきます。
♪協賛金のお願い
市民参加型の事業として皆様からの協賛金を募っています。温かいご支援をお願いいたします。

平成21年10月15日     琉球・山川港交流400周年事業実行委員会
【事務局】電話 35-2900  FAX 35-2100

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2009/10/21

「南の島の先生 命がけの密航記」

 色んな人から教えられて、NHKの「南の島の先生 命がけの密航記」を観た。

 「南の島の先生 命がけの密航記~教え方を求めて3000キロ」

 奄美が戦後、米軍統治下に置かれたため、日本あるいは本土が彼岸と化し、獲得すべき世界と化したさまが伝えられていた。しかし、琉球から薩摩への支配者交替は単色に語られ、教育への渇望が本土復帰への流れを生んだと語られる。これは事態の矮小化とは言えないまでも、窮屈な部分的な理解には違いない。奄美が復帰に躍起になったのは、米軍統治のせいばかりではない。そのせい、はごく一部だ。この、断片的な番組化は残念なところだ。

 復帰を導いたとされた教育熱は、二ヶ月半の本土滞在と金十丸(かなとまる)での往復による二人の教師の密航に媒介される。この番組も「密航」をテーマとはしているのではあった。ここでも欲を言えば、密航、密貿易は番組でもそう言われたように、闇夜に紛れて漁船で決行されることが多かった。それは命がけの行為に違いなかったが、そこには解放感もあったこと。そして、教科書を持ち帰るといういかにもな動機だけでなく、商売のためのという動機もあった。その、密航の実相を伝えてほしかった。

 終わり近く、教師が教育の目的として、「どこへ行っても奄美出身者と言えることに尽きる」と語った。この言葉の意味を、奄美を知らない人は少し奇異に聞きこそすれ正確な意味はつかめないのではないだろうか。このひと言だけはことの真相を問わず語りに伝えていたと思う。


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「琉球・山川港交流400周年事業の趣旨」とは何か

 11月の28日、29日に、鹿児島の山川で、薩摩の琉球侵攻400年にちなんだイベントが計画されている。

 「琉球・山川港交流400周年事業」と題されたものだ。

 琉球・山川港交流400周年事業公式ホームページ

 ぼくは、「五人番のアコウ」の由来である琉球へ里帰りさせ、交流を深めようとする鹿児島の市民の善意を疑う者ではないし、それ自体に水を指そうとは思わない。

 しかし、このイベントが行われる文脈については黙しているわけにいかない。ぼくたちはまたぞろ「奄美谷間論」におびえてしまう構図のなかに置かれている。しかし、それは黙する奄美にあてこんでなされるものだ。 ぼくたちは何が行われ、何が語られるか、注視しなければならないと思う。

 山川大渡海岸の五人番と名づけられた波打ち掛こ、樹齢300年といわれるアコウが風雪に耐え生きていました。そのアコウが2004年8月の台風で完全に倒れてしまいますした。しかし幸いなことに、多くの方々の協力を得て、アコウは指宿港に移植されました。波打ち際にこのように長く生きながらえていたアコウは世界でも例がないそうです。アコウは琉球の首里城から運ばれてきたものらしいとわかったのは、アコウが倒れてから1年目めことでした。調べてみると、山川港には1613年以降1879年まで、薩摩への年頭挨拶などのために、琉球王国の使節船が毎年危険を冒し来航していました。来航船はこのアコウにもとも綱を巻いたと伝えられています。琉球が沖縄県となった1879年以降、琉球からの船も来なくなり、五人番で繰り広げられた歴史もアコウの来歴も、人々の記憶から消え去っていました。

 薩摩が琉球統治から得た莫大な資力は、明治維新を経て日本が近代化していく上で大きな力となりました。一方、鹿児島の神社拝殿には琉球様式と呼ばれるものが多く残っていたり、錦江湾に面した街々には、様々な琉球舞踊が今日まで伝承されています。このように約270年に亘り続いた琉球・山川港の交流は、日本の歴史を変える大きな原動力となりました。

 今年は薩摩の琉球出兵400年にあたります。この機会に、昔の人々の苦労を思い、新い未来に向かってさらなる交流を深めることができればと願っています。

 ぼくたちは、薩摩と琉球との間に、一方通行ではない相互浸透の交流があったことにほっとする。しかし、それならそれは、具体的な個々の文化交流に留めるべきものだと思える。「薩摩の琉球出兵400年」の名の元に行えば、大きく文脈を変えてしまうだろう。そこには大きな捨象が伴う。

 まず、「薩摩が琉球統治から得た莫大な資力」という史実のマクロ化で、「奄美」が捨象される。そして、「昔の人々の苦労を思い」という情への訴えかけのなかで、「加害と被害の構図」が捨象されるのである。

 kayanoさんはじめ、何人かの人がぼくにそう伝えてくれたが、その通り、「侵略」を「交流」に置換したすり替えである。またしても、ことの本質を隠蔽することで、薩摩は自己直視の機会を消そうとしている。「歴史の波濤を乗り越えて新しい未来へ舵をきろう!」などと言う前に、すべきことがあるのは言うまでもない。



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黄色の光が見えたら、奄美の家

 「奄美の家日記」で紹介されていますが、いままでふと、通り過ぎてしまいがちだった、「奄美の家」に看板ができました。夜、大きな通りのほうから見ると、こんな感じ。

 通りからみて、暗がりのなかお月さんのように黄色く光ってるのが見えたら、そこが「奄美の家」です。近づくにつれ、お茶目なデザインが分かってきて和みますよ。


Kanban

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2009/10/20

県が奄美大島で交流?

 今ごろ気づいた。

 「薩摩侵攻400年で交流 県・鹿児島県がイベント開催 11月に奄美大島で」

 県が? 「薩摩侵攻400年で交流」? 「奄美大島で」?。しかも、ここにいう県とは鹿児島県と沖縄県、なのだ。

 薩摩の琉球侵攻(1609年)から今年で400年を迎えることを受け、県は11月、鹿児島県の奄美大島で、同県とともに記念交流イベントを実施する。仲井真弘多知事と鹿児島県の伊藤祐一郎知事が出席する予定。歴史の事実を踏まえながら、両県が未来に向けた展望を開けるよう文化交流などを行い、相互の理解を深める。

 イベントは11月21日に予定されており、県は現在、交流イベントの詳細を詰めている。

 今年は、薩摩の奄美・琉球侵攻から400年、琉球処分(1879年)から130年の節目の年に当たり、県内外でシンポジウムなど、さまざまなイベントが行われている。

 5/2の徳之島イベントには茶番を感じたが、これは度を越して破廉恥ではないだろうか。詳細がとても気がかりだ。


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2009/10/19

「奄美と沖縄をつなぐ」、学割あり升

 法政大学の沖縄文化研究所にポスターとチラシを置いてきた。何しろ、土曜に行ったときにはクローズだったので、今夜は任務完了の気分だ。学割のシールを作って一枚いちまい張って持っていったのだ。

 そうそう、学生さんには学割を用意することにした。

 前売 3,500円
 当日 4,000円
 学割 2,500円

 である。というわけで、学生さんの申し込みもお待ちしています。


2009lao1

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「島をつなぐ」(「唐獅子」8)

 11月14日に東京新宿の牛込箪笥区民ホールで、「奄美と沖縄をつなぐ」と題したイベントを開催する。トークセッションとシマウタコンサートの二部構成だが、沖縄からは、うちなー噺家の藤木勇人さんや『目からウロコの琉球・沖縄史』の上里隆史さん、三線博士の新城亘さんなど、多くの方に参加していただく。当初、こんな豪華な顔ぶれになるとは夢にも思っていなかった。

