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2009/09/22

島を愛した男・海のモーレ・少年奴隷

 『憎しみの海・怨の儀式』の第二部を読むと、「島を愛した男」、「海のモーレ」、「少年奴隷」は、憎しみの坩堝から抜けだすことをモチーフにしているように思えた。それは構成の妙のなせる技かもしれない。ただ、「島の愛した男」の発表が1958年、「海のモーレ」の脱稿が1970年、「少年奴隷」の発表が1977年という時系列は、この仮説を支持してくれるように見える。

 「島を愛する男」では、旱魃で島を捨てて本土へ向かう島人も出てくるなか、島への想いの強さゆえ、宮造は立ち去れない。

 うむ、出て行きたいもんは、とっとと出ていくがよか。が、おいは一人になろうが飢え死のうが、ここにとどまるよ。おいはこの土地をはなれては、生きていけん男だ。おいの生甲斐はみんなこの土地の中にある。おいとこの土地は一つのものなんだ。ここはおいの命とおなじようなものなんだ。(「島を愛した男」)

 ここで島への愛着は、土への愛着として描かれる。それは、皆が出て行ったあとに雨を迎え、報われるように見えるも、長い間、宮造が土地を広げるために退けようとしてきた大きな岩の下敷きに、自分がなってしまうところで終わる。それは悲劇には違いないが、「おいとこの土地は一つのもの」を実現してしまったという意味では宿命的にも見えるところだ。

 付け加えれば、男は農耕者として土に帰ったようにみえるが、ひょっとしたら南島の神話にいう、人間が誕生してきた場所である土に回帰したようにも思える。それがこの作品をただの残酷な物語にしていない理由だ。

 「海のモーレ」では、貴種のように船に豊穣を積んで島へやってきた玉木船長なのに、島は飢餓が進んだあまり、島人は船に積まれた食糧や酒を収奪してしまう。ところが、玉木船長はそれを責めない。

 「いいや、わしの負けだ」と、彼はあっさりいった。「人間は飢えから生きのびるためにはなにをしても赦される。盗みも、殺しも、場合によっては、共喰いさえも--というのが、わしの主義じゃよ。わしもそうやって生きのびてきた。飢えた者に道理はいらん。おぬしたちは、いまは、鮫じゃよ、鷹じゃよ、虎じゃよ、大蛇じゃよ--餌を見たら体がひとりでに前へうごき出す。--食い気はすべてに優先する、じゃよ」
 彼は諦めきった顔つきでそういい、キセル煙草に火をつけて深々と吸いこんだ。

 ここは玉木船長の哲学が語られるところだが、安達の理念であるかもしれない。共感するところだ。

 玉木船長はここで一計を案じる。それは、安達の小説を本の並びに従って読み進めていくなかで、初めてと言っていいほど、爽快な場面でもある。

 「いける」だれも彼もが一瞬そう思ったらしかった。--岸からタコを沖に揚げる。タコには道糸がとりつけである。
道糸は海面までとどいている。タコが風に舞うと、その跳梁する浮力がトローリングの役目を果たして道糸を引っ張り、海面下の擬餌を鰹の好物の片口鰯さながらにスイスイと泳がす。それに燈がぱくりと食いつく---ぼくらは瞬時にしてその光景を幻視のうちにかいま見た。

 この、空と珊瑚の海と空を結ぶ三角形が、作品の舞台空間を一気に広げて開放感をもたらす。それと一緒に、この爽快な漁法は功を奏し、島人は自分たちで舟なしでも魚を釣れることを覚え、自信を取り戻していく。そして玉木船長は、貴種流離譚の流儀にしたがって、島を離れる。

 三つ目の「少年奴隷」でも、はじめに困難ありきという構図は変わらない。ここでのそれは、南島ではよく知られた糸満に売られることから始まる。

 主人公の少年奴隷によって語られる同じ境遇の鉄也は、どんないじめにも堪えて、身体を強くし、漁法も星座を見る目も鍛えてゆくのだが、それは糸満の年季が明けるのを待つだけでなく、その後待っているのが徴兵であるとしたら、それを逃れるためでもあった。それは、オーストラリア付近の南の島へ行くことだった。

 「わんは糸満の到舟で行くつもりだ。命がけの冒険かも知れないが、そのためにわんはこの三年、糸満で航海術をおぼえた。フイリッピンからインドネシア経由で行くつもりだが、途中の島々で食糧を調達しながら、何箇月、何年かかってもいいから、ゆっくり行くつもりだ」

 鉄也はこの目的があればこそ、糸満のきつい日常を乗り越えることができた。その強い意志がやはり爽快なのは、作品の舞台空間が、糸満から一気に南へ流線を引き、ポリネシアのどこかへ弧を描いてゆくからだ。南への越境である。しかしこの越境は当てのない離散のように感じられない。それは、「島を愛した男」の宮造の死が神話にいう人間の母胎への帰還を思わせるように、鉄也の越境も、南島の故郷のひとつであるポリネシアへの帰省を思わせるからだ。

 阿達は、憎しみの坩堝からの脱出口を、越境する精神に見出したのだろうか。そして越境する舞台は、もちろん、海、である。安達はそれを三部作のように、「島を愛した男」の陸地、「海のモーレ」の珊瑚礁、「少年奴隷」の海というように舞台を移しながら、表現していった。


   『憎しみの海・怨の儀式―安達征一郎南島小説集』

Nikusiminoumi

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