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2009/08/02

「薩摩の琉球侵攻と琉球史像」

 「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(図書新聞」2009-6-6)の4つめの報告は、高良倉吉による「薩摩の琉球侵攻と琉球史像」。

 四〇〇年前の薩摩の軍事行動を、どのように表現すべきかという問題がある。歴史用語として、どのようにネーミングすべきかという問題それ自体が、実は歴史の問題である。
 侵略した薩摩の側は、「琉球入」「琉球征伐」「琉球出兵」などという。侵略された側の琉球は、「御手内」「侵攻」「侵入」「進入」などいう。そのどちらにも拘束されたくない「客観派」は、「慶長の役」などの用語に隠れようとする。そして奄美の側では、どう呼ぶべきかという問題はネグレクトされている。

 奄美では呼称の問題はネグレクトされている、というのはどういう意味だろうか。奄美では問われていない、ということだろうか。もしそうならなめた言い方である。たとえ口に出さずとも、胸の内にしまい込まれた沈黙の言葉としてそれはれっきとしてある。買い言葉のように言えば、奄美にとっての侵略の意味を問う視線が沖縄に不足していた、のではないのか。

 ぼくは『奄美自立論』では、「侵略」という言葉を使った。それが近代的な概念だとしたら、「琉球征伐」が国内的なニュアンスが伴うのに対して、国外的なニュアンスを示そうと、「琉球出兵」という言葉を使っている。これは適切ではないのだろうか。 

 「国語」「国史」「国民」は、近代国家日本の装置であったが、その「国史」の側は、一三〇年前の「琉球処分」をどう評価したか。同時にまた、四〇〇年前の「琉球侵攻」とその後を、どう評価できたのだろうか。
 私は、琉球史という歴史研究の立場を構築する、という課題を追究してきた。四〇〇年前の事件を琉球史として問題にするためには、事件以前の時代(古琉球)をどう措定するか、その後の時代(近世琉球)をどう構成するか、そして、それらの問題群が意味するところのものを、歴史の全体像にどのように位置づけられるかが、常に問われているはずである。
 古琉球に起こった首里軍の奄美や八重山などの対する軍事遠征と、薩摩の琉球侵攻の違いは何なのか。明治国家が、警察官や軍隊を動員して断行した「琉球処分」と、それ以前の薩摩による琉球侵攻は、歴史的対比として語ることができるのか。できるとすれば、その理由と根拠は何か。

 「薩摩の琉球侵攻」は、「琉球処分」や「沖縄戦」と並ぶ琉球史のキーワードである。その歴史学的検証作業と同時に、絶えず琉球史像の評価作業として、横たわり続けるテーマである。
 その重要課題に向き合うためには、古琉球に終止符が打たれ、新たに近世琉球という時代が出現したことを、その二つの時代の地平に立って考えるしかない。
 四〇〇年前の薩摩侵攻以降の、琉球の支配者たちの、いまに残る資料でみるかぎり、薩摩支配を受け入れた上で、琉球支配以前の古琉球の評価などに言及している。薩摩侵攻がまともに取り上げられたのは、沖縄出身の研究者たちが琉球の立場に立って議論を始めて、約一〇〇年の伝統である。
 古琉球と近世琉球は、断絶ではなく、流れのなかで検討されぬばならない。琉球侵攻とその後についての研究も、薩摩、奄美、琉球の相互関連のなかで検討されることが重要である。

 仮説として。「首里軍の奄美や八重山などの対する軍事遠征」は、同一・類似集団による軍事行動で先ほどの語彙を使えば「征伐」的。「薩摩の琉球侵攻」は、異集団による軍事行動で「出兵」的である。

 「琉球処分」は、近代民族国家形成過程での、軍事的威圧を使った列島内異集団のひとつの琉球の併合、「琉球侵攻」は、軍事行動を伴った列島内異集団のひとつの琉球の内部化。両者の違いは、近代民族国家理念の有無になる。

 もっと仮説を進めれば、ぼくは島人としての自分の実感と人間と自然の関係の在り方からすれば、もともと琉球弧には、国家を形成する必然性は無いと思っている。すると、琉球王国の成立も、大和あるいは異集団勢力のインパクトを梃になしたものと見なすこともできる。そうだとすれば、琉球王国自体、さほど評価することはできないと思える。

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