« 「生活体系の確立」 | トップページ | 九州を北上して弟と呑む »

2009/09/12

「島嶼とは」

 基俊太郎は、「島嶼」、島々という言葉にこだわる。

 島嶼は当用漢字から外され、当然その概念を私たちから奪った。かわりに離島で間に合わせようというのだろうが、島嶼、つまり大小さまざまの島々という複数概念を、「離島」ではイメージされない。離島とは、こっちの丘から眺めての離島であり、自らを離島と呼ぶべきものではない。中央に対して予算獲得のためには、離島ははなはだ有効な言葉であるが、自らを離島と呼ぶのは、それは流人の裏だろう。私はこれまで、島の生活体系の確立を誓してきたが、いまひとつグローバルな視野から島嶼社会とは何かと問いかけたい。

 「島嶼」ではなく、「離島」という言葉を使うのは、「離島」と「本土」を対にし、自らを「本土」化することを目的にしてしまった。しかし本来、「離島」ではなく、「島嶼」、つまり島々それ自体を捉えていくべきではないだろうかということだと思う。

 全国、人の住みつく島々は幾つあるか知らないが、全国島嶼を対象にした行政上の別項があってよいのではないかと思う。市町村という地方行政区分けは、内地も島峡も何の区別もない。島嶼社会に対して、たとえば離島振興法という一般法があって、特殊な地域社会への配慮があるが、その以前に地続き社会とは違う行政上の区別があってよいはずである。たとえば、減反政策は島峡をその対象から外し、逆に増反政策の指定区域としてとらえる島嶼行政なるものを考えたらどうかということだ。

 「離島」は、「地続き社会」という目標を生んでしまったが、それは当を得ない。

 奄美のスローガン「本土並み」は本土の場末になることで、事実そうなってきた。地続きでもない島峡社会が、どうして本土並みになれるのだろう。それよりも、島唄の条件、負の価値、マイナスかけるマイナスがプラスになる論理がなければならない。
 自給できないけれど自給せざるを得ない、この矛盾は島の活力の源である。これまで島民はそうして生きてきた。島が自給しなくてもよい社会を日ざすならその分だけ文化度は低下する。アマシソはわかっているのだろうか。

 「「本土並み」は本土の場末になること」とは痛烈だが、正鵠を射ていると思える。「自給できないけれど自給せざるを得ない」。この矛盾を、基はそれこそが「島の活力の源」と捉えている。

 基はぼくたちに、島に対する視線の変更を求めているのだ。


『島を見直す』

Shimawominaosu1

|

« 「生活体系の確立」 | トップページ | 九州を北上して弟と呑む »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「島嶼とは」:

« 「生活体系の確立」 | トップページ | 九州を北上して弟と呑む »