 それは、初の試みだということもあるが、実のところ、「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマは関心を惹かないだろうと思っているからだ。

 わたしにとって「奄美と沖縄をつなぐ」ことが切実なのは、わたしが与論島出身で、与論島と沖縄島の間の境界を理不尽さの象徴のように見つめてきたからだが、でも概して言えば、沖縄は日本を向き、奄美は鹿児島を向くものの相互には無関心で、惹きあう間柄にはなっていない。だから、小さなイベントになるだろうと思ってきた。

 しかしブログやチラシで告知をし、関心を持つ人の声を聞くうち、違う風に考えるようになっている。

 確かに奄美と沖縄は相互には無関心かもしれない。けれど実はそれは、こと奄美と沖縄に限ったことではない。島はそれぞれが世界であり宇宙である。それが島の思想であるとしたら、自分の島以外のことに無関心なのは自然なことだ。そうだとすれば、奄美と沖縄の相互の無関心はその象徴的な現われに過ぎない。必要以上に嘆くことはないだろう。

 ただ、そうだからといって、そこから引き返す必要もない。わたしは奄美と沖縄の隔たりを哀しく思う。けれど、それは巨視的に見るからであって、島伝いに辿れば、奄美の内部にも沖縄の内部にも、同じことは言えるはずだ。奄美大島と沖永良部島も、沖縄島と八重山の島々も互いに関心がないかもしれない。奄美から沖縄まで、それぞれの島の場所すら知らない島人も多いのかもしれない。

 そう受け止めると、イベントの名称は「奄美と沖縄をつなぐ」だけれど、その心は、島と島をつなぐことにある。島と島の隔たりを哀しく思うことがあれば、それをつなぎ直そうということなのだ。そのように、奄美と沖縄のどの島人にとっても共感できる場を作っていきたいと思っている。(マーケター)

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2009/10/18

「トーク・島唄で奄美、沖縄つなぐ」

 10月11日の南海日日新聞に「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの紹介記事が載った。ありがたし。

 「トーク・島唄で奄美、沖縄つなぐ」来月14日、東京でイベント。

11月14日、東京で「奄美と沖縄をつなぐ」イントがある=ポスター。400年前に引かれた与論と沖縄の境界をトークや島唄で越境し、つながりを回復しようとの試みだ。

 シマウタコンサートでは奄美の新聞らしく、奄美出身者をクローズアップして紹介。

 シマウタコンサートは徳原大和さん(加計呂麻島出身)や内山五織さん(徳之島生まれ)、沖永良部島と緑の深い持田明美さん、八重山芸能集団「結」、マタバリダンサーズなど。多彩な音楽、舞台が楽しめそう。

 ということです。みなさんのご参加をお待ちしています。


Nankai091011

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2009/10/17

「奄美と沖繩をつなぐ」進行表

 持田さんが作ってくれた、11月14日当日の進行表の現在形。細かなところでは更新部分は出てくると思いますが、ご覧ください。

 お申し込みもお待ちしています。


15:30 開場                           

16:00 トークセッション 司会・進行/喜山
上里隆史、圓山和昭、藤木勇人、喜山荘一

17:30 休憩

17:45 藤木勇人 語り

18:05 概説(5分)奄美と沖縄のシマウタはどこが同じ?どこがちがう?(持田)藤木さんと掛け合い?
シマウタとは/三線比較/奏法比較/音階比較/歌詞比較

18:10 1.行きゅんにゃかな系
奄美を代表する民謡である<行きゅんにゃかな>、別名<ゆんむぃやんむい>。<トッタンカニ>として広まり、また数え唄としてたくさんの歌詞がつくられている。中国の少数民族やチベットの鳥葬の唄としても似た旋律があるという。

  行きゅんにゃかな (奄美)……徳原大和
  取ったん金ぐわ 別称なんどー節(徳之島)……内山&ヒロ
  トッタンカニ(沖縄)……熊倉&知念
  武雄と浪子(永良部)……宗・持田
  石川小唄(沖縄)……熊倉&知念

18:30 2.稲しり節系
<稲しり節>は南は八重山から北は種子島まで広く伝搬し、旧暦8月の豊年祭で豊作感謝と予祝の芸能「豊年踊り」として欠かせない伝統をもっている。新城が解説。
  八重山のシシャーマ節……新城亘
  沖永良部の稲しり節……持田・宗
  徳之島の稲しり節……内山&ヒロ
  奄美の稲しり節……徳原大和


18:45 3.はやり唄 与論小唄系
「十九の春」は田端義夫や本竹祐助がレコード化する以前から、沖縄や奄美の島々で歌われていた。この元は与論島で<与論小唄>として戦前に流行っていた流行歌。明治後期に長崎口之津に移住した与論の人々が持ち帰った与論ラッパ節から与論小唄が生れ、琉球の島々にまたたく間に広まったという。元をたどれば大正時代に流行した書生節や演歌と呼ばれる<ラッパ節>(明治38年添田唖蝉坊作曲)。<ラッパ節>が元になって各地でたくさんの唄がうまれ、<選炭節(炭坑節の元)>、兵隊ソングの<スーチャン節>など、今でも各地の民謡として親しまれている。

  十九の春〜ジュリグワ小唄(沖縄)……熊倉&知念
  与論小唄(与論)……あおいちゃん
  本土のラッパ節……?
  沖縄ラッパ節(沖縄)……熊倉&知念
  スーちゃん節(兵隊ソング)……持田

19:05 4.畦越え(ハイヤセンスル)系
沖縄でカチャーシー曲として知られる<唐船どーい>の元唄は「畦越えぬ水」。この曲も奄美から八重山まで広く踊り唄として伝搬している。近年、沖縄ではカチャーシー曲が高速化してきたといわれるが、他地域のものは比較的ゆるやかなテンポで古風を伝えている。

  加計呂間島 鎌踊りの唄「アブシクェロ」……徳原
  徳之島 畦越え……内山&ヒロ
  永良部 奴踊り「畦越」(踊り・マタハリ)……持田・宗・平沢
  宮古 川満笠踊りのアヤグ(踊り・マタハリ)……金城
  竹富島 じっちゅ(踊り・結)……グループ結
  沖縄 唐船どーい(踊り・客席から)……熊倉&知念

19:25 5.六調
もともと九州一円にあった座敷唄<六調子>が南下して<奄美六調>に。沖縄・宮古をとばして八重山で伝承されてきた。踊りあり。会場からも加わってもらって、ふたつの六調でにぎやかに終わり。
  八重山六調……グループ結&新城
  奄美六調・徳之島六調……徳原さん・内山さん・ヒロ

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2009/10/16

「奄美の自然・文化・歴史等の広報・教育に関する陳情書」

 あまみ庵では、「奄美の未来を考える集会」で決議した「奄美の自然・文化・歴史等の広報・教育に関する陳情書」も載っている。この決議文の、“教育に奄美を”という呼びかけは現実的で妥当なものなのだと思う。

 しかし、「陳情」、なのだろうか。ここは本来、「異議申し立て」あるいは「抗議」としてあるべきものではないだろうか。

 項目の(1)の、琉球、薩摩、アメリカという支配構造の列記では類稀な複雑さを言うことにはならないと思う。薩摩による支配の事実とその構造の特異さを浮かび上がらさなければ、それを伝えなければ、鹿児島は自らの問題として受け止めることもできない。せいぜい、「みんないっしょよ」という例の反応を見るだけである。

