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2009/08/31

200Q年入りか

 村上春樹レトリックのもてあそびになっちゃうが、なんかゆうべから今日にかけて、2009年から200Q年になった気がする。どこか非現実的で。実質、生まれて初めての出来事だからリアリティが湧きにくいのかもしれない。


 鳩山、管、岡田を見ていると、細川を思い出す。殿様坊ちゃんの雰囲気ではなく、素人っぽさが。政権交代は、老練な玄人から素人っぽさへの移行にも見える。鳩山兄弟は象徴的かもしれない。弟の方が、老練な玄人的顔つきだ。もっとも兄は素人っぽいというより宇宙人ぽい。ただ、ゆうべの表情は人間らしかった。


 ぼくのここ数年の経験からは、ある意味で、ゲームとライフの対比のようにも見えた。長崎が象徴的だったと思う。「原爆投下はしょうがない」というゲーム感覚と、文字通り、命としてのライフ感覚と。もともとは資本主義ゲームと生活(ライフ)という意味で発想しているのだが。


 郵政民営化と脱官僚主導は、公務員存在縮小の流れとして見ると、連綿としていると言えるだろうか。


 麻生は、漢字が読めなくて英語が話せる初めて(たぶん)の総理大臣だった。石原は、漢字の読めないことを「致命的」と言った。でも、漢字が読めなくて英語が話せるのは、グローバリズムを体現していたかもしれない。


 奄美は自民か民主、ではなく、徳田、だったと思う。小沢かな、個人本位から政党本位の選択へと言っていたと思うが、奄美はまだそういうわけにいかない。誰がいいのか、が基準なのだ。奄美だけ、200Q年に入らず、2009年に止まるみたいだ。それは現実を失わないということかもしれない。あ、でもこれは言葉遊び。いけませんね。
 谷山にいる母は選挙の前日だったかな、「しまんちゅの会」に参加してきたと言っていた。政党ではなく誰に、という気持ちになるのは分からないではないと思った。

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