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2009/08/31

200Q年入りか

 村上春樹レトリックのもてあそびになっちゃうが、なんかゆうべから今日にかけて、2009年から200Q年になった気がする。どこか非現実的で。実質、生まれて初めての出来事だからリアリティが湧きにくいのかもしれない。


 鳩山、管、岡田を見ていると、細川を思い出す。殿様坊ちゃんの雰囲気ではなく、素人っぽさが。政権交代は、老練な玄人から素人っぽさへの移行にも見える。鳩山兄弟は象徴的かもしれない。弟の方が、老練な玄人的顔つきだ。もっとも兄は素人っぽいというより宇宙人ぽい。ただ、ゆうべの表情は人間らしかった。


 ぼくのここ数年の経験からは、ある意味で、ゲームとライフの対比のようにも見えた。長崎が象徴的だったと思う。「原爆投下はしょうがない」というゲーム感覚と、文字通り、命としてのライフ感覚と。もともとは資本主義ゲームと生活(ライフ)という意味で発想しているのだが。


 郵政民営化と脱官僚主導は、公務員存在縮小の流れとして見ると、連綿としていると言えるだろうか。


 麻生は、漢字が読めなくて英語が話せる初めて(たぶん)の総理大臣だった。石原は、漢字の読めないことを「致命的」と言った。でも、漢字が読めなくて英語が話せるのは、グローバリズムを体現していたかもしれない。


 奄美は自民か民主、ではなく、徳田、だったと思う。小沢かな、個人本位から政党本位の選択へと言っていたと思うが、奄美はまだそういうわけにいかない。誰がいいのか、が基準なのだ。奄美だけ、200Q年に入らず、2009年に止まるみたいだ。それは現実を失わないということかもしれない。あ、でもこれは言葉遊び。いけませんね。
 谷山にいる母は選挙の前日だったかな、「しまんちゅの会」に参加してきたと言っていた。政党ではなく誰に、という気持ちになるのは分からないではないと思った。

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『沖縄幻想』

 『幻想の島・沖縄』とほぼ同時期に上梓された沖縄本のなかに、同じ「幻想」を冠したものがある。『沖縄幻想』だ。

 著者の奥野修司は、沖縄人ではない。そして『沖縄幻想』は、「沖縄人vs大和人」の構図に乗っていない。本土出身者の沖縄論は、「沖縄人vs大和人」に配慮を示すか、反撥する場合が多い。だが、奥野はそうしていない。どうしているのか。奥野は沖縄から見る大和像にも、大和から見る沖縄像にも、両方に、それは「幻想」だと、遠慮なく言ってのけている。そこで、構図としての「沖縄人vs大和人」を食い破っているのだ。それが『沖縄幻想』の読後を小気味よくしている。

 奥野のそのモチーフは、「はじめに-私のサンクチュアリ」から明確だ。

 私にももちろん故郷はあるのだが、急激な都市化の波に洗われたせいか、親しかった同級生も散り、両親もこの世を去った今、あってなきがごときの故郷である。では、いまや生まれ故郷よりも長く住んでいる東京はどうかというと、いまだに胸を張って故郷とは言い切れない。東京にいる私は、所詮、「旅の人」なのだ。
 沖縄は一九七四年から通っているが、過去に滞在した日数をカウントしても一年を超えるかどうかだろう。それなのに、故郷を喪失しかかっている私の心の中に、いつの間にか「新たな故郷」として住まうようになった。
 私には、沖縄に行くというよりも、沖縄に帰るという感覚である。
 おそらく私にとっての沖縄は、できることならこんな故郷があればという、不可視のサンクチュアリかもしれない。
 私が沖縄と不思議な緑に結ばれて三〇年以上になるが、私の中のサンクチュアリがどんどん崩れていくような気がする。

 とりわけ、九〇年代以降の沖縄は風化する一方だ。
 沖縄にかぎらず、今を生きる世代の使命は、自分が生きるために使わせてもらった水、空気、森、海、空、その他一切合切を、次の世代に渡すことだろう。それが、年を重ねるごとに、次世代に送り出す資産が目減りしているのが目に見えてわかる。
今のオジイやオバアがいなくなったとき、長寿社会も沖縄のやさしさも、連綿と続いてきたユイマールも消え、何の変哲もない一県になるのかもしれない。私がオバアやオジイが好きなのは、彼らの中にほんとうのオキナワがあるからだと思う。

 それにしても、いつからこんな島になったのだろう。
 東京の郊外ならどこにでもあるような副都心「おもろまち」を通るたびにそう思う。そんなことを亭っと、「東京並みになってどこが悪い」とつい叱られてしまうが、たしかにその通りだ。便利になることは悪くない。そこに住まう人の理屈として間違ってはいない。だが、それで未来の沖縄は自立できるのだろうか、とふと不安になる。
 私は沖縄に幻想を見ているのかもしれない。あるいは「旅の人」の勝手な思いこみかもしれない。またしてもヤマトンチュウはと、蔑まれるかもしれないと思いつつしかし、笑わば、笑え、である。私は言わずにはいられないのだ。

 「笑わば、笑え、である。私は言わずにはいられないのだ」。それが奥野のモチーフである。
 そして『沖縄幻想』の本文でもその通りに、奥野が、言わずにいられないとばかりに、つい言ってしまったところに魅力の頂きをつくっている。任意に挙げてみる。

 沖縄が、文化のかけらもないそんな本土の街になぜ憧れるのだろうか。
 一八七九年の琉球処分以来、本土から植民地のように扱われてきたために、潜在意識に刷り込まれた劣等感がそうさせるのかもしれない。明治期まで、日本に勝るとも劣らない固有の文化を築きあげた沖縄は、何ら卑下することがないのに、支配層が変わるたびに、政治的に経済的に植民地化されたことが、いつの間にかコンプレックスとなって内在化してしまったのだろうか。
 「移住」というのは一カ月や二カ月の単位ではない。平均寿命八〇歳とすれば、二〇年間を彼の地で過ごすことである。「海と夕陽」は二〇年も癒しつづけてはくれない。
 ナイチャーが地域社会と隔絶して独自に自治会をつくるのは、島人にとって米軍が沖縄に基地をつくるようなものだ。他人の土地にずかずかやってきて、フェンスを張って隔離社会をつくる。基地に住む兵士と、マンションに住む感覚でやってきた移住者にどれほどの違いがあるのだろう。そんな単純なことに気づかない移住者は、沖縄に住む資格はないのだと思う。
 中国も本土も城郭や都城の造営に直線を重視したが、沖縄の人たちは曲線に美を感じたのだろう。この曲線が実にエロティックで、何度見ても飽きない。とりわけ雨に濡れた「城」はすばらしく、何とも言えない色香を放っている。
 今の沖縄は、「オキナワ」という幻想に酔った 「ナイチヤー」がやってくるだけだ。沖縄の本土化がもっと進めば、さすがに彼らも幻想であることに気づく。そうなれば、欧米人観光客どころか、日本人だってうんざりすることだろう。
 沖縄は、今すぐ米軍基地を観光施設にすべきなのだ。
 過去に、日本列島を改造すればするほど、逆に地方の過疎化が進むという矛盾がはっきりしていたにもかかわらず、沖縄は同じ間違いを繰り返してきたのである。
 たとえば瀬鷹島-。(中略)島の住民は行政に訴え、そして五七億円の費用をかけて、八五年に全長七六二メートルの瀬底大橋が完成した。
 島は、これでシマチャビから解放されると歓喜したが、案に相違してわけのわからない観光客がやってきてはゴミを散らかした。ゴルフ場ができ、それが転売されてホテルになった。誰のものともわからない別荘ができ、夏にもなれば、海岸は夜ごと「子供に見せられない」ような場面が展開することとなった。
 橋ができても若者は戻らず、現在まで瀬底島の人口はほとんど変わっていない。
 同じ公共工事でも、たとえば、やんぼるの森を三六〇度俯瞰できるような「森の回廊をつくるなど、森を観光資源として整備すれば、どれほど素晴らしいことか。小さなアマゾンを彷彿させる亜熱帯の森は、沖縄にとって貴重な資産ではないか。そこに敷かれたアスファルトの林道は、言ってみれば森にできた悪性腫瘍にしか見えない。
 かつて日本には、里山などに入会権というものがあったが、この抱瀬干潟を近隣住民の共有資産とし、観光や町並みづくりに活かそうという発想はなぜ生まれないのだろう。
 「沖縄は復帰以来、政府から与えられた八兆円をこえる補助金を食べ尽くし、ただただ排泄しただけではないか」
 こう言うと、おそらく怒り心頭の方も少なくないだろう。しかし、私はそれほど間違ってはいないと思っている。
 その結果どうなったか。沖縄への賠償金的な性格だった補助金が、〇七年に米軍再編推進法が成立すると、「亭っことを聞いたらカネを出してやる」式の、ほとんど洞喝に近いものに成り下がった。それでも沖縄は断り切れないのである。なぜなら、すでに補助金に依存しなければやっていけない体質になっているからだ。
 ただ、泡盛につぎ足すのはあくまで泡盛であるように、芳醇な酒精分である沖縄の心を継いでこそ、固有の文化として熟していくのではないだろうか。
 そのためにも、この島で生まれて外に飛び出し、かの地で新しい文化を身につけたウチナーンチュこそ、この島へ再び戻って活躍してもらいたいと思う。なぜなら、沖縄の心はこの島で育った人にこそ、もっとも濃縮に宿されていると思うからだ。
 沖縄の人は、どうやら歩くことを忘れてしまったのかもしれない。
 つまり、沖縄が今も長寿なのは、七〇代以上の高齢者が支えているからにすぎない、ということだ。現在の沖縄は日本一のメタポ県である。長寿を支えている高齢者が亡くなれば、沖縄は健康でも長寿でもなく、ただの島となる。沖縄が長寿県と言われるのも、すでに幻想にすぎないのである。
 これはやさしさに違いない。このやさしさこそ、沖縄を沖縄たらしめているのだと、私は妙に感心していた。
 それがここ七、八年で、急速に崩壊しはじめたように思う。グローバリズムという化け物のせいかどうか、沖縄の社会が基層まで破壊されつつあるように思えてならない。すでにその波は、沖縄の精神構造まで変えつつあるように思う。
 私たちが知っている沖縄は、今まさに、幻想の海に沈もうとしているのかもしれない。
 江戸文化や上方文化とはまったく異なった琉球文化を持ったことは、沖縄は文化的に独立国であったことを意味する。
 そのことは泡盛にもよくあらわれている。ジャポニカ米ではなく、長粒種のタイ米を使って蒸溜した泡盛は、沖縄独自の酒である。ちなみに、沖縄県酒造組合連合に加盟する酒造所は四七カ所、実際はもっとあると言われるが、この小さな島にこれだけの数の酒造所がひしめいているのである。
 これらのすぐれた文化を目の当たりにしたとき、沖縄という島が、琉球文化圏として完結していることに思い至るだろう。

 ざっとこんな具合いである。歯切れのいい、もの言いの背後には沖縄への愛情があふれている。「この島で生まれて外に飛び出し、かの地で新しい文化を身につけたウチナーンチュこそ、この島へ再び戻って活躍してもらいたい」と言われると、ぼくなども痛みを覚える。

 一六世紀から一七世紀にかけて編纂され、沖縄を代表する『おもろさうし』(おもろそうし)でさえ、漢字混じりのひらがな文で書かれているように、沖縄が独自の文字を持たなかったことが、本土との境界をあいまいにしてしまったのだと思う。

 違和感も記しておきたい。「沖縄を代表する『おもろさうし』(おもろそうし)でさえ、漢字混じりのひらがな文で書かれている」というが、それは日本が、そうなのである。日本は独自の文字を持たない歴史が長かった。文字を持って以降の歴史が短いのである。そして沖縄は日本以上に短い。だから、「漢字混じりのひらがな文」をまるごと輸入せざるをえなかったところに沖縄らしさも宿している。

 沖縄は日本に属しているが、異なる文化を持つ、もうひとつのクニなのだ。それゆえに、このまま本土仕様のクニづくりを進めていったら、いつかとんでもないしっぺ返しを食らうことになるような気がしてならない。
 沖縄独立論など、今は所詮、ファンタジーにすぎないと思っている。それで愉しめる者は愉しめばいい。ただ、沖縄独立論にもリアリティを感じる時代はあった。(中略)
 ところが、復帰してからはたちまちそれはファンタジーに変わってしまった。日本政府がそれを狙ったのかどうか、沖縄が本土と相似形の島をめざして邁進してきたのだから当然である。果たしてそれでよかったのかという問いは措くとして、未来につづく沖縄は、それでは成り立っていかないことは言うまでもない。
 沖縄は、日本である前に、オキナワなのだ。

 この文脈ではカタカナの「オキナワ」には違和感があるが、主張はよく分かる。
 沖縄への著者の想いは、「はじめに」から始まり、「おわりに」まで途切れることがない。 

 私は沖縄が好きだ。
 なかでも、沖縄の心を感じさせてくれるオバアが大好きだ。
 その沖縄が持続できるかどうかが問われているのに、補助金で身動きができなくなっている。沖縄は今後も基地を必要とするのか、それともしないのか、今こそ県民は腹をくくつて覚悟を示すべきだろう。本書は、基地なき後のグランドデザインすら措けない沖縄への、私のいらだちであり、憤りでもある。

 とまあ、こんなご託を並べてみたところで、沖縄の何かが変わるというわけでもないことは百も承知のうえである。官は悪いとわかっていながらやめないように、民は無関心がよくないと言いつつ動かないように、世の流れに竿をさすことなどできないのだろう。もはや沖縄の本土化は宿命のようなものかもしれない。
 〇八年のアメリカ海兵隊による女子中学生暴行事件では、六〇〇〇人ほどの抗議集会が開かれただけで終わった。沖縄の変革エネルギーとなってきた怒りの毒気が抜かれてしまったのか。あの戦争の記憶が、世代を経るごとに薄まり、うまく継承できなくなっているのか。些細なことにように見えて、その事実は、やがてこの島が沖縄らしくない沖縄に変貌する予兆のように思えてならない。
 現在のオジイやオバアたちがこの世を去れば、沖縄の「心」も大きく変貌することだろう。粛々として沖縄が消え去るのも一興、本書はそのために墓標であってもいいと思っている。

 ぼくは本文を読む前に「おわりに」を読んで、まず、もし「墓標」というなら、それは沖縄がすべきことだと反撥が過ぎったが、思い余ってつい、という語り口を経たあとには、そう言いたい理由がよく伝わってきた。

 『幻想の島・沖縄』は、大和が見る沖縄に対し、それは幻想であると言っていた。『沖縄幻想』は、それに加えて、沖縄の見る大和も幻想であると言うのである。この両方の視線の交錯が、「沖縄vs大和」の構図を食い破らせているのだと思う。