 (2)に言う、言葉や島唄は、「識者」が評価するから価値があるのではない。島の共同性に根ざした固有性があり、それは鹿児島が鹿児島弁を持つのと同等に価値がある。そう伝える必要があるのではないだろうか。

 前文の「さもなかったかのように」という箇所が、鹿児島における奄美の位置し具合を正確に伝えている。以下、「陳情書」を引用する。

奄美の自然・文化・歴史等の広報・教育に関する陳情書

2009(平成21)年10月3日

鹿児島県議会議長

金子 万寿夫 様

陳情者 鹿児島市坂元町38-3

「島津藩による奄美・琉球侵略400年・奄美の未来を考える集会」

実行委員会 (代表) 仙田 隆宜

1 陳情趣旨

 奄美は、今年は「皆既日食」のことがあり、その奄美の地理的存在のため国内外から多くの注目を浴び、いろいろな情報を発信することができました。奄美にとっては大変うれしいことでありました。

 しかし、奄美にとって、2009年という年はもっと重要な意味を持った年であります。それは、島津藩が奄美・琉球を武力で侵略・侵攻してから400年目の年であるということです。

 この年から、奄美は琉球王朝の支配下から島津藩の直轄領として苦難の歴史を歩み続けることになりました。島を離れて、鹿児島本土で暮らした人々は、かつてかなり屈折した感情を内包しながら生活を営まなければならなかったといわれています。

 こうした歴史については、400年目の現在に至っても一部の人々を除いては認識されておらず、歴史の闇の中にひっそりと、さもなかったかのように埋もれております。

 また、奄美の歴史的な分野だけでなく、奄美の固有の自然や文化についても、その重要性について認識されていないことを痛感しています。その一つの典型として、方言があります。2009年2月19日に国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、世界で約2500の言語が消滅の危機にあると発表しました。そこには驚くべきことに、「奄美語」が上げられていたのです。国連の機関が奄美方言を独立した言語と認め、さらに危機にあると警鐘を鳴らしたのです。ユネスコの担当者は「日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」と発表しています。

 私たち、奄美に関心を寄せるものたちは、2009年の今年、奄美の島々の辿った歴史を見つめ直し、奄美の伝統文化や特異な自然について、その豊かさを改めて認識するため、この「島津藩による奄美・球侵略400年・奄美の未来を考える集会」に集いました。そして、これらの課題を現代に生きる我々はもちろん、後世に引き継いでいく必要性を痛感し、参加者の一人一人がその使命を負うことを誓うと共に、鹿児島県においても同様な認識で、県民への広報や学校教育で取り入れていただくことを切に願い、陳情いたします。

2 陳情項目

(1)奄美の島々は、琉球王朝の支配下から1609年以降は薩摩藩の直轄領となり、さらに第2次世界大戦後は米軍政下の異民族の支配下におかれ、1953(昭和28)年に激しい復帰運動を経て、今日に至るという類稀な複雑な歴史を有しており、この歴史ゆえに奄美の民衆は筆舌に尽くしがたい苦しみを負って来ております。こうした奄美の歴史を鹿児島県民及び各学校教育において正しく認識できるようにわかりやすく伝えていただきたい。

(2)奄美の方言(シマグチ)や民謡(シマウタ)など奄美の風土に根ざした伝統文化の重要性は識者には高く評価されているものであります。これらの方言や民謡を将来にわたって継承していけるような手立てと鹿児島県民及び各学校教育においてもその重要性をわかりやすく伝えていただきたい。

(3)奄美の自然や多様な生態系は極めて特異なものであり、希少価値を持つものであります。また、奄美の先人たちの自然との関わり方も、現代に生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。こうした奄美の貴重な自然、多様な生態系を守り、育てると共に、広く県民や各学校教育において正しく伝えていただきたい。

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2009/10/15

「しかし、奄美が鹿児島県であるかどうかは、文化の独自性に比すればどうでもいいことかもしれない」

 あまみ庵の森本さんが、「紙上には載らなかったことなどをひとこと」として、「奄美の未来を考える集会」について書いている。

山下欣一:「1700年代、大島の宇検に漂着した薩摩役人の文書では、島民は男か女か判別がつかなかった・・・」
山田隆文:「私は幼心にジュウ(祖父)の話を聞かされたため、自分の先祖がヤンチュで奴隷だったことを少年時代には認識していました・・・」
向原祥隆:「さっさと分県運動なりして、独立すればいい。(略)しかし、奄美が鹿児島県であるかどうかは、文化の独自性に比すればどうでもいいことかもしれない・・・」
沈 壽官:「韓国に留学したとき、教授から、君は400年間の日本の垢を落としなさい、と言われ、バカらしくなった。本当の朝鮮人とか日本人とかあるものだろうか・・・」

 どの方の言葉も心に残るが、沈さんに共感しつつ、向原さんの背中を押すような発言に止まると、ぼくは『奄美自立論』では、奄美の「独立」とまでは考えを進めることはできなかった。考えたことがなかったからだが、それは不可能だと思えるからというより、現状のまま「独立」したところで、大島あるいは名瀬中心主義を免れ得ないだろう。それなら那覇中心主義とさして変わらない。与論はいずれ場末中の場末に止まるしかないのは同じだから、魅力に思えない。

 むしろ、「独立」などしようとしなかったところに奄美の可能性を見出すことはできないか。そこで、奄美を非国家地帯と見なした。そこでは、「奄美が鹿児島県であるかどうかは、文化の独自性に比すればどうでもいいこと」と言えるものだ。そこで、それぞれの島(シマ)を主人公にしたつながりによる連帯を模索するのである。

 そう考えたのだった。しかし、独立を仮に奄美県と想定してみると、このとき鹿児島県と言わなくて済む解放感の大きさは、それはそれは計り知れないものがある。それは、確かなのだ。




 

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2009/10/14

「奄美の未来を考える集会」(南海日日新聞記事)

 10月3日、「奄美の未来を考える集会」の南海日日新聞の記事が載っている。

 【鹿児島総局】島津藩が1609年に奄美・琉球を侵略してから400周年に当たり、その歴史を見詰め直すとともに、奄美の未来を考える集会(同実行委員会主催)が3日、鹿児島市の県教育会館で開かれ、基調報告やシンポジウムなどがあったほか、奄美の歴史、文化、自然・環境に関する広報・教育の充実を求める決議を採択した。また、焼酎やミキなどが振る舞われる中、詩の朗読や島唄、新民謡なども披露され、奄美らしさをアピールした。

 いまは新民謡もあるんですね。知らなんだ。

 出身者を中心に鹿児島市で活動する「奄美を語る会」(世話人・仙田隆宜さん)の関係者らが企画し、奄美からの参加者も含めて約200人が詰め掛けた。
 出水市出身で歴史作豪の桐野作人さんが「島津氏の奄美・琉球侵略の背景と実態」と題して基調報告。奄美・琉球侵略の背景に11万8000石の隠知行(領地隠し)の発覚に伴う藩の財政難があったとする説や島津軍のよる蛮行ぶり、琉球王朝財宝の略奪などの実態を説明した。

 これを見る限りでは、「さつま人国記」での連載と同じ内容ではないかと思える。
 「島津氏の琉球振興400年」

 その上で、「『鹿児島県史は戦前の1939年に作られたもの。奄美・琉球侵略、琉球処分も語られておらず、新しい県史刊行に歴史研究者が使命を果たすべき」「鹿児島は明治以降東ばかりに目を向けていた。西の奄美・沖縄、アジアとの人、物、情報の流れを盛んにする視点を」と強調した。
 シンポジウムでは、鹿児島大講師の杉原洋さんを司会に、鹿児島国際太名誉教授の山下欣一さん、陶芸家の第15代沈壽官さん、南方新社代表の向原祥隆さん、龍郷町出身で団体職員の山田隆文さんが発言した。

