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2009/08/24

「奄美と沖縄」(『幻想の島』)

 立ち読みして通り過ぎるつもりが、気になる節があって手にとってしまった。「奄美と沖縄」というのだから、立ち止まってしまう。まだ、ここしか読んでいないが、ここから始めてみたい。書名は、『幻想の島・沖縄』

 沖縄の人の多くが、自らを「日本人」というよりも「沖縄人」と認識する理由の一つに、沖縄は日本とは違う歴史と文化を持つという「沖縄史観」があります。この「沖縄史観」を揺るがすかもしれない遺跡の調査が現在、鹿児島県の奄美大島の東方に浮かぶ喜界島で行われています。

 沖縄の人の多くは、「大和人」というよりも「沖縄人」と認識しているのであって、「日本人」というよりも「沖縄人」という認識は過半ではない。「沖縄人」という自称が「日本人」という自称と、対峙する契機を失っていないのが沖縄だ、とは言えると思う。

 2007年11月に琉球大学主催の「沖縄と奄美の経済交流フォーラム」が奄美大島で開かれ、琉大の後藤雅彦准教授から、喜界島で発掘が続く城久遺跡の報告がありました。この遺跡からは、古代末から中世の大規模な建物跡が見つかっています。出土品の中に中国や朝鮮製の磁器、九州の陶器があり、螺鈿細工に珍重される夜光貝も大量に出土したことから、九州・大事府の宮人の駐在拠点と中国貿易を含む夜光貝の加工・物流センターであった可能性があるというのです。そうであれば、これまで薩摩侵攻(1609年)以前の歴史ではヤマトではなく沖縄の一地方と見られていた奄美諸島史が塗り替えられ、奄美はヤマトの最南端、しかもアジア交易の重要拠点だったことになるわけです。

 いちいち引っかかるのは申し訳ないのだが、奄美は、「薩摩侵攻(1609年)以前の歴史ではヤマトではなく沖縄の一地方」ではなく、そういうなら「琉球の一地方」であり、「薩摩侵攻(1609年)」以後は、ヤマトの一地方になったわけではない。その隠し植民地のようなあり方は、「一地方」というような同一地平上にはない。

 これを、沖縄から見れば、沖縄はヤマトとは別の自律的な発展過程があり、沖縄本島を中心に王国が形成され、その影響が西方の先島諸島や東方の奄美諸島に広がっていったという沖縄中心史観が、覆ることになります。沖縄史観では辺境に位置する奄美大島の、さらに辺境の小島が実は先に発展して南西諸島の中心となり、沖縄に影響を与えた……。これまでの想定とは逆の文化の流れがあったのではないか、というのです。

 これは沖縄史観というより、沖縄島中心史観とでも言うべきものではないだろうか。
 それにしても、過剰に日本の近代民族国家理念の牽引ビームを受けてしまった伊波普猷の大和人南漸論以降に、「沖縄はヤマトとは別の自律的な発展過程があり、沖縄本島を中心に王国が形成され」たという史観が生まれていたことを、ぼくはあまり知らなかった。伊波の過剰な日本吸引への反撥から、過剰に沖縄へ吸引されることになった、ということだろうか。

 この喜界島の考古学の発見は、さらに道州制の議論にも影響を与えそうです。沖縄は道州制の議論で「単独州は当然」と考えていますが、その際、歴史・文化的背景から、南西諸島というくくりで奄美も混ぜてしまおうという発想が文化人の中にあります。一方、奄美の方にも、「観光や振興策で潤う沖縄と合併できたらいい」(奄美のマスコミ関係者)という声があります。ところが、奄美の行政幹部は鹿児島系が主流で、沖縄合併論はタブーなのだそうです。きっと、奄美がヤマトに属することを証明する喜界島の発見は、道州制の議論の中で鹿児島系の人たちに政治的に利用されるのでしょう。

 「奄美がヤマトに属することを証明する喜界島の発見は、道州制の議論の中で鹿児島系の人たちに政治的に利用される」動きが生まれるのは予想できる。もうあるのかもしれない。だが、沖縄合併論をタブーにしてはならない。沖縄と合併すべきだから、というのではなく、そのタブーが400年の向こう側へ行かせない足かせであるからだ。