 それにしても、沖縄という場は過剰に語らせて止まない。


    『沖縄幻想』

Okinawagensou

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2009/08/30

なし崩し的同一化ではなく

 さらっと通り過ぎれないので、『幻想の島・沖縄』で、躓いたところに触れておきたい。

 沖縄は独立国だった歴史を持つので、日本の中の特別な「ローカル」という自己認識があるのだと思います。しかし、日本のどこの地方も近代国家が形成される明治前までは沖縄と同様に別々の世界を持ち、その中で生きていたわけです。本土は陸続きとはいえ交通手段もなく、多くの人は自分の生まれ育った集落や藩からほとんど出ることもなく一生を終えたのでしょう。司馬遼太郎は「街道をゆく」シリーズの『沖縄・先島への道』 で、沖縄の独立論に理解を示しながらも「明治後、『日本』になってろくなことはなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじになってしまう。ここ数年そのことを考えでみたが、圧倒的におなじになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える」と書いています。

 沖縄は物理的に遠い独立した王国であったために、「日本に同化させられた」という意識が強いのは当然ですが、本土の各地方も多くの犠牲があって中央集権化させられた面があります。例えば、西郷隆盛ら旧薩摩藩士が政府に対し武力反乱を起こした、日本最後の内戦である西南戦争ひとつとっても、薩摩側と官軍側況方で1万3000人を超す死者を出しています。沖縄から見ると、本土46都道府県は 「沖縄以外」 で同じなのかもしれませんが、本土の地方都市はどこもアイデンティティーの崩壊を経験しています。本土側も好きで中央集権的な「日本」にまとまったわけではありません。

 奄美・沖縄言説のなかで原口虎雄と並んでぼくが多いに躓いたのは、この、司馬遼太郎の「じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじ」という評言だった。

 それは、同じだろう。みんな色いろあるさ、押し並べていえば誰だって苦労してきた。それは、「おなじ」である。でも、それを奄美・沖縄に向かっていうときには、沖縄と奄美と薩摩の差異を無化し、他地域と同一化してみる必要があるわけだが、そう言えるのは、どの地域も等距離に見えるように視線を高度化しなければならない。遠くからみれば、明治近代の重石を背負ったという点で同一化されてしまう。

 しかし高度化した視線からでは、奄美・沖縄の困難は掬いあげることはできない。「沖縄は独立国だった」ことはそれだけでも重たい事実だが、その背景には、本土との時間と空間の距離が、本土の他地域とは段差があったということである。その段差は、いずれ「奄美・沖縄には古い日本が残っている」という視点を招くことになっただろう。そういう時間と空間の段差を見なければ、奄美・沖縄の困難に触れることはできない。

 みんな「同じ」と見なす視線からは、ぼくたちはぼくたちの歴史をすくい取ることができない。ぼくはそう思って、『奄美自立論』では「無限連鎖の差異化でもなく、なし崩し的同一化でもなく」と書いた。ある意味で、最も書きたかったのはそのことだった。


   『幻想の島・沖縄』

Gensounoshima

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2009/08/29

「直轄支配下の奄美 両属に生きる」

 1613年の大島への奉行設置から1693年の喜界島への代官派遣によって、薩摩による奄美諸島全体の支配体制が確立する。

 一方、1626年、薩摩は琉球の三司官に意見書を送る。

 中国勅使が来琉のときには前々から「五嶋役人なは(那覇)へ参り候て、その役儀勤め」ていたことを、勅使も知っているので、「一節成るとも琉球へ召し加え」「それぞれの用意相達し候様五嶋の役人申堅く申付け」たらどうだろうかと。
 こうして冠船渡来時には従来のように奄美五嶋にも「役儀」が与えられた。(「南海日日新聞2009年8月21日」)

 また、1691年、新たに島役人の上国が義務付けられる。
 先田光演は、これをして、

ここに琉球と鹿児島へ渡航が命じられて、道之島の両属関係が成立した。

 と位置づける。

 先田はここで、一人の与人を登場させる。沖永良部の担晋(たんしん)である。

 彼は20歳で琉球に渡って中国語を学び、22歳には鹿児島で医術を学んでいる。帰郷すると漢方医として島民の治療に当たり、唐通事にも任じられた。56歳のときに与人になったが、62歳で現職のまま死去した。正に彼は両属を生き抜いた島役人であった。

 担晋が39歳のとき、中国の冠船が訪れる。担晋も与人の同行人のとき、琉球にわたる。

 往来に約3カ月、那覇滞在に約2カ月を要し、一緒に出かけた島民は与人以下約20人にも及んでいる。那覇旅から帰ってきた彼らの見聞が島中に広まり、琉球芸能への関心を呼び起こすきっかけとなった。

 また1858年には、島津斉興の従三位昇叙祝儀のため道之島与人に上国が命じられ、沖永良部からは担晋が上国した。

 与人4年目、58歳であった。上図時の従者は献上品取仕建役3人と賄係3人の計6人であった。琉球渡航とは異なって厳しい制限があった。
 鹿児島では沖永良部問屋が宿泊所となり、各種の手配や手続きなどの世話をしている。
 担晋が到着したことを知った友人たちがよく訪ねてきた。lまた、招待されることもあった。道之島役人同士も交流を広げている。

 琉球への薩摩へも役人として赴いた担晋の存在は、興味深い。担晋はその境涯をどのように捉えていたのか、琉球や薩摩への道中、何を考えていたのか、知りたくなる。だが、それは担晋がどのように捉えたかということであり、それをもって、当時の奄美が置かれた状況をそのまま物語るものではない。

 島役人は鹿児島に渡っても島人の姿で通さなければならなかった。おそらく担晋も島の姿のままで城下士と付き合ったはずである。
 名前や姿格好が島人風であっても、意に介することはなかった。信頼関係の深さは、担晋の両属の知恵からあふれ出る実力と人徳の故であろう。

 担晋は「意に介することはなかった」かもしれないが、それは奄美が置かれた関係の絶対性を説明するものにはならない。先田は、担晋も島人の格好をしていたはずだが、として推測として言うのだからなおさらである。

 道之島は薩摩藩の直轄地になっても、なお琉球国之内であった。地理的にも歴史的にも、そのつながりは断ち切ることはできなかった。
 『横目日記』によると、西古見の福満の板付舟に13人が乗り込み、琉球に農具を買い求めに出かけていて、琉球と道之島の交易関係が断絶していなかったことが分かる。当時の島民は琉球国と物心両面でつながっていたのである。

 奄美が直轄領以降も「琉球国之内」であったのは、「地理的にも歴史的にも、そのつながりは断ち切ることはできなかった」からではない。「琉球国之内」であることを、中国、日本に示す必要があったからである。つながりは断ち切られていたのである。それは、島役人が登場するように政治的な舞台を軸に展開され、その余は断絶ではないつながりが細ぼそと保たれていた。断ち切れなかったのはむしろ、にもかかわらずの言葉や文化の基層性である。

 琉球侵攻の結果、道之島は「二重の支配」とか「隠蔽政策」、さらには「二重疎外」などと標榜されているが、島役人が薩摩と琉球に渡航できたことから「両属関係」という視点で捉えてみたい。

 ぼくは別に標榜しているわけではないが、「二重疎外」は『奄美自立論』の「二重の疎外」のことだろうから、なおのこと書いておきたい。

 「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外は、同時に隠蔽もされていた。すると、「奄美は琉球でもある、大和でもある」という仮象を持つことになる。一見、何事もないかのように見えるわけだ。しかし、それが疎外の上での隠蔽である。だから、漂着の際は、日本の金や文書を捨てて琉球を装ったり、かと思えば、月代をして日本名をつけて大和を装ったりということを命がけで行ったのである。

 こうした、二重の疎外とその隠ぺいの否定の契機を考慮しなければ、否定の否定は肯定、裏の裏は表とでもいうように、琉球にも薩摩にも属していたという「両属」という捉え方になる。しかし、これは表面をなぞるだけで、それこそ奄美の困難をネグル視点にならざるをえないのだ。

 先田は「直轄支配下の奄美 抵抗の系譜」においてもそうだったが、良心的で特権的な島役人の一例にすぎないものを、奄美全体に敷衍している。そこでは抵抗もあり、琉球とのつながりも感じられ、薩摩でも対等にやりとりした風に見える面も出てくる。だから、担晋の境涯も興味深いのである。しかしそれは特異な役人史であり、そこから奄美全体を語ることはできない。「両属関係」とのみ言ってしまっては、奄美の困難は掬い上げることができないのだ。いまさらどうして認識を後退させる必要があろうか。



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2009/08/28

「三池炭鉱と与論の人たち」

 福岡のニュースだと思う。

 「三池炭鉱と与論の人たち」

炭鉱関連施設の世界遺産登録への期待が高まる中、町さんは、与論出身者が、その発展の一角を支えてきたという自信を持つべきだと考えています。

 5分ほどの報道映像も見ることができる。

 こうやって少しずつ、認知を得ていくんですね。


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『月桃夜』選評にみる「奄美」

 遠田潤子の「月桃夜」の日本ファンタジーノベル大賞受賞はとても嬉しい知らせだったが、新潮社のサイトにその選評が載っている。

 第二十一回日本ファンタジーノベル大賞 選評

 作品の中身ではなく、選考委員たちに奄美がどう捉えられているかを見たい。


 荒俣宏

ストレートなロマンに分類した『月桃夜』は、ひさびさに重厚な奇談であり、これまでまともに取り上げられなかった奄美大島の歴史と人倫を興味ぶかく語りつくす。奄美の歴史は、運命の隙間を泳ぎ渡るしたたかさを持っていた沖縄と異なり、一方的な屈従の連続だった。そのなかで愛が成就されるとしたら、どういう苦闘が生じるかを、説得力ある筆で描く。

 「これまでまともに取り上げられなかった奄美大島の歴史と人倫」というのは博学の賜物だろうか。したたかな沖縄と一方的な屈従の連続の奄美という対比も的確だ。「したたかさ」には、奄美以上の規模と本土からの距離が寄与しているのではあるが。


 井上ひさし

 評者にはという注釈がつくが、今回の白眉は、『月桃夜』(遠田潤子)だった。奄美大島のはるか沖合を、カヤックで漂流する女性の前に大鷲が現われて、いきなりこう口をきく、「俺には屍肉を喰らう趣味はない」と。なんと大胆で巧みな導入だろう。大鷲が語るのは、二百年前の奄美の悲惨な階級社会であり、最下層の少年奴隷の苛酷な毎日である。その少年が一人の少女を守りながら、他人と自分を愛することを発見し、たまたま習った囲碁を唯一の武器に、この階級社会を一気に駆け登ろうとする。いたるところ名文句で飾られた文章は歯切れよく、律動的に物語を展開してゆく。もちろんその底に膨大な勉強量が隠されているのだが、なによりも、漂流の一夜と、「この世のおわりにまた会おう」という気が遠くなりそうな未来を、一編のうちに結びつけた雄大な構想がすばらしい。これこそ値打ち物の小説だ。

 「二百年前の奄美の悲惨な階級社会であり、最下層の少年奴隷の苛酷な毎日」とうのは、評者の認識というより作品の要約として書いていると思える。


 小谷真理

ひときわぬきんでていたのは、遠田潤子『月桃夜』。なんといっても大きな魅力は、江戸末期、薩摩の圧政に苦しむ奄美大島のライフスタイルが生々しく書かれていること。禁断の恋愛小説としても読み応え充分。兄妹の愛情関係は、現代の少女マンガの蓄積をすら凌駕するかなり緻密な掘り下げ方で、圧倒的。本当の兄妹ではないので、なにをそこまで気にするのだろう、と読者は思うかもしれないが、その思いこみこそ、彼らを奄美の階級制に縛り付けているものと同等であるから、むしろ重要なのである。奄美由来の兄妹婚姻に関するフォークロアの奥深さを浮かびあがらせる配慮にも、感嘆した。

 「薩摩の圧政に苦しむ奄美大島のライフスタイル」も、作品から汲み取られたものだ。


 椎名誠

『月桃夜』は二百年前の奄美大島を舞台にした堂々たる幻想的歴史小説である。ぼくの知っているかぎり、これまでこれほど綿密にこの島を舞台にして小説が語られたことはなかったように思う。作者はてっきり奄美の人かと思ったがそうではないらしい。
 琉球(沖縄)と薩摩(九州)に挟まれて奄美は存在感の薄い島だった。文化が曖昧だった。どちらかというとおとなしく暗いイメージもあった。この小説が世にでることによって、奄美のあたらしい別な魅力がひらかれればいいな、と思う。
 椎名誠にいたって、作品評を離れ、奄美に言葉が届けられている。「存在感の薄い」「どちらかというとおとなしく暗い」奄美に「あたらしい別な魅力が」ひらかれますように。


 鈴木光司

カヤックで奄美の海に漕ぎ出した現代の少女に、鷲が、過去の物語を語り始める『月桃夜』の冒頭部分は、詩的で美しく、目に浮かぶ情景は印象的だ。江戸時代、薩摩藩から弾圧された奄美大島を舞台に繰り広げられる兄妹の悲劇と、現在との関わりが明確になれば、さらに完成度は増す。

 これも作品評。「現在との関わり」は別の意味でぼくたちが気にしているところだ。


 荒俣さん、椎名さんの奄美認識(奄美に対して認識があるということ)が、嬉しいですね。


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2009/08/27

「とまどう与論島」(「唐獅子」5)

 奄美の日本復帰以後、与論島と沖縄島の間の境界が、再び浮上したのは、沖縄の復帰運動においてだったと思う。

 当時、ぼくは小学生だったから運動の同時代的雰囲気を味わっていない。だが、こちら(与論島)を日本ということも、あちら(沖縄島)をアメリカということも、どちらもピンと来なかったのを覚えている。

 ところが後年、運動のさなか、辺戸岬から与論島を見て、あそこには憲法があるという言葉が発せられたのを知ってとても驚いた。最初は誤解して、あの、宮古島のオトーリと並んで知られる酒の回し飲み作法、与論「献奉」のことを指しているのかと思ったほどだ。与論島には日本国憲法がある。それは嘘ではない。しかし、日本国憲法のある場の象徴としてスポットライトを当てられると、その実感の希薄な当の与論島は、とまどうのだ。

 「日本が見える」と新川明は書いた。「与論島/よろんじま!/そこは/日本の最南端/〈祖国〉のしっぽ/日本の貧しさが/集約されて/ただよう島。」(「日本が見える」)、と。

 だが与論島は「日本の貧しさが集約されて漂う島」ではない。薩摩軍も上陸せず米軍も上陸せず(上陸すればよかったという意味ではない)、おまけ中のおまけのような島に「日本の貧しさ」は集約されない。むしろその圏外で実質的に貧しかっただけだ。それは沖縄の離島の似姿でもあったろう。あるいは、復帰運動でマスコミが殺到したのを機に、与論は日本の最南端の島として観光ブームが訪れるが、その意味では、沖縄の未来像でもあった。

 ぼくは新川明の詩に異を唱えたいわけではない。ただ、そこに線が引かれて境界があるというだけで、与論が日本の象徴になってしまう、それは意地悪なことだと思うのだ。

 辺戸岬沖の27度線近く、与論島から出た船からは「沖縄を返せ」とシュプレヒコールされた。それは日本いう立場からすればその言葉で意味は通っただろう。しかしたとえば、与論の島人がそう叫んだとしたら、違和感がよぎらなかっただろうか。誰が誰に返すのか、ピンとは来ない。むしろその叫びは、与論島と沖縄島の間にあった自然な交流が阻害されてあることへの異議だったのではないだろうか。(マーケター)