 その中で、「文献に書かれた歴史だけでなく、人々の日常生活中にある歴史、先人の知恵にももっと目を向けてほしい」(山下さん)、「これからもいかなる圧政にも耐え続けたたくましく、万物にも優しいシマの民衆の心であってほしい」(山田さん)、「奄美には自分たちの文化を愛するパワーを感じる。鹿児島であることにメリットがあるのか、分県すべき」(向原さん)、「奄美の各島々とも『世界一』の目線でそれぞれの文化に磨きを掛けてほしい」(沈壽官さん)などの注文、提言が出された。
 集会の冒頭、伊仙町出身の詩人・茂山忠茂氏が自作の詩を朗読、シンポジウム後は徳山芳夫さん(龍郷町出身)と久保タカ子さん(喜界町出身)が「徳之島節」など島唄を披露したほか、新民謡の演奏もあった。

 県史の改訂は現実的で重要な課題であるに違いない。しかし、「歴史研究者が使命を果たすべき」という、この、「歴史研究者」を誰が担うのかを考えると、暗澹たる気分にならざるをえない。わざわざ憂鬱になる必要はないとするなら、ここでいう歴史研究者は、薩摩史観に思考を乗っ取られておらず、抑圧もされていないのでなければならない、と思う。そしてそうなら、昨日の「直轄支配化の奄美 西郷隆盛」を踏まえても、独自に作成するしかないのではないだろうか。自家製奄美史を。


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2009/10/13

「直轄支配化の奄美 西郷隆盛」

 「未来への羅針盤」に書く、原口泉の西郷隆盛(「南海日日新聞」2009/09/18)。

 1873(明治6)年、大蔵省は砂糖の自由売買を鹿児島県および全国に通達する。しかしへ鹿児島県はこれに対抗して大島商社を設立。藩政時代と同様、奄美の砂糖取引を独占する。西郷は商社設立構想に同意していた。「西郷は鹿児島士族救済のため、旧慣(砂糖専売制)を温存した」というのは、その通りだが、「ずっとそのまま」とは考えていなかったはずだ。

 「「ずっとそのまま」とは考えていなかったはずだ」というのは、原口の仮説である。

 財政基盤を整備するためには自由売買に移行した方がいいのだろうが、国防という問題もある。鹿児島には北海道の屯田兵に先行する形で農耕をしながら国を守る気概を持った士族がいた。士族を一気に解体すると、西南日本が諸外国の脅威にさらされる。士族の経済的基盤をなるべく脅かさないように配慮した。砂糖販売も当面は大島商社で代行させて、その後、全国の商品経済へ移行する緩やかな改革を考えていたのだろう。西郷にとっての大島商社は国防、経済両面からの妥協策だった。

 こういうのを読むと歴史家の仕事とは何だろうかと考えこまざるをえない。「西郷にとっての大島商社は国防、経済両面からの妥協策だった」という原口の判断は、史実が希薄だから歴史とは言えない。そして、ぼくが自分の足場だと考えている批評でもない。なぜなら批評に必要な本質を穿つ力もないからである。ここにあるのは歴史でも批評でもない。そうだとしたら何か。せいぜい、居酒屋談義というものではないか。もしくは、奄美の人々の読む新聞で、西郷への評価を変えてもらうための作為である。しかし、先生立場の者が何かを言えば簡単に説得できるとあなどらないほうがいい。歴史は歴史家の恣意ではない。

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2009/10/12

『薩摩藩士朝鮮漂流日記』2

 もちろんぼくたちが『薩摩藩士朝鮮漂流日記』にのめり込むようになるのは、あの、奄美の二重の疎外とその隠蔽がどのように露出したかを見ることができるからだ。

 こうした支配を維持するために、薩摩藩士が代官として島々に数年任期で派遣され、懇意を排除しつつ任地での勧農に努め、特産物の収納に努めた。日高与一左衛門は代官として、安田喜藤太と川上彦十郎は代官付として、文化十四(一八一七)年五月から永良都島に勤務していたのである。離島勤務の精神的な重圧は想像を絶するものだったらしい。奄美五島にたどり着くまでの航海の危険性もそうだったが、無事に任地にたどり着いたところで、島々における琉球的な社会慣習の一掃は「置目条々」に言うほど容易なものではなかった。歴史的紐帯に培われて存続してきた人口四千人(与論島)から四万人(奄美大島)に及ぶ島社会に対し、わずか数名の薩摩藩士代官が何をなしえただろうか。敢えて薩摩藩の権威を振るおうとすれば島社会の厚い壁にはじき返されて失意に陥り、任期が終わるのを指折り数えて待つ日々を過ごすこととなった。さもなくば、島社会に圧倒的な影響力をもつ長老と手を結び、実質的な支配を長老らに委ねながら妥協的な態度で任期を全うするかであった。

 薩摩の支配が、「長老と手を結び」という牧歌的なものではなかたのを、ぼくたちは知っているが、しかし、代官の直面した困難さはリアリティがあると思える。島の抵抗とは、この「置目条々」程度でどうにかなるものではない島社会の厚みのことであるかもしれない。

隠蔽される「琉人」
 ところで、実は乗員のなかに永良部島の「琉人」六人がおり、事情聴取の官吏が登船したおりに、彼らの目に触れないよう船底に隠し置いた。身なりや髪型が一見して違ったからである。ところが船中が朝鮮人であふれかえり、船内の点検も隅々にまで及んだから、髪型を和風にしたり、髭鬚(ししゅ)を剃るなどして変装させた。さらに船頭勘右衛門は六人について、蓑里(みのさと)を三助、中里を中右衛門、田儀名(タキナヰ)を田右衛門、次郎金(カネ)を次郎、也麻(ヤマト)を山助、麻坐(まさ)を政右衛門、と機転をきかせて読み上げた。名前も和風にしたのである。

 そう、これが二重の疎外とその隠蔽の行為のひとつ。乗り合わせた大和の船が漂着した場合は、出で立ちと名を大和風にするべし、というものだ。変名の方法は実名に近い安直なものだが、徹底ぶりは目を見張るものがある。

 池内は最後にもう一回、この件について考察している。

 ところで、松元の「誠実」な回答に基づいて対馬藩が作成した漂流者名簿に三助・中右衝門・田右衛門・次郎・山助・政右衛門と記録された人たちは、本来そうした名ではなかった。彼らは永良部島から連れ帰った「琉人」であり、本来はそれぞれに蓑里・中里・田儀名・次郎金・也麻・麻坐という名をもっていた。対馬藩が作成した名簿は江戸幕府へ提出されたから、少なくとも幕府は漂流船にそうした「琉人」がいたことを知るよしもなかった。「琉人」としての本名と、漂着地でつけられた仮の名とがともに分かるのは安田「漂流日記」においてだけである。

