« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »

2009/09/30

『わが奄美考』

 甲東哲。きのえとうてつ、と呼ぶ。沖永良部島出身の教職者。87年に生涯を終えている。その甲さんが残した文章をまとめたのが、『わが奄美考』。この6月末に上梓された。

 ぼくの見誤りがなければ、ここには1960年から1987年までに発表されたエッセイが収められている。『わが奄美考』の特徴は、奄美大島や北部に考察の対象が限られることなく、南部にも及んでいることだ。言葉にしても島唄にしても、北を考察するときは、必ず南も視野に入れる。これは、甲が沖永良部島の出身であることが大きく寄与しているだろう。でも、視点が複眼的なのは、奄美について複眼的になっているだけではなく、奄美自体を考察するときも、本土と比較することにも現われている。複眼的であるということを、甲は自分の方法にまで高めているのだと思う。

 それとつながると思うのだが、もうひとつの特徴は、奄美の島人としての自分も、確かにそういうところがあると思える小さな気づきを通り過ぎることなく書きとめていることだ。だから、ぼくたちはひょっとしたらこれは奄美の特徴かもしれないと一瞬思って忘れてきたことに思い至ることができる。

 『わが奄美考』は、「心・方言・島唄」と考察の対象が広いというだけではない。視点が複眼的で肌理細かいのだ。

『わが奄美考―奄美の心・方言・島唄』

Wagaamamikou

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009/09/29

「19の春」は映画化を目指して

 「19の春・世界大会」のチラシには裏面があった。この大会の趣旨説明。

 なぜ、いま「19の春」なのか。チラシには、「薩摩が琉球を併合してから400年を数えます」というフレーズが強調されている。「『ラッパ節』が誕生してから100余年」ということも添えられていて、こちらのほうが契機になりそうなものだが、強調されているのは400年のほうだ。なぜ、400年が「19の春」と結び付けられるのだろう。

 ぼくは同様の自問をして、「奄美と沖縄をつなぐ」をコンセプトに考えたけれど、「19の春」は想像の圏外だった。でもまあそんなことは主催者にしてみたら、こだわるべきことではないだろう。別にいいじゃない、と与論人(ゆんぬんちゅ)の声が聞こえてきそうだ。

 でも、それだったらわかるなあと思うのは、「19の春」のストーリーを誕生させて映画化したいと言っているところ。勝手にぼくの関心に引き寄せれば、これは、自分たちの物語を切望しているのだ。ぼくは、それなら、me,tooと思う。奄美の物語。与論の物語。生きていく糧になるぼくたちの物語。むぬがったい。

1919

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/28

「十九の春・世界大会」

 あれ、どうなっているのかな、そろそろのはずだけど、と思っていたけれど、準備万端のようですね。「十九の春・世界大会」。(「19の春」世界大会 in 与論島

 10月18日から19日まで。19日は月曜。月曜に与論でやるなんて太っ腹?である。参加者も相当な意気込みで来る、ということですね。イメージガールも選べば、シンポジウムもある。もっと詳細、知りたくなりますね。


19

| | コメント (2) | トラックバック (0)

『昇曙夢とその時代』

 これは読まねば。早速、予約。

近代日本の文学者の多くが時代の流れに翻弄されるなか、微動だにしない昇の独自の世界観とその生涯を奄美に追う意欲作。

  『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Genkyou

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/27

「小さな島の小さな物語」

 安達征一郎の『憎しみの海』、第三部、「小さな島の小さな物語」はとてもよかった。心を動かされた。

 この作品は、戦争の槌音が大きさを増し始めるころ、安達が六歳から十五歳までを過ごした喜界島の赤連海岸通りでの出来事を記したエッセイだ。そして、彼自身が、

少なくとも、僕がこれまで書いてきた小説の“核”を作っているのが、「赤連海岸通り」での生活で得たものであることだけは間違いない。

 と書くように、安達を作家たらしめたものが何であるかがここには凝縮されている。ぼくは実は、第二部まで読んできた彼の小説以上に感銘を受けた。この、大事にしまっておきたくなるエッセイたちのほうが小説より優れているのではないだろうか。そんなことをふと思う。しかしそれは安達に対して礼を失した言い方になるだろう。ぼくは、「小さな島の小さな物語」を上回る安達征一郎の小説を読みたくなった。

 「小さな島の小さな物語」は言ってみれば、喜界島にやってきた旅人や滞在者、移住者としての貴種たちとの交流史だ。貴種がやってくるのは、大和、沖縄、奄美大島、朝鮮と、北と南の振幅は大きい。それぞれの物語を背負った貴種たちは、安達のまわりで痛切な出来事を生み、少年の心に強い印象を残す。そのときの心の震えや憎悪の高ぶりや胸の高鳴りは何だったのか、それを知りたくてそれを再現したくて安達は小説を書くようになった。そう解したくなるのがこのエッセイだ。

 「アメリカは個人でも自動車の持てるような工業の発達した国だし、国土の広さも日本の何十倍もある大国だから、日本はアメリカと戦争してはいけないと思うよ」という卓抜な認識を持った磯さんは、東京の「非常時風をやりすごす」ために喜界島に住んでいるのだが、船乗りだった彼が「心が安らぐ」からと双眼鏡で海を眺めていたのを、警察が見咎めスパイではないかと拷問すらするようになり、つまり、喜界島にも非常時風が吹いてしまい、磯さんはいられなくなって去ってしまう。

 これはもの静かなたたずまいながら、当時としては卓抜な認識を持っていた貴種が、南島にも及んだ戦争体制によって去らざるをえなくなった貴種流離譚である。

 次の「ミツコの真珠」も、貴種流離譚であることに変わりはない。ミツコは大島からきたらしいと言われている。「頭をおかしくして」いて、旅館の「洗濯、掃除、使い走り」などをしながら生活しているが、家々を徘徊したり悪口を言ったりするので、子どもたちにからかわれたりすることもある。

 あるとき、ミツコは桟橋で釣りをしている安達を「こっちへおいで」と呼ぶ。

 「一つ…… 二つ……」
 ミツコは、空を見あげて、なにかを数えているらしいのだが、説明してくれない。
 「なに数えてるんだい?」
 「流れ星だよ。ほら、また一つ落ちなすった……トウトガナシ、トウトガナシ (おう、おそれ多い神さまよ)」
 彼女は奄美の島言葉で神さまに祈りをささげてから、「カツミ、ほら、あそこだよ」といって、北の海の方角を指さした。
 目をこらすまでもなく、北の方角、十キロぐらい沖合に、海面がふしぎなくらいかきみだされて金波銀波の光の矢をわきたたせている場所がある。満月の夜なので眼路のかぎり東シナ海は、黄金ののべ板をしきつめたように輝いてはいたが、その一か所だけは特別で、黄金の湯がわきたっているように見えた。

 ミツコはその「黄金の湯」のような眺めを、大きな真珠貝が口をあけているのだ、と説明する。

 「マブリ(魂)が一つ……」
 ミツコは、あいかわらず流れる星を日で追いながら、 「あの流れ星は、死んだ人からぬけだしたマブリだよ……人は死ぬと、マブリが真珠貝へ飛んでいくんだよ。真珠貝は、マブリが飛んでくると、真珠に吸いとってマブリの膜にするんだよ。それが何百年、何千年、何万年もかかって、あんな大きな真珠をそだてたんだよ」
 僕はショックをうけて、しばらく、ミツコの言葉の魔法のとりこになっていた。

 ミツコの幻想にカツミ(安達)は強い衝撃を受けるが同時に説得力を感じる。そしてそんなミツコが重い病に倒れる。島の人たちは、島の人らしい大きな善意でミツコに真珠の海をみせてやりたいと思い、舟を繰り出す。すると、二時間二十分くらい経った頃、「海面が割れて、黒い大きな物体が海中からせりあがってきて月光のなかに立ちあがった」。巨大な真珠貝か、と思う。

 「あれはクジラだよ」
 そういったのは磯さんだった。
 船はエンジンの音を落として、ゆっくり近づいていった。
 よく見ると、月渡のきらめく海上に、しずかに泳いでいるクジラの黒い背中が、ほかにも七、八頭見てとれた。
 交尾のために集まった群れだろうか。
 ときおり、巨体をおどらせて、尻尾で海面をうちたたいている。
 海面にあらわれた巨体が月光をすべらせて、まるでそこに照明灯があるみたいにまばゆい光苦をまきちらしている。
 「磯さん、あれが真珠の輝きの正体ですか」
 僕が隣りの磯さんに尋ねると、
 「さあ、なんともいえないが……ミツコには、そう思わせておいたほうがいいね」
と、磯さんはやさしく答えた。

 そうやって「見えるかい、ミツコ?」と言って、その幻想的な光景をみせてやる。その三日後、ミツコは短い生涯を終える。

 これは、魂(マブリ)を流れ星と真珠に結び付けたミツコの幻想を、南島の幻想的な舞台と島人の溢れる情感が、満たしていく作品だ。しかし作品といってもこれは実話である。こんなファンタジーを生んでしまうのが南島なのだ。そしてこうした場面に出くわした安達少年は、それこそ作家になる以外、昇華させることのできない衝撃を受け取ったに違いない。

 沖縄から喜界島に来た恋多き「かなちゃん」は、「僕」の「唇に唇をかさね」なんてことをして僕を当惑させるが、安達少年に海岸通りをさらに輝く世界にしてくれた「かなちゃん」は「ひめゆりの塔」の女子学生の一人として自害したと聞くことになる。南の島から流れてくる漂流びんに入った、スペイン語で書かれた助けを求める女の子の手紙に囚われて三十年間、その手紙を待ち続けた山城さん。病気の療養で喜界島に来たが天候不順で船が出ず、夫の出征に立ち会えなかった八重子さんは、夫への代わりに安達少年に与謝野晶子の「君死にjたまふことなかれ」を読んで聞かせる。しかし、その八重子さんも翌年の春を待たずに二十七歳で逝ってしまう。

 親孝行と言われていたのに、大和からの旅人たちの後を、つまり貴種たちのあとを追って島を出奔してしまう三姉妹の話。糸満売りされた少年が、年季明けに「親孝行」として少年を売ったおじいさんに酒を飲ましてやりたいという話を聞いて、「度量の広い人」だと感心するが、そのおじいさんの亡くなり方を見て、実はソレをしたかったのではないかと底知れない憎悪を垣間見る話。冬の海の遭難で死にかけている青年を、裸身になって温めて生き返らせるシーンが鮮烈な印象を残す理沙さんの話。両手の甲の入墨のために大和行きを切望しながらそうさせてもらえない老女の話。

 最後の「ハジィチ哀しや」は、貴種の裏返りの卑種が流離できない話になっているが、それを含めて全体が貴種流離譚のバリエーションのなかにある。これだけのことに小学校から中学校のころに出会った偶然のなかに作家になる宿命は刻まれていると言うべきではないだろうか。

 喜界島という舞台の豊かさが、いつまでも心に止まるエッセイ集だ。これは喜界島物語の大切なひとつだと思う。「小さな島の小さな物語」は心を大きく動かしてくれる。


   『憎しみの海・怨の儀式―安達征一郎南島小説集』

Nikusiminoumi

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/26

「奄美が食い物にされている現状を県当局が見て見ぬふりをする」

 奄美の建設業者の告発により、元請けの共同企業体、JVの不正が明らかになった。

 JVが手抜き工事指示、鹿児島県が指名停止 瀬戸内・勝浦トンネル

 鹿児島県発注のトンネル建設工事に絡み、元請けの共同企業体(JV)がトンネル崩落防止用の鋼鉄柱を無断で切断、県から指名停止処分を受けていたことが24日、分かった。JV側が地元の下請け業者に切断を指示していた。

 この記事自体、あまみ便りblogの「奄振の陰」で知った。水間さんは、紙面に続く記事も引用してくれている(全文は「奄振の陰」で読んでください)。

 奄美群島の複数の建設業関係者によると、大手による「地元いじめ」は後を絶たない。
 下請け間の請負工事や資機材使用は、元請けや1次下請けがピラミッドの頂点に位置して差配。末端業者は元請けの意向として、県積算の半値ほどで請け負いを「強要」されることも多い。この差額が元請け周辺に”配分”されるという。
 また、元請けと親密な関係にある関東や関西の会社を潤わせるため、直接仕事に関わる地元業者との間にこれらの会社を割り込ませ、中間マージンを引き抜くこともある。多くの業者が「奄美に回ってくる利益はスズメの涙ほど」と嘆く。
 拒否するのは可能だが、「次に仕事がもらえない」「赤字でも人や機材を余らせるよりはまし」と、多くの業者が受け入れている。