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2009/08/26

(奄美-鹿児島)と(沖縄-日本)のパラレル構造

 『幻想の島・沖縄』では、沖縄による奄美差別の話題に続けて、宮古、八重山についても同様であることに触れて、書いている。

 過去も含めであえて大雑把に図式化すると、米国→日本→沖縄→奄美・宮古・八重山といった加害と被害の重構造があり、その中で沖縄は「日本は沖縄を差別している」と言い、日本は「沖縄だって奄美や宮古を差別しているじゃないか」と言い返す構図があります。あまり生産的な会話ではないことは確かでしょう。

 しかし、そういうなら、北が南を差別するという意味では、奄美→沖縄という流れも存在する。
 また、大久保は、基地をめぐる利害対立が沖縄の地域を分断し、日本vs沖縄という構図が、沖縄を含む日本が基地問題について、アメリカへの異議申し立てをしにくくさせている、さらに沖縄は不思議なことに親アメリカであると指摘している。

 これらを受けて、奄美として考えると、パラレルな構造があるように思えた。試みに書くと、

 奄美 - 鹿児島
 ↓
 沖縄 - アメリカ
 ↓
 日本

 この矢印は、差別というより批判の矛先とする。

 ぼくは、奄美知識人の系譜のなかでは、鹿児島批判に向かうべきことが沖縄批判となって表出する場合があるのを感じる。それが、奄美と沖縄の両者としての鹿児島への異議申し立てをさせにくくしている。このことは、場合によって、奄美の頭越しに鹿児島と沖縄が手を握る可能性を示唆する。

 同様に、大久保の考察を受けると、沖縄ではアメリカ批判に向かうべきことが日本批判となって表出する場合があり。それが、日本と沖縄の両者としてのアメリカへの異議申し立てをさせにくくにしている。このことは、場合によって、沖縄の頭越しにアメリカと日本が手を握る可能性を示唆する。

 そして、奄美を間にした、沖縄、鹿児島は二県問題であるのに対して、沖縄を間にした日本、アメリカは二国間問題である。それが、過剰に語られない奄美と過剰に語られる沖縄の舞台背景になっている。

 こんなアナロジーをするのは、沖縄-日本の問題を見ていると、ときにふと、奄美-鹿児島のことと構造が似ていると思うからだ。

 だからどうというわけではないのだが、試みに構造化してみた。

   『幻想の島・沖縄』

Gensounoshima

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2009/08/25

『幻想の島・沖縄』

 「奄美と沖縄」を読んだ時点では、目盛りの粗さが気になってしまったが、最初から全体と通すと印象が変わった。大久保潤の『幻想の島・沖縄』は、本土の人が沖縄問題に接近するようにはどうしたらいいか、そのよいガイドになっているのではなかと思えた。

 いま琉球では、2009年のことが話題になっているが、実は2012年にも問題はある。そこで復帰以来ずっと続いている振興策、税金軽減などの特別措置が期限切れになるという。奄振の期限延長をいくども聞いているぼくなどは、期限延長になるのではと安易に思ってしまうが、どうなのだろう。

 それはひとまず置くとして、大久保によれば沖縄は「日本らしい」。

 沖縄は歴史や文化が独自であると強調されることが多いのですが、実際に暮らしでいて本土と違う独自性を感じることは、海と植物と天気などの自然環境以外にはあまりありません。むしろ、良い面でも悪い面でも日本らしいと感じました。
 島国日本の欠点とされる、視野が狭く、保守的でお上意識が強く、無責任で自己批判ができず、リスクを取って現状を変えようという意欲がなく、談合体質が強く利権争いが絶えず、問題提起能力はあるが問題解決能力がなく、具体的な行動をせず批判や要望だけを繰り返し、独自の文化を持っているのに、それが自信にも自立にもつながっていない。その日本の悪い部分が凝縮された島-沖縄。そんな印象を持ちました。

 沖縄は島国日本の縮図であること。それは奄美もご多分に漏れない面もあるから分かる。こう、分かると言って済ませられるのは、縮図以外の場所に、沖縄、奄美らしさはあるとぼくが思っているからだが。

 ではどうなればよいのか。著者の見通しはある意味とてもシンプルだ。基地の縮小である。

 1609年以降の沖縄と本土の関係は、総じて被害者と加害者の関係でした。沖縄と本土がもっと情報を共有し、被害と加害の関係から抜け出し、距離感をわきまえたいい意味で冷めた関係になる時期が来ていると思います。そのための大前提が、あまりに多い米軍基地を減らすことです。外と内から大きな変化が起きている2009年。自立に向けた時間に余裕はなく、多くの危機的な課題にも直面しています。しかし、日本全体で沖縄の基地を減らすことを考え、それが実現していけば、沖縄と本土のゆがんだ依存関係は一気に冷めます。その時、人の魅力を自立につなげる多くのアイデアが生まれることでしょう。足元は厳しくても、長い日で見れば沖縄が主体的に変わる、今は好機であると信じます。

 基地の縮小を振興策の削減とともに実現することである。振興策は沖縄のためになっていない。このお金をもらう方(沖縄)も払う方(全国民)も流れや使われ方を知らない。だったら、

 いっそのこと、沖縄振興計画の最後の1年となる2011年度は、内閣府沖縄担当部局の予算をちょっと増やして3000億円確保し、その全薇を県民一人ひとりに現金で配ったらどうでしょう。
維持費だけで赤字運営になる箱モノをつくるより、よほど経済効果があります。3000億円あれば、赤ちゃんも含めて1人20万円ばら撒けます。5人家族なら100万円のボーナスです。「振興策と言われても一般市民には得したという実感は何もない」と言われ続けた振興策ですから、最後ぐらいはわかりやすく目に見える形で実感してもらうのもいいでしょう。税金を払っている側も「沖縄を支援している実感」はありませんから、この方が 〝払いがい〟が感じられて、いいかもしれません。

 これは冗談半分のアイデアだと大久保は言うのだが、ぼくも奄振について、その大部分は地元に還流していないなら、奄美の住民に直接配って、各島々で使い方を決めてもらったらいいと思ったことがある。究極にはそうではないだろうか。

 この、基地縮小と振興策削減を同時に実現するに当たっての課題は何か。

 まず、沖縄は「官民高低」が著しい。 
 ぼくは鹿児島のことを思い出した。鹿児島も「官民高低」である。もちろん、小さな島々で公務員が大事な雇用の受け皿になっているのは知っているし、それを問題視しようとは思わない。けれど、鹿児島本土も相当に官高で、あの県庁舎が典型的にそうである。どうして県民所得の低さを問題にするところが、不釣り合いなほどに立派な県庁舎を建てるのだろう。ここには、官高が官偉となる倒錯像があると思えてならない。この点においては、公務員給与は民間給与の平均を上回ってはならないとしたレーニンが正しいと思う(「国家のすべての役員の俸給の「労働者なみの賃金」水準への引き下げ」『国家と革命』)。
 しかし、それは沖縄においても著しいというのは知らなかったことで驚いた。

 また、経済面でいえば、低賃金。沖縄に拠点を設ける、たとえばコール・センターなどの企業の進出の理由が低賃金である。進出企業だけではなく、そもそも沖縄の企業がそうである。それが観光やIT企業など、沖縄の重要な産業を育ちにくくさせている。

 基地の存在はディメリットもあるが、本土に比べて経済的なメリットが大きすぎることが問題である。

さらに、デメリットを受ける人とメリットを受ける人が別々の人であるため、実は基地問題で沖縄は絶望的に一枚岩になりにくいのです。「沖縄の声」はいつもバラバラです。沖縄では基地反対運動が活発に行われているように思われがちですが、基地がほとんどない那覇市を含む本島南部や宮古、八重山などの離島では基地問題への関心は驚くほど低いのが実態です。

 「反戦・反基地」のデモ参加や勉強会も無駄ではない。

 ただ、単なる経験やセレモニーで終わらせないためには、基地の経済的な側面についでも情報発信する必要があるでしょう。そして具体的に基地を減らすために最も有効なことは、まず基地の見返りとしての振興策や特別扱いに反対することです。「アメはいらない」と言われることが、日本政府は最も困るのです。アメを自ら受け入れでしまってはムチに反対することはできません。アメとムチを機能不全にさせることです。沖縄に注がれるアメは、沖縄の企業だけでなく本土の企業も潤わせますから、これは沖縄だけの問題では当然ありません。振興策を拒否すれば、足元の生活は少し悪くなるかもれませんが、長い目で見ればいいことの方が多いと思います。

 と、意外にあっさりきっぱり言っている。

 日本は非戦の誓いを立てたかもしれない。でも自分たちが起こした戦争を総括していないからどうやって国を守るかという議論を主体的に考えてこなかった。そのツケが、沖縄で表面化しやすい。

 また沖縄は埋め立てで土地がどんどん拡大している。沖縄の人は概して泳がないし離島に行くこともない。本土の人の比べたら埋め立てには抵抗がないのかもしれない。けれど、「美ら海」、「美ら島」で人を呼び寄せるのであれば、「海岸線を埋めるのは少し控えた方がいいでしょう」。

 さらに、沖縄では、沖縄vs日本という構図が生まれやすい。けれど、この構図にからめとられないようにしなければならない。

 世の中には「余計なお世話」をしたがる人と、そのお世話を求める人がいます。日本政府と沖縄の関係もそれに似ています。すべでの人がそのどちらかであれば需給関係は完結しおめでたいのですが、ほとんどの人は「余計なお世話」はしたくもされたくもないのではないでしょうか。基地はもちろん、振興策も実は沖縄にとって余計なお世話ではないのかと思うのです。それでもお世話が続くのは、世話する側にもメリットがあるからでしょう。伊佐氏が指摘するように少し離れた視点を持ち、深く関わらない冷めた関係が必要です。沖縄問題は、沖縄Ⅶ日本という関係でくくるのではなく、このお世話の受給関係を歓迎する人と拒否する人というくくりで見るのが正しいと思います。

 では自立するにはどうしたらいいのか。著者は、「若者のための夏の沖縄」から「高齢者のための冬の沖縄」へ、基地跡地に医療、リハビリ施設、オーダーメイドの健康診断、地震の少ないメリット等、日本経済新聞社の人らしく施策アイデアをいくつも出している。

 大久保は沖縄の人が得意な「クールで居心地のいい距離感」が沖縄と本土のあいだに生まれたらいいと願う。ぼくはいまひとつ、この「クールで居心地のいい距離感」が実感的に分からないことろがある。また、沖縄の基地が縮小しても日本人の安全保障感覚には抵抗はないとする見解が、そんなに簡単だろうかという疑問もある。読み終わってみると、川面を高速艇で過ぎ去られた感じもしなくはない。

 けれど、普天間基地問題の実相など、佐野眞一の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』のゴシップ調とは異なり、丹念に取材した認識から啓蒙される点も多かった。「基地縮小と振興策削減」を同時に射程に据えた点も、そんなに簡単にはいかないという声を聞く気はするが、そのシンプルな骨子の向こうに、縮小した基地と削減された振興策のあとについて、思考停止に陥らずに考えようとする姿勢を汲み取りたいと思った。 


   『幻想の島・沖縄』

Gensounoshima

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2009/08/24

与論が見える。2009/08/24

 前利さんが送ってくれた与論の写真。しかも、これは今日のものだ。今年はこれで帰省気分。しくしく。

 メーバマ、シュゴーの見える南岸を経て、東端のアーサキから、ムティ、サダリ、シーラ。よく知られたウフガニク。ミナタとクルパナ、その向こうに『めがね』のティラサキ。そしてアガサの海。嗚呼、与論島、与論ブルー。ためいき。

(新川明の「日本が見える」を読んだ後で、「与論が見える」と題してみた。前利さんに感謝)

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「奄美と沖縄」(『幻想の島』)

 立ち読みして通り過ぎるつもりが、気になる節があって手にとってしまった。「奄美と沖縄」というのだから、立ち止まってしまう。まだ、ここしか読んでいないが、ここから始めてみたい。書名は、『幻想の島・沖縄』

 沖縄の人の多くが、自らを「日本人」というよりも「沖縄人」と認識する理由の一つに、沖縄は日本とは違う歴史と文化を持つという「沖縄史観」があります。この「沖縄史観」を揺るがすかもしれない遺跡の調査が現在、鹿児島県の奄美大島の東方に浮かぶ喜界島で行われています。

 沖縄の人の多くは、「大和人」というよりも「沖縄人」と認識しているのであって、「日本人」というよりも「沖縄人」という認識は過半ではない。「沖縄人」という自称が「日本人」という自称と、対峙する契機を失っていないのが沖縄だ、とは言えると思う。

 2007年11月に琉球大学主催の「沖縄と奄美の経済交流フォーラム」が奄美大島で開かれ、琉大の後藤雅彦准教授から、喜界島で発掘が続く城久遺跡の報告がありました。この遺跡からは、古代末から中世の大規模な建物跡が見つかっています。出土品の中に中国や朝鮮製の磁器、九州の陶器があり、螺鈿細工に珍重される夜光貝も大量に出土したことから、九州・大事府の宮人の駐在拠点と中国貿易を含む夜光貝の加工・物流センターであった可能性があるというのです。そうであれば、これまで薩摩侵攻(1609年)以前の歴史ではヤマトではなく沖縄の一地方と見られていた奄美諸島史が塗り替えられ、奄美はヤマトの最南端、しかもアジア交易の重要拠点だったことになるわけです。

 いちいち引っかかるのは申し訳ないのだが、奄美は、「薩摩侵攻(1609年)以前の歴史ではヤマトではなく沖縄の一地方」ではなく、そういうなら「琉球の一地方」であり、「薩摩侵攻(1609年)」以後は、ヤマトの一地方になったわけではない。その隠し植民地のようなあり方は、「一地方」というような同一地平上にはない。

 これを、沖縄から見れば、沖縄はヤマトとは別の自律的な発展過程があり、沖縄本島を中心に王国が形成され、その影響が西方の先島諸島や東方の奄美諸島に広がっていったという沖縄中心史観が、覆ることになります。沖縄史観では辺境に位置する奄美大島の、さらに辺境の小島が実は先に発展して南西諸島の中心となり、沖縄に影響を与えた……。これまでの想定とは逆の文化の流れがあったのではないか、というのです。

 これは沖縄史観というより、沖縄島中心史観とでも言うべきものではないだろうか。
 それにしても、過剰に日本の近代民族国家理念の牽引ビームを受けてしまった伊波普猷の大和人南漸論以降に、「沖縄はヤマトとは別の自律的な発展過程があり、沖縄本島を中心に王国が形成され」たという史観が生まれていたことを、ぼくはあまり知らなかった。伊波の過剰な日本吸引への反撥から、過剰に沖縄へ吸引されることになった、ということだろうか。

 この喜界島の考古学の発見は、さらに道州制の議論にも影響を与えそうです。沖縄は道州制の議論で「単独州は当然」と考えていますが、その際、歴史・文化的背景から、南西諸島というくくりで奄美も混ぜてしまおうという発想が文化人の中にあります。一方、奄美の方にも、「観光や振興策で潤う沖縄と合併できたらいい」(奄美のマスコミ関係者)という声があります。ところが、奄美の行政幹部は鹿児島系が主流で、沖縄合併論はタブーなのだそうです。きっと、奄美がヤマトに属することを証明する喜界島の発見は、道州制の議論の中で鹿児島系の人たちに政治的に利用されるのでしょう。