 これは、漂着民が朝鮮を離れ、対馬藩に移って以降のことである。

 この場合、倭館の対馬藩士が「琉人」の存在に気づかなかったわけではない。九月八日付の国元あて倭館館守報告書には、漂流日本人のなかに「琉球大乗組居候次第」を記しているからである。倭館官吏は、漂着地馬梁で「琉人」六人の髪型・名前を日本風に変えたことを確認済みであった。しかし、敢えて変名をそのまま調書に掲載し幕府へ提出することとした。琉球人の薩摩船への同乗は薩摩藩としての秘匿事項だったから表だって問い質すわけにもいかないこと、釜山到着まで朝鮮に対しては変名で問題なく済ませてきたこと、そうである以上はいまさら事を荒立てる必然性もない、というのが対馬藩の判断であった。その存在を知りながらも敢えて目をつむったというあたりだろう。

 ぼくたちはここでも、「敢えて目をつむったというあたりだろう」と言って済ませるわけにはいかない者である。薩摩の奄美支配の特異性は、琉球支配は中国に対して隠蔽していたが、奄美支配は中国はもちろん、日本(幕府)に対しても隠蔽していたことである。したがって素朴に知りたいのは、奄美の島人が日本国内に漂着した場合、奄美の島人はどう振る舞い、漂着した地の支配層はどう振る舞ったのかということである。対馬藩の対応はその実相を示唆している。

 池内によれば、「琉球人の薩摩船への同乗は薩摩藩としての秘匿事項だったから表だって問い質すわけにもいかない」ということだ。つまり、知らないふりをする、ということである。これは真実だろうか。しかし、対馬藩の対応をみれば、そう見なさざるをえない。すると、対馬藩は、幕府に対して薩摩に加担したということになる。それは積極的なものではなく事なかれに処したものであるかもしれないが、加担に変わりはない。二重の疎外は、他藩の加担によっても維持されたということになる。

 ここからさまざまな疑問がむらむらと湧きあがってくるが、ここでとどめる。それを正面から考察したわではない論考を対象に深入りするわけにはいかない。ひとつのケースとして、記憶に留めようと思う。

    『薩摩藩士朝鮮漂流日記 「鎖国」の向こうの日朝交渉』

Tyousenhyouryuunikki

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2009/10/11

わしたショップに、チラシを補充

 銀座を歩く。台風が通り過ぎたおかげだろうか、空が澄んでいる。こういうときはビルが空に溶け込むようで、人工と自然が対立的ではなく、好きだ。こんな街並みは、ぼくは20年ほど前に福岡で初めてみた気がした。空気がきれいだと、ビルの輪郭がはっきりして、でもそれが返って空と調和しているように見えるのだ。アップルストアの廻る看板が異彩を放ち、未来都市っぽかった。

 紙に書く愛着が湧いてくるノートがほしくて伊東屋で探したのだが、それは意外に早く見つけられた。使うのが楽しみだ。

 あとは本題。「奄美を沖縄をつなぐ」イベントのチラシが無くなっていれば補充するつもりでわしたショップへ向かう。店へ入った瞬間、鮮やかな原色がやってきて、「沖縄」の世界がぐっと迫ってきた。ピントぼけが修正されて世界の輪郭がくっきりする。ゆうべの奄美の人の、「奄美の人は何をやっても中途半端」という声がよみがえってきた。地下にチラシはあるものだと思って降りると、あの、心地いい音楽が聞こえてくる。ここでも、ゆうべの奄美の人の、「あんな暗い奄美の音楽を誰が好きになると思う」という声がこだました。チラシは地下も一階も切れていたので、追加。集客につながりますように。

 わしたショップは、当たり前のようにごった返していた。沖縄の人は、ここで、自分たちの世界観を確認するように店に出入りするだろうか。それともそれは、いつでも宙づり的な所在なさをぼくたちが抱えているのでそう見えるだけで、記号化された沖縄に辟易するだろうか。でもどちらにしても、安心や共感や反撥として、反応ははっきりしやすいに違いない。無くなったチラシを手に取ってくれたのは誰だろう。知りたくなった。


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2009/10/10

『薩摩藩士朝鮮漂流日記』1

 前利さんに勧められた『薩摩藩士朝鮮漂流日記』は、確かに面白かった。

 ここでいう漂流日記は、1819(文政2)年7月に、沖永良部島の代官勤務を明けた薩摩の代官を始めとした一行25名が、朝鮮半島に漂着し、漂流民送還制度を頼りに、釜山湾の一角にある対馬藩の出先機関である倭館に辿りつき、対馬藩役人に引き取られ、対馬行きの船に乗るところまでの日記である。日記の著者は、代官付の安田喜藤太。

 6/14 永良部島、出船
 7/03 漂着
 7/26 漂着地を出発
 1/14 対馬へ出発

 この後、一行は対馬から長崎に渡ったことまでは分かっている。しかしそれ以降、薩摩までの足取りはつかめていない。日記は「前編」とあるが、「後編」の行方はいまだ知れないのだという。

 安田義方『朝鮮漂流日記』のおかげで、ぼくたちはいままで断片的にしか知らなかった漂流後の消息を詳しく知ることができる。とりわけ朝鮮人との具体的な交流の内実が豊かだ。ぼくは、執拗に繰り返される事情聴取、筆談のもだかしさ、詩文を贈答しあおうとしたり煙草を分けてもらったり、上役の命が届かないと何事も進まない今と変わらないお役所の融通の利かなさや、にもかかわらず育まれてゆく友情といった、人間的な交流のさまが興味深かった。やはり、人と人。心は通う。

 この人間的交流の側面は、著者の池内にはこの本を書く重要なモチーフになっていて、「近世日本人と朝鮮人の相互認識かや文化交流に関わる具体的な声を掘り起こし」、ステレオタイプな「相互不信」という言葉には収まりきれないことを明らかにしようとしている。そしてそれはこの本から素直に受け取ることができるものだ。

 そして、庇仁県監尹永圭とのあいだでは、たがいに自身の拠って立つ文化のほうが相手のそれより優越するとした一方的な姿勢ではなく、共通する上位文化として中国古典を置き、そこから派生した朝鮮と日本の文化それぞれを比較させ、それぞれを尊重しつつ相互理解を狭めていく姿が印象的である。これに対して、張天奎・金達秀ら下級官吏とのあいだでは、酒や煙草を呑みながら膝を突きあわせての談笑が特徴的である。文化的な共通性にも階層差が反映されているというところだろうか。

 実際、この漂流日記は、安田義方と尹永圭の友情日記と呼んでも差し支えない内実を持っている。
 ところで池内は、交流を五つに類型化し、このうち倭学訳官の趙明五とだけは最初から最後までよい関係が結べなかったとしているが、ぼくは、この趙明五とのやりとりは話として面白かった。

 安田が初対面の礼を日本語で述べると、訳官は「はじめて、はじめて」と日本語で応じた。そこで漂流からこんにちに至る経過を説明すると、「左様でござります」と日本語で答えた。次いで、船の傷みが深刻なため貴国の恩恵を得て帰国したいと述べると、訳官はやはり「左様でござります」と日本語で答えた。そののち何を説明しても、訳官の日本語は「左様でござります」しか聞こえなかった。安田は一生懸命に耳を澄ませてみたが、まるで分からなかった。訳官の日本語は日本語としてはまるで体をなさず、聞き取れるのは「左様でござります」だけであった。対談を船頭勘右衛門に代わってみても、やはり勘右衛門にも理解不能だった。

 延々と続く事情聴取と遅々として進まない筆談に辟易し疲れてもいた安田はじめの漂着民は、通訳の登場に歓喜するのだが、それが要を得ない。通訳なのに筆談さえ覚束ない。以前の漂流記をあんちょこに、チラチラ覗き見しながら対応する当たり、漂流事件の扱いにも不慣れらしい。

