« 「若者ならずとも与論の印象は鮮烈である」 | トップページ | 再会の vivo! »

2009/08/08

与論島のイチマンウイ(糸満売り)

 本の趣旨からは離れるのだけれど、『恋するしまうた恨みのしまうた』で強い印象が残ったのは、与論島で古老が語った糸満売りの経験談だった。著者の仲宗根幸市は、イチマンウイやエーマウイ(糸満、八重山への年期奉公)した島人が多いことに驚いたという。

 ぼくの子どもの頃も、イチマンウイの話は交わされていた。少し前の世代の苦労話のひとつとして、あるいは、本土で言うことを聞かない子どもへの脅かしでいうサーカスのようなニュアンスで。

 古老の語りはきっと与論の島言葉と共通語が交じったものだったろうが、共通語として編集されたなかにも、与論の島人のおだやかさが保存されていてリアリティがある。糸満売りされたのはよい方で、島に残ったほうが「哀れ」だったという言葉が胸に刺さってくる。

 わたしたちの先輩たちは、明治の末ごろの台風(注‥明治三二年八月の台風のこと)で大被害をうげ、島人は今日明日の食べ物にも困り、すっかり生きる希望を失っていたようです。
 そのころ、九州で三池炭坑(三井物産資本)の沖積み人夫の募集があり、与論では戸長(現在の町村長)を先頭に長崎県の口之津への集団移住が計画され、何回かに分けて実施されました。長崎へ移住しなかった人たちは、糸満売りや八重山売りをされました。
 九州への集団移住や、糸満、八重山へ身売りされた人は良い方で、島に残っている人たちはそれこそ哀れでした。なぜなら、糸満売りされた人たちは三度の食事がちゃんとあったからです。

 わたしは明治の末の生まれで、一六、七歳のころ糸満へ売られました。売られたといっても、年期奉公が満期になれば自由になれるのです。
 わたしは糸満のある漁業経営者(オヤカタ)に預けられました。いわゆる、ヤトゥイングヮ(雇い子)です。ヤトゥイングヮになったわたしは、同じ身の上の仲間とともに、まずもぐり(潜水)から鍛えられました。
 海にもぐるわけですから、生まれて初めてミーカガン(水中めがね)をつけ、訓練を受けたのです。ミーカガンを付けるのも、驚きでした。
 もぐりは重労働でしたが、白いごほんや芋も満足に食べられるので幸せを感じました。なにしろ、与論では白いごはんにありつけるということはめったになかったので……。ふるさとで苦労している父母のことを考えると、耐えに耐えて海の仕事に精出しました。

 オヤカタの家には娘たちの奉公もありました。彼女たちの仕事は、めし炊きや水汲み、薪ひろいが中心でした。わたしたちの訓練と仕事先は、那覇港の沖にあるチービシ(慶伊干瀬のこと。渡嘉敷村に属する無人島・ナガンヌ島・クエフ島がある低平なサンゴ礁の島)あたりの漁場でした。
 そこではもぐりでイラブチャー(ブダイ類)やサザエなどを採っていました。チービシ周辺でアギヤー(追い込み漁)に参加させてもらい、先輩たちと頑張ったのです。
 与論では集団によるアギヤーはなく、個人中心の漁だったので、チービシで潜水技術や追い込み漁を習いました。

 話は前後しますが、潜水の訓練ではサバニからヤトゥイングヮたちが次々海中に飛び込みます。若い少年は長くもぐれないのですぐ浮き上がりサバニをつかもうとします。すると、先輩たちが櫂でたたきます。少年などは何回もたたかれ、息が途絶える寸前までもぐりの訓練をやっていました。
 わたしも何べんも櫂でたたかれました。もぐりは糸満漁業で重要なので、兄貴分の先輩たちは苦しさを覚えさせるために厳しく鍛えたのでしょう。
 そういえば、こんな騒動がありました。チービシで漁をしていたとき、ある一二、三歳の少年が突然グループから逃げたのです。沖縄戦後のチービシのことはわかりませんが、わたしたちが漁をしていたころのチービシは、砂丘に木や草が茂り、隠れる場所もありました。
 わたしたちの一団は一〇人ぐらいで、少年をさがすため小島を丹念に回り、ついに逃げた少年を見つけました。おびえているこの少年は、漁があまりにきつくて逃げたようでした。その事件後、この少年が逃げたりすることはありませんでした。

|

« 「若者ならずとも与論の印象は鮮烈である」 | トップページ | 再会の vivo! »

コメント

沖縄の歴史を調べているものです。
華やかな紅型や舞踊しか目が行かず、こんな過酷な、と
一言では言い表せない仕事が島を支えていたのですね…
とても参考になりました。

投稿: toitoi | 2010/09/26 10:01

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 与論島のイチマンウイ(糸満売り):

« 「若者ならずとも与論の印象は鮮烈である」 | トップページ | 再会の vivo! »