 「奄美がヤマトに属することを証明する喜界島の発見は、道州制の議論の中で鹿児島系の人たちに政治的に利用される」動きが生まれるのは予想できる。もうあるのかもしれない。だが、沖縄合併論をタブーにしてはならない。沖縄と合併すべきだから、というのではなく、そのタブーが400年の向こう側へ行かせない足かせであるからだ。

 「世界一優しい声」として人気の歌手、中孝介や元ちとせ、「恵」「泉」「武」など奄美に一字の名字が多い(沖縄には一字はほとんどなく、三字が多い)のは、奄美出身とわかるように薩摩が採った政策だそうで、奄美の一部には反薩摩感情もあります。一方、奄美は沖縄からも差別された歴史があるので、反沖縄感情もあります。フォーラムに参加したある奄美出身の経済人は酒の席では「誰が沖縄の世話になんかなるか」とストレートに沖縄への反感を吐露していました。

 一字姓が多いのは、「奄美出身とわかるように薩摩が採った政策」というより、冊封体制に対応させた政策である。近代以降、その一字姓が奄美の識別記号として機能して差別要因になったということは言える。

 佐野眞一氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』には、奄美出身者が沖縄で受けたすさまじい差別の証言がいろいろと書かれであり、読んでいてやりきれなくなります。那覇に住む奄美出身の知人も「基地問題で『日本人は沖縄を差別するな』と言うのを聞くと『お前らがそんなこと言える立場か』と怒りがこみ上げる」と話しでいました。奄美諸島は沖縄より早く米国支配から解放され1953年に本土復帰しましたが、それにより沖縄で生活していた奄美出身者は「外国人」となり、選挙権がなくなったり、公職から追放されたりしました。奄美の人の沖縄に対する恨みは根深いものがあります。

 「誰が沖縄の世話になんかなるか」などの発言はぼくも耳にしたことがある。6月に鹿児島の「奄美を語る会」で話した後の質疑応答で、古老が参加者に向かってわめくように吐露していたのも、「沖縄に対する恨み」だったと思う。思う、というのは、マイクを大きく揺らすほど激していたので、よく聞き取れなかったからだ。

 しかし、その恨みは、世代を限定してもいる。戦後、沖縄島へ労働者として出稼ぎに行き、奄美の復帰とともに沖縄を離れるのを余儀なくされた世代を中心にしている。佐野の沖縄本は、沖縄による奄美差別をクローズアップさせた。良くも悪くも。しかし、ぼくはこの見やすい構図のなかで、そもそもこの差別の引き金になったのが、奄美の復帰に端を発していることや米国主体の政策であることが隠されてしまうのが気になる。

 「誰が沖縄の世話になんかなるか」が出たのは「酒の席」とあるように、この感情は充分に表現されていないのだと思う。ふだんは抑圧しているということだ。ぼくはこれは酒の席ではなく表現されるべきだと思うし、同時に、沖縄に対する恨みは発露されやすいとも感じる。鹿児島に対するそれはあまり活字になることもなく、そこには、奄美的な屈折があると思える。

 沖縄では、文化人を中心に奄美との一体感が強調される一方で、「奄美なんてお荷物」と特に経済人は考えています。さらに、道州制で沖縄と九州が一緒になる構想について九州側からは「沖縄なんてお荷物を抱えたら、九州の財政が破たんする」(ある地方紙幹部)と拒否反応もあります。

 それはそう。経済的には、九州からみたら沖縄はお荷物だし、沖縄にしてみれば奄美はお荷物だ。

 地理的には「南西諸島」、歴史・文化圏としては「琉球弧」、思想的には奄美で暮らした作家島尾敏雄が唱えた「ヤポネシア」などの言葉でくくられる沖縄と奄美。沖縄には「琉球弧の先住民族会」という組織があります。「琉球弧の自立・独立」を掲げる「うるまネシア」という同人誌もあります。
 国道58号線は那覇市から奄美、種子島、鹿児島市まで約600キロメートルの海上を挟んで結ぶロマンチックな道です。そんな兄弟のような沖縄と奄美でさえ、簡単には乗り越え難い溝があります。薩摩侵攻から400年、琉球処分から130年の節目の2009年。地域や民族の属性から離れて仲良くすることは本当に難しいことだと、つくづく思います。沖縄と本土の溝が簡単に埋まるわけがない、ましてパレスチナとユダヤが握手することの困難さは想像を絶するのだろう、などと思ってしまいます。

 ここでは、パレスチナとユダヤへのアナロジーをするのが大事なのではない。問題の大文字化は、いつもそれより小さな問題にみえる者たちに無力感をもたらしてしまう。もう少し、繊細な物差しを当ててほしい。

 ぼくは、島が主役であることを踏まえれば、溝は乗り越えがたいとは思わない。


   『幻想の島・沖縄』

Gensounoshima

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2009/08/23

「直轄支配下の奄美 抵抗の系譜」

 1778年、一人の罪人が与論島に流されてきた。名は大島屋喜内間切須古村の稲源といった。
 時の沖永良部島代官・野村勘兵衛は与論島与人宛に「右の者はかねてより欲心が深く、昨年宇検方の百姓を集めて筋無き儀を企て、上納物の減額を願い出、付近の村が同意しなければ、畑を踏み荒らすなどと脅迫し、騒動を企てたために、流罪にした」と記述している。
 この上納物の減額が、1777年の第一次砂糖惣買上制(惣買入制)にわったものであることは容易に想像できるが、「筋無き儀」の異体的な内容は記録されていない。(「南海日日新聞」2009/08/14)

 こういう記事を見ると、稲源さんはその後、与論でどう過ごしたのだろうか、与論の島人にとって稲源さんの来島は、奄美の北で何が始まろうとしているのか、知る出来事になったのではなかったろうか。稲源さんは大島に戻れたのだろうか、与論には末裔はいるのだろうか。想像をめぐらせてみたくなる。無事に過ごしたことを祈るばかりだ。

 稲源の与論行きは島役人として、第一次砂糖惣買上制に異議申し立てをして遠島された例。同じ宇検で、3年後の1781年には島役人、国惇(くにじゅん)が、「砂糖と交換できる米の比率に関わる」越訴書を差し出したために、切腹磔に合う。

 記事の書き手である、先田光演は、

この二つの事件は、奄美の歴史にとって島役人が藩の砂糖政策に真っ向から反対した史実として、もっと評価されてよいものである。

 と指摘する。

 続いて1816年の母間騒動、1864年の犬田布騒動に触れて、こう締めくくる。

島民の怒りで突発的に起こった事件であったが、犬田布騒動では島役人が騒動の鎮圧と犯人探索に動員され、島役人と島民が藩の支配権力の前で相対することになってしまったのである。
薩摩藩の砂糖政策はこのほかに、潰れ村や身売り百姓の犠牲の上、膨大な利益を上げていたのである。
母間騒動は全国共通の百姓一揆の典型的な姿であったが、逃散という逃亡による抵抗も徳之島や大島では起こっていて、奄美の歴史は抵抗の歴史でもあった。

 先田は、島役人が前面に立った直訴や一揆を追いながら、これを奄美の抵抗の系譜に位置づけている。そしてそれだけでなく、奄美の歴史を「抵抗の歴史」として位置づけたいのだと思う。

 分かるのだが、わかるのだが、点を面にしてないだろうか。島役人を主語にしたとき、奄美の歴史は到底、抵抗の歴史とは言い難い。抵抗というなら、薩摩の役人とは滅多に接することのない島のなかで、生きる営みに追われながらも、踊り祈り唄った島人が、とにかく生き続けたことそのものの中に見出すしかないと思える。


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2009/08/22

「シベリア抑留、手記に」

 8月13日記事(南海日日新聞)で、与論の山根さんの記事が出ていた。

 1943年、18歳で第2次与論開拓団に加わり、旧満州(現中国東北部)へ渡った。45年8月、旧ソ連軍に運行され、松の伐採など重労働に従事。シベリアの収容所で青春時代の2年間を過ごした。
 冬場は零下30度を下回る極寒の地。起床時間が迫って隣の戦友を起こすと、氷のように冷たくなっている。作業中も飢えと寒さで次々と仲間が命を落とし、死体を埋める穴も自分たちで掘った。
 野草に虫、松葉の茶。「明日はわが身かもしれない」という不安に駆られながら、食べられるものは何でも食べて命を守った。「ハラキリサムライは戦争に負けたのになぜ腹を切らなかったのか」。過酷な状況に追い打ちをかけた旧ソ連兵の言葉が今でも脳裏から離れない。

 これが書かれているのは、手記『生きて帰って来い、必ずだよ』。ぼくも読んだ。短いエッセイなのに長編のような圧倒感を味わった。去年、そのことを感想(『生きて帰って来い、必ずだよ』)に書いた。記事を読み、改めて、山根さんが語ってくれてよかったと思う。

 なんとなく記事の画像を載せたくなった。

Yamanesan1

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2009/08/21

『沖縄文化はどこから来たか』

 与論には旧い日本が残っていますよね(この場合、奄美、沖縄と入れ替えても同じ)と言われると、半共感を覚えてきた。反感、ではない。確かにそうだと言える面ともちろんその圏外のことがあるわけだ。そこで、そう言われたときは、何を指して旧い日本と呼んでいるのかを、その都度、聞いていくのだった。

 『沖縄文化はどこから来たか』は、そこに11~12世紀の日本だよ、と答えている。沖縄文化はどこから来たの? それは11~12世紀ごろ、日本からだよ、と。

 ぼくはこの本の感想を、自分の身体性、身体感覚に照らして書こう。

 高梨修は、琉球弧では考古学の年代メジャーとなる土器編年が確立していないという課題を前に、丹念に土器動態を辿りながら、喜界島の城久遺跡群をはじめとした複数の遺跡から類須恵器が大量出土していることに着目し、仮説を立てている。

 ①もしカムィヤキ古窯跡群の生産陶器(類須恵器)や外来容器類が南方物産交易の対価として琉球弧で広範に用いられたと仮定するならば、それらの大量出土が認められる拠点的な消費地遺跡が、沖縄諸島・先島諸島にも複数認められてもよいのではないか(あまりにも数量的に少ない)。
 ②類須恵器の大量出土が認められる消費地遺跡がほとんど喜界島と徳之島に限られるという分布状態、そして城久遺跡群に認められる遺構・遺物の非在地的、拠点的様相から考えるならば、やはりカムィヤキ古窯跡群の生産陶器(類須恵器)は、喜界島に供給する目的で生産された可能性が強いのではないか。
 ③沖縄諸島・先島諸島では、類須恵器をはじめとする外来容器類が十分に入手できないので、その代替措置としてそれらの模倣土器群が製作されたのではないか。
 ④中世前半段階に、沖縄諸島・先島諸島に成立した土器文化は、城久遺跡群に認められる外来容器類の模倣土器群であると理解できる。特に先島諸島は、長期間にわたり無土静文化が営まれてきたのであるから、突然の土器文化成立は、やはり人間集団の移動を伴わなければ発生しないのではないか。

 類須恵器が大量出土するのは、喜界島と徳之島に限られ、かつ、喜界島の城久遺跡群の建造物の痕跡やモノが、もともと喜界島にあったものではなく、にもかかわらず規模が大きく拠点性を持っているのを踏まえると、徳之島のカムィヤキ古窯跡群から生産された類須恵器は、喜界島への供給を目的にしていたのではないか。現に、沖縄、先島では、出土量があまりに少ない。むしろ、沖縄、先島では、類須恵器をはじめとする外来容器類があまり入手できないので、模倣土器が製作された。そしてその土器文化が突然成立しているのは、そこに人の移動があったからではないか。

 ぼくたちは、出現したモノとしての事実から、人やモノの動きを見ようとする高梨の視線を追うことができるが、ここから導かれる結論はこうである。

 琉球弧では、一一世紀代~一二世紀代にかけて、喜界島の城久遺跡群を機軸とする人間集団の南漸が発生していた。これが本稿の結論である。城久遺跡群に関して付言しておくならば、中世を遡る段階から、おそらく威信財交易を契機とする活動拠点が点的存在として局部的に営まれていたと理解されるのである。そして交易形態の変化に伴い、その活動が一挙に拡大した時期が一一~一二世紀代であると理解できるのである。(中略)
 この結論から思量されるのは、内的発展による琉球王国形成という歴史的理解に基づいた従前の「沖縄学」の研究常識に対するさまざまな疑問である。

 この「人間集団」を大和人と見なせば、11~12世紀に喜界島を拠点として大和人が南漸した。そして類須恵器がこのとき人間集団の移動とともに一気に琉球弧に普及したのだとすれば、琉球弧に共通の軸を通したのも大和人、というところまで類推できることになる。

 ぼくたちはここで伊波普猷の大和人南漸論を思い出す。そういう意味ではこれは南漸論第二波なのかもしれない。ただ、伊波が日本の近代民族理念に吸引されるあまり、ときに南漸以前に人っこ一人いないかのような錯覚をもたらすものだったが、ここでは、南漸以前には共通する文化は無かったとしている。いわば、科学としての考古学からの南漸論、である。

 ぼくは亜熱帯自然と島人への自分の身体感覚からいえば、もともと琉球弧には国家を形成する内在的な必然性は無かったと考えている。「内的発展による琉球王国形成」ではないだろう、と。高梨の考察はそこに照明を当ててくれるようだ。


 阿部美菜子は、大和語から、「おもろそうし」に接近している。

 まず、第2節「オモ口語と大和古語」では、かなり機械的な方法であるが、オモ口語と大和語に関する辞書の比較を通して、『おもろさうし』に採録されている言語年代の調査を試みた。
 大和語と共通しているオモ口語のうちの八割以上が、大和室町期において行われた言語(必ずしも室町期独自の言語ではない)であるという結果が出た。さらに、「しなう(撓)」や「あがなう(贖・購)」等の具体的な語例から時代を絞り込むと、『おもろさうし』は十一世紀~十二世紀頃の大和語を積極的にとり入れていると推測することができる。

 「おもろ」に見られるのは大和の古い言葉、というより、「大和室町期において行われた言語(必ずしも室町期独自の言語ではない)である」。面白いことに、大和語を積極的にとり入れたのは、高梨が南漸の時期として想定した11~12世紀ごろと同じである。

 しかも、取り入れる過程では、

(前略)「沖縄固有の語」と「大和にも見られる語」の組み合わせでは、「オモロには謡われているが、後世の首里、今帰仁方言には残らなかった沖縄古語」と「オモロに謡われた後も、首里、今帰仁方言に残った大和古語」が対を成す傾向にあるということになる。
 推測の域を出ないが、大和古語は日常的に用いられる口語的な表現で、沖縄古語は王府の祭祀や儀礼で用いられた、呪術的で特殊な言葉なのではないだろうか。意味の近い日常語と祭祀語を組み合わせることで、首里王府内部だけではなく、本土から見てもある程度わかりやすいものに整えたのではないかと考えることができると思う。

 というように、琉球内部と外部への言葉を対にした可能性を指摘している。

「対語」の中でも特に、「沖縄固有の語」と「大和にも見られる語」の組み合わせは、翻訳・語釈という役割が強くあらわれており、その上「琉球語」と「大和語」といういわば異国の言葉の組み合わせが、「文選読み」における「漢語」と「和語」の関係と非常によく似ている。

