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2009/08/21

『沖縄文化はどこから来たか』

 与論には旧い日本が残っていますよね(この場合、奄美、沖縄と入れ替えても同じ)と言われると、半共感を覚えてきた。反感、ではない。確かにそうだと言える面ともちろんその圏外のことがあるわけだ。そこで、そう言われたときは、何を指して旧い日本と呼んでいるのかを、その都度、聞いていくのだった。

 『沖縄文化はどこから来たか』は、そこに11~12世紀の日本だよ、と答えている。沖縄文化はどこから来たの? それは11~12世紀ごろ、日本からだよ、と。

 ぼくはこの本の感想を、自分の身体性、身体感覚に照らして書こう。

 高梨修は、琉球弧では考古学の年代メジャーとなる土器編年が確立していないという課題を前に、丹念に土器動態を辿りながら、喜界島の城久遺跡群をはじめとした複数の遺跡から類須恵器が大量出土していることに着目し、仮説を立てている。

 ①もしカムィヤキ古窯跡群の生産陶器(類須恵器)や外来容器類が南方物産交易の対価として琉球弧で広範に用いられたと仮定するならば、それらの大量出土が認められる拠点的な消費地遺跡が、沖縄諸島・先島諸島にも複数認められてもよいのではないか(あまりにも数量的に少ない)。
 ②類須恵器の大量出土が認められる消費地遺跡がほとんど喜界島と徳之島に限られるという分布状態、そして城久遺跡群に認められる遺構・遺物の非在地的、拠点的様相から考えるならば、やはりカムィヤキ古窯跡群の生産陶器(類須恵器)は、喜界島に供給する目的で生産された可能性が強いのではないか。
 ③沖縄諸島・先島諸島では、類須恵器をはじめとする外来容器類が十分に入手できないので、その代替措置としてそれらの模倣土器群が製作されたのではないか。
 ④中世前半段階に、沖縄諸島・先島諸島に成立した土器文化は、城久遺跡群に認められる外来容器類の模倣土器群であると理解できる。特に先島諸島は、長期間にわたり無土静文化が営まれてきたのであるから、突然の土器文化成立は、やはり人間集団の移動を伴わなければ発生しないのではないか。

 類須恵器が大量出土するのは、喜界島と徳之島に限られ、かつ、喜界島の城久遺跡群の建造物の痕跡やモノが、もともと喜界島にあったものではなく、にもかかわらず規模が大きく拠点性を持っているのを踏まえると、徳之島のカムィヤキ古窯跡群から生産された類須恵器は、喜界島への供給を目的にしていたのではないか。現に、沖縄、先島では、出土量があまりに少ない。むしろ、沖縄、先島では、類須恵器をはじめとする外来容器類があまり入手できないので、模倣土器が製作された。そしてその土器文化が突然成立しているのは、そこに人の移動があったからではないか。

 ぼくたちは、出現したモノとしての事実から、人やモノの動きを見ようとする高梨の視線を追うことができるが、ここから導かれる結論はこうである。

 琉球弧では、一一世紀代~一二世紀代にかけて、喜界島の城久遺跡群を機軸とする人間集団の南漸が発生していた。これが本稿の結論である。城久遺跡群に関して付言しておくならば、中世を遡る段階から、おそらく威信財交易を契機とする活動拠点が点的存在として局部的に営まれていたと理解されるのである。そして交易形態の変化に伴い、その活動が一挙に拡大した時期が一一~一二世紀代であると理解できるのである。(中略)
 この結論から思量されるのは、内的発展による琉球王国形成という歴史的理解に基づいた従前の「沖縄学」の研究常識に対するさまざまな疑問である。

 この「人間集団」を大和人と見なせば、11~12世紀に喜界島を拠点として大和人が南漸した。そして類須恵器がこのとき人間集団の移動とともに一気に琉球弧に普及したのだとすれば、琉球弧に共通の軸を通したのも大和人、というところまで類推できることになる。