 よく告発したと思う。そして南日本新聞はよく詳細な記事にしてくれたと思う。

 この「いじめ」にあっているとされる、建設業者すら、地元では、政治-経済の強者である。これらの記事が正確であるとしたら、内部で無力感とともに語られてきたことが、珍しく明るみになった例ではないだろうか、

 そんな滅多にないことが起こったのなら、奄振のいじめの構図にとどまるだけでなく、奄振の在り方そのものを見返す契機になってほしい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

「航跡は描かれた」(「唐獅子」7)

 今年の四月、冒険家の中里尚雄さんがウィンドサーフィンで、桜島から沖縄島の辺戸岬までを縦断した。
このニュースは否応なしに、ぼくをある連想へと誘った。

 四世紀前、薩摩は奄美の島々に沿って軍船を走らせ、征服していった。そして征服者は、琉球の最大拠点である沖縄島に行くまでの道すがらであると言うかのように、奄美を「道之島」と呼び始める。そこで、「道之島」という呼称には征服者による軽んじられたニュアンスがつきまとってきた。それと同時に、与論島と沖縄島の間は、つながりの海から隔ての海へと変わってしまった。

 「道之島」のそんなニュアンスが解消されるにはどうしたらいいのだろうか。

 思い浮かぶことは、大和から沖縄島に行くまでの道のりが辿り直されなければならない。軍船とは異なるものによって、しかも軍船より遅く。軍船による征服よりも深く、道のりが辿られなければならない。そうすることによって、珊瑚礁に座礁した船が大波によって再び、外洋に戻るように、 「道之島」の含意が自由になる。そんなプランだ。

 こんな想念を持つと、四世紀後の同じ時にウインドサーフィンで奄美を辿るという試みは、そのうってつけの行為に見えてくる。そう見えてしまうのをどうしようもない。

 中里さんは、トカラの島々や、奄美大島、徳之島、与論島などを辿って辺戸岬に到着した。実際には、薩摩の軍船より遅かったわけではなく、四世紀前と同じようにほぼひと月で辿ったのだが、中里さんは途中、戦闘をしたのではなく島の子どもたちと交流したのであり、それを軍船よりはるかに軽いセールボードでなしたのだ。

 戦闘ではなく交流で、軍船ではなくボードによって辿り直されるということは、「道之島」の宿命的な意味がウインドサーフィンの道の島として塗り替えられるということだ。少なくとも、そうイメージする自由が、ぼくたちにはある。

 このニュース以上にぼくは中里さんを知らない。そしてこんな意味づけは冒険家の預かり知らないことだろう。しかし、この春に描かれた航跡は、隔ての海をつながりの海に変える試みとして、ぼくたちの胸に刻まれるのだ。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/25

「薩摩藩の奄美・琉球侵略400周年」(「頂門の一針」)

 10月3日の鹿児島イベントについて、9月18日の「頂門の一針」(を、ぼくは何か知らないのだけれど)に、仙田さんの呼びかけが載っている。

ところが、こうした薩摩藩による奄美植民地支配の歴史は、今日の鹿児島県で語られることはほとんどなく、歴史の闇に葬り去られています。

私たちは、薩摩藩による奄美・琉球侵略400年目の今年を捉えて、この「歴史的事実」としっかり向かい合い、専門的な研究による具体的な検証の検討を始める必要があると考えたのです。

このため、2009年10月3日(土・旧暦の8月15日・十五夜)、午後2時から鹿児島県の県教育会館3階大ホールで、『薩摩藩による奄美・琉球侵略400年記念・奄美の未来を考える集会』を開催することしました。

つまりこの『集会』では、私たちの400年にわたる祖先の無念に思いを馳せ、同時に、未来を生きる奄美の次世代の人たちに輝かしい希望と生き甲斐の道を示そうと企画したものです。

 で、仙田さんは賛同者を募っている。

私たちは行政や特定の団体の支援を得ることなく、奄美に関心を寄せて頂く多くの賛同者が集って、こうした歴史を振り返るシンポジウムをはじめシマウタ・踊りを楽しむ会等を実施し、「奄美の歴史を正しく知って貰う」会合として、奄美の人々は勿論、鹿児島県人、全国の方々にも訴えたいと思っています。

どうかこの趣旨にご賛同頂き、この集会に多くの方が参加してくださるよう願っております。(完)

 数ある400年イベントのなかでも、鹿児島でのそれは重要なひとつだと思う。関心のある方は、仙田さんに連絡してください。

 ◆薩摩藩の奄美・琉球侵略400周年



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/24

チラシ行脚

 「奄美と沖縄をつなぐ」のチラシ、ポスターを置いてもらいに、昨日は蒲田のラーメン店、「Go!Go!みなみ家」へ。威勢のいい名前でなんかあやかれそうである。

 店長さんは与論人(ゆんぬんちゅ)。先日の奄美の大運動会(「奄美の背中」)で、三十数年ぶりに再会したご近所さん、幼馴染みですね。彼のラーメンも食べてみたかったし、丁度よい機会と行ってきた。快く貼ってくれて、ありがたし、である。

 店長さんの顔を見ていると、十歳に満たない頃の顔が蘇ってくる。ずいぶん齢を重ねたこともわかるが、はにかんだ表情はあの頃と何も変わらないようにも見える。不思議なもんだ。三十数年後に東京で、彼のやっているお店で、与論談義をしようとは、夢にも思ってなかったわけだから。懐かしさをかけがえなく思うのは、長い時間をかけても変わらず持っているものを確認しあえるからなんだろうか。

 その後、亀戸のあんまぁへ。ここはやんばるの料理。与論に近くて親近感があるのだけれど、おばあはひと言。「あのね、沖縄のイベントのときはね、みんな送りつけてくるよ。それを張るわけさ。だからわざわざ来なくても大丈夫だよ。気を使わなくても」。そう言われても、というか、そう言われると、やっぱり来なきゃという気分に。ひらやーちーと、らふてーと。写真はもずく。そう、ここのもずくは太くて、もずくらしいのがいい。

 で、お腹一杯になって、奄美の家へ。さすがに、チラシとポスターをお願いして帰るつもりが、また、去りがたく。おしまいは、与論縁のみなさんに与論話を聞かせてもらったり、写真を見せてもらったり。帰省気分を味わわせてもらった。故郷を好きになってもらえるのはありがたいもんです。


Yuichiro3
Yuichiro2
Yuichiro1
Mozuku

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/23

「奄美と沖縄をつなぐ」、チラシ、ポスター完成

 ad-livの澤渡さんから、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントのチラシ、ポスターが上がったと連絡があり、持田さんと三鷹に集合。チラシ、ポスターの配布先を打ち合わせた。syomuさんや宮古毎日新聞社の方、当日出演する唄者の金城さんも交ってくれて、にぎやかな議論になった。

 その後、早速、新宿に。「やんばる」「とぅばらーま」に、チラシを置いてもらった。「奄美料理 まれまれ」では、ポスターも貼ってもらう。ありがたし。それにしても、さわやかできれいなデザインになって嬉しい。

 これから、奄美、沖縄つながりのお店にチラシ、ポスターをお願いにまわることになる。いよいよ、という気がしてきた。配布は、syomuさん、金城さんも手伝ってくれる。感謝です。

 チケットももうすぐあがります。ご注文いただいている方、もう少しお待ちください。

 それから、チラシ、ポスターの設置場所にふさわしいところをご存知でしたら、教えてください。参じます。


Maremare1Maremare2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/22

島を愛した男・海のモーレ・少年奴隷

 『憎しみの海・怨の儀式』の第二部を読むと、「島を愛した男」、「海のモーレ」、「少年奴隷」は、憎しみの坩堝から抜けだすことをモチーフにしているように思えた。それは構成の妙のなせる技かもしれない。ただ、「島の愛した男」の発表が1958年、「海のモーレ」の脱稿が1970年、「少年奴隷」の発表が1977年という時系列は、この仮説を支持してくれるように見える。

 「島を愛する男」では、旱魃で島を捨てて本土へ向かう島人も出てくるなか、島への想いの強さゆえ、宮造は立ち去れない。

 うむ、出て行きたいもんは、とっとと出ていくがよか。が、おいは一人になろうが飢え死のうが、ここにとどまるよ。おいはこの土地をはなれては、生きていけん男だ。おいの生甲斐はみんなこの土地の中にある。おいとこの土地は一つのものなんだ。ここはおいの命とおなじようなものなんだ。(「島を愛した男」)

 ここで島への愛着は、土への愛着として描かれる。それは、皆が出て行ったあとに雨を迎え、報われるように見えるも、長い間、宮造が土地を広げるために退けようとしてきた大きな岩の下敷きに、自分がなってしまうところで終わる。それは悲劇には違いないが、「おいとこの土地は一つのもの」を実現してしまったという意味では宿命的にも見えるところだ。

 付け加えれば、男は農耕者として土に帰ったようにみえるが、ひょっとしたら南島の神話にいう、人間が誕生してきた場所である土に回帰したようにも思える。それがこの作品をただの残酷な物語にしていない理由だ。

 「海のモーレ」では、貴種のように船に豊穣を積んで島へやってきた玉木船長なのに、島は飢餓が進んだあまり、島人は船に積まれた食糧や酒を収奪してしまう。ところが、玉木船長はそれを責めない。

 「いいや、わしの負けだ」と、彼はあっさりいった。「人間は飢えから生きのびるためにはなにをしても赦される。盗みも、殺しも、場合によっては、共喰いさえも--というのが、わしの主義じゃよ。わしもそうやって生きのびてきた。飢えた者に道理はいらん。おぬしたちは、いまは、鮫じゃよ、鷹じゃよ、虎じゃよ、大蛇じゃよ--餌を見たら体がひとりでに前へうごき出す。--食い気はすべてに優先する、じゃよ」
 彼は諦めきった顔つきでそういい、キセル煙草に火をつけて深々と吸いこんだ。

 ここは玉木船長の哲学が語られるところだが、安達の理念であるかもしれない。共感するところだ。

 玉木船長はここで一計を案じる。それは、安達の小説を本の並びに従って読み進めていくなかで、初めてと言っていいほど、爽快な場面でもある。

 「いける」だれも彼もが一瞬そう思ったらしかった。--岸からタコを沖に揚げる。タコには道糸がとりつけである。
道糸は海面までとどいている。タコが風に舞うと、その跳梁する浮力がトローリングの役目を果たして道糸を引っ張り、海面下の擬餌を鰹の好物の片口鰯さながらにスイスイと泳がす。それに燈がぱくりと食いつく---ぼくらは瞬時にしてその光景を幻視のうちにかいま見た。

 この、空と珊瑚の海と空を結ぶ三角形が、作品の舞台空間を一気に広げて開放感をもたらす。それと一緒に、この爽快な漁法は功を奏し、島人は自分たちで舟なしでも魚を釣れることを覚え、自信を取り戻していく。そして玉木船長は、貴種流離譚の流儀にしたがって、島を離れる。

 三つ目の「少年奴隷」でも、はじめに困難ありきという構図は変わらない。ここでのそれは、南島ではよく知られた糸満に売られることから始まる。

 主人公の少年奴隷によって語られる同じ境遇の鉄也は、どんないじめにも堪えて、身体を強くし、漁法も星座を見る目も鍛えてゆくのだが、それは糸満の年季が明けるのを待つだけでなく、その後待っているのが徴兵であるとしたら、それを逃れるためでもあった。それは、オーストラリア付近の南の島へ行くことだった。

 「わんは糸満の到舟で行くつもりだ。命がけの冒険かも知れないが、そのためにわんはこの三年、糸満で航海術をおぼえた。フイリッピンからインドネシア経由で行くつもりだが、途中の島々で食糧を調達しながら、何箇月、何年かかってもいいから、ゆっくり行くつもりだ」

 鉄也はこの目的があればこそ、糸満のきつい日常を乗り越えることができた。その強い意志がやはり爽快なのは、作品の舞台空間が、糸満から一気に南へ流線を引き、ポリネシアのどこかへ弧を描いてゆくからだ。南への越境である。しかしこの越境は当てのない離散のように感じられない。それは、「島を愛した男」の宮造の死が神話にいう人間の母胎への帰還を思わせるように、鉄也の越境も、南島の故郷のひとつであるポリネシアへの帰省を思わせるからだ。