 阿部は推測の域を出ないと言っているが、ここは「おもろ」編纂者の意識構造が垣間見える点で興味深く、こんごの追究が楽しみなところだ。

 「おもろそうし」は「沖縄の万葉集」と呼ばれたりするが、自然と心の動きを詠じたものとしては、万葉集に比べ、相当に素朴な域にとどまる。阿部の言うように新しい言葉も多い。しかし、日常的に接していた与論言葉から分かる単語などを頼りに、阿部も指摘する対語の流れをたどっていくと、呪術的なリズム感に囚われ、次第に祭儀のなかに迷い込むような感じがやってくる。その古代的な感覚まで研究が及んでくれたら、というのはぼくの願望だ。


 中本謙は琉球のp音について書いている。「琉球方言のp音は文献以前の姿か」。
 伊波普猷の「p音考」に対する仮説である。

 兎に角琉球語に於いては、

 P → F → H
 ↓
 B (→) W

  の如く変遷して、今日に至ったのであらう。
 そして、
  日本文化の影響を蒙ることの少ない山地や島嶼には、今なほp音が盛につかはれてゐる。これも亦天然が時間を場所に現はして吾々に示してゐる一例である。(伊波普猷「p音考」)

 「天然が時間を場所に現は」すという表現は胸に残るが、とにかく、「p音」については与論言葉にも多いのだが、なんというかそれらは、いつまで経っても「F音」にも「H音」にもなりそうにないのだ。「真面目」があっという間に「マジ」と言われるようになたり、「ヤバイ」が「ヤベー」となり次いでに意味まで、あれよあれよという間に逆転する様を眺めていると、およそ「p音」は不変に見える。もちろん、昨日の顔と今日の顔は同じ見えても十年経てば違いが分かるのと同じように、南の時間速度で変化していると考えるということなのだろう。しかし、それにしても、ぼくの身体感覚としては、「花」(パナ)はいつまで経っても「パナ」であり、これが「ファナ」や「ハナ」へと変化するとは感じられない。むしろ、「P → F → H」は、必然の推移ではなく、異文化や異集団との接触を物語ることも考えられるのではないか。

 ところで中本が書いているのはこのことではない。

本論では、強い呼気による南琉球方言の/'w/>/b/ とパラレルに考えて、/hw/>/p/ の蓋然性も否定できないのではないかということを示した。つまり、南琉球方言のハ行子音p音の中には、φ>pの変化を遂げているものもあるという可能性も否定できないということである。そして、八重山竹富島方言のφ>pの例や浜比嘉島比嘉方言、恩納真栄田方言等のφ>pの音声変化の傾向にある語は一つの傍証となりうると考える。

 伊波の表記に倣って書くと、伊波は、B→Wと見なしたが、現在では、W→Bと言われるようになっている。それとパラレルに考えれば、P→Fとは別に、F→Pという変化を遂げているものもあるのではないか、ということだ。

 中本の主張は控えめなものだけれど、琉球のp音は「文献以前からの古音の保持」と考えられているが、実は比較的、新しいものではないかという問題意識を下敷きにしていると思える。

 中本は事実の採集の上で語っているので、ここで身体感覚を持ちだすのは気が引けるのだが、ぼくはp音は古語っぽいと感じる。赤ちゃんがあわわ言葉を経て、母音と子音を発声するとき、最初に現れるひとつにp音はある。与論言葉でいえば、祖母を「ぱーぱー」と呼ぶ、あの音声には、そうした最初の言葉の初源の感覚にあふれている。古代感ある言葉に思えるのだ。

◇◆◇

 ぼくは、琉球王国に依らない琉球弧の根拠は何かという自分の課題を確認するように、『沖縄文化はどこから来たか』を読んだ。ただ、この本はここで終わらず、ぼくの課題に重なる考察も添えられていた。吉成直樹の「グスク時代以前の琉球の在地集団だ」。

 考察は、DNA、神話にも及ぶのだが、ここではぼくも重要だと思う「アマン」という言葉への考察を引用したい。

 ところで、崎山理によれば「ヤドカリ、非食用カニ」を波照間島amang、宮良(宮古)amam、首里amang、名瀬amangと呼ぶが、これらの語彙はミクロネシア語(南島語族)の二次的再構形である**əmaŋに由来するという(崎山、一九八五[一九八二〕、二三五)。つまり、崎山が指摘するよぅに、神話のなかで自分たちの祖先であるやどかりを「アマン」と呼ぶのは南島語の語彙に由来することになる。自分たちの祖先を南島語の「アマン」という言葉で呼ぶことの意味は、決して軽くはないはずである。南島語の影響が琉球列島に及んでいたと考えるのが自然である。

 ぼくも「アマン」という言葉は重要だと思っている。ハジチ(針突)にアマンを記し、それを祖先であると見なす行為には、人間と動物が等価であり、身体は霊魂の衣装であるという人間・世界観を示している。ぼくは、この人間・世界観に琉球弧の根拠を朧げに見るものだ。

 この他、与那国島などに残るアイヌ語地名を朝鮮語を通じて説明されているのも興味深かった。堀下げるべきテーマは尽きない。

 
 最後に。大きなテーマに大胆に切り込み、その摩擦面から刺激波が次々に飛んでくる。そんな本だ。



    『沖縄文化はどこから来たか―グスク時代という画期』

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縁があれば世間も狭く

 学年が一つ違う高校の同校生が、日本語学校の校長先生をしているので、高田馬場で飲みながら日本語のレクチャーをしてもらった。仕事で必要性に迫られたテーマがあるからだったが、とかく目線が枝葉になりがちなので、もっと幹を捉える方法を知りたかった。

 で、主題を立てる/まとまりをつくる/つなぐ、などの視点で、高文脈依存と言われる日本語の文章を組み立て方を教えてもらい、すっきりしたし、そういう書物があればいいのにと思った。最近、文法や敬語の本を漁って気づいたのだが、日本人のために説明された本より、日本語を学ぶ外国人のために書かれた本の方がはるかに分かりやすかった。もっとも、『日本人の知らない日本語』は学んでいるより、笑っていることのほうが多かったのだが。この本にある類のエピソードは彼にも豊富にあって、生徒に飲みに誘われたとき断ると、「無念」と返されたそうだ。愉しい。この、日本語教育の領域は、いずれ逆輸入が起きるんじゃないかと思う。

 ブログを書いて以来、20年ぶり30年ぶりの再会に恵まれるようになった。それはブログのおかげということもあれば、そうしてもいいと思える歳月を積み重ねがあるということでもあるだろう。どちらにしても不思議で感慨深い。ところで彼との再会縁は、ブログではない。山手線である。30年近く経っての再会。青豆と天吾は強く望んでも20年ぶりほどの再会に苦労したけれど、ぼくたちは会えた。縁があれば世間も狭くなる、ということか。


『日本人の知らない日本語』

Nihongo

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2009/08/20

「奄美からも道州制議論を」

 沖縄の人から「奄美からも道州制議論を」という呼びかけがある。無関心が大勢を占めると思うので、こうした声かけは嬉しい。しかも、宮古島からであれば、なおのことだ。

 ことしは薩摩の琉球侵攻400年に当たる。沖縄本島ではこれを記念する追悼行事も行われた。沖縄県紙では薩摩軍侵攻時の徳之島での抵抗の歴史や400年記念シンポジウムの様子も紹介された。
 行政区分が違うとはいえ、一度でも奄美を訪れたことのある沖縄県民なら言葉や風土が沖縄に似ていることに驚き、奄美諸島が「兄弟島」であることを実感するだろう。わたしも10年ほど前、奄美大島を旅したことがある。それが奄美諸島に関心を持つきっかけになった。しかし、両者は沖縄本島-与論間の北緯27度線で分断され、琉球は過去の負の道産をいまだ清算しきれないでいる。

 この場合、「負の遺産」というのは、奄美と沖縄が分断されていることを指し、かつそれを政治的な意味で述べているのだと思える。

 ことし3月11日の沖縄タイムス投稿欄に「沖縄州へ参加、奄美は可能か。という投書を採用してもらった。沖縄では道州制導入を前提として知事の「沖縄は単独州が望ましい」という発言があり、地理的文化的独自性を生かした沖縄単独州を目指すべき、との主張が新聞紙上で度々みられるようになっている。
 それなら琉球系の文化が今も残る奄美諸島の奄美人々は琉球系日本という民族意識を持ち得るか。将来、道州制が導入された際、同じ琉球民族として沖縄州への参加は不可能か、「奄美の人々の意見を伺いたい」という内容だった。

 「琉球系日本という民族意識を持ち得るか」というテーマは、「琉球系」にアクセントが打たれていると思うが、ぼくなどには「民族意識」を持ち得るかどうかが難しい。現在、近代民族国家の向こう側へ行こうとしている時代のように思えるのだが、「民族意識」と言われると、改めて近代を通過しようとしているような疲労感がよぎる。言い換えれば、近代民族理念が持った排他性や膨張性をどう克服しようとしているか、その理念がどう盛り込まれているかを知りたくなる。それは琉球弧の島人が、多いに悩まされてきたものでもあるのだ。

 奄美関連の出版物から知る限り、奄美諸島は鹿児島に近いという地理条件もあり、大和文化混在している。島によって琉球系文化の影響の濃淡も異なる。過去400年間、奄美は薩摩藩民であり、鹿児島県民であり続けてきた。しかし、地方自治が推進される道州制の下では、従来の中央依存型の利益配分が望めない。地方は自力で経済を再建せねばならない。
 聞くところによると奄美は沖縄よりも公共投資が少なく、開発を免れた自然が観光資源になっているという。そうした条件下で奄美・沖縄間で同一の観光経済圏をつくろうとする動きも既に出てきている。小型機ではあるが、沖縄-奄美諸島間の航空便も増え、民謡歌手たちの共同イベントも行われるなど両者の交流は確実に活発になりつつある。
 観光の知名度においては沖縄が数歩先んじている。ゴーヤー、マンゴーなど沖縄産の農産物そその他の特産品は既に全国で認加されている。奄美が沖縄州に参加すれば沖縄が既に築いたブランドイメージがそのまま奄美の観光および産品に生かさふる。

 「両者の交流は確実に活発になりつつある」、それは嬉しいことだし、それが何より大切だと思う。

 奄美諸島は米軍銃撃から先に復帰を果たしもが、道州制導入の際は奄美から沖縄州参加を問う議論が出てきても面白のではないだろうか。
 先の新聞投稿が緑で最近、Sさんという沖永良部出身者と知遇を得る機会があった。Sさんの母親は「奄美は言葉も文化も琉球だ。薩摩の都会鹿児島になっているだけで、いつかは家に帰らなくてどうする」と言っていたという。奄美から琉球復帰を希望する声を聞き、沖縄州もしくは琉球州の成立は琉球民族にとって民族意識と自治の回復の機会ととらえることができるのではないかし考えた。

 いつかは家に帰らなくてどうする」。これは与論でも出てきうる声だが、沖永良部、与論だから出てきやすい声だろう。ここまでは言えるのだが、「奄美から沖縄州参加を問う議論が出てきても面白のではないだろうか」というところは、宮平さんが言うほど、面白いとは言えないかもしれない(苦笑)。奄美はこうした枠組みを提示する経験を持っていない。あるいは、その無力感に打ちひしがれている。宮平さんの声は励ましとして受け取りたい。

 そして、「琉球民族にとって民族意識と自治の回復の機会」というように「回復」として言われるものであれば、それは琉球王国を根拠にしたものだと思える。しかしこの根拠こそ、よく問われなければならないことだ。「回復」としてではなく「創造」として言うことはできないだろうか。琉球という同胞意識と自治の創造の機会、というように。

 わたしは沖縄の日本復帰後、自分が日本人であることを疑うことなく育った世代に属する。成長して後、自分が琉球人か日本人かという葛藤を経て自分は琉球系日本人あり、日本は大和民族、琉球民族、アイヌ民族を含む多民族国家なのだと結論づけた。
 日本は先の敗戦以来、国民国家を再構築する努力を積み重ね、多民族国として異文化への排他性を克服した社会へと変わりつつある。この夏の総選挙の後には本格的な道州制論議が始まることが予想される。わたしはこの時代の日本に生きることに対して決して悲観的ではない。道州制実現の際に沖縄、奄美が同一の自治圏をつくる利益は決して少なくないと信じる。沖縄と奄美、鹿児島の間で何らかの意見交換が行われることを強く願っている。宮平佳和(沖縄県宮古島市)「南海日日新聞」2009/08/10)

 文脈を自分に置き換えてみる。ぼくは、奄美の日本復帰後、「自分が日本人であることを疑うことなく育った」ものの、長じて以降の皮膚感覚は、どうやら日本人という範疇には入れられてないらしいと感じてきた。同時に、国のレベルから下げれば、鹿児島人とは露も思えず、とはいえ沖縄人でもない。そうだとしたら、受け皿としての言葉がない。奄美人が、大島に収斂してしまわない空間の広がりを持つか、琉球人が琉球王国に止まらない時間の広がりを持てば、座りいい自称がありうるのではないかと夢想したりしている。呑気な書き方だが、切実である。

 道州制という枠組みと琉球王国という根拠は、問いなおさなければならないと思うが、「沖縄、奄美が同一の自治圏をつくる利益は決して少なくない」というのは共感とともに議論を積み重ねていきたいポイントだ。


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2009/08/19

何もしなくていい時間

 お見舞いに行ったつもりが、思った以上に元気で、思わず長居させてもらった。静かな場所で何もしなくていい時間が流れた。何もしなくていい時間は、今のぼくには得ようと思っても得られるものではなく、そうできる条件が整ったときだけ訪れる特別のものだ。しかもそれは一人ではできない。ぼくのほうがミニ入院したように、治癒されに来たみたいだった。

 採れたての葡萄。洗わなくてもいいそうで、甘く素朴な味を堪能させてもらった。昔、ずっとむかし、父がお客さんと島の言葉で談笑し、母はその横で裁縫をしながら相槌を打ったりしている。思い出か想像か。とにかく、そんな場面を思い出した。いやそういうより、その場にいるようだった。あったかく、居心地がいい。お酒の入らない長話も格別だった。


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〈白〉幻想

 中村喬次の「ちんだみ随想」が懐かしいエピソードで愉しかった。<白>幻想である。

 沖縄人にしては色が白く大和人にしては色が黒い。ならばその中間色かというと、そうではない。白と黒の淡い、やや黒よりの白、と話はややこしい。とにかく、それが沖縄人の目に映る大島人らしい。僕にもいくつか覚えがある。「眉の濃いのと日はうちなあだが、色は確かに大島だな」と。亡くなった作家、森瑶子さんが最初、「オッ」、と少しおどけた調子で背を反らせ、「いかにも南島人、つて感じね」と笑った。南島人といって沖縄人と分けたところがみそである。
 誰が見ても典型的な「ウチナージラー」している友人のアナウンサー、上原直彦氏(昭和13年生まれ)が、地元紙に面白い話を書いている。
 彼によると、ヤマトゥージラー(本土人の色白さ)を、沖縄人はこう表現したというのだ。
 「ンーチクーガンーチャンねぇ(ゆで卵をむいたような色白)」。さらには「ゆで卵に目・鼻・ロを描いたよう」とも喩えたそうだ。言い得て妙とはこのことか。喩えは皮肉も嫌みでもなく、羨望を込めてそう言ったというのだから、なんだか切ない。
 島んちゅの色白コンプレックスは、ひところ猛威を振るっていた。稀に色白がいたりすると「大和人みたい」と呼ばれ、同性たちの熱い眼差しを浴びることになる。色白と美人は同義語であった。
 (白)の威力は絶大であった。復帰前、こんなジョークがささやかれたと聞く。
 「復帰したら何かいいことがあるかい」「大島にも雪が降るチ。女も色は白くなるチ」あえて「切ない」と書いたゆえんだ。(中村喬次「ちんだみ随想」「南海日日新聞」2009年8月7日)

