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2009/08/29

「直轄支配下の奄美 両属に生きる」

 1613年の大島への奉行設置から1693年の喜界島への代官派遣によって、薩摩による奄美諸島全体の支配体制が確立する。

 一方、1626年、薩摩は琉球の三司官に意見書を送る。

 中国勅使が来琉のときには前々から「五嶋役人なは(那覇)へ参り候て、その役儀勤め」ていたことを、勅使も知っているので、「一節成るとも琉球へ召し加え」「それぞれの用意相達し候様五嶋の役人申堅く申付け」たらどうだろうかと。
 こうして冠船渡来時には従来のように奄美五嶋にも「役儀」が与えられた。(「南海日日新聞2009年8月21日」)

 また、1691年、新たに島役人の上国が義務付けられる。
 先田光演は、これをして、

ここに琉球と鹿児島へ渡航が命じられて、道之島の両属関係が成立した。

 と位置づける。

 先田はここで、一人の与人を登場させる。沖永良部の担晋(たんしん)である。

 彼は20歳で琉球に渡って中国語を学び、22歳には鹿児島で医術を学んでいる。帰郷すると漢方医として島民の治療に当たり、唐通事にも任じられた。56歳のときに与人になったが、62歳で現職のまま死去した。正に彼は両属を生き抜いた島役人であった。

 担晋が39歳のとき、中国の冠船が訪れる。担晋も与人の同行人のとき、琉球にわたる。

 往来に約3カ月、那覇滞在に約2カ月を要し、一緒に出かけた島民は与人以下約20人にも及んでいる。那覇旅から帰ってきた彼らの見聞が島中に広まり、琉球芸能への関心を呼び起こすきっかけとなった。

 また1858年には、島津斉興の従三位昇叙祝儀のため道之島与人に上国が命じられ、沖永良部からは担晋が上国した。

 与人4年目、58歳であった。上図時の従者は献上品取仕建役3人と賄係3人の計6人であった。琉球渡航とは異なって厳しい制限があった。
 鹿児島では沖永良部問屋が宿泊所となり、各種の手配や手続きなどの世話をしている。
 担晋が到着したことを知った友人たちがよく訪ねてきた。lまた、招待されることもあった。道之島役人同士も交流を広げている。

 琉球への薩摩へも役人として赴いた担晋の存在は、興味深い。担晋はその境涯をどのように捉えていたのか、琉球や薩摩への道中、何を考えていたのか、知りたくなる。だが、それは担晋がどのように捉えたかということであり、それをもって、当時の奄美が置かれた状況をそのまま物語るものではない。

 島役人は鹿児島に渡っても島人の姿で通さなければならなかった。おそらく担晋も島の姿のままで城下士と付き合ったはずである。
 名前や姿格好が島人風であっても、意に介することはなかった。信頼関係の深さは、担晋の両属の知恵からあふれ出る実力と人徳の故であろう。

 担晋は「意に介することはなかった」かもしれないが、それは奄美が置かれた関係の絶対性を説明するものにはならない。先田は、担晋も島人の格好をしていたはずだが、として推測として言うのだからなおさらである。

 道之島は薩摩藩の直轄地になっても、なお琉球国之内であった。地理的にも歴史的にも、そのつながりは断ち切ることはできなかった。
 『横目日記』によると、西古見の福満の板付舟に13人が乗り込み、琉球に農具を買い求めに出かけていて、琉球と道之島の交易関係が断絶していなかったことが分かる。当時の島民は琉球国と物心両面でつながっていたのである。

 奄美が直轄領以降も「琉球国之内」であったのは、「地理的にも歴史的にも、そのつながりは断ち切ることはできなかった」からではない。「琉球国之内」であることを、中国、日本に示す必要があったからである。つながりは断ち切られていたのである。それは、島役人が登場するように政治的な舞台を軸に展開され、その余は断絶ではないつながりが細ぼそと保たれていた。断ち切れなかったのはむしろ、にもかかわらずの言葉や文化の基層性である。

 琉球侵攻の結果、道之島は「二重の支配」とか「隠蔽政策」、さらには「二重疎外」などと標榜されているが、島役人が薩摩と琉球に渡航できたことから「両属関係」という視点で捉えてみたい。

 ぼくは別に標榜しているわけではないが、「二重疎外」は『奄美自立論』の「二重の疎外」のことだろうから、なおのこと書いておきたい。

 「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外は、同時に隠蔽もされていた。すると、「奄美は琉球でもある、大和でもある」という仮象を持つことになる。一見、何事もないかのように見えるわけだ。しかし、それが疎外の上での隠蔽である。だから、漂着の際は、日本の金や文書を捨てて琉球を装ったり、かと思えば、月代をして日本名をつけて大和を装ったりということを命がけで行ったのである。

 こうした、二重の疎外とその隠ぺいの否定の契機を考慮しなければ、否定の否定は肯定、裏の裏は表とでもいうように、琉球にも薩摩にも属していたという「両属」という捉え方になる。しかし、これは表面をなぞるだけで、それこそ奄美の困難をネグル視点にならざるをえないのだ。

 先田は「直轄支配下の奄美 抵抗の系譜」においてもそうだったが、良心的で特権的な島役人の一例にすぎないものを、奄美全体に敷衍している。そこでは抵抗もあり、琉球とのつながりも感じられ、薩摩でも対等にやりとりした風に見える面も出てくる。だから、担晋の境涯も興味深いのである。しかしそれは特異な役人史であり、そこから奄美全体を語ることはできない。「両属関係」とのみ言ってしまっては、奄美の困難は掬い上げることができないのだ。いまさらどうして認識を後退させる必要があろうか。



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コメント

「奄美自立論」が岡山県立図書館の歴史・鹿児島の棚にありましたよ。

「沖縄幻想」読了しました。佳い本でした。一気読みでした。

http://blog.goo.ne.jp/gooeichan/e/137a00ca27547afec9bde9f0185dbdec

投稿: kayano | 2009/08/30 09:07

kayanoさん

>「奄美自立論」が岡山県立図書館の歴史・鹿児島の棚にありましたよ。

そうですか。ありがたいことです。

>「沖縄幻想」読了しました。佳い本でした。一気読みでした。

ぼくも読みました。沖縄への愛情があふれていましたね。

投稿: 喜山 | 2009/08/30 09:54

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