 阿達は、憎しみの坩堝からの脱出口を、越境する精神に見出したのだろうか。そして越境する舞台は、もちろん、海、である。安達はそれを三部作のように、「島を愛した男」の陸地、「海のモーレ」の珊瑚礁、「少年奴隷」の海というように舞台を移しながら、表現していった。


   『憎しみの海・怨の儀式―安達征一郎南島小説集』

Nikusiminoumi

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/21

「おくりびと」を観た

 テレビで映画「おくりびと」を観た。

 小さい頃は、大人はどうしてこう簡単に泣くのだろうと思っていた。
 ところがいまや、どんな小さなきっかけでも涙は出てくる。さびしいんだね。

 数日前にご母堂を亡くされたアカショウビンさんは(「82年の女の生涯」)観たろうか。気になった。

 人は小さな配慮の積み重ねで生きている。


| | コメント (6) | トラックバック (0)

奄美の背中

 実は失礼ながら、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントのチラシを配るだけのつもりでいた。前の晩に思い立ち、まだ印刷があがってないのでキンコーズで両面コピーを200枚、用意した。9時半に開場とある。そう書いていてもきっと島の時間、三々五々で気づいたら人が集まっているくらいの感覚だろうと、9時半から入口に立って来場者に配っていけば、仕事は完了すると思っていた。

 ところが、受付でひと言、「ここに置けばいいがね」と。「これだけしかないの?」、「もっと早く言えばいいがね」とか、逆にぼくの気合い不足を指摘される始末。ありがたく置かせてもらい、200枚はあっという間に、参加者の手元に届くことになった。

 あっけなく仕事は完了したのだが、なんとなく去りがたい。東十条小学校と与論の小学校が姉妹校であるのを知っていたこともあったし、そこにあるソテツが与論からのものだと教えられると、ますます去りがたくなった。見たことある旗だなと思ってよく考えたら、パナウル王国の旗だ。競技が始まれば応援もしたくなるというもの。

 そうこうするうちに、奄美縁の人に声をかけられたり久しぶりの再会があったりで、いつの間にか東十条小学校で過ごすことになった。「奄美の家」の圓山さんに、ここに来ると、奄美系のTシャツのデザインを見るのが楽しいと教えてもらった。ぼくはそうか、と思い、撮ることに。でもTシャツではなく、各チームのはっぴに目がいってしまい、島々を巡った。断りなしにこっそり撮ったものも多く、ごめんなさい。

 競技は、都会っ子名瀬をワイルド徳之島が下して優勝。お見事だった。途中、ちびっ子たちのエイサーもあったが、奄美全体でエイサーというのが不思議な気がしたが、まあこれは与論出身の会長が強引に、かなと想像したり。けれど締めはやっぱり六調で、ここでちょっと乗り気になれない気がし始めた。でも、いつもとは違う感じ方もやってきた。奄美と銘打ったイベントに出かけると、奄美大島のことを指していることも多く、結局自分たちのことは入っていなかったのかと、いじけ交りにさびしく帰ることがあるのだが、今回はそうではなかった。それは、各島(シマ)がチームを組んでいるので、それぞれ対等の構成単位になっているからだと思う。要するに、各島(シマ)が主役の瞬間を持っているということだ。与論からも、わたしは踊れるよ、と六調に参加していくウバもいて、これならいいなと思った。

 二年に一度というが、ひょっとして東京で奄美の島人に万遍なく会う最高の機会かも。

 その後は、沖洲・与論合同の打ち上げにも参加した。ぼくは、そうは言っても沖永良部の人はいるんだろいかと気になっていた。学校では旗も横断幕も与論だけだったし、応援団も与論青年がやっているように見えた。いるんだろうか?と思っていたが、杞憂というもので、集ったのは与論の人より多かったんじゃないだろうか。で、次は、与論と沖永良部は別々で飲むんじゃないかと思っていたが、それも杞憂というもので、交って楽しく話していた。主催者のご好意で「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの告知もさせてもらい、仕事をした気分にもなった(笑)。

 終わってみれば、小学校の同級生の妹に会ったり、三十数年ぶりに近所の友人に会ったり、贅沢な時間だった。とうとぅがなし。


 それにしても、島っぽさってありますね。応援合戦のとき、与論の応援団は他の各チームにエールを贈ってから自分たちの応援を始めた。ぽい、ぽい、与論ぽいと思った瞬間だった。(そうそう、東十条一丁目の方々の太鼓も素晴らしかった)。


 「第111回東京奄美会総会・大運動会」


UndoukaiUketsuke_2
SititiYoronEisaPanauruAmamiKikyaKasariNazeSetoutiSimiyouTukuYunnuPanf

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/20

「奄美と沖縄をつなぐ」チラシ

 「奄美と沖縄をつなぐ」のチラシ。目下、印刷中。完成したら、縁ある場所へ配りに行こう。

 それにしても、すごい顔ぶれ。出演してくださる方々に報いるためにも、集客がんばらねば。


2009lao1
2009lao2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/19

「怪傑耶茶坊」

 「怪傑耶茶坊」という映画があったそうだ(「南海日日新聞」2009年9月11日」)。

 1609(慶長14)年、薩摩勢は奄美へ攻め入った。しかし、島の人々の激しい抵抗に遭い、いったんは和解を約束する。ところが代官の新殿と荒川は約束を破り、村の長・耶太加郡を謀殺して島を支配下に収めた。さらに折は、耶太加郡の娘・思益(めます)に関係を迫り、拒んだ彼女を斬り殺す。思益の兄・耶茶は怒り、.唐手で荒川を倒して父と妹の仇を討った。お尋ね者となった彼は、山中に身を隠しながち神出鬼没の活躍で抵抗する。
 薩摩勢は一部の島人を手先に使って暴政を敷き、黒糖搾取を続けた。だが最後は耶茶が島の人々率いて決起し、薩摩支配を打ち破る。

 もちろんこれは史実ではない。大島の伝承の屋茶坊を題材にヒーロー像を構想したものだ。
 記事を書いている岡山市在住の映画研究家、世良利和は、

 薩摩による奄美・琉球への侵攻と属領化は、その後の日本の歴史や外交政策の根幹にかかわる大事件だった。けれどもこの事件を題材にした映画は、ほとんど見当たらない。

 として、この「怪傑耶茶坊」が1609年にモチーフを採った唯一の劇映画ではないかとしている。世良は、

 薩摩の侵攻からちょうど400年を経たことし、奄美でのリバイバル上映が実現しないものだろうか。

 と結んでいる。確かに、観てみたいものだ。


 ぼくは、史実にはなかったフィクションであるにしても、薩摩の支配を打ち破るという大事ではなく、ウンタマギルーのような、ヒーロー物語のほうが、共感できると思うが、それより切実なのは、こうした物語がぼくたちには必要だということだと思う。最近、読んでいる安達征一郎の作品はそうなりうるだろうか。あるいは、遠田潤子の「月桃夜」はそうなるだろうか。物語がほしい。言葉でも、映像でも。奄美はまだその姿を氷山の一角ほどにも現していないのだから。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

皆既日食の宝島の空

 これは、7月21日の宝島北端、灯台下の海岸から眺めた空。ここにはツアー客は一人もいなかったそうだ。

食の最大の瞬間、おそらくぼくは水平線を見つめていたと思う。時間のことなどすっかり忘れて、ただただその異常な空を眺めていた。(石川直樹)


「群像 2009年 10月号」

Gunzou10_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/18

「薩摩藩琉球侵攻400年展」(那覇歴史博物館)

 那覇市で9月4日から、「薩摩藩琉球侵攻400年展」が開かれている。

 那覇歴史博物館で「薩摩藩琉球侵攻400年展」-琉球国王の王冠や正装、3年ぶり公開

 王朝の象徴のような王冠も展示されている。3年ぶりだそうだ。

 学芸員の外間政明さんは「侵攻の一側面しか展示できていないが、島津氏侵攻を対象にした展示会は沖縄では初めて」とし、続けて「侵攻や侵略と聞くと支配というイメージが強いが、能を手本に組踊(くみおどり)を創出するなど薩摩藩を通じて日本文化を取り入れたり、中国文化を積極的に導入し琉球王国の独自性を出したりするなど、日本と中国のはざまで琉球王国はしたたかに生きていた。そうした歴史的背景や意義などを感じてもらえたら」と話す。

 王国のしたたかさ。400年目の主調音だ。


 那覇市歴史博物館

 薩摩藩島津氏琉球侵攻400年展「琉球王国と日本・中国」歴史講座のご案内

 もう終わったものもあるが、講座も用意されている。

9/9(水) 
第1回 薩摩藩島津氏侵攻前の琉球王国
高良 倉吉

9/16(水)
第2回 島津氏による琉球支配初期の再検討
豊見山 和行

9/30(水)
第3回 島津軍の琉球侵攻とその背景
上里 隆史

10/7(水)
第4回 羽地・蔡温の政治路線(諸制度の整備)
田名 真之

10/14(水)
第5回 大和文化の影響
前城 淳子

10/21(水)
第6回 異国船の来航とその対応
島尻 克美

10/28(水)
第7回 琉球王国の崩壊
高良 倉吉


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/17

『憎しみの海』

 syomuさんの熱意(甦る安達征一郎の南島文学【一】)にほだされて、安達征一郎の『憎しみの海・怨の儀式』を手にした。

 大部なので、まず第一部の「憎しみの海」の小説集を読んだのだけれど、ここにある7つの小説に通底するモチーフは、憎しみだと思う。それは、初期の「憎しみの海」にすでに明瞭だ。

 幸十郎は妻の不実を懲らしめるために相手の男を殺そうと見せかけるが、妻は謝らず、そうこうするうちに男の兄が弟の危険を察知してやってくる。幸十郎は、妻の不実を懲らしめるどころか今度は追われる立場になる。舟で逃げ、妻の加那を海に蹴落として難を逃れようとするが、銃で頭を射ぬかれてしまう。追跡者は、加那をも許さず、干潮時にわずかに狭い岩礁が海面に現れる珊瑚礁に取り残して去っていく。しかし、殺されかけたために弟が発狂したのに気づくと、置き去りにするだけでは収まらず、追跡者たちは改めて戻り、加那を舟の柱にくくりつけ、両肩の骨を外し、海に舟ごと放っておく。加那を乗せた舟は、当てもなく波間を漂うことになるのだ。 

彼らは自分らの持舟にひき移った。はりつけの女を乗せた刳舟はぶらんぶらんゆれながら静かに流されていった。糸満の兄弟たちはしばらく無感動に眺めていたが、やがて何処へともなく立去っていった。落日の太陽は、身もだえしながらその最後の光苦を失うまで女のうえに赤い光をなげかけていた。夜がきて朝がきた。遮るものもない日中の熱気に女の胸はあえぎつづけた。そして夜がきてまた朝がきた。いつの間にか女の髪は某日になっていた。やがてその上に無気味な呼声をたてる海鳥が舞い飛び、海面にはいるかが白い腹を見せて群れた。(「憎しみの海」)

 ここにあるのは憎しみの連鎖だ。幸十郎は妻を憎んで懲らしめようとするし、妻は幸十郎を憎んで謝ろうとしない。男の兄は、幸十郎を憎み、加那を憎む。弟が発狂するに及んで憎しみは、加那を舟にくくりつけて洋上に放逐するまでに至る。ここで、亜熱帯の砂浜と珊瑚礁を舞台に展開される憎しみは、自然の原色をなぞるように、単純で粗野で、深い。

 安達は、この原始的な振る舞いのさまについて、奄美のどこかとおぼしき南の島の特徴だというのではない。むしろ、南の島は憎しみに囚われている、そう言いたげである。振る舞いの原始性は、南の島に生き生きとある人間の原型に見えるし、安達はそういうエッセンスを島からくみ取って描いているとは言える。しかし、ここにある憎しみは宿命的で、そう表出する他、行き場がないもののように描かていると思える。