 大島は奄美の意味になることもあるが、ここでいう「大島人」は奄美大島のことだと思う。与論人は黒い、からである。いや黒かったと言うべきか。そういえば、鹿児島に転校したとき、「こんな黒い人は見たことない」と言われた(笑)。その厚黒?の少年もところ変わればしばらくしてやや白い少年になった。

 自分が先に白くなったくせに、島に帰ったとき、めーらび(娘さん)のなかには色白の人がいるのに気づいてびっくりした。いったいどうやったら与論で白くいられるのだろう、と不思議だった。「色白と美人は同義語であった」信仰がきっとあったのですね。

「復帰したら何かいいことがあるかい」「大島にも雪が降るチ。女も色は白くなるチ」あえて「切ない」と書いたゆえんだ。

 「雪」への憧れは大和信仰とは別にしてもあった。正月には、海から砂浜を運んで(重かった!)庭にまいた。清めるということだったと思うが、子どもには、雪が降ったときの光景のようにわくわくした。でも、この文章はなんといっても、語尾の「チ」が懐かしいのである。ぼくも弟が生まれた日の日記(「きょう海からかえったらおかあさんが赤ちゃんをうんでいました。」)に、「だっこをしていたら三かいもおかあさんがつかれたちききにきて」と書いている(苦笑)。


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2009/08/18

『ユダヤとイスラエルのあいだ』

 息をつめて凝集して奄美のことを考えてゆくと、きっとどこかで、独立という言葉が思い浮かぶ。一国家になったほうがいいのではないか、そうは言わなくても一県として。過去に、外在的な大島県の構想もあった。

 しかし、そう思う矢先から、心もとなくもなってくる。よくいう財源、のことではない。仮に空想的であったとしても国家として想定すると、奄美外に住む奄美出身者は帰るべき人になるのだろうか。そういうぼくも与論から1500キロも離れたところにいる。ぼくは外国にいるということになるのだろうか。特に、奄美独立に際して対抗的な地域として借定されるだろう鹿児島との関係はどうなるのだろう。いや関係というより、在鹿の奄美出身者はどうなるのだろう。さらにいづらくならないだろうか。それに鹿児島や大和との交流は進んでいる。どこまでを奄美系の人と呼べばいいのだろう。ぼくたちはそのとき、切断の契機を持ち込まずに、大和や鹿児島の人々との関係をつないでいくことができるだろうか。奄美に住む鹿児島や大和の人はどうなるだろう。孤立感を覚えずに共存していくことはできるだろうか。もし、孤立を少しでも与えるようなら、独立など意味がないのではないだろうか。そういう疑問符が際限なくやってくる。

 こういうとき、どういう考え方がありえるだろう。そういうぼくの関心に対して、『ユダヤとイスラエルのあいだ』からは、シオニズムも単色ではないという応答が返ってくるようだった。

 一般に、シオニズムと呼ばれる運動のなかにも多くの異なる思想・立場があり、いくつか類型化が可能である。そこから大きく二つを取りだすと、民族アイデンティティの不可欠な要素としてユダヤ教あるいはその文化・伝統を意識し、宗教的な聖地としてパレスチナとの結びつきを強調する形で、パレスチナにおける宗教的な郷土あるいは国家の建設を目指す運動を「文化シオニズム」と呼ぶ。それに対し、被差別者であるということを起点としつつも、ユダヤ教の教義や文化を拠り所とせずに、国際的な政治交渉(ナチスさえもが交渉相手であった)によってユダヤ人国家の建設を目指す運動を「政治シオニズム」と呼ぶ。

 ぼくは「政治シオニズム」しか知らないようなものだが、そこには「文化シオニズム」という考え方の潮流も存在した。別のところでは、「政治シオニズム」は「ユダヤ人はユダヤ人だけの純粋な民族国家をパレスチナの地にもつべきである」と、「文化シオニズム」は「ユダヤ人が民族意識と自決権を持つためにパレスチナの地との文化的・精神的つながりを重視するが、それはユダヤ人だけの民族国家を意味しない」と解説されている。しかし実際には、「文化シオニズム」はイスラエル建国時点で力を失ったという。

 ぼくたちは、グロテスクなまでに単色化され劇画化された絵を彼の地にみがちだが、その奥には、「文化シオニズム」の挫折以降も共存や拡散として横につながる思考が絶えていない。それはシオニズム自体を考え直すという深度を持つものだ。少なくとも、著者はそのように考えようとしている。

 もちろん、『ユダヤとイスラエルのあいだ』と奄美のあいだは遠い。約束の地を目指さなければならないという条件があるわけではない。けれど、民族と国民のあいだを揺れて思考するとき、共振する個所は随所にあった。

 たとえばぼくは、著者の引用するハンナ・アーレントの言葉がいちばん心に残る。

世界喪失こそ、ユダヤ民族が離散において被ったものです。世界喪失は、すべてのパーリアたちに見られるように、そこに属していた人びとのあいだに、一種独特の暖かさを生み出しました。これは、イスラエルの建国とともに変容してしまいました。(・・・)「世界喪失という徴を帯びた、特殊な意味でユダヤ的な人間性というものは、何かとても美しいものだったのです。あらゆる社会的な結びつきの外に立っているというこのこと、一切の先入観から離れているというこのことは、とても美しいものだったのです。(・・・)当然のことながら、イスラエル建国とともにそれらすべてが徒途方もなく大きな損害を被りました。解放の代償です。

 「世界喪失」、「離散」、「一種独特の暖かさ」などは、ぼくたちの方からも、あるフィルター越しに共感することだ。


  『ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア』

Bjai

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2009/08/17

「大島代官記」の「序」を受け取り直す 3

 実はぼくは、『奄美自立論』の第一稿を読んでもらったとき、「大島代官記」の「序」は、本当に島役人が書いたものかどうか、確かめる必要があるのではないかという助言を、弓削政己ではない人に受けている。そのことに触れておきたい。

 これを島役人が書いたというのはなかなか信じられない。薩摩の役人が書いて署名だけさせたものかもしれない。原典に当たらなければならないのではないか、ということだった。

 ぼくは実際にはその後、原典に当たらずに原稿を推敲し出版したのだが、そのとき考えたのはこういうことだ。

 確かに原典に当たって調べるべきだろう。特に、「大島代官記」の「序」は、何度読んでも薩摩の役人が書いたものとしか思えなかった第一印象もある文書だからなおさらそうである。しかし、それはぼくの守備範囲ではない。もう少し正確にすれば、今のぼくには、原典となりうる写本を比べ、その比較のなかから真偽を確かめる力量はない。そういう領域を自分の守備範囲にする契機もあるかもしれないが、少なくとも現状の自分にはない。現に、各写本に当たり、比較したとしても自分に謎解きができるかどかは分からない。

 ぼくはぼくが守備範囲とできるなかにおいては最大限の努力を払いたいと思う。それには先人の書いた奄美に関する理解や解説を手掛かりにするしかない。それは先人の成果を鵜呑みにするということではない。鵜呑みにするだけなら、改めて書く動機は生まれるはずもなく、その理解への違和感が、新たに書く動機になっているものだ。ぼくにしても、事実に基づいた仮説や理解を吟味の対象にすることもあれば、事実そのものを吟味の対象にすることもあるだろう。けれどそのとき、いつも手がかりになるのは、先人の残した表現の資産である。

 それを踏まえていれば、そこに後世からみて事実ではないものに基づいた判断があったとしてもそれは必然としなければならない。それが分かった段階で改めればいいと考える。全ての事実が疑いの余地なく判明した後でなければ考察は不可だとしたら、およそ新しい理解を提出することも不可能になる。では、突き詰められていないかもしれない事実があるとして、そのときは仮説はいかようにでも立ち参照すべきよすがはないのか、ある意味では無責任で構わないのかといえば、ぼくなら、過去に生き現在に生きる奄美の島人の生のリアリティをくみあげているか、それに拮抗しえているかということを、基軸にする。その意味では、今回なら、屈服の論理が体現されていることにリアリティがあるなら、そこを捉えることを第一義とみなした。

 そして原典を確かめていたら、2009年の春に出版するという計画は大幅に遅れるしかない。それよりは、この四百年間に手にされている事実や解釈をもとに、全体を見通す視座を提出したいというモチーフを優先させよう。それがそのとき、ぼくの考えたことである。

 ぼくはこうして、あの助言からそう時間を経ない段階で弓削政己による検証を手にすることができた。仮にこの検証がもう少し前になされていたら、「大島代官記」の「序」に躓くことはなく、大山麟五郎の屈折の構造を抽出するだけで済んだだろう。弓削の検証をみれば、自分もこの手間を厭うべきではなかったのではないかという内省もよぎる。けれど、ある意味では、ぼくもまたそこに躓くことのなかに奄美的なリアリティがあると思える。ぼくはそこに躓き、ことの真偽を告げられ、そこで誤りをただし、前へ進めるということだ。しかし、それはそうするしかない、というこではないだろうか。


 ぼくたちは、「大島代官記」の「序」を受け取り直す。それは、屈服の論理の原像ではない。強者の論理の原像である。


※画像は、弓削の論考に添えられた「大島代官記」と「序」の後半部分。
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2009/08/16

「大島代官記」の「序」を受け取り直す 2

 ところで、ぼくにとっては弓削の成果を受け取るだけでは終わらず、ここから先に課題がある。それというのも、ぼくも「大島代官記」の「序」に多いに躓き、それが奄美の島役人が書いたものとはにわかには信じられないと考えてきた。

 不思議な文章でしょう。ぼくは、薩摩の役人が書いたものと思って読み進めたら、奄美の島役人が書いたものと解説されていて心底、驚きました。何度読んでも、奄美の島人が書いたということはなかなか納得できませんでした。どう見てもこれは薩摩の役人が薩摩のために書いたとしか思えないものだったからです。(『奄美自立論』

 しかし、これが島役人の書いたものであると見なさざるをえないとしたら、それが感じられるのは、大山も着目したように、末尾の「往古を慕うは無益と云々」の箇所だと見なした。『奄美自立論』ではこう書いたところである。

 序文のなかで、この書き手が奄美の島人であることを感じさせるのは、「今では昔を慕うことは無益というものであろう」という末尾の個所です。もともとの書き下し文では、「今に於いて往古を慕うは無益と云々」となるところです。そして、「大島代官記」の序文において、最も重要なのもこの末尾の部分だと思われます。この島役人は、仮にも奄美の知識人をもって任じるのであれば、ここで「云々」と口ごもるべきではなかったのです。彼はここで、「往古を慕う」記述を書くべきでした。もちろんこれは「大島代官記」であり薩摩の役人も目を通すものであれば、自由な記述が可能であったということはありません。琉球王国を慕う記述が可能ではないでしょうし、またぼくはそれを書くべきだと思うわけでもありません。この島役人がほんとうに奄美の島人であると仮定するならば、彼にできたことは、奄美の記憶を書くことでした。「云々」で終わらせずに、「大島代官記」の許容する範囲内で、知恵を振り絞って奄美のことを書くべきだったのです。そうすることが、どれだけ後世の奄美の島人を励まし、時勢へ抵抗する力を生み出したかしれません。

 大山麟五郎は、この「云々」に言うに言えない気持ちの断絶を見、ナショナリズムへの覚醒から薩摩支配を肯うものの、琉球への思慕を諦めた島役人の心中を代弁するのだが、ぼくはむしろ、この「云々」の口ごもりはそのようなものではありえず、ここで自分たちの記憶を書かずに口ごもったことで、奄美の知識人の屈服は決定的になったと見なした。「この島役人がほんとうに奄美の島人であると仮定するならば」、だ。

 さてところで、弓削が検証したように、「大島代官記」の「序」は素直に読んだ印象の通り、薩摩の役人の書いたものだとしたら、大山麟五郎はとんだ勘違いをしたことになる。彼が、この「序」の「日本」という言葉に奄美知識人のナショナリズムの意識の萌芽を見、懸命にそこに意義を見出そうとするあまり論理は曲芸化し、結果的に明らかになったのは「序」を書いた奄美知識人の精神構造ではなく、奄美知識人としての大山麟五郎の屈折の構造だった。ぼくはこの屈折に不可解さを感じ、その由来を知りたいと思うとき、そこに「序」の屈服の論理の原像を見るなら、島役人の屈服から大山の屈折まではひとつの系譜として見なせると考えた。

 つまり、ぼくはぼくで、「この島役人がほんとうに奄美の島人であると仮定するならば」という留保をつけながらとはいえ、大山同様、「云々」の箇所に過剰な意味を見出し、そこから屈服の論理を抽出したのであり、そこに勘違いがあるのだから、誤解を訂正し認識を更新しなければならない。ましてぼくは、「大島代官記」の「序」が、奄美の島役人の書いたものとは思えず、しかしにもかかわらずそれがそうであるとするなら、そこには屈服の論理がありそれは克服されなければならないと考えたことが、奄美の自立について考え、書く動機にすらなったのだからなおさらである。

 「大島代官記」の「序」は、奄美の島役人が書いたものではなく、薩摩の役人が書いたものである。そう見なすと、ここからはどういう光景が広がっていくことになるだろう。

 「大島代官記」の「序」が薩摩の役人の書いたもので、奄美の島役人の書いたものでないとしたら、では、そこに屈服の論理はなく、奄美に屈服の論理は生きていないことになるだろうか。それは否、である。ぼくは、「大島代官記」の「序」に屈服の論理を見るが、そこに単独の証人のようにあるのではなく、むしろ、奄美内薩摩として黒糖の収奪に多いに機能した島役人や「奄美は大和である」という自己欺瞞までして遮二無二、日本復帰へのなだれ込んだ知識人の言説や原口虎雄による思考収奪に、屈服の論理が体現された姿を見ればこそ、奄美にそれは生きていると見なし、そこから敷衍してその淵源に、あの「序」がリアリティを放って存在していると考えたのだ。

 克服しなければならない屈服の論理は生きている。

 しかし、にもかかわらず、弓削の指摘を受けてぼくたちの心が軽くなるのは、ぼくたちは屈服の論理を抱えているとはいえ、「大島代官記」の「序」が、薩摩の役人に書かれることと、奄美の島役人に書かれることとのあいだには、千里の径庭があると言うべきだからである。奄美の島役人はあの「序」を書いたわけではない。それがどれだけぼくたちの心を慰撫してくれるか。そこにあるのは、完全に思考を薩摩の史観に塗りつぶされた証ではなく、それを強いようとした強者の論理であると思えることが、どれだけぼくたちを励ましてくれるか。ぼくは、「序」の末尾に、奄美の記憶が書かれているなら、後世の人々は計り知れないほほど励まされただろうと書いたが、いまぼくたちは、これが奄美の島役人の手になるものではないということに励まされるのだ。