 ぼくたちはここで伊波普猷の大和人南漸論を思い出す。そういう意味ではこれは南漸論第二波なのかもしれない。ただ、伊波が日本の近代民族理念に吸引されるあまり、ときに南漸以前に人っこ一人いないかのような錯覚をもたらすものだったが、ここでは、南漸以前には共通する文化は無かったとしている。いわば、科学としての考古学からの南漸論、である。

 ぼくは亜熱帯自然と島人への自分の身体感覚からいえば、もともと琉球弧には国家を形成する内在的な必然性は無かったと考えている。「内的発展による琉球王国形成」ではないだろう、と。高梨の考察はそこに照明を当ててくれるようだ。


 阿部美菜子は、大和語から、「おもろそうし」に接近している。

 まず、第2節「オモ口語と大和古語」では、かなり機械的な方法であるが、オモ口語と大和語に関する辞書の比較を通して、『おもろさうし』に採録されている言語年代の調査を試みた。
 大和語と共通しているオモ口語のうちの八割以上が、大和室町期において行われた言語(必ずしも室町期独自の言語ではない)であるという結果が出た。さらに、「しなう(撓)」や「あがなう(贖・購)」等の具体的な語例から時代を絞り込むと、『おもろさうし』は十一世紀~十二世紀頃の大和語を積極的にとり入れていると推測することができる。

 「おもろ」に見られるのは大和の古い言葉、というより、「大和室町期において行われた言語(必ずしも室町期独自の言語ではない)である」。面白いことに、大和語を積極的にとり入れたのは、高梨が南漸の時期として想定した11~12世紀ごろと同じである。

 しかも、取り入れる過程では、

(前略)「沖縄固有の語」と「大和にも見られる語」の組み合わせでは、「オモロには謡われているが、後世の首里、今帰仁方言には残らなかった沖縄古語」と「オモロに謡われた後も、首里、今帰仁方言に残った大和古語」が対を成す傾向にあるということになる。
 推測の域を出ないが、大和古語は日常的に用いられる口語的な表現で、沖縄古語は王府の祭祀や儀礼で用いられた、呪術的で特殊な言葉なのではないだろうか。意味の近い日常語と祭祀語を組み合わせることで、首里王府内部だけではなく、本土から見てもある程度わかりやすいものに整えたのではないかと考えることができると思う。

 というように、琉球内部と外部への言葉を対にした可能性を指摘している。

「対語」の中でも特に、「沖縄固有の語」と「大和にも見られる語」の組み合わせは、翻訳・語釈という役割が強くあらわれており、その上「琉球語」と「大和語」といういわば異国の言葉の組み合わせが、「文選読み」における「漢語」と「和語」の関係と非常によく似ている。

 阿部は推測の域を出ないと言っているが、ここは「おもろ」編纂者の意識構造が垣間見える点で興味深く、こんごの追究が楽しみなところだ。

 「おもろそうし」は「沖縄の万葉集」と呼ばれたりするが、自然と心の動きを詠じたものとしては、万葉集に比べ、相当に素朴な域にとどまる。阿部の言うように新しい言葉も多い。しかし、日常的に接していた与論言葉から分かる単語などを頼りに、阿部も指摘する対語の流れをたどっていくと、呪術的なリズム感に囚われ、次第に祭儀のなかに迷い込むような感じがやってくる。その古代的な感覚まで研究が及んでくれたら、というのはぼくの願望だ。


 中本謙は琉球のp音について書いている。「琉球方言のp音は文献以前の姿か」。
 伊波普猷の「p音考」に対する仮説である。

 兎に角琉球語に於いては、

 P → F → H
 ↓
 B (→) W

  の如く変遷して、今日に至ったのであらう。
 そして、
  日本文化の影響を蒙ることの少ない山地や島嶼には、今なほp音が盛につかはれてゐる。これも亦天然が時間を場所に現はして吾々に示してゐる一例である。(伊波普猷「p音考」)