 南の島の実像自体は、たとえば、次のように描かれる。

 月の出は静寂になごみを与え、島の自然とすべての生命から、妙なるメロディーをひきだした。林のざわめき、虫の鳴き音。遠くの潮騒と近くの波音。溜息に似たバナナの葉の擦れ合う音、パパイヤの果実の墜ちてつぶれる音。朽舟をかじっている木喰虫の音、砂浜をえぐって流れている小川の砂壁の崩れる音。ヤドカリの這いまわる音。海のなかの小石のうごく音。彼の足音におどろいたか、ぴちっと跳ね上って逃げていく渚の銀針のような小魚の水音。月に向って鉄をあげ鋏のあいだに抱を溜めて砂面をゆっくり動いている蟹の足音。その他、眼に見えないもろもろの微細な生命たちのたでる、咀嚼の、闘争の、恋と誘いの物音。いま、それらは一つに溶け合って、竪琴の遠鳴りのような曖昧だが確実な夜の浜辺のメロディーを奏でていた。(「種族の歌」)

 そう、これはぼくたちのよく知る、南の島、たとえば奄美の姿だ。それなら、この憎しみはどこからやってくるのだろう。

 それが史実と結び付けられいるのは、「怨の儀式」だ。ここでは憎しみは、薩摩の圧政の歴史の記憶へ向けられている。外側から訪れる暴力から受ける圧迫が、内閉された場所では相互の憎しみとして表出される他ない。そんなことを連想させる。物語では、それは、本土からやってきた民俗学者へ向けられ、彼は生け贄を余議なくされる。

 安達が描く憎しみは、安達の個性に帰せられる部分もあるだろうが、奄美の歴史が被ったものを置かなければ不明な部分を残すと思える。現にぼくは、ここにある「憎しみ」に、それが自分にも馴染みあるものだと気づかないわけにいかなかった。

 ぼくは自分が文章を書き始めたころ、持て余すほどうずくものを、「得体のしれない憎悪」と表現するしかなかった。そこに言葉を与えようとした思考錯誤を、『奄美自立論』という形に、やっとすることができたが、それはある意味で、得体のしれないものの正体を突き止める作業だった。

 なぜそれは得体がしれなくなるのだろう。それは、その発露が封じ込められているからである。なおかつ、奄美に言葉が奪われているからである。ぼくにとって、言葉を得るためには歴史を発掘した先人の言葉が手掛かりとして必要だった。しかし、ぼくに比べても安達にとって手がかりとなる言葉は貧弱だったはずだ。『憎しみの海』が発表されたのは1952年、復帰の前年である。言葉が奪われた状態で、それでも、得体のしれない憎悪に形を与えるにはどうしたらいいか。安達はそこで小説という方法を採った。そういうことではないだろうか。作品からやってくる共感を自分に引き寄せると、ぼくにはそう感じられるのである。

 たとえば、ぼくは「薩摩の圧政」と書いたが、憎しみが向かう明瞭な対象がつかめない証のように、作品中には「藩政」とあるだけで「薩摩」の文字は出てこない。知ろうとする者にはそれが薩摩をモデルにしていると分かるのだが、作品中にはそれは明示されない。ただ、憎しみだけは明瞭である。それは、「怨の儀式」では、「チガサワギモス」という言葉に象徴されている。

 本土から来た民俗学者は、挨拶の言葉が聞き取れず、尋ねる。

「なんといわれたんですか」と彼は怪訝そうに部落会長に尋ねた。「島言葉で『血が騒ぎます』と申しました」部落会長は恐縮した固持で答えた。「御承知のように、わたし共の先祖は、藩政時代、藩主の圧政に塗炭の苦しみをなめたわけですが、御先祖は陰でこうささやきかわしては、今に見ておれと何時の日かの復讐を誓い合ったと申します。そこでわたし共も、怨の儀式の期間中に限って、これを口にして先祖の苦労を偲んでおるというわけでありもす」

 憎しみは「復讐」として対象化されているが、その矛先は明示されるわけではない。憎しみはありありとしているのに、向かうべき対象は暗示されるに止まるのだ。

 「怨の儀式」の舞台はウルメ島と呼ばれるが、もちろん架空の島である。ただ、こういうことは言える。作品の発表された1952年時点では、「うるま」を「琉球」と解する説は流布されていたし、宮良当壮の「珊瑚礁」説も既に存在していた。安達が舞台となる島の名をウルメと名づけたとき、「琉球」や、新しく加わった「珊瑚礁」と解された「うるま」を念頭に置いただろうことは無理なく想像することができる。また、ウルメは、怨み(ウラミ)の語音へと連想を広げることもできる言葉だ。

 安達のいうウルメ島とは、「珊瑚礁」=「怨み」という二重性を孕む場所として、どこでもあてはまる普遍化を施されているようにみえる。奄美のどこでもあてはまるように。


   『憎しみの海・怨の儀式―安達征一郎南島小説集』

Nikusiminoumi

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009/09/16

「坦晋の日記三部作-琉球・薩摩を生きた島役人の記録」

 先田光演が、沖永良部の島役人、坦晋(たんしん)(1800-61)の残した日記などを解読したという記事。

 西郷、書の師匠は島役人!? 沖永良部島 流罪中に学ぶ

坦晋の日記は、「渡琉日記」や鹿児島に上った時の「上国日記」など3冊が現存する。先田さんは原文を解読し、5月に「坦晋の日記三部作‐琉球・薩摩を生きた島役人の記録」(A4判、66ページ)としてまとめた。

 ん~、やはりこれは読みたい。

 先田さんは「三部作」の中で、西郷が坦勁にあてた漢書の借用書2通を紹介しながら、「西郷が借りたのは、坦晋が琉球で買い求めた漢書の蔵書だった」と記す。

 また、操家に残る坦晋の書についても触れ、「肉太で力強い坦晋の書体は、西郷の書体と似ている。西郷は坦晋の書や蔵書を手本に書を学んだのではないか」と考察している。

 先田は、島の名誉を獲得するのに、何がなんでもというところがあるが、どうせやるなら、西郷隆盛の遠島は帰省だったという視点を持ち込んだら面白いと思う。あの風貌を島で見かけたら、ぼくたちはふつうに島の人だと思うのではないだろうか。


| | コメント (3) | トラックバック (0)

「島言葉を経済活動で守ろう」

 これは聞きたかった。「しまくとぅば」シンポ。

    「島言葉を経済活動で守ろう 沖縄でシンポ」

継承が課題とされる沖縄や奄美諸島(鹿児島県)の島言葉を、経済活動に結び付けて守っていく方策を探るユニークなシンポジウムが12日、沖縄県浦添市で開かれた。

 その中身は、

ウチナーグチ(沖縄の島言葉)の語学講師やラジオ番組DJをしている比嘉光龍さん(40)は「美しい言葉だから残そうという掛け声だけでは守れない。例えば、島言葉の読み書きを教員採用試験の必須科目にすれば、塾や問題集などの需要が生まれる」と提案。

 で、驚いたのは、「言語税」という考え方。

 「主要言語で書かれた出版物に「言語税」を課し、税収を少数言語の普及に役立てる政策」のこと。欧州で提唱されている政策だそうだが、ということは、日本でいえば、標準語で書かれる本に税金をかけて、その税収をアイヌ語や奄美、沖縄の言葉の普及に役立てるということになるのか。ん~、すごい。でも、理に適っている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/15

「直轄支配下の奄美 黒糖政策」

 弓削政己による奄美の黒糖政策の整理。備忘のためにメモ。


 1690年 屋喜内間切大和浜の三和良(さんわら)が琉球へ渡海。「黍植付・砂糖製法」を習得。
 これが、奄美における産業としての黍生産の始まり。

 砂糖黍モノカルチャー化。
 ・砂糖の時代は藩統治の2/3
 ・藩は黒糖を天保の改革の「第一の柱」として位置づける。
 ・500万両の藩の借金を乗り切る大きな柱となる。


 天保の改革前10年間の利潤。
 136万6000両。

 天保の改革後10年間の利潤。
 235万両(1.72倍)

 1844年(天保15)から10年間の利潤。
 149万3177両(大阪市場での価格低迷など)

◇◆◇

 「買入」 黒糖を特産品として藩が買い入れる制度。
 藩の買上代米。
 黒糖1斤=米3合2勺4才(大島)
      =約4合(沖永良部島)

 (藩からの支払い)=(砂糖代米)-(貢租米額)-(物品)
 島民に支払う米が少なくなる仕組み。


 1831年の大阪の米相場。
 ・1石=79斤(黒糖換算)
 藩
 ・1石=507斤(黒糖換算)
 
 つまり、6.4倍(57/79)の価格。

◇◆◇
 
 ◇定式買入制度
 ・定式買上糖(藩へ確保する斤数で労働力人口に賦課)
 ・買重糖(増減があり各戸の貢納額に応じて賦課され、島津家一門の家用ともなる)

 この制度では、上納以外の余った黒糖(余計糖)を代官や船頭、水主が購入できた。

 ◇惣買入制度
 ・藩以外に売買を認めない制度。

 専売制度。「藩が商品を藩営の形で生産・独占する形態と、その上で流通の独占・移出を独占をする」
 つまり、生産、流通の独占。これは、「島民に対する厳しい監視体制を必要とした」

◇◆◇
 
 「正余計糖」 藩の買上糖や物品購入以外の黒糖で、島民に残る分。
 正余計糖を確保できる階層は、財力のある郷士格や役人層。
 余計糖の献上によって富裕層は郷士格、役人にとりたてられた。
 これで、奄美島嶼内部での烈しい階層分化がおき、債務下人としての家人(やんちゅ)を生じさせた。

 藩。天保の改革に伴い、奄美島嶼での制度を琉球にも要求してきた。
 

 奄美の黒糖生産は専売制度、家人制度にみられる島民の階層分化の下で強化された。また幕末、薩摩藩内や琉球も奄美の専売制度の仕組みに組み込まれたのである。(南海日日新聞2009年9月4日)


 惣買入制度についての、「藩以外に売買を認めない制度」という解説はとても分かりやすい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

セサミ・アイランド!?喜界島

 知らなかった。喜界島は、ゴマ生産量日本一。

 ゴマ収穫が最終盤 日本一の産地・喜界

 1世紀以上前から開始だそうだ。素晴らしいですね。天日干しが石垣でされるのもいいですね。琉球弧らしい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/14

「わが内なる奄美」

 復帰20年、1973年の場所で、基は考える。

 奄美が本土へ復帰してあしかけ二十年になる。いま郷土では内地のことを本土と呼んでいる。奄美が本土へ復帰したということは、奄美も再び本土になったということだと思うのだが、復帰と同時に解消したはずの「本土」の呼称をいまだに捨てずにいるのである。そこには、奄美が外地でもないのに「内地」というのはおかしいではないかという意見が戦前からあった。そこでこのさい「内地」をやめて「本土」でいこうということであるらしい。でも、「内地」がおかしいというのなら、同じ意味で「本土」もおかしいのである。本土でない奄美とは何かということになるからである。奄美が離島である限り、「本土」も「内地」も、それが地理的概念の用語とすれば不都合はない。ただ、本土復帰後の「本土」が奇妙な響きを残すのである。不如意な島の現実が充たされないうちは、完全に本土に復帰したとはいえない-といった甘えが、そこにいつまでも「本土」を温存させているのではないだろうか。

 「本土」は中心的な国土という意味だろうから、復帰は、「奄美も再び本土になった」という意味にはならないと思う。しかし、基の真意を汲み取れば、「不如意な島の現実が充たされ」ることが、完全な復帰?を意味するという文脈を維持するために、「本土」という言葉が招来されているのが問題なのだ、と言いたいのだ。

 ここには、『島を見直す』という書名が、「大島本島」という語感の持つ、あいまいに奄美の島々全体を覆うかのような含意を見直し、「大島」を再発見した基の内省の起点に基づいていることをよく教えるし、それが本の最後にいたるまで貫かれているのを、ぼくたちは見る。

 島とは自己完結の時間と空間だから、生活も自給自足でやってきた。そこに島嶼文化も成立したのだが、いまでは都会並みの換金生活によって、生活物資のほとんどが鹿児島からやってくる。換金生活をやるには、都会へ出るにこしたことはないから、多くの人たちは島を出た。そして、後に残った人たちにとっても、島の環境は生活意識の上では何の役にも立っていない。生活様式がそうなったのである。ただ外側から「奄美の海は美しい」と聞かされて、それならば「観光」だと思っても、それが先祖が生きてきた海であることまでには、心が届かずにいる。時間を見失った郷土は、ひたすら空間だけに生きようとしている。