 ぼくは、それが奄美の島役人の手になるものだとしたら、そこに屈服の論理の原像があると見なしたわけだが、そこにあるのは実は、強者の論理の原像である、ということになる。そしてそうであるならぼくたちは、この強者の論理の原像に、否と言う自由を、いまでも持っている。小が大を敵にすべきではないことに否を言い、琉球は元来、日本の属島であるということへ否を言い、謝名親方の短慮愚蒙説に否を言い、そして何より、今となっては昔を慕うのは無益である、という判断に、無益ではない、と言うのである。

 こういう「否」の連続はまるで60年代風、あるいは「日本が見える」の新川明風だが、歴史の段階を充分に消化しながら進む時間を持てなかった奄美であれば、時間は凝縮した形でやってきうるのであるとでも言うしかない。そしてぼくは、「大島代官記」の「序」は、薩摩の役人が書いたものであると認識を修正することで、屈服に重点を置いた奄美知識人の系譜に対する認識を緩和させなければならないと思う。

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2009/08/15

「大島代官記」の「序」を受け取り直す 1

 弓削政己が「直轄支配化の奄美 代官記」(「南海日日新聞」2009年8月7日)できわめて重要な指摘をしている。

 「大島代官記」の「序」は、従来、奄美の島役人が書いたものとされてきたが、そうではなく、「鹿児島役人系統」のものである、としているのだ。弓削は「序」の要約を試みているのでそれを援用しよう。

 これら史料の議論の一つに、大島、喜界島の代官記の「序」(同一文書)の評価がある。「序」は「小」(琉球)をもって「大」(島津氏。薩摩藩)を「敵と為すべからず」とまず述べる。ついで、琉球は「元来日本の属島」であり、「御当家忠国公」(島津氏)の「忠賞の御感」として、室町幕府足利義教将軍より拝領した地であると記す。しかし、三司官「蛇名(謝名)親方」の浅はか、愚かな「短慮愚蒙之計略」で「逆心を企て御当家(島津氏)に背いた」ため薩摩藩の支配を受けたとする。

 その時期は、琉球の国主尚寧の時であり、「当尚貞迄五代目」前である。以上の内容を受けて、「歎哉、禍は自ら招くという事、疑なき候故、天のなせる禍はさくべし、自らなせる災いはいくべからず」という。島津家支配の禍は、謝名親方一人の短慮に依るものである。その結果、「永く王土の類島まで、今に於いて、昔を慕うも、益なしと云々」という。

 小が大を敵にすべきではない。琉球は元来、日本の属島で室町幕府より島津氏が拝領したものである。それが謝名親方の短慮愚蒙で薩摩の支配を受けることになった。今となっては昔を慕うのは無益である、と。

 この一方的な論理について、『名瀬市誌』で大山麟五郎は、これが「代官役所に勤める島出身の役人によって、書かれたものであろうことは疑えない」として、論を展開していた。しかも、ここに「日本」という言葉が登場するのを引いて、「必ずしも納得できない新領主島津氏への服従から生じた苦悶を乗りこえる精神的支柱として、そういうナショナリズムによる大義名分が必要となった」と、ナショナリズムの概念を引き寄せるという深読みをしていた箇所だ。

 それは、「昔を慕うも、益なしと云々」の部分について、

「琉球国ハ元来日本ノ属島ナリ。」という大原則で、薩属下の現状をうべないながら、しかも古王朝に対する禁じえない慕親の情を思わずのべかけて、ロを持した島人書記の姿がそこにある。われわれもこの沈黙のもつ重みをうけとめながら、代官記の本文、いな、本文の文字に書くことのできなかったこのあとの奄美史の起伏曲折を、たどらねばならぬ。(「島津氏の琉球入りと奄美」

 と、細部にわたっていた。
 そしてぼくにしても、この大山の解釈に異様な屈折を見、これは奄美知識人の病ではないかと見たて、これが仮に島役人の書いたものであったとしたら、ナショナリズムの論理というようなものではなく、屈服の論理に他ならないとみなしてきたのだ(「島津氏の琉球入りと奄美」)。

 だが、弓削によればこれは、島役人が書いたものではなく、鹿児島の役人が書いたものである。

 琉球王尚貞5代前という記述から、これを『名瀬市誌』(1970年)は、1669(寛文9)年から1709(宝永6)年に「代官役所に勤める島出身の役人」が書いたものであり、薩摩侵攻以前の琉球国への「禁じえない慕親の情を思わず述べかけ」たものと把握する。以後、『名瀬市誌』の認識を前提にいくつかの評価がされてきている。
 結論から指摘すると、写本の代官記を検討した結果、代官記「序」を代官所勤めの島役人の認識とする議論はもともと成立しないと考える。

 写本を検討した結果、代官所勤めの島役人のものではない。

 まず、基本的なことであるが、代官記作成管轄からすると、島役人の中でも下位の書役が、代官所でかつ島役人の下で、独自に島津侵攻の琉球について歴史的評価の「序」を書ける立場にはない。
 その点で「詰役系図 在番所」のような代官所保管の原本様式を表しているとみられるものや1900(明治33)年、大島の池野田実政が写本した『大島代官記』には「序」がない。
 『詰役系図 在番所』や大島代官記各異本に共通するのは、「慶長十五一年本琉球、薩摩之御手ニ附」「慶長十五年頃琉球薩摩二渡ル」という文書である。これらの代官記の状況から、「序」は、「公文」として残る島役人の記録でない。
 「序」のある代官記2点は、いずれも代官所詰役管轄下で記載された1874(明治7)年までのもので、そのうち『大島代官記』(内容は『喜界島代官記』)は「大正四年十月廿六日ノ夜、樺山活庸ヨリ聴写」とある。その点で鹿児島役人系統と考えられる。

 まず、「島役人の中でも下位の書役」が、「独自に島津侵攻の琉球について歴史的評価の「序」を書ける立場にはない」。各異本のなかで、「序」のついているものを見ると、鹿児島の役人から「聴写」とある。

 しかも、「序」は、それ以前の1650(慶安3)年の『中山世鑑』と論理の組み立てが同じである。文言表現も「御当家忠国公」(島津氏)の代・「当尚貞迄五代目」(今の琉球王)と島津氏に対しては「御当家」、琉球王へは「当」と上下関係で述べられている。これらの文言は琉球・奄美諸島全体を統治する認識があって述べられるものである。従って、藩・詰役人系統の「序」であり、琉球支配下の「往古を慕う事は益がない」とする考え方は藩支配者が島民に押し付ける論理である。

 しかも、島津に対しては「御当家」といい、琉球王へは「当」と上下関係を示している。これは鹿児島の役人の手になるものであり、そうであるなら、大山のこだわった「往古を慕う事は益がない」という箇所は、「島民に押し付ける」支配の論理である。

 ぼくは弓削の指摘を読み、まず、やりきれなさと分厚い雲に覆われたような閉塞が和らぐのを感じる。大山麟五郎はこの「序」に、奄美知識人の最初の言葉を見て、アクロバティックな論理を駆使してその言説の意義を救抜しようとするが、意図とは別に奄美知識人としての自身の屈折を露呈したもののように読め、むしろここにあるのは奄美知識人の屈服ではないかと見なしてきたからだ。

 これが、奄美の島役人ではなく、薩摩の役人の手になるものだとしたら、話も理解もはやい。


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ヒットらしいヒットでたくましくもなったです

 区営大会の準決勝戦。息子は6番ファーストで出場。1本、センター前のタイムリーヒットで役目を果たして、観ている方も嬉しくほっとした。

 息子は必ずしも強力打者ではない。今日も、監督は息子の出塁後の次のバッターに、「喜山が打ったんだからお前も打て」と、言われるほうがちょっと気の毒だった(苦笑)。まあでも、以前、イチローもどきの内野ゴロを足で稼いでヒットにしていた頃に比べたら、ヒットらしいヒットでたくましくもなったです。

 代わりにというか、声も低くなって、以前は、あんなに響いていたかけ声が聞き取りにくくなった。変わりゆく姿だ。ともあれ、決勝進出おめでとう。


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2009/08/14

「先に復帰した理由」(「唐獅子」4)

 与論島と沖縄島の間の境界は、1609年の琉球出兵を機に強いられたものだ。しかしにも関わらず、それをいつしか自らのものと見なすようになってしまった。

 その端的な例は、1953年の奄美の日本復帰だ。奄美は当初、沖縄と同時の「完全復帰」で動いていたにも関わらず、途中で奄美だけの「実質復帰」へと舵を切り、あの境界を再現させてしまった。

 ぼくはこの実質復帰はやむをえない選択だったと思うが、そのことを沖縄に向かって釈明したことは無かったのではないだろうか。しかし、隣人として理由を説明してしかるべきだろう。ぼくは復帰運動に立ち会った世代ではないが、沖縄に伝えられることは二つあると思う。

 沖縄との「完全復帰」から奄美だけの「実質復帰」への路線変更の際、奄美は「奄美は大和ではない」と規定されていたのを逆転させて、「奄美は大和である」と規定し直している。奄美の知識人は「大和である」とすることで沖縄を差別化し、日本復帰の根拠とした。それは、「日本人になる」ことが、奄美の困難からの脱出口とみなされたからであり、「大和」であることはそれだけ日本人としての根拠が確かになるからだった。

 しかし、「奄美は大和である」という規定は、「大和人(やまとぅんちゅ)」という言葉の生きる奄美の素朴な自己規定に照らしても、欺瞞である。自分に対して嘘をついたのだ。

 ただ、この自己欺瞞にやむなさがあるのは、奄美は「大和ではない」というだけでなく「琉球ではない」とも規定されていたことだ。いわば二重に疎外されていたので、「日本人になる」ことにしゃにむに飛びついてしまった。その分、沖縄より余裕が無かったのである。

 そしてもう一つ、奄美は精神的にだけでなく経済的にも疲弊していた。奄美では明治維新の資金を用意するほど激しい黒糖収奪が行われていた。しかもその疲弊は近代以降も解決されることなく、戦後を迎えていた。奄美の川畑豊忠は、民族自決など言うさわぎじゃなく、「食べること、着ること」が「復帰の願い」だったと言うのだが、ぼくはこれこそが実相だったと思う。絶対的な貧困から脱したかったのだ。

 隣人の復帰の事情、分かってもらえますか?  (マーケター)


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2009/08/13

ボーダーインクからてぬぐい、届いた

 愉しく読んだ『恋するしまうた 恨みのしまうた』の版元はボーダーインク。先日、そのボーダーインクからメールが届いた。ぼくは反射的に自分の弱点を思い出して、まだ入金してなかったかと無条件に恐縮するあり様だったが、読んでみたら違った。

 なんと、当選だという。

ボーダー新書新書発刊記念キャンペーンで
新書をお買い上げの方の中から5名様に
新書のデザインになったゴーヤー柄のてぬぐいプレゼントに
喜山様が当選いたしました。

 応募した覚えもなかったので、最初、首をかしげたが、目出度いことに変わりはない。

 確かにゴーヤー柄のてぬぐい。季節がら、ありがたい贈り物で嬉しい。重宝させてもらおう。

 やるな!ボーダーインク。


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「月桃夜」を早く読みたい

 kemoさんに教えてもらった。

 日本ファンタジーノベル大賞に決まった遠田潤子の「月桃夜」は、奄美を舞台にしている。

 受賞作「月桃夜」は、薩摩藩支配下の奄美大島で過酷な境遇に置かれた少年が、碁で名を上げ「妹」を救おうとする物語。夫のルーツが奄美だったことから島の歴史に興味を持ち、過去と現代を結ぶ悲恋を紡ぎだした。選考会でも「これだけ緻密に奄美を描いた小説は初めて」(椎名誠委員)と評価された。(「日本ファンタジーノベル大賞に決まった遠田潤子さん」

 舞台の「奄美」もさることながら、椎名誠の評価も気になる。(選考委員は、荒俣宏、井上ひさし、小谷真理、椎名誠、鈴木光司)。とにかく、早く読みたい。

 11月に新潮社から発売されるそうだ。待ち遠しい。



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コクーンビルのブックファーストには確かにあった

 仕事で新宿に寄ったので空いた時間に、モード学園のあるコクーンビルに足を運んだ。ここの地下にあるブックファーストは90万冊あるというから、それを実際に見たかったのもあるが、以前、友人がここで『奄美自立論』を買ったと聞いていたので、実際あるのか確かめてみたかった。

 円錐にカバーをかけたようなコクーンビルは間近で見ても異彩を放っている。見上げれば直方体があるのがビルの感覚なので、見上げるとなだらかな曲線が続くと、なんだか空間が曲がったように思えてくる。

 ブックファーストは、地下1楷から地下2楷の2層にわたって展開されていて、そこにAからGまでの7つのゾーンがあり、本が収められている。印象としては、巨大な書店というより、7つの専門書店が同居している感じだ。

 『奄美自立論』は、「郷土の本」という棚の最下段に、お馴染みの奄美の本たちに挟まれてあった。居心地よさげだった。棚の幅は1メートルくらいだったろうか、そんなに場所はとってないのだけれど。

 新宿の巨大な繭の底に眠る奄美の本。そんなイメージがやってくる。


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2009/08/12

「『大和』への反転」(「唐獅子」3)

 ここで、沖縄タイムスの担当者の方に、通常、新聞は「で・ある」調を使うと指摘を受け、文体変更(苦笑)。

◇◆◇

 与論島と沖縄島の間の境界は、奄美と沖縄が、「同じ」あるいは「似た」文化や自然でつながっていることが見えなくなるほど、お互いを無関心にさせてしまっている。それはなぜなのだろう。

 ぼくは、そこには1609年のことが濃い影を落としていると思う。

 まず、琉球出兵の後、奄美は割譲され、薩摩の直接支配下に置かれた。つまり、このとき奄美は、「奄美は琉球ではない」(1623年「大島置目之条々」)と規定された。その上、薩摩による奄美支配は、薩摩による琉球支配が中国に対して隠蔽されたように、幕府に対して隠蔽される。薩摩の奄美支配は日本に対して内証だったのだ。そして奄美は大型船の建造を禁じられ行動力を奪われる。奄美間、対琉球、薩摩への交通が途絶えたわけではいが、自発的な意思による交通は発揮できなくなってしまった。いわば、奄美は島に封じ込められてしまったのだ。

 この封じ込めの中、「奄美は琉球ではない」という規定は、強いられたものであるにも関わらず、長い時間をかけて、奄美の視野から沖縄が消えてゆく作用を及ぼしたろう。

 一方、沖縄としての琉球は、薩摩の琉球出兵以降、「琉球は大和ではない」(たとえば、1617年「定」)。と規定された。これまでこの規定は「大和」に対する従属性と説明されがちだったが、400年のシンポジウムでは、琉球は中国と日本に従属していただけではなく、日本や中国との関係を制御しながら国家を存続させたことが強調されている。それは、「琉球は大和ではない」という規定を逆手に取り、そこに琉球存続の根拠を見出したことを意味している。

