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2009/09/02

『島を見直す』は、大島を見直す

 基俊太郎の『島を見直す』は、奄美大島を見直す、に重点がある。そのモチーフは「はじめに」から明確だ。それも、「はじめに」の冒頭に、もう核心が現われる。

 喜界島より大島本島を遠望する時、延々とその島影は北は笠利崎より南は加計呂麻とおぼしきあたり迄、それは島と呼ぶにはあまりにも大きな内陸的全容を横たえております。落日を逆光にして浮き出したその島影を眺め、私は「これは違う」と、ある発見にも似た感情におそわれました。それはこういう事です。
 私は大島の一端として、徳之島や喜界を見て廻りながら、それぞれの相違を観光的バラエティーとしてつかんで来たのですが、実はそうではなく、大島本島は徳之島や喜界とはまるきり違うのではないかという事です。喜界の人は決して「大島本島」とは呼びません。「大島」です。徳之島がそうだし、沖永良部、与論でも同じでしょう。そう言えば、私の幼少の頃はやはり大島、徳之島、喜界等々でありました。それが、大島を中心にして離島が散在するといった行政概念が、知らず知らずに大島自身に本島意識を与える事になったのでしょうか。大島郡に於ける大島本島になってしまったのです。従って大島を中心にして、喜界、徳之島、沖永良部、与論と自らの外延を拡げてしまい、同時に自らの姿を見失ってしまったのです。

 併し、喜界では自らを他と区別して来た生活感情が未だ衰えておらず、大島は依然として大島であって、決して「大島本島」ではありません。大島から来る人は「大島ちゅ」であり、従って他者であって身内の老ではないのです。まして離島意識など全然持っておりません。喜界のこのような文化背景の前で、私はタ私自身の内部にいつしか失われていた大島に気づき、はっとしたのです。
 私は大島を見直そうと思いました。徳之島でもなく、喜界でもなく大島だけのものに魅かれました。

 奄美大島人による大島発見である。「大島本島」という呼称が、自らを中心に位置づけ、そしてそれだけでなく、「喜界、徳之島、沖永良部、与論」までを知らず知らずのうちに内に含んでしまうように自己拡大してしまっていたのではないか。

 これは本島、本土という言葉に付きまとう陥穽だが、奄美の場合、それは「本島」という言葉のみならず、「大島」という言葉にもその陥穽は潜んでいた。島津の大島侵攻計画に見られるように、「大島」を俯瞰する視線からは、「大島」という一島名を指す名称が、その周辺までを含むことを意味していた。

 基のモチーフには共感する。「私は大島を見直そうと思いました。徳之島でもなく、喜界でもなく大島だけのものに魅かれ」るのは、ぼくで言えば、そのまま与論島クオリアのモチーフだ。

 私は、大島は島嶼ではないのではないかと思います。いや、島峡ではないという前提で大島を見直した方がよいのではないかと思うのです。変な言いかたですが、それは山の島です。しかも屋久島のような単一の形態ではなく、複雑な海岸線と山ひだを持った深い深い山の島です。私達は今日までこの深い山を背景にして生きて来た事をあらためて認識しておく必要があります。永久に水平線を見つめる生活の背後にいつも山を背負っているのです。地図を開くと不思議なくらい大島の村落は山を背にして海へ向かっております。崎原の山村や笠利の二、三の丘陵村落を例外にすれば、あとは殆どがそうです。喜界や徳之島はよく内陸の丘陵地帯に山村的集落を作りますが、このような事が此処ではまずあり得ないのです。これは山がけわしいからそうなので、地理的には簡単な事情にすぎないのですが、文化的には重要な特性として考えられるのです。

 「喜界、徳之島、沖永良部、与論」まで外延を広げた「大島本島」から、大島を再発見したとき、基の目に大島は、「山の島」と映った。 それは、与論からみても、そう見える。

 そして、「複雑な海岸線と山ひだを持った深い深い山の島」ということは、「大島」というひとくくりの地名を育てる必要がないことにつながった。龍郷の戸口と宇検の安室が、同じ島にあるという認識を生む必要がなかった。そのことは、「大島」という呼称が外的なものであると同時に、 「喜界、徳之島、沖永良部、与論」を含めて「大島」と呼ぶ根拠になったという推測を呼ぶ。


『島を見直す』

Shimawominaosu1

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