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2009/10/21

「琉球・山川港交流400周年事業の趣旨」とは何か

 11月の28日、29日に、鹿児島の山川で、薩摩の琉球侵攻400年にちなんだイベントが計画されている。

 「琉球・山川港交流400周年事業」と題されたものだ。

 琉球・山川港交流400周年事業公式ホームページ

 ぼくは、「五人番のアコウ」の由来である琉球へ里帰りさせ、交流を深めようとする鹿児島の市民の善意を疑う者ではないし、それ自体に水を指そうとは思わない。

 しかし、このイベントが行われる文脈については黙しているわけにいかない。ぼくたちはまたぞろ「奄美谷間論」におびえてしまう構図のなかに置かれている。しかし、それは黙する奄美にあてこんでなされるものだ。 ぼくたちは何が行われ、何が語られるか、注視しなければならないと思う。

 山川大渡海岸の五人番と名づけられた波打ち掛こ、樹齢300年といわれるアコウが風雪に耐え生きていました。そのアコウが2004年8月の台風で完全に倒れてしまいますした。しかし幸いなことに、多くの方々の協力を得て、アコウは指宿港に移植されました。波打ち際にこのように長く生きながらえていたアコウは世界でも例がないそうです。アコウは琉球の首里城から運ばれてきたものらしいとわかったのは、アコウが倒れてから1年目めことでした。調べてみると、山川港には1613年以降1879年まで、薩摩への年頭挨拶などのために、琉球王国の使節船が毎年危険を冒し来航していました。来航船はこのアコウにもとも綱を巻いたと伝えられています。琉球が沖縄県となった1879年以降、琉球からの船も来なくなり、五人番で繰り広げられた歴史もアコウの来歴も、人々の記憶から消え去っていました。

 薩摩が琉球統治から得た莫大な資力は、明治維新を経て日本が近代化していく上で大きな力となりました。一方、鹿児島の神社拝殿には琉球様式と呼ばれるものが多く残っていたり、錦江湾に面した街々には、様々な琉球舞踊が今日まで伝承されています。このように約270年に亘り続いた琉球・山川港の交流は、日本の歴史を変える大きな原動力となりました。

 今年は薩摩の琉球出兵400年にあたります。この機会に、昔の人々の苦労を思い、新い未来に向かってさらなる交流を深めることができればと願っています。

 ぼくたちは、薩摩と琉球との間に、一方通行ではない相互浸透の交流があったことにほっとする。しかし、それならそれは、具体的な個々の文化交流に留めるべきものだと思える。「薩摩の琉球出兵400年」の名の元に行えば、大きく文脈を変えてしまうだろう。そこには大きな捨象が伴う。

 まず、「薩摩が琉球統治から得た莫大な資力」という史実のマクロ化で、「奄美」が捨象される。そして、「昔の人々の苦労を思い」という情への訴えかけのなかで、「加害と被害の構図」が捨象されるのである。

 kayanoさんはじめ、何人かの人がぼくにそう伝えてくれたが、その通り、「侵略」を「交流」に置換したすり替えである。またしても、ことの本質を隠蔽することで、薩摩は自己直視の機会を消そうとしている。「歴史の波濤を乗り越えて新しい未来へ舵をきろう!」などと言う前に、すべきことがあるのは言うまでもない。



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コメント

はじめまして。

>「加害と被害の構図」・・
>「侵略」を「交流」に置換したすり替え・・

今も昔も変わらぬ薩摩の体質なのか・・・
会津人にとって「薩摩」という存在は決して忘れることのできないものなのです。二百数十年の暗黒に突き落とされた奄美ンチュと同じく・・・・

投稿: 会津人 | 2010/01/04 22:29

会津人さん

コメントありがとうございます。
ふつうの人はもうそんなことありませんが、行政体の思考法はそんなに変わってないのではないでしょうか。維新の絶対化が他者の存在を見えなくさせているように感じます。

投稿: 喜山 | 2010/01/05 21:57

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