 そればかりか、上陸の許可も出そうとしない、浸水も激しい船の破棄と朝鮮船での送還にも応じようとしない。応じることにした後は、送還費用の請求する。最後、趙明五は「送還費用を名目として金品を受領する」のを目論んで失敗したのだと、池内はこれを称して「珍問答」としている。

 もちろんぼくは「相互不信」を強調したいのではなく、この狂言回しのような趙明五の役回りが、漂流劇をよりドラマにしていると思える。言い換えれば、やりとりがコミュニケーション不全にもかかわらず人間的なのだ。

 ところで池内が案内しているように、この朝鮮日記の挿図はインターネットで閲覧することができる。本に載せられている以外のものも、しかもカラーで。

 住田文庫

 これは確かに興味深くて、安田の薩摩武門らしからぬ?絵心がある。いやでもこれは偏見で、名越左源太がそうであるように、こうした繊細さも持ち合わせていたのだろう。本にも載っているが、友情を育んだ尹永圭も、安田は描いている。

 尹永圭(右の人物)


    『薩摩藩士朝鮮漂流日記 「鎖国」の向こうの日朝交渉』

Tyousenhyouryuunikki

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2009/10/09

奄美をひと文字で、と問われたら

 奄美をひと文字で、と問われて、甲(きのえ)は答える。

 そういう折、友人から質問を受けた。西郷隆盛を「壮」で、薩摩を「武」で表すとして、さて奄美はどういうことばで象徴させたらよいか、というのである。これは難しい。一応、「受」と「改」ではどうだろうかと答えておいた。もちろん、それは自分自身満足できる答えではない。
 しかし、明治以降の奄美は、ひたすら他を受け入れて自己を改めるものであったことは間違いないし、将来もそうであろう。

 これは面白い問いかけだと思う。ぼくなら、「唄」と答えたい。

 あと、思いつくままに挙げれば、優、柔、秘、軟などだ。あなただったら、何を挙げますか?


『わが奄美考―奄美の心・方言・島唄』

Wagaamamikou

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2009/10/08

「鹿児島でない鹿児島県」

 世代を超えて、甲(きのえ)に共感するのは次のような箇所だ。

 我々が鹿児島の人を紹介するとき「この方は鹿児島の方で枕崎からいらっしゃいました」と言ったとする。この場合、言った方も言われた方もさして違和感は持たないであろう。
 鹿児島の人が我々を紹介する際「この方は大島の亀津からいらっしゃいました」と言ったとする。言った方は、もちろん何も感じないだろうが、言われた方にはへんな感じで受け取る人とそうでない人がいる。それは「大島」ということばを喜界、徳之島、沖永良部、与論を含めた総称と認める人と、認めない人がいるからである。後者にいわせれば、亀津は徳之島にあるものであって、大島にはない。
「鹿児島の枕崎」が「鹿児島県の枕崎」の意味なら「鹿児島の亀津」という言い方も成立するはずだが、鹿児島県では誰もそうは言わない。それからすると、鹿児島というのは鹿児島県から奄美群島を除いた地域だということになる。すなわち、奄美群島は鹿児島県であっても鹿児島ではない。
 このように、我々は自己を示すことばも、他を示すことばも実にあいまいである。筆者は、これから奄美群島に関するあれこれを考えてみようとしているのだが、そのまえに、我々及び我々の周辺を指し示す適切なことばを探さなければならない。こんな面倒な地域が他にもあるだろうか。

 「奄美群島は鹿児島県であっても鹿児島ではない」。ぼくも、「こんな面倒な地域が他にもあるだろうか」と思う。でも、それは言い当てられないければならない。その固有性が構造として言えなければならない。そうでなければ、苦労はみな同じである、薩摩も鎌倉武士に抑圧された、AはBに征服されたという無現参照の前に、奄美が無化されてしまうからだ。困難を突出させるためではなく、その固有の輪郭を浮かび上がらせて比較し対話するために。それがぼくにとっての、「二重の疎外」(『奄美自立論』)の意味である。

 すると、ぼくたちは奄美について、「鹿児島でない鹿児島県」であると同時に、「沖縄県ではない沖縄」と添えることができる。 


『わが奄美考―奄美の心・方言・島唄』

Wagaamamikou

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2009/10/07

「奄美人の特徴」

 甲(きのえ)は、去ってしまえばすぐに忘れてしまうような心の動きを捉えて、書いている。

四、「八年の空自」などということばがあった復帰の翌年、奄美から出て本土の某校に勤めた。その時私の胸の中に、まるで風船玉のようにふくれあがったものがあった。即ち本土の人に負けてたまるものかという対抗心である。元来私は負ける負けないとかいうことに対してははなはだ関心が薄く、そういうのに熱狂できる人を不思議に思うくらいの男だった。そういう自分に思いがけなく奄美の代表者にでもなったみたいな対抗心が突如湧いてきたので、自分ながらそれをいかに処理してよいか持て余してしまった。しかも周囲は私などへの対抗心はなく、あくまでも自然で親切だったから、結局一人角力を取っているようなものだった。

 懐かしい感覚が過ぎる。何を言われているわけでも、何を教わっているわけでもないのに、本土空間にいるというだけで緊張するのだが、友人たちの親切で瞬時にほどけていくのだった。

これは私の心中に本土コンプレックスがなかったら生じるはずがない現象である。私は不幸にしてこの対抗心にプラスすべき才能も努力も忍耐力もなかったから、別段どういうことにもなりはしなかった。しかしもし、そのような美徳にじゆうぶん恵まれている人が、コンプレックスを対抗心に転じ、更に奮発心を燃料として突き進んでゆくならどういうことになるだろうか。必ずやそれぞれの分野で頭角を現すはずである。奄美が人材の島といわれる一つの原因はこういうところにあるのではなかろうか。「偉人は貧困な家庭から生まれる」ということばがある。その理由の一つは、貧乏→コンプレックス→奮発→努力奮闘→向上という経路にあると思う。奮発心の素となる本土コンプレックスを持っているという点では、奄美人のすべてが偉人となる一つの要素は備えていると言えよう。

 甲の言わんとするところを踏まえれば、奄美は偉人を出さざるを得なかったのだ。奄美には「貧困」が埋め込まれていたからである。ガルブレイスは、『大衆的貧困の本質』のなかで、貧困からの脱出策は、「教育」と「移住」に行きつくことを実証的に説いていた。奄美・沖縄の「貧困」に向き合うと、結局は個人が頑張るしかないと思い決めてやっている人たちに出会うが、ガルブレイスの「教育」と「移住」を踏まえると、その思い決めにはある必然性があるのがわかる。奄美を「人材の島」というとき、それが「教育」と「移住」による貧困脱出を意味するとしたら、それは個人劇に止まり、奄美自体の貧困からの脱出を意味しない。だから、それ以上を求めるとしたら、個人のがんばりに依るしかなかったわけだ。

 現在、ガルブレイスの「教育」と「移住」に付け加えることがあるとしたら、インターネットにより「情報」の格差が極小化し「情報」の発信地が遍在するようになった。また、「移住」の手前の「移動」が格段に容易になったことだ。そこで、より貧困な地域への「移住」が起きるようになるとともに、より貧困な地域からの「情報」発信が起きるようになった。これらのことは「人材」が止まりあるいは流入する契機をなしていると思える。