 いまでは飛行機が飛び、快速船が走り、至極便利である。かつての自給自足の生活から解放されたと古老は喜び、もっと本土並みでなければいけないと島の「政治」にたずさわる者は考える。

 「島とは自己完結の時間と空間」とは、本来の島の定義と言っていいものだ。「時間を見失った郷土は、ひたすら空間だけに生きようとしている」。はっとさせられる。基は、もともとの島人の生き方から引き継ぐものがあるはずだと言うのである。

 基は、

 私は奄美にふるさとを回復したい。

 と、「随想」を結ぶ。これに対して、それは「島を出た」者の身勝手な郷愁に過ぎないという権利を島人は持っている。しかし、基俊太郎の真摯な姿勢の前には、基さんは「ふるさとを回復」できたと感じる瞬間を持てただろうかと思わずにいられない。


 ※ところで、『島を見直す』は、アマゾンでも手に入らない。奄美大島のあまみ庵で入手可能だと思う。

Shimawominaosu1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/13

「奄美の未来を考える集会」

 久しぶりに400年イベントの話題。仙田さんから、10月3日、鹿児島で行われる集会の案内状をいただいた。

 「島津藩による奄美・琉球侵略400年記念 奄美の未来を考える集会」

 舞台に立つ方々の顔ぶれが、大本営発表的でなくていい、と思った。奄美と鹿児島の対話という意味を持つ初めてのイベントになるのではないだろうか。そんな期待を抱かせてくれる。

 その上でのぼくの期待を書けば、心ある鹿児島人による奄美理解ということに加え、あるいはそれ以上に、在鹿児島奄美人の声が響いてほしいということだ。山下欣一という重鎮がいるのだから心配はない、かもしれない。ただ、基調報告は、鹿児島からの理解ある声になるだろう。それに対する、奄美の声が潜在化しないでほしいと思う。この場は、「奄美の未来を考える集会」なのだ。

 ぼくの考えでは、在鹿児島奄美人こそ、奄美の困難を最大限に引き受けてきた人たちだ。その人たちの想いが、こだましなかったら、未来へは行けない。400年イベントは、鹿児島で開かれることがある意味では最も意味がある。その意味を担うイベントだ。在鹿児島奄美人の切実な声を聞きたいと思う。シマウタと踊りだけではなく、言葉として受け取りたいと思う。「奄美の未来を考え、行動する決議案(仮称)採択」が、それなのかもしれないが。

 当日の集会は無料参加だ。運営は協力金を募っている。鹿児島に住んでいなくても協力はできる。賛同される方は、仙田さんに連絡をお願いします。


Amamimirai1_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

九州を北上して弟と呑む

 父の墓前に報告をし、母の回復を見、弟たちと飲み語らおうと思いたち、鹿児島から福岡へ北上した。移動しては呑むの繰り返しだから、今回は会うべき人会いたい人、すべて失礼するしかなかった。申し訳ない。

 しかし、同じような酒量の弟と一人ひとり会うこと三晩というのは、道場破りの繰り返しみたいで、さすがにへばってしまった。でも、いまは各地に散っている家族を糸で縫い合わせるように心地いい気分が残っている。弟たちとは、与論に自分たちの居場所を作りたいね、と確認しあうことになった。

 『奄美自立論』は、鹿児島中央駅の紀伊国屋書店でも、天神のジュンク堂でも見つけることができた。ジュンク堂では、表を見せてくれてありがたい。紀伊国屋書店では、郷土の本のコーナーにあった。棚に収まっていたが、平積みになっているのは鹿児島の本だけで奄美の本は一冊もなく、これが両者並ぶようになると、氷解の一助になるのにと思った。

 福岡では、語久庵(ごくい)で飲む。福岡で奄美を銘打った店をここ以外に知らない。二回目で、午前様になるまでお邪魔した。店内に貼ってほしいと、本のチラシを渡して、店主さんとしばし語らった。沖縄でも鹿児島でもない奄美を発信したいという心意気だった。

KinokuniyaTenjinjunk

Gokui

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/12

「島嶼とは」

 基俊太郎は、「島嶼」、島々という言葉にこだわる。

 島嶼は当用漢字から外され、当然その概念を私たちから奪った。かわりに離島で間に合わせようというのだろうが、島嶼、つまり大小さまざまの島々という複数概念を、「離島」ではイメージされない。離島とは、こっちの丘から眺めての離島であり、自らを離島と呼ぶべきものではない。中央に対して予算獲得のためには、離島ははなはだ有効な言葉であるが、自らを離島と呼ぶのは、それは流人の裏だろう。私はこれまで、島の生活体系の確立を誓してきたが、いまひとつグローバルな視野から島嶼社会とは何かと問いかけたい。

 「島嶼」ではなく、「離島」という言葉を使うのは、「離島」と「本土」を対にし、自らを「本土」化することを目的にしてしまった。しかし本来、「離島」ではなく、「島嶼」、つまり島々それ自体を捉えていくべきではないだろうかということだと思う。

 全国、人の住みつく島々は幾つあるか知らないが、全国島嶼を対象にした行政上の別項があってよいのではないかと思う。市町村という地方行政区分けは、内地も島峡も何の区別もない。島嶼社会に対して、たとえば離島振興法という一般法があって、特殊な地域社会への配慮があるが、その以前に地続き社会とは違う行政上の区別があってよいはずである。たとえば、減反政策は島峡をその対象から外し、逆に増反政策の指定区域としてとらえる島嶼行政なるものを考えたらどうかということだ。

 「離島」は、「地続き社会」という目標を生んでしまったが、それは当を得ない。

 奄美のスローガン「本土並み」は本土の場末になることで、事実そうなってきた。地続きでもない島峡社会が、どうして本土並みになれるのだろう。それよりも、島唄の条件、負の価値、マイナスかけるマイナスがプラスになる論理がなければならない。
 自給できないけれど自給せざるを得ない、この矛盾は島の活力の源である。これまで島民はそうして生きてきた。島が自給しなくてもよい社会を日ざすならその分だけ文化度は低下する。アマシソはわかっているのだろうか。

 「「本土並み」は本土の場末になること」とは痛烈だが、正鵠を射ていると思える。「自給できないけれど自給せざるを得ない」。この矛盾を、基はそれこそが「島の活力の源」と捉えている。

 基はぼくたちに、島に対する視線の変更を求めているのだ。


『島を見直す』

Shimawominaosu1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/11

「生活体系の確立」

 基俊太郎は「復帰二十年は奄美に何をもたらしたか」のなかで、「島の自給」を俎上にのせている。

 今日、地域社会において、自給自足の生活はかつての隠れ里をしか意味しないであろうが、それでも現代社会で自給率の多少は、やはり地域社会の健全なあり方を左右する。とくに離島という地理的条件の強い社会では殊さらである。と同時に、自給自足の困難な条件を具えているのも離島である。この二律背反の宿命に対して、どのように取り組むかということが、離島振興の基本的姿勢でなければならない。従って離島振興の目的は所得の格差是正ではなく、生活体系の確立をもって第一義とすべきであろう。それは二律背反の宿命を克服すべき生活の体系を確立するということである。

 離島振興の目的は所得格差の是正ではなく、「生活体系の確立」を第一義とすべきである。それは、自給率の困難な離島において、地域社会の健全性である自給率の高さを求めるという、二律背反を克服することに他ならない。

離島社会では、かりに基幹産業がいくつあったにせよ、それらが自給率を高めるものでないならば、それは片足産業であって、両足で自立することはできない。自給の産業と言えば、島においては農業と沿岸漁撈以外にない。ところが、その農業を代表するキビ作は、本土資本の精糖会社の原料生産業であり、第一次産業ではない。その収益性のいかんを問わず、キビ作は半年の出稼ぎと三ケ月の失業保険の中で、後の半年をキビ作りに従事するといった農民生活のパターソをつくってしまった。キビが農業を食っているのである。近年、キビ作の不振は農業の転機を暗示しているかの如くである。いま、キビに代わるものは何かとしきりに模索されているが、農業生産を換金性だけから考える風潮は、第二のキビ作の出現となる危険がある。農業は第一義的には地場消費を対象としなければならない。その意味からは、作目は主食の米作第一でなければならないが、総合農政の減反政策は奄美の米作を徹底的に打ちのめしている。

 島の自給は、「農業と沿岸漁撈」以外にない。しかし、農業を代表する砂糖きびは自給にはつながらず、「減反政策」は「米作を徹底的に打ちのめしている」。

 農業生産は自足の地場消費を第一とし、余りのものを外へ出すことを原則とすべきである。奄美の焼酎生産は、そのよきパターソであろう。この原理さえわきまえておけば、島内及び近隣離島間の需給体制のもとに、過剰生産や本土市場の変動にも即応できよう。与論島で焼酎生産の不足分を隣の沖永良部島から補っているのは一例である。

 ぼくは、『奄美自立論』では、黒糖収奪の本質は、食料自給力の収奪だと捉えた。島人は「隠れ里」の努力や珊瑚礁の恵みのおかげで自給を根こそぎにされたわけではない。しかし、食を隠れるように確保しなければならなかったということは、島という環境にとって致命的な不安をもたらしたに違いない。だから、自給率を高める以前に、自給の道を確保するということは、島の精神にとって極めて重要だと思える。

 離島は、好むと好まざるとにかかわらず、自給を強要されて来た。その苛酷な生活を補うのは、やはり島づたいの交易であった。分離時代に、北緯三〇度線の封鎖は必然的にヤミ船の出現をさそい、海にはずぶの素人たちがトカラ列島を北上し、口之島あたりで物交を始めている。しかし、この離島再発見の体験は、復帰後の奄美の進路に参加するようなことはなかった。

 この、島嶼間の相互扶助は、近年では、「ゆいまーる琉球の自治」の松島泰勝も主張している。

 島嶼社会において、本土直結の流通だけに交易の道を求めることは、船舶運航に命のすべてを託することを意味して、欠航によるパニックの危険を、たえずかかえなければならない。非常事態に限らず、常態においても本土依存の経済では、本土の経済変動の津波的直撃を、まともに受けるのはまざれもなく離島そのものである。
島の交易は、まず部落問から離島間と、そして本土へ拡がる波紋状のメカニズムを具えて、はじめて島嶼経済の安定を図ることができよう。航路の問題、道路の問題も、その基本に交易のあり方が確立されていなければならず、いたずらに「離島苦解消」の命題にとらわれてはならない。

 「所得格差是正」のみならず、「離島苦解消」も言葉をひとり歩きさせず、その前に、島嶼間の交易を重視すべきである、と基は主張する。

 奄美は「本土並み」になるために、自らの生活のリズムを穀してきたと言えよう。振興計画改定のつど、自立性はうたわれてきたが、そこには何らの論理も兄いだせなかった。むしろ、自らの生活のリズムを毀すという形で、自立性を失う道を歩んだ。これについては、地元、県、国のそれぞれの立場から、過去十九年を洗い直さねばならないだろう。

 「本土並み」という目標は、島の生活を確立するのではなく、むしろ破壊してきた。

 本来、奄美のような島喚社会では、自然と生産と人との三つに、最も普遍的にして基本的な究極概念をしぼることができる。そしてそれらは、自然は森林(河川、沿岸を含む)に、生産は農業(沿岸漁撈を含む)に、人は集落に具現されるものである。喜界島や与論島のような隆起珊瑚礁の島でも、森林に準じた線の台地が貴重な水源になっていることにはかわりはない。
 奄美を生かすも殺すも、この三つのカテゴリーの把握いかんにかかっていると言えるであろう。

 36年前の基の提言は現在でもほぼ当てはまる。現在なら、ここに、人の交流(観光とインターネット)としての「消費」という四つめのカテゴリーを加えることができるのではないだろうか。


『島を見直す』

Shimawominaosu1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/10

『さしすせその仕事』

 加計呂麻島の酢の話。

 二〇〇六年、東京のJR新橋駅構内に健康ドリンクスタンド「黒酢バー」がオープン。黒酢やリンゴ酢、五穀酢などをベースに、一四種類の「飲む酢」を提供する。手軽で口当たりが良いと評判で、通勤時間帯にはスーツ姿のサラリーマンであふれる。

 ぼくもここで飲んだことがある。なにしろ、酢が好きだ。

「昔は酢は貴重でした。マヨネーズやドレッシングなんてなかったから、野菜と合わせておかずにしました。飲むなんて知りませんでしたよ、ほっほっ」(西田さん)