 「世界一優しい声」として人気の歌手、中孝介や元ちとせ、「恵」「泉」「武」など奄美に一字の名字が多い(沖縄には一字はほとんどなく、三字が多い)のは、奄美出身とわかるように薩摩が採った政策だそうで、奄美の一部には反薩摩感情もあります。一方、奄美は沖縄からも差別された歴史があるので、反沖縄感情もあります。フォーラムに参加したある奄美出身の経済人は酒の席では「誰が沖縄の世話になんかなるか」とストレートに沖縄への反感を吐露していました。

 一字姓が多いのは、「奄美出身とわかるように薩摩が採った政策」というより、冊封体制に対応させた政策である。近代以降、その一字姓が奄美の識別記号として機能して差別要因になったということは言える。

 佐野眞一氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』には、奄美出身者が沖縄で受けたすさまじい差別の証言がいろいろと書かれであり、読んでいてやりきれなくなります。那覇に住む奄美出身の知人も「基地問題で『日本人は沖縄を差別するな』と言うのを聞くと『お前らがそんなこと言える立場か』と怒りがこみ上げる」と話しでいました。奄美諸島は沖縄より早く米国支配から解放され1953年に本土復帰しましたが、それにより沖縄で生活していた奄美出身者は「外国人」となり、選挙権がなくなったり、公職から追放されたりしました。奄美の人の沖縄に対する恨みは根深いものがあります。

 「誰が沖縄の世話になんかなるか」などの発言はぼくも耳にしたことがある。6月に鹿児島の「奄美を語る会」で話した後の質疑応答で、古老が参加者に向かってわめくように吐露していたのも、「沖縄に対する恨み」だったと思う。思う、というのは、マイクを大きく揺らすほど激していたので、よく聞き取れなかったからだ。

 しかし、その恨みは、世代を限定してもいる。戦後、沖縄島へ労働者として出稼ぎに行き、奄美の復帰とともに沖縄を離れるのを余儀なくされた世代を中心にしている。佐野の沖縄本は、沖縄による奄美差別をクローズアップさせた。良くも悪くも。しかし、ぼくはこの見やすい構図のなかで、そもそもこの差別の引き金になったのが、奄美の復帰に端を発していることや米国主体の政策であることが隠されてしまうのが気になる。

 「誰が沖縄の世話になんかなるか」が出たのは「酒の席」とあるように、この感情は充分に表現されていないのだと思う。ふだんは抑圧しているということだ。ぼくはこれは酒の席ではなく表現されるべきだと思うし、同時に、沖縄に対する恨みは発露されやすいとも感じる。鹿児島に対するそれはあまり活字になることもなく、そこには、奄美的な屈折があると思える。

 沖縄では、文化人を中心に奄美との一体感が強調される一方で、「奄美なんてお荷物」と特に経済人は考えています。さらに、道州制で沖縄と九州が一緒になる構想について九州側からは「沖縄なんてお荷物を抱えたら、九州の財政が破たんする」(ある地方紙幹部)と拒否反応もあります。

 それはそう。経済的には、九州からみたら沖縄はお荷物だし、沖縄にしてみれば奄美はお荷物だ。

 地理的には「南西諸島」、歴史・文化圏としては「琉球弧」、思想的には奄美で暮らした作家島尾敏雄が唱えた「ヤポネシア」などの言葉でくくられる沖縄と奄美。沖縄には「琉球弧の先住民族会」という組織があります。「琉球弧の自立・独立」を掲げる「うるまネシア」という同人誌もあります。
 国道58号線は那覇市から奄美、種子島、鹿児島市まで約600キロメートルの海上を挟んで結ぶロマンチックな道です。そんな兄弟のような沖縄と奄美でさえ、簡単には乗り越え難い溝があります。薩摩侵攻から400年、琉球処分から130年の節目の2009年。地域や民族の属性から離れて仲良くすることは本当に難しいことだと、つくづく思います。沖縄と本土の溝が簡単に埋まるわけがない、ましてパレスチナとユダヤが握手することの困難さは想像を絶するのだろう、などと思ってしまいます。

 ここでは、パレスチナとユダヤへのアナロジーをするのが大事なのではない。問題の大文字化は、いつもそれより小さな問題にみえる者たちに無力感をもたらしてしまう。もう少し、繊細な物差しを当ててほしい。

 ぼくは、島が主役であることを踏まえれば、溝は乗り越えがたいとは思わない。


   『幻想の島・沖縄』

Gensounoshima

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