« 「大島代官記」の「序」を受け取り直す 3 | トップページ | 〈白〉幻想 »

2009/08/18

『ユダヤとイスラエルのあいだ』

 息をつめて凝集して奄美のことを考えてゆくと、きっとどこかで、独立という言葉が思い浮かぶ。一国家になったほうがいいのではないか、そうは言わなくても一県として。過去に、外在的な大島県の構想もあった。

 しかし、そう思う矢先から、心もとなくもなってくる。よくいう財源、のことではない。仮に空想的であったとしても国家として想定すると、奄美外に住む奄美出身者は帰るべき人になるのだろうか。そういうぼくも与論から1500キロも離れたところにいる。ぼくは外国にいるということになるのだろうか。特に、奄美独立に際して対抗的な地域として借定されるだろう鹿児島との関係はどうなるのだろう。いや関係というより、在鹿の奄美出身者はどうなるのだろう。さらにいづらくならないだろうか。それに鹿児島や大和との交流は進んでいる。どこまでを奄美系の人と呼べばいいのだろう。ぼくたちはそのとき、切断の契機を持ち込まずに、大和や鹿児島の人々との関係をつないでいくことができるだろうか。奄美に住む鹿児島や大和の人はどうなるだろう。孤立感を覚えずに共存していくことはできるだろうか。もし、孤立を少しでも与えるようなら、独立など意味がないのではないだろうか。そういう疑問符が際限なくやってくる。

 こういうとき、どういう考え方がありえるだろう。そういうぼくの関心に対して、『ユダヤとイスラエルのあいだ』からは、シオニズムも単色ではないという応答が返ってくるようだった。

 一般に、シオニズムと呼ばれる運動のなかにも多くの異なる思想・立場があり、いくつか類型化が可能である。そこから大きく二つを取りだすと、民族アイデンティティの不可欠な要素としてユダヤ教あるいはその文化・伝統を意識し、宗教的な聖地としてパレスチナとの結びつきを強調する形で、パレスチナにおける宗教的な郷土あるいは国家の建設を目指す運動を「文化シオニズム」と呼ぶ。それに対し、被差別者であるということを起点としつつも、ユダヤ教の教義や文化を拠り所とせずに、国際的な政治交渉(ナチスさえもが交渉相手であった)によってユダヤ人国家の建設を目指す運動を「政治シオニズム」と呼ぶ。

 ぼくは「政治シオニズム」しか知らないようなものだが、そこには「文化シオニズム」という考え方の潮流も存在した。別のところでは、「政治シオニズム」は「ユダヤ人はユダヤ人だけの純粋な民族国家をパレスチナの地にもつべきである」と、「文化シオニズム」は「ユダヤ人が民族意識と自決権を持つためにパレスチナの地との文化的・精神的つながりを重視するが、それはユダヤ人だけの民族国家を意味しない」と解説されている。しかし実際には、「文化シオニズム」はイスラエル建国時点で力を失ったという。

 ぼくたちは、グロテスクなまでに単色化され劇画化された絵を彼の地にみがちだが、その奥には、「文化シオニズム」の挫折以降も共存や拡散として横につながる思考が絶えていない。それはシオニズム自体を考え直すという深度を持つものだ。少なくとも、著者はそのように考えようとしている。

 もちろん、『ユダヤとイスラエルのあいだ』と奄美のあいだは遠い。約束の地を目指さなければならないという条件があるわけではない。けれど、民族と国民のあいだを揺れて思考するとき、共振する個所は随所にあった。

 たとえばぼくは、著者の引用するハンナ・アーレントの言葉がいちばん心に残る。

世界喪失こそ、ユダヤ民族が離散において被ったものです。世界喪失は、すべてのパーリアたちに見られるように、そこに属していた人びとのあいだに、一種独特の暖かさを生み出しました。これは、イスラエルの建国とともに変容してしまいました。(・・・)「世界喪失という徴を帯びた、特殊な意味でユダヤ的な人間性というものは、何かとても美しいものだったのです。あらゆる社会的な結びつきの外に立っているというこのこと、一切の先入観から離れているというこのことは、とても美しいものだったのです。(・・・)当然のことながら、イスラエル建国とともにそれらすべてが徒途方もなく大きな損害を被りました。解放の代償です。

 「世界喪失」、「離散」、「一種独特の暖かさ」などは、ぼくたちの方からも、あるフィルター越しに共感することだ。


  『ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア』

Bjai

|

« 「大島代官記」の「序」を受け取り直す 3 | トップページ | 〈白〉幻想 »

コメント

自分(の民族)だけが優秀なんて思ってしまうから、差別や偏見や不公平が出来てしまうんだろうなぁと思います。ユダヤ人も自分たちだけが神に是認されていると思い込んで、他の国民を蔑んでいたから、、、ヒトラーの考えも同じとこからきてますし。
独立なんて言わず、排他的にならず、民族や日本でも県を超えて、おんなじ心を持つひととして、付き合えたらいいな~と思ってしまいます。今の世の中では夢?みたいな話だし、自分自身、無意識に偏見や先入観持っていることにふと気付くことばっかりだから、難しいことですが。

投稿: kemo | 2009/08/18 23:02

kemoさん

一人ひとりは、自分と身近な人たちへの配慮がきちんとできたら、それで充分なのかもしれないですね。

投稿: 喜山 | 2009/08/19 11:44

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『ユダヤとイスラエルのあいだ』:

« 「大島代官記」の「序」を受け取り直す 3 | トップページ | 〈白〉幻想 »