 そうそう。刺身だって、酢に漬けるのがふつうだと思ってた(笑)。

 人気の健康酢、たとえば沖縄のもろみ酢も、鹿児島の黒酢も、そして奄美のキビ酢も、思えばほぼ長寿の土地で生み出されている。これらの酢は味も個性的だが、カルシウム、マグネシウム、ポリフェノールなどの含有成分にも特徴があるとされる。酢の摂取と長寿の因果関係は、やはり注目する人が少なくない事柄だ。南の島の人と風土が自然発酵の酢を生み山し、再び人と風土を培っていく。どうやらここには、健やかな輪廻があるようだ。

 砂糖きびが、ちゃんとした特産品としてデビューするのは嬉しい。

 

 ここで紹介されているのは、奄美ヘルシーネットワークのきび酢。

 そういえば、ぼくのぱらじ(親戚)も、きび酢をつくっていなすった。「与論島きび酢」


   『さしすせその仕事―本物の調味料を作る本物の人』

Sasisuseso_2

Peh

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/09/09

「本土並みとは」

 現在、奄美復帰から半世紀以上、経っているが、復帰20年の1973年に基俊太郎が何を課題に挙げていたかを見てみたい。いま、何を解決済みにしえているかを見るために。

 顧みて、これまでの施策の命題は、米軍政府下の八年間の「空自」を埋め、さいはての「離島」を解消し、「本土」との格差の是正でなければならないということであった。そして、その成果は、学校、港、道路といった物理的エクイプメソトによって「空白」を埋めながらも、予想だにしなかった「本土」の急ピッチの歩調に相対して、格差是正の命題は過重なものとなっている。

 予想だにしなかった急ピッチの歩調とは、高度経済成長のことだ。米軍統治下の「空白」を埋めるという当初目的は、高度経済成長のために、拡大したかのように見えることを指している。ほんとうは、「空白」は米軍統治下だけのものではなく、数世紀にわたったものであることがことを深刻にしていた。

 時はめぐって、格差是正は奄美的課題だったが、いまや「本土」も「格差」が課題になっている。これは、奄美的課題の本土化だろうか。

 奄美群島とは、北緯二十九度より二十七度間の大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島よりなる島嶼ブロックの新しい概念である(ただし横当島の無人島を除く)。それは戦前の鹿児島県大島郡という行政圏から、上三島(硫黄島、竹島、黒島)と下七島(トカラ列島)よりなる十島村を除外した復帰ブロックであり、奄美群島復興特別措置法(昭和二十九年)の対象として、離島振興法による離島一般(トカラ列島など)とは区別されている。

 このような行政圏の定着がもたらした一つの変化は、南西諸島という従来の地理概念が、奄美にとって 湖はなはだ希薄になっていることである。正式に「大島郡」の呼称から離籍した十島村の去就については、奄美側は何の関心も示さないでいる。鹿児島-名瀬問の夜間航路は火山列島トカラを視野から消し、感情移入の機会をうばってしまった。

 「火山列島トカラを視野から消し、感情移入の機会をうばってしまった。」

 これはいい表現だと思う。行政区分に過ぎないのに、ぼくたちはトカラに対する隣人の感覚を無くしているのではないかという内省をもたらしてくれる。同じように、奄美は沖縄に対し、沖縄は奄美に対し、「感情移入の機会」を無くしている。

 島づたいの距離感の喪失は、地域社会学から見れば、島嶼社会の生き方に不似合いな発想をもたらすものと言えよう。その意味では、「空白」とは、「離島」とは、そして「本土」とは一体何であったか、いま一度問い直してみる必要がある。
 「本土」という呼称は、行政分離時代の「本土復帰」志向から生じた「母国」を意味したであろうが、復帰後も「本土」の呼称はそのまま存続し、いまではすっかり生活用語として、戦前の「内地」あるいは「ヤマト」にとって代わっている。
 それは「母国日本」 から「メインラソド」(付近の島に対しての本土)への移行として理解されるが、そこには「奄美群島」対「本土」という、戦前にはなかった新しい関係に自己が投影されている。

 トカラに対する感情移入の機会を無くし、島嶼の距離感を喪失させ、それは島々の生き方に「不似合いな発想」をもたらした。不似合いな発想とは、「本土」を中心と見なしてしまう発想のことであり、基自身が、「大島本島」という呼称のなかで、大島自身を見失ったのではないかと内省したものだった。

 「不似合いな発想」ということを、舌足らずだが言い換えてみれば、収入は低いのに物価も交通費も高いことは解決すべき課題だが、島の緑と珊瑚礁やゆったりした時間の流れまで「本土化」して無くしてしまう発想のことだと受け止めてみる。

 「本土並み」はあるゆる施策の目標となり、自他ともに疑う余地のないところである。
 「離島」は離島苦を意味し、従ってそれは解消しなければならないものであった。今では飛行機が飛び、快速船が走り、往年のハシケ航路からすれば目を見はるものがある。
 ところが、この離島苦解消の代償には、離島そのものを失いつつあるという側面が露呈されている。自然の破壊、生産性の低下、人口の流出といった現象は、その一連のものである。それは「本土並み」という地つづき願望に起因していることは明らかである。

 「不似合いな発想」を、基は「地続き願望」と言い当てている。
 これは沖縄に象徴的に現われている。信じ難いほどの巨大な橋が沖縄島と周辺の島をつなぎ、文字通り地続き化しているからだ。これは島が島の条件を無くすということであり、沖縄の島の数は減少しているのである。

 ただ、「離島苦」の不安には向き合っていかなければならない。鹿児島の、貧弱な土壌の田代に住む与論の島人が、

「台風なんかも島は吹き荒れ方が違う。それと病気になったとき、こちらはすぐ鹿屋にでも行けるけど、与論ではそうはいかない。地続きだという安心感、これは大変なものですよ」(『鹿児島戦後開拓史』 4

 という、この言葉は重い。


『島を見直す』

Shimawominaosu1

| | コメント (4) | トラックバック (0)

「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの最年少演者は7歳

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの最年少演者は、なんと7歳。与論島2世の青海ちゃんである。

 7歳とはいえ、演奏、唄ともに達者である。琉球民謡の師匠について学んでいるという。でも、もともと「よろんの里」で、演奏する人たちを見よう見まねで始めたのが最初だから、譜面を見て演奏するのではなく、手が覚えている。身体が知っているという自然な発露で、聞いていて驚かされる。

 持田さんとも何度か、「よろんの里」で共演しているのだが、持田さんの手の動きを横で見ながら、自然に吸収しているかのようなそぶりなのだ。

 せっかく来ていただける方には、子ども唄者のすごさも楽しんでもらいたいと思っています。青海ちゃんは、出身地にちなんで、「与論小唄」担当だ。

 お楽しみに。

Aoi1Aoi2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/08

「五つの契機」(「唐獅子」6)

 与論島と沖縄島の間の境界が、県境である以上の意味を持ってしまう背景には何があるのだろう。あるいはどのような契機が境界を強化してしまうのだろう。

 五つのポイントがあると思う。

 ひとつ目は琉球王国の成立過程で、琉球が奄美を征服したことを根拠にした奄美の反発である。特に奄美大島と喜界島は軍の派遣によって征服されたということが挙げられる。ときにそれは、「奄美は、琉球、薩摩、アメリカに支配された」という表現になって出てくるのだ。

 二つ目は、琉球王国が沖縄島を中心に形成されたので、奄美は沖縄からは付属的に位置づけられてしまうことである。本当は、奄美は宮古、八重山と同位相にあるのだが、県が異なるため付属感が強調されてしまう。道州制の議論ではときに奄美を「組み込む」という言い方になって現れたり、沖縄島を中心にした歴史観が拍車をかけたりしている。

 この二つは、表裏のように反発しあう契機をなしているのではないか。

 三つ目は、ずっと歴史は下り、奄美の日本復帰を契機に、沖縄において奄美の島人が「外国人」扱いになり差別されたというものだ。

 最近では、佐野眞一の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』のなかで指摘されていた。これは奄美の復帰に伴うアメリカの政策の結果であることが見過ごされて、奄美、沖縄間の現象として注目されるのが特徴的である。

 四つ目は大和とのかかわりのなかで形成された、北が南を軽んじることに端を発するもので、奄美から沖縄に向けられる。奄美による琉球王国形成への関与という史実が浮かび上がると、これは、二つ目に挙げた、沖縄島を中心と見なすことによる、南が北を軽んじる傾向と対をなしいくかもしれない。

 そして五つ目は、奄美も沖縄も「日本人になる」ことが絶対化し、相互に無関心になったことだ。砂鉄がまっすぐに磁石を向いてしまうように、お互いに目もくれず北を向いてしまった。近年でいえば、このことが最大の要因になっていると思える。

 両者の反発や無関心はこのどこかに端を発して表出されているのではないだろうか。もちろんぼくは、認識することで克服可能なものにしたいのである。(マーケター)


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/09/07

「鹿児島の無関心」の根っこ

 南日本新聞、「南風録」

薩長嫌いで知られる福島県会津若松市の市民劇団が、和解をテーマにした演劇を鹿児島市で公演すると本欄で紹介したところ、劇団関係者から手紙をいただいた▼私たちは薩摩との友好を心から望んでいる。しかし、一部の会津人にとって遺恨を生んだ戊辰戦争がいまだ終わっていない現状を考えると「会津から薩摩への和解の提示」という表現には戸惑いを覚える、という内容だった▼

「和解の提示」は鹿児島の受け止め方を表したつもりだったが、手紙には会津の総意と誤解されることへの懸念が記されていた。会津人にとって繊細な問題への心配りを欠いていた不明をわびたい▼薩摩同様嫌われる長州の萩市は会津との交流に積極的で、以前姉妹盟約を申し入れたことがある。だが「時期尚早」として断られた経緯をみれば確かに、会津から鹿児島に和解を求めることは考えにくい▼ただ、やりとりがきっかけで萩と会津は市民レベルでの交流が盛んになりつつあるという。10月の鹿児島公演が、両市の交流を深める端緒になることを望みたい▼

問題は鹿児島の無関心だ。「140年も前のことを今さら」という姿勢では、遺恨をばねにその後の苦境を耐え忍んだ会津との関係改善はあり得まい。会津は勝者の側からでない「戊辰戦争の検証」を求めている。歴史の怨念(おんねん)を乗り超えるのは容易でないが、まず一歩を踏み出したい。

 ここでいう「歴史の怨念を乗り超える」のは難しくないと思う。

 「薩長嫌いで知られる」という「繊細な問題への心配りを欠い」た言葉の、他者感覚の不在あるいは欠如が、ことをことさらに難しくしているのであり、それへの気づきが「一歩」である。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

「与論の沖縄型民家」

 島尾敏雄もそうだったが(「島尾敏雄の与論島、その表情」)、与論は、旅人をときに夢かうつつか分からない世界へ誘うかのようだ。

 与論の茶花沖に船が投錨したとき、それは満月に近い月夜でした。ハシケから月明りに海が透き通って見え、期待を一ばいにするのでした。翌日、このドラヤキをつぶしたような島を巡りながら、南の海上に沖縄島を見たとき、それは予想を超えて、むしろ夢に近い新鮮な光景でした。夕陽のさす足戸へのだらだら坂を、紋付姿の二人づれの婦人がふろしき包を頭上にのせて登って来るすれ違いに、私はこの島の最も良き時代の断片を垣間見たのです。西の海上に鋸状の島がくっきり浮かび、それは私の地理の知識を超えた未知の島(イヘヤ島)で、ユソヌ(与論)というこの島では、時間の推移が絶えずこの透明な大気の中へ吸収されていくみたいでした。

 「ドラヤキをつぶしたような」と言われると、失敬な(笑)とも思うが、「時間の推移が絶えずこの透明な大気の中へ吸収されていく」という感覚は、与論のものだと、ぼくも思う。

