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2009/09/26

「航跡は描かれた」(「唐獅子」7)

 今年の四月、冒険家の中里尚雄さんがウィンドサーフィンで、桜島から沖縄島の辺戸岬までを縦断した。
このニュースは否応なしに、ぼくをある連想へと誘った。

 四世紀前、薩摩は奄美の島々に沿って軍船を走らせ、征服していった。そして征服者は、琉球の最大拠点である沖縄島に行くまでの道すがらであると言うかのように、奄美を「道之島」と呼び始める。そこで、「道之島」という呼称には征服者による軽んじられたニュアンスがつきまとってきた。それと同時に、与論島と沖縄島の間は、つながりの海から隔ての海へと変わってしまった。

 「道之島」のそんなニュアンスが解消されるにはどうしたらいいのだろうか。

 思い浮かぶことは、大和から沖縄島に行くまでの道のりが辿り直されなければならない。軍船とは異なるものによって、しかも軍船より遅く。軍船による征服よりも深く、道のりが辿られなければならない。そうすることによって、珊瑚礁に座礁した船が大波によって再び、外洋に戻るように、 「道之島」の含意が自由になる。そんなプランだ。

 こんな想念を持つと、四世紀後の同じ時にウインドサーフィンで奄美を辿るという試みは、そのうってつけの行為に見えてくる。そう見えてしまうのをどうしようもない。

 中里さんは、トカラの島々や、奄美大島、徳之島、与論島などを辿って辺戸岬に到着した。実際には、薩摩の軍船より遅かったわけではなく、四世紀前と同じようにほぼひと月で辿ったのだが、中里さんは途中、戦闘をしたのではなく島の子どもたちと交流したのであり、それを軍船よりはるかに軽いセールボードでなしたのだ。

 戦闘ではなく交流で、軍船ではなくボードによって辿り直されるということは、「道之島」の宿命的な意味がウインドサーフィンの道の島として塗り替えられるということだ。少なくとも、そうイメージする自由が、ぼくたちにはある。

 このニュース以上にぼくは中里さんを知らない。そしてこんな意味づけは冒険家の預かり知らないことだろう。しかし、この春に描かれた航跡は、隔ての海をつながりの海に変える試みとして、ぼくたちの胸に刻まれるのだ。


 

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