「直接支配下の奄美 統治の仕組み」
選挙戦報道がかまびすしい中、また弓削政己が重要な史実を報告している(「南海日日新聞」2009年8月28日)。薩摩支配下における「行政機構・役人体制」についてである。
まず、琉球王国の行政区分である「間切」は、「方・噯」に再編される。
喜界島(1692年)
5間切 → 3噯(あつかい)
大島、徳之島
1間切 → 2方(ほう)
沖永良部島(1857年)
3間切 → 3方(ほう)
この変更は段階的なものだ。
薩摩藩統治初期は、琉球球統治時代の役職を前提としたが、次第に直接支配を強めていく。近年の研究では与人職は「薩摩藩からの導入」と指摘されている(石上英一氏・伊地知裕仁氏)。1623(元和9)年、「大島置目之条々」で琉球統治時代の最高責任者の大親役を廃止。さらに、1728(享保13)年の「大島規模帳」は、島民身分を「平百姓」と明確にし、旧来の門閥に限定せず役人を任ずるようになった。
ぼくは、1623年の「大島置目之条々」と1728年の「大島規模帳」から、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外が構造化される様を『奄美自立論』では抽出したが、その内実である薩摩の直接支配という側面からはその強化の過程であることが分かる。
この支配構造は下記のようになる。
勝手方掛(主に財政管轄)
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三島方(天保改革以降、奄美の黒糖を管轄)
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各島代官(藩詰役人)
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島役人の与人(間切・方の長)
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功才(こうせ)(諸事を扱う)
黍横目・竹木横目(砂糖樽や竹を管理する役職)
ここで、重要なのは、
間切役人の与人・与人格、横目・横目格の任命は、与人・代官・三島方等の上進を経て、藩家老が「申付」ている。さらに、代官は島役人にその事を知らせている。
と、島役人の任命を家老が行っていたことである。
※(例.1808(文化5)年。徳之島の奥盛に対し、家老の喜入多門が与人の「申出」を受けて横目格を「申し付け」ている。)
「代官所書役」も同様。
ほかに島役人の代官所書役も藩家老からその職を申し付けられているという(「沖永良部史稿本)。ただし、大島の代官所書役制度は、1825(文政8)年より始まった。
大島の代官所書役制度が1825年以降のものだとしたら、「大島代官記」の「序」は、やはり、島役人が書いたものではないのだ。(「大島代官記」の「序」を受け取り直す 2」)
郷士格(士身分)取り立ても代官(三島方)を経て同様の手法で行われている。
一定の村方役人は代官の任命権である。
「郷士格」は家老、一定の「村方役人」は代官。
島役人に対して、間切役人と村役人の辞令を家老と代官権限に分け、郷士格は鹿児島の城で申し付ける制度をとり、郷士格跡目相続も鹿児島の武士規定に沿っていた。薩摩藩直轄支配を、島役人編成の面から確認させるものともなった。
郷士格は家老任命であるだけでなく、鹿児島の城で任命を行い、相続も武士規定に則った。
藩からの詰役人は、基本的に満2年詰め。
一方、
琉球との関係をみると、個別の結びつきはありながらも、
奄美側からは行政伝達は、
代官-琉球在番奉行-琉球王府、
琉球からは
琉球王府-琉球館-藩-代官等
奄美島嶼の代官・与人、島民と直接交渉はできない仕組みがあった。
つまり、琉球と奄美の島人との接点はなく、「奄美は琉球ではない」規定は制度上も貫徹されていた。
◇◆◇
ぼくたちがこの報告から受け取ることができるのはどういうことだろうか。
「大島代官記」の「序」は、奄美の島役人が書いたものではない。それは大島の代官所書役制度が1825年であることにも確認することができる。あの、薩摩史観を移植されたような「序」は、奄美発のものではない。しかしにもかかわらず、時代がくだるにつれ、島役人は、奄美内薩摩として、奄美からの収奪に大きく与ることになったのはなぜなのか。
それは、島役人でさえ、推薦を受け家老から任命されるというように、薩摩の体制そのものに組み込まれていったからだと考えることができる。ここに直接支配ということの内実を、ぼくたちは見るのである。
同時に、奄美の島人は政治的に琉球とつながることはできなかった。「奄美は琉球ではない」という規定は貫徹されていたのだ。
(参照できるように、図表を引用しておきたい。「南海日日新聞」2009年8月28日)
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