 与論のトーグラは先にも触れたように、土間と土壁が特徴ですが、それ大島から見ると想像もつかないほどで、トーグラの変遷について墓な示唆を与えるものです。茅の葺き方はタラをはじめ、すべてが棟を一点の束に結ぶのが特徴で、沖永良部へ移住した家ですら、この与論型を固執するのです。与論には与論だけの世界があって、それが「島」であるのです。
 帰路、客を乗せた上り船は、沖で長い時間待ちをしなければなりませんでした。エソジソを止めた船が月夜の海上に浮かんで、白夜のような静寂が広がるのでした。かすかな音に目が覚めたとき、船は汽笛一つ鳴らすでなしに、微速で動き出していて、黒い島影に浜が白く光り、ゆっくり右へ移動していました。それが、私には船がどんどん南下しているように錯覚されたのです。

 「与論には与論だけの世界があって、それが「島」であるのです」というのは、シマ/島の定義と言ってよいものだ。夢幻にさまよう感覚は、島を去るときまで基を離れていない。時間と空間の感覚がゆらいで覚束なくなる。それは与論島クオリアだ。


『島を見直す』

Shimawominaosu1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/06

藤木勇人さんと打ち合わせ

 「凍てつく南島」のsyomuさんが、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントを、「琉球弧のグラデーションを滑らかにする試み」と紹介してくれていて、そうそう、そういうこと、と思った。

 先日、イベントを一緒に企画している持田明美さんの紹介で、パネラーの一人、藤木勇人さんと東京でお会いした。イベントの打ち合わせだが、ぼくにとっては初顔合わせであり、知りあう機会でもあった。20年前に、りんけんバンドを観にいったときの、聴衆の一人としての自分も蘇ってきて、ファン心理になったり、不思議な心持ちだった。

 当日の流れを説明して、パネル・ディスカッションは、奄美と沖縄のつながりをどうやったら回復できるかをテーマにしている。と、前振りして、話に入ったのだが、約2時間は終始、笑いっぱなしだった。藤木さんの話が愉快だったからである。もうさっそく、一人芝居を聞かせてもらっているようなもので、打ち合わせそっちのけで引き込まれていった。流石、芸としての「噺」だ。

 なかでも特に印象に残ったのは、沖縄は、奄美と似ているということだった。自然や言葉などを今更ながらに感じたというのではない。自然の壊し方、島の無力感、補助金づけの体質といった状況がそっくりで、沖縄の方が、人も島も金も規模が大きいので目立つが、奄美の状況を拡大鏡にかけてみたようなものだった。両者には相似形があるわけだ。

 あれこれ話すうちに漠然と感じたのは、つながりの障害の中味と克服の方法を議論し合うというよりも、それぞれの立ち位置から見て、奄美、沖縄に対して、どんなことを、どんな場面で感じてきたかを広場に出し合うということが大事なのではないかと思えた。そうした中で、つながりの障害や克服の方法が見えてきたりするのではないか。藤木さんとの話で、奄美と沖縄の相似形が見えたように。

 今回のパネル・ディスカッションはもとより、学術的なものではない。上里さんにはもちろん、学術的な話も期待するわけだが、それはディスカッションの性格を規定するものではなく、むしろ、上里さんがそう言ってくれたように、異種格闘技のようなものだ。それなら、なおさら、理路整然というより、ヒントが数多く発火してくれたらいい。

 藤木さんと話していて、むしろ注意しなければいけないのは、藤木さんのトークに頼りすぎてはいけないということだ。そこは、進行役のぼくがしっかり努めなければいけないところだ。上里さん、圓山さん、藤木さん三者の持ち味を引き出していきたい。

 パネルディスカッションの後に、藤木さんには改めて噺をしてもらいながら、コンサートに入る。そこで、奄美絡みの話が聞けることだろう。藤木さんが、奄美に絡めて話すのは、他ではない機会だから、そちらもぜひ、楽しみにしてもらえたらと思う。

 「奄美と沖縄をつなぐ」。その言葉がちょっと気になるという様々な人たちの集いになれば、それがいちばん嬉しいことだ。

 目下、チラシとポスターを制作中だが、チケットは、ぼくにメールくだされば、手配します。

 cyf00266@nifty.com

 お手数をかけますが、このアドレスを半角で入力して喜山宛てにメールください。(ブログの「メール送信」のアドレスと同じです)
 
 「住所、お名前、電話番号、人数」を教えてください。振込用紙とチケットをお送りします。前売券は、3,500円です(当日券4,000円)。

 当日のプログラムはこちらでご覧ください。



 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009/09/05

「異説観光文化論」補足

 基俊太郎の「異説観光文化論」で、さらりと通り過ぎて見落としそうになった箇所があった。

 こうすればこうなるという事の吟味がなされないから、「公共のため」の目的論が逆に住民不在の結果をまねくのです。島の文化のため、あれのとりこわしを振興事業の項目に付け加える事を提案致します。
 「開発」と「保存」との利害はしばしば問題になるところです。先年、尾瀬湿原帯についての騒ぎは、只見川上流のダム計画の中で尾瀬をダム化して、あの湿原帯を湖底に沈めるというものでした。それに対して、尾瀬の学術と景観を守る立場から反対が起き、利害得失の対立となりましたが、幸いに「保存」へ決定したのです。これは人ごとではありません。住用村では先にふれた住用川デルタの干拓計画が以前から出たりひっこんだりしておるのです。

 開発と言うと、そこに何か開拓精神的ムードをただよわせて、最初から肯定的先入観で出発します。昨今はやたらと開発、開発です。自然や文化をこわしても開発です。開発が此処まで拡大解釈されるのなら、いっその事「保存開発」の新語を作ったらどんなものでしょう。「開発」同士のケソカになれば事の実体が明確になるかもしれません。

 「とりこわしを振興事業」にという提案は、アリではないだろうか。過剰な建設業の技術を「保存開発」力へ転化するということ。就業としては長期的な解決にはならないが、島の生命力は長期化する。

 維持困難なハコモノ、無人の漁港などの天然自然回復。時間を逆回転させて見るような工程のなか、天然自然回復を技術力として内在化させることはできないだろうか。


『島を見直す』

Shimawominaosu1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最後の決勝戦。惜しかった。

 決勝戦。ゼロ・ゼロのまま緊迫した試合は最終回を終了。こういう場合はサドンデスをするらしい。

 ワンアウト1、2塁の状況からゲーム開始。4番バッターは最高の当たりだったが、センター正面のライナー。走り出していた2塁走者が、刺されてダブルプレイ。ものにできずにチェンジ。重苦しい空気が漂う。

 同様にワンアウト1、2塁から開始で守備につく。あれ、なんだったかな。何かあって満塁。次のバッターの打球は1塁側へファールで横にそれて飛んでいったが、わが子が横っとびで忍者のようにキャッチ。思わず拍手で、重苦しい雰囲気から流れを一気に引きこんだ。

 のだが、次のショートゴロが深く、間一髪、判定はセーフ。

 あまりに一瞬の出来事で、選手も応援しているぼくたちも呆然。試合終了してもまだ呆然としていた。惜しかった。ぼくたちもそうだが、選手たちはもっと悔しかっただろう。

 ん~、残念。だけど、みんなこれを糧にしていってほしい。と、思う。


 これで息子たちのスポーツ観戦も最後かもしれない。ちょっとさびしいが前を向こう。少なくとも、忍者飛びで捕球したあとの子どものはにかんだ表情はずっと記憶に残る。宝物だ。


So0So1_2So2So3So4Team1Team2Team3Team4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/04

「直接支配下の奄美 統治の仕組み」

 選挙戦報道がかまびすしい中、また弓削政己が重要な史実を報告している(「南海日日新聞」2009年8月28日)。薩摩支配下における「行政機構・役人体制」についてである。

 まず、琉球王国の行政区分である「間切」は、「方・噯」に再編される。

 喜界島(1692年)
 5間切 → 3噯(あつかい)

 大島、徳之島
 1間切 → 2方(ほう)

 沖永良部島(1857年)
 3間切 → 3方(ほう)

 この変更は段階的なものだ。

 薩摩藩統治初期は、琉球球統治時代の役職を前提としたが、次第に直接支配を強めていく。近年の研究では与人職は「薩摩藩からの導入」と指摘されている(石上英一氏・伊地知裕仁氏)。1623(元和9)年、「大島置目之条々」で琉球統治時代の最高責任者の大親役を廃止。さらに、1728(享保13)年の「大島規模帳」は、島民身分を「平百姓」と明確にし、旧来の門閥に限定せず役人を任ずるようになった。

 ぼくは、1623年の「大島置目之条々」と1728年の「大島規模帳」から、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外が構造化される様を『奄美自立論』では抽出したが、その内実である薩摩の直接支配という側面からはその強化の過程であることが分かる。

 この支配構造は下記のようになる。

 勝手方掛(主に財政管轄)
 |
 三島方(天保改革以降、奄美の黒糖を管轄)
 |
 各島代官(藩詰役人)
 |
 島役人の与人(間切・方の長)
 |
 功才(こうせ)(諸事を扱う)

 黍横目・竹木横目(砂糖樽や竹を管理する役職)

 ここで、重要なのは、

間切役人の与人・与人格、横目・横目格の任命は、与人・代官・三島方等の上進を経て、藩家老が「申付」ている。さらに、代官は島役人にその事を知らせている。

 と、島役人の任命を家老が行っていたことである。

 ※(例.1808(文化5)年。徳之島の奥盛に対し、家老の喜入多門が与人の「申出」を受けて横目格を「申し付け」ている。)

 「代官所書役」も同様。

 ほかに島役人の代官所書役も藩家老からその職を申し付けられているという(「沖永良部史稿本)。ただし、大島の代官所書役制度は、1825(文政8)年より始まった。

 大島の代官所書役制度が1825年以降のものだとしたら、「大島代官記」の「序」は、やはり、島役人が書いたものではないのだ。(「大島代官記」の「序」を受け取り直す 2」

 郷士格(士身分)取り立ても代官(三島方)を経て同様の手法で行われている。
 一定の村方役人は代官の任命権である。

 「郷士格」は家老、一定の「村方役人」は代官。

 島役人に対して、間切役人と村役人の辞令を家老と代官権限に分け、郷士格は鹿児島の城で申し付ける制度をとり、郷士格跡目相続も鹿児島の武士規定に沿っていた。薩摩藩直轄支配を、島役人編成の面から確認させるものともなった。

 郷士格は家老任命であるだけでなく、鹿児島の城で任命を行い、相続も武士規定に則った。

藩からの詰役人は、基本的に満2年詰め。

 一方、

 琉球との関係をみると、個別の結びつきはありながらも、
奄美側からは行政伝達は、

代官-琉球在番奉行-琉球王府、

琉球からは

琉球王府-琉球館-藩-代官等

奄美島嶼の代官・与人、島民と直接交渉はできない仕組みがあった。

 つまり、琉球と奄美の島人との接点はなく、「奄美は琉球ではない」規定は制度上も貫徹されていた。

◇◆◇

 ぼくたちがこの報告から受け取ることができるのはどういうことだろうか。
 「大島代官記」の「序」は、奄美の島役人が書いたものではない。それは大島の代官所書役制度が1825年であることにも確認することができる。あの、薩摩史観を移植されたような「序」は、奄美発のものではない。しかしにもかかわらず、時代がくだるにつれ、島役人は、奄美内薩摩として、奄美からの収奪に大きく与ることになったのはなぜなのか。

 それは、島役人でさえ、推薦を受け家老から任命されるというように、薩摩の体制そのものに組み込まれていったからだと考えることができる。ここに直接支配ということの内実を、ぼくたちは見るのである。

 同時に、奄美の島人は政治的に琉球とつながることはできなかった。「奄美は琉球ではない」という規定は貫徹されていたのだ。

(参照できるように、図表を引用しておきたい。「南海日日新聞」2009年8月28日)

Yakunintaisei1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/03

「異説観光文化論」

 基俊太郎の「異説観光文化論」は約40年も前の文章だ。ぼくたちはこれをどれだけ過去のものにしているだろうか。

 土地にはそれぞれ固有の文化があり、従ってその味覚も亦固有のものであります。併し、地方文化が都市化、近代化の過程で自らの性格を失って中性化しつつあるのが日本全体の傾向であります。そして、不思議な事は地方程それがはげしいのであります。汽車弁は同じ二百円でも田舎へ行くに従って不味くなります。田舎で都会風の弁当を作れば不味いに決まっております。なぜ都会風にするのでしょうか。お客様は田舎料理が口に合わないだろうと思うのでしょうか、いやそれよりも田舎料理よりは都会料理が上等で美味しいのだという偏見があって、都会料理にも美味しいのと不味いのとがある事など考えてもみないのです。何も田舎は田舎料理でなければいけないという事ではありません。田舎料理にも美味しいのと不味いのとがあります。要は何料理であれ、より美味しいものを作り出す事ですが、都会化をたどる地方では何が美味しいかという味覚そのものが混乱して、すっかり自信を失ってしまったのです。そして、そのような自信喪失の裏返しに観光が空しく自己誇示の役をつとめるのもいたましいと言う外ありません。