『わが奄美考―奄美の心・方言・島唄』

Wagaamamikou

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2009/10/06

廣野さんとの別れ

 廣野さんとのお別れに、藤沢に行ってきた。いまとなっては晩年の、一年余の短いお付き合いだった。冥界に彷徨っているような苦しい時に、知りあう機会があり、誘われるままに、品川駅近くの高層のオフィスにお邪魔した。そのとき、ケータイ・メールで少しも迷う心配のない案内を書いてくださったのを覚えている。オフィスでは、異業界の方たちとのビジネス・ミーティングに参加させてもらった。

 「ぼくは止まり木なんですよ」と廣野さんはおっしゃった。「元気が無くなるとぼくのところへ来て、元気になると飛び立っていくんです」と。まさに、ぼくにとってもそう感じられた場面だった。

 自分の窮状に負けそうになって相談したことがあった。そのとき、オフィスのある高層ビルの谷間の中庭のベンチで話しを聞いてもらった。廣野さんは、経営者は孤独であること、状況と仕事をするのではなく「天と仕事」すべきであることを話してくれた。ぼくの気力は委縮していて、廣野さんのアドバイスのように行動することはできなかったけれど、聞いてもらったことで肩の荷がずいぶん軽くなる気がした。肌寒い夜だったけれど、樹々を照らす街灯のオレンジが温かだった。

 新しいサービスの顧客の紹介をお願いしに伺うと、「俺をそんな安っぽいことに使うな」と叱られたこともある。身体は年輪を刻んでいるが、その眼光はあくまで鋭かった。何回かビジネス・ミーティングに参加させてもらった。SEのメンタル・ヘルスをテーマにしたセミナーに参加したこともあった。けれど、この間に浮上したビジネス構想を、結局どのひとつも実現することはできなかった。急ぐ廣野さんに、ぼくの生命力は追いつかなかったのである。ひょっとしたら、そのとき廣野さんは、自分の残された時間が念頭にあったのかもしれなかった。

 独自の商品開発モデルがあり、多くのヒット商品の実績を持ちながら、それによって報酬を要求したことはないとおっしゃっていた。会社に入ろうと思ったことは一度もない、とも。廣野さんの生き方には、武士道、いや彼の好みにしたがえば、騎士道と呼ぶべきスタイルがあって、それを堅持することは廣野さんの矜持だったと思う。

 ほんとうは、こうして廣野さんのことを書くには、ぼくの交流はあまりに短く、淡い。けれど、そうした者にも、やってくる生き様の強さはあり、それはぼくの中に残る。

 「ばんばん受注している報告を聞かせてくれ」と言われ、それができないまま残りの時間を過ごしてしまった。いまようやく別の形の報告ができることになったとき、突然のように廣野さんは逝ってしまった。ご冥福をお祈りしたい。(通夜の帰り、薫陶を受けた人たちに合流させてもらった。ありがたかった)。



 

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2009/10/05

「奄美 の人々は薩摩の船に乗っていた場合と琉球の船に乗った場合とで服装や風体を変えていた」

 弓削政己の「冊封体制下の島民と交易」と題した講演(「南海日日新聞」2009/09/27)。

 県立奄美図書館生涯学習講座「あまみならでは学舎」は26日、6時間日の授業があり、弓削政己氏(奄美郷土研究会)が「冊封体制下の島民と交易」と題して講演した。弓削氏は漂流、漂着に着目。「奄美の人々は薩摩の船に乗っていた場合と琉球の船に乗った場合とで服装や風体を変えていた」と指摘し、薩摩側だけではない、琉球や中国との関係も視野に入れた近世奄美の歴史観構築を提唱した。

 薩摩直轄支配化において、見えない関係が見える瞬間があった。それが漂着だった。ぼくは、『奄美自立論』で見えない関係を二重の疎外という構造で考えたけれど、その内実がよく分かるのが漂着時なのだ。

 冊封体制とは中国との朝貢関係を指す。薩摩藩(鹿児島藩)は朝貢貿易の利益を確保するため、実際は直轄支配していた奄美の島々を対外的には琉球国とした。服装などを大和的にすることを禁じた。これを「琉球国之内」政策という。
 弓削氏は今回、東京大学本居宣長文庫所蔵の「文化十二年中山国大嶋漂流人一件」を奄美で初めて紹介した。史料は1815年5月、西聞切(瀬戸内町)の住民が三重県に漂着した際の記録。
 住民の呼称に「琉球領分ノ嶋人」「サツマ大嶋」「中山国(琉球)大嶋」との記述があり、当時の奄美島しょが置かれた位置が把握できる。このほか、積荷に材木や芭蕉布、鉄砲があったことが記述されている。
 弓削氏は「船は喜界島との交易の途中、漂流した」と指摘。喜界島へ砂糖樽を作るための材木を運び、農耕のための革界属を購入する。しかも、船は奄美に漂着した船だった。「(奄美側に)漂着した船を買う財力、修理して使う技術力があった」

 「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外は、薩摩の琉球支配を中国に秘匿しただけでなく、薩摩の奄美直接支配を幕府に対しても秘匿したことを発生源にしている。そして漂着が、見えない関係が露呈する瞬間であったとしたら、日本国内において漂着した場合、何が起きたのかという点は非常に気になる。日本内においてこそ直接支配は露呈してはならなかったはずだから、奄美は琉球として振る舞ったはずである。

 そこで、「住民の呼称に「琉球領分ノ嶋人」「サツマ大嶋」「中山国(琉球)大嶋」との記述」のそれぞれの文脈が重要である。「琉球領分ノ嶋人」、「中山国(琉球)大嶋」は分かるが、「サツマ大嶋」はどんな文脈で語られているのか。

 さらに、沖永良部の代官が帰鹿の途中、漂流し、朝鮮に流れ着いた事例も取り上げた。船に乗っていた沖永良部の住民は大和風に名前を変え、髪も大和風にした。琉球の船に乗って漂着した場合は大和の貨幣などは海中に捨て、「琉球の船です。貢ぎ物を持っていく途中」と説明した。
 弓削氏は「冊封体制は薩摩と琉球の利益が合致した。差別と受け取られがちだが、奄美の歴史を総括する上で重要な視点」と問題損起した。

 二重否定されている存在が、その否定を隠ぺいするように強いられた。それが奄美の失語を生んだのだ、とぼくは思う。


 Nankai0927

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2009/10/04

「奄美の歴史振り返る 琉球侵略400年でシンポジウム」

 昨日は鹿児島で「奄美の未来を考える集会」があった日だ。どんな発言があり、どんな議論が交わされただろう。

 奄美の歴史振り返る 琉球侵略400年でシンポジウム/鹿児島市

島津藩による奄美・琉球侵略400年の歴史を振り返り、奄美の未来を考える集会が3日、鹿児島市山下町の県教育会館であった。約200人が参加、真剣な討議を通じて島の苦難の歴史などに対する理解を深めた。

 写真でみると、残念だけど、やはり若い人の姿が見当たらない。

基調報告では歴史作家の桐野作人さんが「戦後、鹿児島では県史がつくられていない。今の歴史観をもとに琉球侵略などをふまえた歴史をまとめることが急務だ」と指摘した。

 きっと良心的な報告だったんだと思う。

 シンポジウムは鹿児島国際大学名誉教授の山下欣一さん、陶芸家の第15代沈壽官さん、龍郷町出身の山田隆文さん、南方新社社長の向原祥隆さんが登壇。日常生活の中にある歴史を考える必要性や奄美が鹿児島県に属することへの疑問、独自の文化の育成などについて議論を繰り広げた。

 この中味をもっと知りたい。このシンポジウムは、「奄美の未来を考える集会」と題されていて、今までの歴史観の更新を旨としたものとは違い、未来を見据えている。そういう意味でも大切なイベントだったと思う。詳細の報告を期待したい。


