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2009/08/23

「直轄支配下の奄美 抵抗の系譜」

 1778年、一人の罪人が与論島に流されてきた。名は大島屋喜内間切須古村の稲源といった。
 時の沖永良部島代官・野村勘兵衛は与論島与人宛に「右の者はかねてより欲心が深く、昨年宇検方の百姓を集めて筋無き儀を企て、上納物の減額を願い出、付近の村が同意しなければ、畑を踏み荒らすなどと脅迫し、騒動を企てたために、流罪にした」と記述している。
 この上納物の減額が、1777年の第一次砂糖惣買上制(惣買入制)にわったものであることは容易に想像できるが、「筋無き儀」の異体的な内容は記録されていない。(「南海日日新聞」2009/08/14)

 こういう記事を見ると、稲源さんはその後、与論でどう過ごしたのだろうか、与論の島人にとって稲源さんの来島は、奄美の北で何が始まろうとしているのか、知る出来事になったのではなかったろうか。稲源さんは大島に戻れたのだろうか、与論には末裔はいるのだろうか。想像をめぐらせてみたくなる。無事に過ごしたことを祈るばかりだ。

 稲源の与論行きは島役人として、第一次砂糖惣買上制に異議申し立てをして遠島された例。同じ宇検で、3年後の1781年には島役人、国惇(くにじゅん)が、「砂糖と交換できる米の比率に関わる」越訴書を差し出したために、切腹磔に合う。

 記事の書き手である、先田光演は、

この二つの事件は、奄美の歴史にとって島役人が藩の砂糖政策に真っ向から反対した史実として、もっと評価されてよいものである。

 と指摘する。

 続いて1816年の母間騒動、1864年の犬田布騒動に触れて、こう締めくくる。

島民の怒りで突発的に起こった事件であったが、犬田布騒動では島役人が騒動の鎮圧と犯人探索に動員され、島役人と島民が藩の支配権力の前で相対することになってしまったのである。
薩摩藩の砂糖政策はこのほかに、潰れ村や身売り百姓の犠牲の上、膨大な利益を上げていたのである。
母間騒動は全国共通の百姓一揆の典型的な姿であったが、逃散という逃亡による抵抗も徳之島や大島では起こっていて、奄美の歴史は抵抗の歴史でもあった。

 先田は、島役人が前面に立った直訴や一揆を追いながら、これを奄美の抵抗の系譜に位置づけている。そしてそれだけでなく、奄美の歴史を「抵抗の歴史」として位置づけたいのだと思う。

 分かるのだが、わかるのだが、点を面にしてないだろうか。島役人を主語にしたとき、奄美の歴史は到底、抵抗の歴史とは言い難い。抵抗というなら、薩摩の役人とは滅多に接することのない島のなかで、生きる営みに追われながらも、踊り祈り唄った島人が、とにかく生き続けたことそのものの中に見出すしかないと思える。


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