 「自信喪失の裏返し」としての観光という側面はまだある気がする。ただ、田舎料理を誇らしく出すようにはなった。旅行者のみならず、本土の奄美、沖縄料理店で気軽に味わえるようになったことも寄与していると思う。むしろ現在は、なんちゃって料理店も多く、都会での田舎料理の質が問われているのかもしれない。また、田舎料理は誇らしげに提示されるようになったとはいえ、それを商品化しているのは相変わらず本土資本で、地元が潤っているわけではない。

 味覚と産業が有機的に繋がった状態を文化と呼ぶのです。毎朝、新鮮な魚が名瀬港に水揚げされるのに、寿司の種をわざわざ鹿児島からとりよせるのを植民地文化と呼びます(名瀬の寿司屋はコプシメを知りません)。これは倫理や経済の問題ではなく感覚の問題です。
 このような古典的な思想に対して、必ず「流通機構の現代社会に於いて、云々」と反駁が出るに違いありません。野菜を鹿児島へ出してそこで値をつけて、送り返して名瀬で食べるのが流通機構であれば、私の古典的な思想の方がよっぽど健康であります。大島では自給自足の素朴な美学は理念として、又実際に生かしておかねばならないのです。

 「植民地文化」とは言い得ている。これはいい加減、止めるべき課題だと思う。

 「吾きやシマ」 が失われたと嘆く人の言葉には実感がありますが、郷土発展のためにとか、観光のためにとか弁を弄する政治家や有力者の言葉は浮いて空疎に響きます。私は退えい的な扇動をしているのではありません。何年ぶりかでシマに帰って来たら、浜のアダソが消えてコソクリートの堤防が出現していた現実に深く失望する人達に同情するのです。都会の生活の中で苦闘しながら、意識下の中でたえず力の支点になっているシマが変貌する事は決して好ましい事ではありません。私が初めにふれた大島の集落事情に於いて、生活の単位である集落の環境に変更を加える事は生やさしい事ではないのです。現にシマを巣立って行った人達にも、その精神的影響を及ぼしておる事を思えば、単純な目的論で処理できぬ事情をそこに読まねばならないのです。

 三角平地の一辺を海へ向かって開く大島独自の集落は、海との空間交流に於いて、その接点となる砂丘が重要な意味を持ちます。つまり集落内の生活空間と海原へ拡がる自然空間との中間に、砂丘がアダソやガジュマルとともに緩衝帯を形成して両空間を取り持ち、其処を通して、村から浜へと空間心理をつなぐのです。防風、砂防の役目は勿論であります。「島育ち」 の情緒は背後にそのような意味が働いているのです。

 高潮対策の堤防は、ただ高潮だけを防ぐ目的のために、海と集落との空間交流の関係を断ち切ったのです。ところどころ浜へ下りる出入ロをつけてありますが、笑止の沙汰で、これでは浜と集落は心理的につながりません。こうなってはもう「浜」 ではなく、敵前上陸の「水際」であります。まさか次の戦争に備えているわけでもありますまい。私は未だかつて高潮の被害など聞いた事がありませんし、本当にそれが必要であるかは疑わしく、あの由緒ある渡連など全く瀬戸内に画しておりながら、例のコソクリートで要塞化されているのですから、昔の渡連を知る人はマユをひそめるのも当然です。

 「都会の生活の中で苦闘しながら、意識下の中でたえず力の支点になっているシマが変貌する事は決して好ましい事ではありません」という出奔者に対して、島人には島人の生活があると反論する権利を島は持っている。

 ただ、現在も続くコンクリート堤防は、「浜」の「水際」化であり、「海と集落との空間交流の関係を断ち切っ」てしまうという評価は島のメリットになっていないことを教えている。島の宇宙観を損なうということだから。

 大島の地元の観光熱は大島特有の文化、自然美を内外の人々に満喫させたいという素朴な郷土愛に根ざしていて、その限りに於いては否定されるべきものではありませんが、これまで述べて来た私の文化論をふりかえって下されば、観光など少しもやる必要はないばかりか、「観光熱」はもっと文化の次元で情熱を燃やすべき所を得て、ご安心頂けると思います。
 「名瀬らしさを失いたくない」という少数意見は単なる懐古の情ではなく、名瀬が悪くなるのではないかという危供と、名瀬をよくしたいという願望として、私は理解します。産業開発、都市開発の思想に、自然観、歴史観、文化観が欠けるなら「名瀬らしさ」 「大島らしさ」は失われるでありましょう。しかも、現実には「名瀬らしさ」はすでに失われたスローガソでありますが、気がついたところで「名瀬らしさをとりもどす」ためのキャソペーソは急を要して、それが「紬」のなげかわしい問題に集約象徴されておる事も決して偶然ではありません。

 「観光など少しもやる必要はないばかりか、「観光熱」はもっと文化の次元で情熱を燃やすべき」という立言も、現在も生きている。今のほうがリアルに聞こえるのではなだろうか。


『島を見直す』

Shimawominaosu1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/02

『島を見直す』は、大島を見直す

 基俊太郎の『島を見直す』は、奄美大島を見直す、に重点がある。そのモチーフは「はじめに」から明確だ。それも、「はじめに」の冒頭に、もう核心が現われる。

 喜界島より大島本島を遠望する時、延々とその島影は北は笠利崎より南は加計呂麻とおぼしきあたり迄、それは島と呼ぶにはあまりにも大きな内陸的全容を横たえております。落日を逆光にして浮き出したその島影を眺め、私は「これは違う」と、ある発見にも似た感情におそわれました。それはこういう事です。
 私は大島の一端として、徳之島や喜界を見て廻りながら、それぞれの相違を観光的バラエティーとしてつかんで来たのですが、実はそうではなく、大島本島は徳之島や喜界とはまるきり違うのではないかという事です。喜界の人は決して「大島本島」とは呼びません。「大島」です。徳之島がそうだし、沖永良部、与論でも同じでしょう。そう言えば、私の幼少の頃はやはり大島、徳之島、喜界等々でありました。それが、大島を中心にして離島が散在するといった行政概念が、知らず知らずに大島自身に本島意識を与える事になったのでしょうか。大島郡に於ける大島本島になってしまったのです。従って大島を中心にして、喜界、徳之島、沖永良部、与論と自らの外延を拡げてしまい、同時に自らの姿を見失ってしまったのです。

 併し、喜界では自らを他と区別して来た生活感情が未だ衰えておらず、大島は依然として大島であって、決して「大島本島」ではありません。大島から来る人は「大島ちゅ」であり、従って他者であって身内の老ではないのです。まして離島意識など全然持っておりません。喜界のこのような文化背景の前で、私はタ私自身の内部にいつしか失われていた大島に気づき、はっとしたのです。
 私は大島を見直そうと思いました。徳之島でもなく、喜界でもなく大島だけのものに魅かれました。

 奄美大島人による大島発見である。「大島本島」という呼称が、自らを中心に位置づけ、そしてそれだけでなく、「喜界、徳之島、沖永良部、与論」までを知らず知らずのうちに内に含んでしまうように自己拡大してしまっていたのではないか。

 これは本島、本土という言葉に付きまとう陥穽だが、奄美の場合、それは「本島」という言葉のみならず、「大島」という言葉にもその陥穽は潜んでいた。島津の大島侵攻計画に見られるように、「大島」を俯瞰する視線からは、「大島」という一島名を指す名称が、その周辺までを含むことを意味していた。

 基のモチーフには共感する。「私は大島を見直そうと思いました。徳之島でもなく、喜界でもなく大島だけのものに魅かれ」るのは、ぼくで言えば、そのまま与論島クオリアのモチーフだ。

 私は、大島は島嶼ではないのではないかと思います。いや、島峡ではないという前提で大島を見直した方がよいのではないかと思うのです。変な言いかたですが、それは山の島です。しかも屋久島のような単一の形態ではなく、複雑な海岸線と山ひだを持った深い深い山の島です。私達は今日までこの深い山を背景にして生きて来た事をあらためて認識しておく必要があります。永久に水平線を見つめる生活の背後にいつも山を背負っているのです。地図を開くと不思議なくらい大島の村落は山を背にして海へ向かっております。崎原の山村や笠利の二、三の丘陵村落を例外にすれば、あとは殆どがそうです。喜界や徳之島はよく内陸の丘陵地帯に山村的集落を作りますが、このような事が此処ではまずあり得ないのです。これは山がけわしいからそうなので、地理的には簡単な事情にすぎないのですが、文化的には重要な特性として考えられるのです。

 「喜界、徳之島、沖永良部、与論」まで外延を広げた「大島本島」から、大島を再発見したとき、基の目に大島は、「山の島」と映った。 それは、与論からみても、そう見える。

 そして、「複雑な海岸線と山ひだを持った深い深い山の島」ということは、「大島」というひとくくりの地名を育てる必要がないことにつながった。龍郷の戸口と宇検の安室が、同じ島にあるという認識を生む必要がなかった。そのことは、「大島」という呼称が外的なものであると同時に、 「喜界、徳之島、沖永良部、与論」を含めて「大島」と呼ぶ根拠になったという推測を呼ぶ。


『島を見直す』

Shimawominaosu1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/01

やっと・やっと・やっと

 11月14日土曜日開催の「奄美と沖縄をつなぐ」イベント。布陣がやっとやっと(ほぼ)決まりました。

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの現在進行形

 ここまで延びるとは思ってもみませんでした。難航したわけではなく、ひとえにぼくの奄美・沖縄ネットワークが貧困なために、しかるべき出会いに時間がかかってしまったのです。でも、お待たせした分、とても豪華な顔ぶれになっています。

 今後、さらに詳しくご案内していきますので、どうぞよろしくお願いします。


◆1.パネル・ディスカッション 16:00-17:30

琉球弧の島々を歴史や想いでつなぐ
・奄美と沖縄を隔てているものを、改めてつなぐためにどのような糸口があるのか、その可能性を奄美と沖縄の双方の視点から掘り起こします。

上里隆史 『目からウロコの琉球・沖縄史』著者、早稲田大琉球・沖縄研究所客員研究員。blog:「目からウロコの琉球・沖縄史」
圓山和昭 「奄美の家日記」主宰。blog:「奄美の家日記」
喜山荘一 『奄美自立論』著者。blog:「与論島クオリア」
藤木勇人 うちな~噺家。blog:「世果報」


◆2.シマウタ・コンサート 17:45-19:00

琉球弧の島々をシマウタでつなぐ
・ウタは島伝いに海を渡り、シマの生活に根付きます。琉球弧のなかので同名異曲や異名同曲、ウタの変化を見、つながりを 発見します。おなじみのシマウタの思いがけない表情が浮かび上がります。

噺(はなし)と進行  藤木勇人

【出演者】
徳原大和(奄美大島)
内山五織、HiRo( 徳之島)
持田明美、マタハリダンサー ズほか(沖永良部島)
中山青海(与論島)
熊倉直樹&知念京美(沖縄島)
八重山芸能集団「結~ゆい~」、新城亘(八重山)

【演目(予定)】
1.与論小唄系
・十九の春(沖縄)、ジュリグワ小唄(沖縄)、与論小唄(与論)、ラッパ節(沖縄)、スーちゃん節(兵隊ソング)
2.行きゅんにゃかな系
・行きゅんにゃかな(奄美)、取ったん金ぐわ(徳之島)、武雄と浪子(永良部)、トゥータンカニー(沖縄)、石川小唄(沖縄)
3.稲しり節系
・奄美の稲しり節、徳之島の稲しり節、沖永良部の稲しり節、八重山のシシャーマ節
4.畦越え(ハイヤセンスル)系
・竹富島のじっちゅ、宮古・川満の笠踊り、沖永良部の奴踊り、徳之島の畦越え、沖縄の唐船どーい(カチャーシー)
5.六調
・奄美六調、徳之島六調、八重山六調


 ○前売券:¥3,500
 ○当日券:¥4,000

| | コメント (4) | トラックバック (1)

« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »