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2009/08/15

「大島代官記」の「序」を受け取り直す 1

 弓削政己が「直轄支配化の奄美 代官記」(「南海日日新聞」2009年8月7日)できわめて重要な指摘をしている。

 「大島代官記」の「序」は、従来、奄美の島役人が書いたものとされてきたが、そうではなく、「鹿児島役人系統」のものである、としているのだ。弓削は「序」の要約を試みているのでそれを援用しよう。

 これら史料の議論の一つに、大島、喜界島の代官記の「序」(同一文書)の評価がある。「序」は「小」(琉球)をもって「大」(島津氏。薩摩藩)を「敵と為すべからず」とまず述べる。ついで、琉球は「元来日本の属島」であり、「御当家忠国公」(島津氏)の「忠賞の御感」として、室町幕府足利義教将軍より拝領した地であると記す。しかし、三司官「蛇名(謝名)親方」の浅はか、愚かな「短慮愚蒙之計略」で「逆心を企て御当家(島津氏)に背いた」ため薩摩藩の支配を受けたとする。

 その時期は、琉球の国主尚寧の時であり、「当尚貞迄五代目」前である。以上の内容を受けて、「歎哉、禍は自ら招くという事、疑なき候故、天のなせる禍はさくべし、自らなせる災いはいくべからず」という。島津家支配の禍は、謝名親方一人の短慮に依るものである。その結果、「永く王土の類島まで、今に於いて、昔を慕うも、益なしと云々」という。

 小が大を敵にすべきではない。琉球は元来、日本の属島で室町幕府より島津氏が拝領したものである。それが謝名親方の短慮愚蒙で薩摩の支配を受けることになった。今となっては昔を慕うのは無益である、と。

 この一方的な論理について、『名瀬市誌』で大山麟五郎は、これが「代官役所に勤める島出身の役人によって、書かれたものであろうことは疑えない」として、論を展開していた。しかも、ここに「日本」という言葉が登場するのを引いて、「必ずしも納得できない新領主島津氏への服従から生じた苦悶を乗りこえる精神的支柱として、そういうナショナリズムによる大義名分が必要となった」と、ナショナリズムの概念を引き寄せるという深読みをしていた箇所だ。

 それは、「昔を慕うも、益なしと云々」の部分について、

「琉球国ハ元来日本ノ属島ナリ。」という大原則で、薩属下の現状をうべないながら、しかも古王朝に対する禁じえない慕親の情を思わずのべかけて、ロを持した島人書記の姿がそこにある。われわれもこの沈黙のもつ重みをうけとめながら、代官記の本文、いな、本文の文字に書くことのできなかったこのあとの奄美史の起伏曲折を、たどらねばならぬ。(「島津氏の琉球入りと奄美」

 と、細部にわたっていた。
 そしてぼくにしても、この大山の解釈に異様な屈折を見、これは奄美知識人の病ではないかと見たて、これが仮に島役人の書いたものであったとしたら、ナショナリズムの論理というようなものではなく、屈服の論理に他ならないとみなしてきたのだ(「島津氏の琉球入りと奄美」)。

 だが、弓削によればこれは、島役人が書いたものではなく、鹿児島の役人が書いたものである。

 琉球王尚貞5代前という記述から、これを『名瀬市誌』(1970年)は、1669(寛文9)年から1709(宝永6)年に「代官役所に勤める島出身の役人」が書いたものであり、薩摩侵攻以前の琉球国への「禁じえない慕親の情を思わず述べかけ」たものと把握する。以後、『名瀬市誌』の認識を前提にいくつかの評価がされてきている。
 結論から指摘すると、写本の代官記を検討した結果、代官記「序」を代官所勤めの島役人の認識とする議論はもともと成立しないと考える。

 写本を検討した結果、代官所勤めの島役人のものではない。

 まず、基本的なことであるが、代官記作成管轄からすると、島役人の中でも下位の書役が、代官所でかつ島役人の下で、独自に島津侵攻の琉球について歴史的評価の「序」を書ける立場にはない。
 その点で「詰役系図 在番所」のような代官所保管の原本様式を表しているとみられるものや1900(明治33)年、大島の池野田実政が写本した『大島代官記』には「序」がない。
 『詰役系図 在番所』や大島代官記各異本に共通するのは、「慶長十五一年本琉球、薩摩之御手ニ附」「慶長十五年頃琉球薩摩二渡ル」という文書である。これらの代官記の状況から、「序」は、「公文」として残る島役人の記録でない。
 「序」のある代官記2点は、いずれも代官所詰役管轄下で記載された1874(明治7)年までのもので、そのうち『大島代官記』(内容は『喜界島代官記』)は「大正四年十月廿六日ノ夜、樺山活庸ヨリ聴写」とある。その点で鹿児島役人系統と考えられる。

 まず、「島役人の中でも下位の書役」が、「独自に島津侵攻の琉球について歴史的評価の「序」を書ける立場にはない」。各異本のなかで、「序」のついているものを見ると、鹿児島の役人から「聴写」とある。

 しかも、「序」は、それ以前の1650(慶安3)年の『中山世鑑』と論理の組み立てが同じである。文言表現も「御当家忠国公」(島津氏)の代・「当尚貞迄五代目」(今の琉球王)と島津氏に対しては「御当家」、琉球王へは「当」と上下関係で述べられている。これらの文言は琉球・奄美諸島全体を統治する認識があって述べられるものである。従って、藩・詰役人系統の「序」であり、琉球支配下の「往古を慕う事は益がない」とする考え方は藩支配者が島民に押し付ける論理である。

 しかも、島津に対しては「御当家」といい、琉球王へは「当」と上下関係を示している。これは鹿児島の役人の手になるものであり、そうであるなら、大山のこだわった「往古を慕う事は益がない」という箇所は、「島民に押し付ける」支配の論理である。

 ぼくは弓削の指摘を読み、まず、やりきれなさと分厚い雲に覆われたような閉塞が和らぐのを感じる。大山麟五郎はこの「序」に、奄美知識人の最初の言葉を見て、アクロバティックな論理を駆使してその言説の意義を救抜しようとするが、意図とは別に奄美知識人としての自身の屈折を露呈したもののように読め、むしろここにあるのは奄美知識人の屈服ではないかと見なしてきたからだ。

 これが、奄美の島役人ではなく、薩摩の役人の手になるものだとしたら、話も理解もはやい。


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