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世間は狭く、深い

 四家さんのお誘いで、media exprimo のシンポジウムに出かけた。会場で水島さんを紹介してもらう。水島さんは、インターネットの初期の時代から、活躍を耳にしていたのでお名前は存じ上げていたが、話し始めてみると、水島さんのお父上が徳之島出身だと分かって、一気に身近な人に(笑)。その場で、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントのチラシをお渡しした。水島さんは、カルチュラル・タイフーンでご一緒した『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』の酒井さんとも交流があると知り、ますますびっくり。世間は狭く、深い。

 後半参加のため、前半は聞けていないのだが、シンポジウムは小川さんの話が興味深かった。小さな齟齬の芽を持っている人、あるいはそれに気づいていない人がそれをどう表現していくかという課題に、物語をつくるという方法で応えていた。齟齬を自覚して主張しても相手に伝わるとは限らない。でも物語だったら、共感し共有できるということだ。ぼくは奄美には、奄美のための物語が必要だと感じているから、その方法化という問題意識に惹き込まれた。研究成果を詳しく知りたいと思う。

 ハートランドビールを味わった懇親会では、沖縄出身の編集者、仲里さんを紹介される。「『情報があふれかえる社会』から『表現が編みあがる社会』へ」というフレーズの中身が気になって参加したつもりだが、琉球縁が広がるという不思議な展開で、愉しいひと時だった

 ExprimoKeitaitrail

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2009/10/03

「奄美人の本土観」

 甲(きのえ)は、奄美人に共通するものとしてコンプレックスについて書いている。

 それでは何故このようなコンプレックスが生じるのだろうか。もちろんそのひとつは現実の経済的、文化的劣位や地理上の僻地性である。第二には歴史的な条件である。奄美は長い間薩摩藩を支配者として仰いでこなければならなかった。薩藩人は、薩藩人であるというだけで奄美人に畏怖畏敬された。また琉球との交流を制限されたから、学問の大部分は藩からの流人(例えば西郷隆盛)によって啓発された。島の有力者は彼らから手習いを受け、そのことによって更に島民からの尊敬を増すことが出来た。薩藩人が島の女との間に残した子は、父が去っても、島の上層階級として与人等の職につき、それを代々の子孫に伝えた。今でも奄美の有力者の中には、その祖先に薩藩人を持つ場合が多い。

七、八年前「同じ復帰するなら鹿児島でなく、東京都の一郡にでもなったらどうだろう」という声が、軽い茶飲み話としては出たことがあった。鹿児島人に対する反感が今はもう奄美人の胸の中にくすぶっていないとは言えない。しかし「薩藩の圧制の下に我が奄美は云々」と一方では考えながらも、一方では祖先が薩落人であることを我が家の誇りとする場合は多い。明治が始まると薩藩に代わって、(しかし薩藩流の圧制者としてではなく)より高度の富と文化の具現者として輝かしい姿で出現したのがいわゆる「内地」であった。薩藩によって強いられた卑屈な精神は、内地の出現によって幾分解放されたが、なお内地人対大島人という劣等感として残らざるを得なかった。

 「鹿児島人に対する反感が今はもう奄美人の胸の中にくすぶっていないとは言えない」ということは、今も同じだ。このエッセイが書かれたのは1960年だから、半世紀近く前と何も変わっていない。そういうことに、思いたらざるをえない。

 けれど甲のいう「内地の出現」に背中を押されるように考えると、それに相当することは格段に拡がり、現在では違う様相をぼくたちは持っていると思えてくる。ひとつには鹿児島を経由せずに内地へ行く方法が広がり、そうした人も増えていること。また大阪や神奈川に移り住んだ奄美の人の子どもたちの生も一定の歴史を持っていること。そして鹿児島での生も抑圧の度合いを減らしていること。などだ。

 ぼくたちは、そんな小さな脱出劇も見逃さないで視野に入れていきたいと思う。それはどこかで大きな転換を迎えるかもしれない。


『わが奄美考―奄美の心・方言・島唄』

Wagaamamikou

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打ち上げ場所、決まる

 持田さん、syomuさん、照明、音響、進行を担当してくる面々と、「奄美と沖縄をつなぐ」イベント会場の牛込箪笥区民ホールで当日の打ち合わせ。と、書いても、ぼくだけ全てが終わった夜から参加。申し訳ない。

 持田さんのおかげでその道のプロの方たちの力を借りることのができる。とてもありがたいこと。当日進行の話を伺ないながら、何も知らずにやろうとしていたことに、ぞっとした。協力してくれる方々がいなかったら、一体ぼくはどうするつもりだったんだろう。無知は恐ろしい。

 せっかく会場に来たのだからと打ち上げの場所を探しに。何か、とても安い店があるらしいと、飯田橋の竹子に。たけこ、である。一見さんお断りのような門構えをくぐると、入口とはまったく違う庶民空間が広がっていた。見通しのいい空間に大勢のにぎわいがあって、いわば、銭湯居酒屋だ。生ビール一杯がなんと180円である。信じられない。お猪口で出てくるのかと思ったが、ふつうにジョッキだった。レバ刺し、煮込みもおいしく、躊躇なく打ち上げはココと決定。

 色んなことが着々と決まっていく。わくわくするが、正直に言うと、とても怖いという気持ちもやってくる。がんばらなきゃ、です。2000枚刷ったチラシはもう残り少ないので、増刷することに。まだまだ色んなところに足を運んで知ってもらわなきゃと思ってます。これからもよろしくお願いします、とみなさんに向かって申し上げたい気分です。


RebasashiTakeco

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2009/10/02

チケット、できました!

 チラシ、ポスターに続いて、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントのチケットが出来上がりました。既に予約してくださっている方には順次、お送りします。もう少し、お待ちください。これからの方も、お申し込みいただいたら、このチケットをお送りします。お申し込み、お待ちしています!

 お店では、よろんの里に置いています。じきに、「奄美の家」でも購入可能になることでしょう。(^^)


 「11月14日は「奄美と沖縄をつなぐ」イベント」

Ticket_2


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2009/10/01

「奄美の未来を考える集会」、更新プログラム

 仙田さんから、10月3日の「奄美の未来を考える集会」の更新プログラムをいただいた。
 奄美の方がもう一人、パネルディスカッションに加わっている。ぼくは、先月、

 ぼくの考えでは、在鹿児島奄美人こそ、奄美の困難を最大限に引き受けてきた人たちだ。その人たちの想いが、こだましなかったら、未来へは行けない。400年イベントは、鹿児島で開かれることがある意味では最も意味がある。その意味を担うイベントだ。在鹿児島奄美人の切実な声を聞きたいと思う。シマウタと踊りだけではなく、言葉として受け取りたいと思う。「奄美の未来を考え、行動する決議案(仮称)採択」が、それなのかもしれないが。(「奄美の未来を考える集会」

 と、書いた。いまもそう思っているし、ますますそう思っているので、この更新はとても嬉しい。山田さんには、ぜひ、奄美の切実な声を響かせてほしい。

 それがなければ、最大の苦労が鹿児島に伝わらないばかりか、いまや奄美自体にも本土の奄美縁の人にも伝わりにくくなっている面もあると思う。たとえばたどたどしいとか、弱々しいとか、仮にそんなことがあったとしても、そんなことは関係ない。切なる声を聞きたい。

 土曜日だ。ぼくは行けないのだけれど、胸が高鳴ってくる。


Amamimirai1003

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