 「天然が時間を場所に現は」すという表現は胸に残るが、とにかく、「p音」については与論言葉にも多いのだが、なんというかそれらは、いつまで経っても「F音」にも「H音」にもなりそうにないのだ。「真面目」があっという間に「マジ」と言われるようになたり、「ヤバイ」が「ヤベー」となり次いでに意味まで、あれよあれよという間に逆転する様を眺めていると、およそ「p音」は不変に見える。もちろん、昨日の顔と今日の顔は同じ見えても十年経てば違いが分かるのと同じように、南の時間速度で変化していると考えるということなのだろう。しかし、それにしても、ぼくの身体感覚としては、「花」(パナ)はいつまで経っても「パナ」であり、これが「ファナ」や「ハナ」へと変化するとは感じられない。むしろ、「P → F → H」は、必然の推移ではなく、異文化や異集団との接触を物語ることも考えられるのではないか。

 ところで中本が書いているのはこのことではない。

本論では、強い呼気による南琉球方言の/'w/>/b/ とパラレルに考えて、/hw/>/p/ の蓋然性も否定できないのではないかということを示した。つまり、南琉球方言のハ行子音p音の中には、φ>pの変化を遂げているものもあるという可能性も否定できないということである。そして、八重山竹富島方言のφ>pの例や浜比嘉島比嘉方言、恩納真栄田方言等のφ>pの音声変化の傾向にある語は一つの傍証となりうると考える。

 伊波の表記に倣って書くと、伊波は、B→Wと見なしたが、現在では、W→Bと言われるようになっている。それとパラレルに考えれば、P→Fとは別に、F→Pという変化を遂げているものもあるのではないか、ということだ。

 中本の主張は控えめなものだけれど、琉球のp音は「文献以前からの古音の保持」と考えられているが、実は比較的、新しいものではないかという問題意識を下敷きにしていると思える。

 中本は事実の採集の上で語っているので、ここで身体感覚を持ちだすのは気が引けるのだが、ぼくはp音は古語っぽいと感じる。赤ちゃんがあわわ言葉を経て、母音と子音を発声するとき、最初に現れるひとつにp音はある。与論言葉でいえば、祖母を「ぱーぱー」と呼ぶ、あの音声には、そうした最初の言葉の初源の感覚にあふれている。古代感ある言葉に思えるのだ。

◇◆◇

 ぼくは、琉球王国に依らない琉球弧の根拠は何かという自分の課題を確認するように、『沖縄文化はどこから来たか』を読んだ。ただ、この本はここで終わらず、ぼくの課題に重なる考察も添えられていた。吉成直樹の「グスク時代以前の琉球の在地集団だ」。

 考察は、DNA、神話にも及ぶのだが、ここではぼくも重要だと思う「アマン」という言葉への考察を引用したい。

 ところで、崎山理によれば「ヤドカリ、非食用カニ」を波照間島amang、宮良(宮古)amam、首里amang、名瀬amangと呼ぶが、これらの語彙はミクロネシア語(南島語族)の二次的再構形である**əmaŋに由来するという(崎山、一九八五[一九八二〕、二三五)。つまり、崎山が指摘するよぅに、神話のなかで自分たちの祖先であるやどかりを「アマン」と呼ぶのは南島語の語彙に由来することになる。自分たちの祖先を南島語の「アマン」という言葉で呼ぶことの意味は、決して軽くはないはずである。南島語の影響が琉球列島に及んでいたと考えるのが自然である。

 ぼくも「アマン」という言葉は重要だと思っている。ハジチ(針突)にアマンを記し、それを祖先であると見なす行為には、人間と動物が等価であり、身体は霊魂の衣装であるという人間・世界観を示している。ぼくは、この人間・世界観に琉球弧の根拠を朧げに見るものだ。

 この他、与那国島などに残るアイヌ語地名を朝鮮語を通じて説明されているのも興味深かった。堀下げるべきテーマは尽きない。

 
 最後に。大きなテーマに大胆に切り込み、その摩擦面から刺激波が次々に飛んでくる。そんな本だ。



    『沖縄文化はどこから来たか―グスク時代という画期』

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