 つまり、沖縄は「琉球は大和ではない」と規定されたが、その既定内に収まるだけでなく、「琉球は、大和ではない琉球である」と、捉え返して王国を存続させたのである。
ここで「琉球」という主体は浮上する。しかし残念なことに、そのことは同時に「奄美は琉球ではない」という像を琉球からみたとき、「奄美は大和である」という像に反転する契機になったのではないだろうか。実は奄美は、「奄美は大和ではない」という規定も強いられていたのだが、確かにその反転は起りやすかった。

 こうして沖縄の視野からも奄美が消えてゆくのだった。(マーケター)


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2009/08/11

「最も不自然な境界」(「唐獅子」2)

 薩摩による琉球出兵から400年。奄美の島々、那覇、東京などで開催されるシンポジウムなどのイベントや、このタイミングで出版された上原兼善の『島津氏の琉球侵略』の特徴のひとつは戦闘の過程をできるだけ具体的に浮かび上がらせようと努めていることです。たとえばそれは、薩摩の軍勢は、奄美大島、徳之島、沖永良部島、古宇利島、沖縄島に上陸したと教えるのですが、こうした解説の大きな効用は、かつて奄美と沖縄はその命運を共にしたという史実を浮かび上がらせたことではないでしょうか。その過程の再現には、沖縄の視野から姿を消す前の最後の奄美の姿が垣間見えますが、薩摩の島伝いの進路そのものが、かつて奄美と沖縄はつながっていたことを物語るのです。

 けれど一方、その後の議論のなかでは、残念なことに奄美は再び姿を消してしまうことが多くなります。なぜなら、奄美は薩摩の直轄領として割譲されてしまうからです。特に、この節目で強調されているのは「琉球の主体性」ですが、それは1609年から1879年まで琉球王国を存続させたことに積極的な意義を見出そうとします。その文脈のなかでは、存続のための努力について云々することが多くなるので、勢い奄美は薩摩の直轄領になったことが最後の登場場面で、以後、姿を現すことが無くなってしまうのでしょう。

 しかし、「琉球の主体性」は主張に値することだと考えますが、もしそうなら、そこには、琉球王国は、もうひとつの琉球である奄美を失うことによって存続の基盤を得たという視点が生まれてもいいのではないでしょうか。薩摩の過剰な武士団の維持にとって奄美の直轄領化は殊の外重要な意味を持っており、それは琉球王国の存続を無言で支えたという側面を持ちえます。

 そしてここから言えば、400年前に出来た最も大きな傷痕は、与論島と沖縄島の間の直接支配と間接支配の境界であると言うことができます。珊瑚礁や珊瑚礁を基盤にした生活に象徴される自然と文化の流れがそこで切断されてしまったのです。それは最も不自然な境界であり、ぼくなど、できるなら与論と辺戸を何度も歩いて往復して、境界が見えなくなる程、踏み慣らしまいたいと思ってしまいます。(マーケター)



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「何もかも吹き飛ばしてくれ」

あー暴風よーこの小汚いオッサンの何もかも吹き飛ばしてくれーーっ!!赤ちゃんになりたい!!

 オッサンでなくてもそう思うときはあり、しかし赤ちゃんになりたいかは人それれぞれだとしても(笑)、「何もかも吹き飛ばしてくれ」という想いは、台風のとき、一瞬過ぎる。

 「吹けよ風、呼べよ嵐!! 地震は遠慮します。」を読むと、台風のときの、あの高ぶる感じが蘇ってくる。

 

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2009/08/10

「奄美と沖縄をつなぐ」(「唐獅子」1)

 7月から沖縄タイムスの「唐獅子」にコラムを書いている。現物を見ていないので、実感が伴わない(苦笑)。現在、4回分まで入稿しているので、ここにも載せよう。

◇◆◇

 学生のとき沖縄を旅して、街角のおばぁの言葉が半分わかるのにびっくりしたのを覚えています。同じことは島言葉をベースにしたりんけんバンドの音楽にも感じました。また、新城和博の『おきなわキーワードコラムブック』は、身近なエピソードが多く愉快でした。

 思えば、80年代の終わりからの沖縄ポップは、ぼくにとって沖縄発見の糸口でした。もちろんぼくの生まれ島の与論からは、いつも山原(やんばる)が目の端に入っていましたし、両親や祖母の話す山原という言葉や琉球民謡への親しみから、沖縄への親近感はありましたが、それが具体的なカタチになったのはそのときが初めてだった気がします。

 けれどそれと同時に、沖縄からはこちらが視野の外にあるのにも気づかされました。沖縄の離島マップなどには辺戸岬のすぐ先の与論島は空白ですし、こちらは「同じ」「似ている」という親近感から話しかけても、沖縄の人からは「違う」「似ていない」という視線が返ってくるのでした。それは、ぼくにとって沖縄発見以上に驚きで、何とも不思議で寂しい気がしたものです。

 この「近くて遠い」感じはどこから来るのだろう。ぼくは胸のつかえのようにそう問い続けてきましたが、それはやはり辺戸岬と与論島の間に引かれた境界のなせる技なのですね。

 今年は、その境界が引かれる契機になった出来事から400年。この400年の痛みは、沖縄が日本に組み込まれた起点として、そして琉球処分の前段として語られることが多いでしょう。しかしそこは同時に、奄美が日本に本格的に組み込まれた起点でもあれば、辺戸岬と与論島の間に境界が引かれた始まりでもあったのです。そしてその境界もまた、400年の痛みのひとつではないでしょうか。

 柳田國男は、「時代で言えば三百年、もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが」、「かつて繋(つな)がっていたものが今も皆続いている」と『海南小記』に書きましたが、ぼくからすると、400年たっても「かつて繋がっていたものが今も皆続いている」と感じられるのです。

 この、つながっている感じを沖縄の皆さんに伝えたい。その想いから、コラムのテーマを「奄美と沖縄をつなぐ」としました。(マーケター)

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2009/08/09

再会の vivo!

 先日、池袋の vivo! で飲んだ。ここはビア・バーといえばいいのかな、世界中のビールがよりどりみどり。泡盛や黒糖焼酎になだれこむことが多いけど、もともとビール好きでもあるのでこれもアリだと思った。

 日経の「「帰属しない」奄美史に脚光」を偶然読んだ友人が連絡をくれたのがきっかけだった。百貨店時代の同期で、会うのはほぼ20年ぶり。

 当時、ぼくが童名(やーなー)を持っていることや風葬のことを話したのをとてもよく覚えていてくれて、それもあって記事が目についたのだと思う。とても衝撃的でもうひとつ名前があるなんて素敵と言ってくれたものだった。

 でも、あの時、言葉にできなくて、今できることがあるとしたら、それは歴史的な負荷をある程度、説明できることだった。それは今回の驚きだったと思う。

 ただ、ぼくの想いとしては、歴史的な負荷を知ってもらうことは大事だけど、童名(やーなー)や風葬は面白いというほうで覚えてもらえたら嬉しい。そっちのほうがいいな、と。

 友人自身も自然体でほとんど変わらず、すぐに20年前に戻ることができた。3年以内に子どもを連れて与論島に行きたいと言ってもらえるのがどれだけ嬉しいか。こういう再会は得難いことで、心の底から感謝だ。公私ともに順中満帆でありますように。


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2009/08/08

与論島のイチマンウイ(糸満売り)

 本の趣旨からは離れるのだけれど、『恋するしまうた恨みのしまうた』で強い印象が残ったのは、与論島で古老が語った糸満売りの経験談だった。著者の仲宗根幸市は、イチマンウイやエーマウイ(糸満、八重山への年期奉公)した島人が多いことに驚いたという。

 ぼくの子どもの頃も、イチマンウイの話は交わされていた。少し前の世代の苦労話のひとつとして、あるいは、本土で言うことを聞かない子どもへの脅かしでいうサーカスのようなニュアンスで。

 古老の語りはきっと与論の島言葉と共通語が交じったものだったろうが、共通語として編集されたなかにも、与論の島人のおだやかさが保存されていてリアリティがある。糸満売りされたのはよい方で、島に残ったほうが「哀れ」だったという言葉が胸に刺さってくる。

 わたしたちの先輩たちは、明治の末ごろの台風(注‥明治三二年八月の台風のこと)で大被害をうげ、島人は今日明日の食べ物にも困り、すっかり生きる希望を失っていたようです。
 そのころ、九州で三池炭坑(三井物産資本)の沖積み人夫の募集があり、与論では戸長(現在の町村長)を先頭に長崎県の口之津への集団移住が計画され、何回かに分けて実施されました。長崎へ移住しなかった人たちは、糸満売りや八重山売りをされました。
 九州への集団移住や、糸満、八重山へ身売りされた人は良い方で、島に残っている人たちはそれこそ哀れでした。なぜなら、糸満売りされた人たちは三度の食事がちゃんとあったからです。

 わたしは明治の末の生まれで、一六、七歳のころ糸満へ売られました。売られたといっても、年期奉公が満期になれば自由になれるのです。
 わたしは糸満のある漁業経営者(オヤカタ)に預けられました。いわゆる、ヤトゥイングヮ(雇い子)です。ヤトゥイングヮになったわたしは、同じ身の上の仲間とともに、まずもぐり(潜水)から鍛えられました。
 海にもぐるわけですから、生まれて初めてミーカガン(水中めがね)をつけ、訓練を受けたのです。ミーカガンを付けるのも、驚きでした。
 もぐりは重労働でしたが、白いごほんや芋も満足に食べられるので幸せを感じました。なにしろ、与論では白いごはんにありつけるということはめったになかったので……。ふるさとで苦労している父母のことを考えると、耐えに耐えて海の仕事に精出しました。

 オヤカタの家には娘たちの奉公もありました。彼女たちの仕事は、めし炊きや水汲み、薪ひろいが中心でした。わたしたちの訓練と仕事先は、那覇港の沖にあるチービシ(慶伊干瀬のこと。渡嘉敷村に属する無人島・ナガンヌ島・クエフ島がある低平なサンゴ礁の島)あたりの漁場でした。
 そこではもぐりでイラブチャー(ブダイ類)やサザエなどを採っていました。チービシ周辺でアギヤー(追い込み漁)に参加させてもらい、先輩たちと頑張ったのです。
 与論では集団によるアギヤーはなく、個人中心の漁だったので、チービシで潜水技術や追い込み漁を習いました。

 話は前後しますが、潜水の訓練ではサバニからヤトゥイングヮたちが次々海中に飛び込みます。若い少年は長くもぐれないのですぐ浮き上がりサバニをつかもうとします。すると、先輩たちが櫂でたたきます。少年などは何回もたたかれ、息が途絶える寸前までもぐりの訓練をやっていました。
 わたしも何べんも櫂でたたかれました。もぐりは糸満漁業で重要なので、兄貴分の先輩たちは苦しさを覚えさせるために厳しく鍛えたのでしょう。
 そういえば、こんな騒動がありました。チービシで漁をしていたとき、ある一二、三歳の少年が突然グループから逃げたのです。沖縄戦後のチービシのことはわかりませんが、わたしたちが漁をしていたころのチービシは、砂丘に木や草が茂り、隠れる場所もありました。
 わたしたちの一団は一〇人ぐらいで、少年をさがすため小島を丹念に回り、ついに逃げた少年を見つけました。おびえているこの少年は、漁があまりにきつくて逃げたようでした。その事件後、この少年が逃げたりすることはありませんでした。

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2009/08/07

「若者ならずとも与論の印象は鮮烈である」

 『恋するしまうた恨みのしまうた』では、与論島もひとつの節で取り上げられている。そのなかの与論島の紹介がとても心地いい。著者が心を動かされたことが素直に語られるとともに、与論から沖縄島が龍のように見えることが捉えられている。「若者ならずとも与論の印象は鮮烈である」って、その通りだと思う。

 与論はどこも海水浴に適している。特に大金久海岸と百合ガ浜の魅力は若者たちをとりこにしている。モクマオウ林のつづく大金久海岸沖合いには、潮が引くと純白の砂浜が数カ所浮き上がる。神秘な砂浜は日によって変化を見せ、海水浴や星砂をさがす若者にとって、まさに南海の楽園である。
 エンゼルフィッシュの形をした与論島は、隆起サンゴ礁の小島。沖縄本島を指呼の問に望むことができ、国頭村辺戸の辺戸岬一帯は、まるで竜が海面にはっているように見える。竜の頭は辺戸のアスモリ御嶽の岩山に見立てられ、辺戸岬が口、胴体としっぽが本島の中南部である。
 見渡す限りの紺碧の海と空、島を包む帯状のリーフ、色鮮やかな熱帯魚、大自然の海水浴場の大金久海岸、百合ガ浜など、若者ならずとも与論の印象は鮮烈である。


『恋するしまうた恨みのしまうた』

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2009/08/06

『恋するしまうた 恨みのしまうた』

 『恋するしまうた 恨みのしまうた』は、「しまうた」のルーツ探訪記だ。

 たとえば、「国頭サバクイ」は「沖縄の代表的木やり歌であり、踊りを伴う民俗芸能」で、歌詞には、「なごー山」と出てくるが、この音から歌の発祥地は、「名護」であると主張されてきたが、著者は奥間を訪れ、そうではないことを突き止める。それはこのように語られる。

「国頭サバクイ」の「なごー(なぐ)山」(あるいは「なごー山」)の所在地や、発祥地解明の手がかりを得たのは、一九七九年、伊江島の古老との対話からであった。その古老日く「以前国頭村と伊江村の老人クラブの交流会が伊江島であり、歌に出てくる『なごー山』『なぐ山』は、与那覇岳(五〇三メートル) の中ごろにあるということを聞いた」と言うのである。
 これは面白い。後日仲間数人と国頭村字典間を訪ね、「なごー山」について知っている中年女性に会った。「なごー山は、与那覇岳の中腹あたりにあります」との証言を得た。
 ここまで分かれば、与那覇岳に近づき目で確認することだ。幸いにも与那覇岳が望める地点まで車で登れるとのアドバイスを受け、くだんの女性が案内してくれることになった。
 与那覇岳は麓からおよそ八キロ、串で行ける範囲は三・八キロほどの距離。山道を登り、しばらくすると眼前に雄大な山並みが広がっている。その峰あたりが与那覇岳という。
 中腹を眺めると、樹木が繁茂している。この深山こそ、首里城の造営改築で木材を供給した「なごー山」である。

 そして、「「なごー山」は名護市の名護の山(名護岳)ではなく、与那覇番山系にあることが判明した」とするのだ。

 ルーツ探訪は、沖縄から奄美へと、琉球弧を縦断するように行われる。奄美では、「うらとみ」あるいは「むちゃ加那」の物語にも迫っている。

 物語の付随する民謡の場合、物語が先か歌が先かはよく議論されるところであり、一概に決められるものではない。なぜなら、民間に流布されている物語が、いつの間にか歌詞や曲が生まれ、歌になって広まるケースや、ある歌を説明することによって物語が誕生するケースがあるからだ。「むちゃ加那節」の場合は、物語が先にあって、それに感動した人が歌にしたように思われる。
   発生的にいえば、歌は物語に先んじると思えるが、その後の展開としては、物語から歌が生まれることもあり得るだろう。そして、そうしたケースとして、著者は、「むちゃ加那節」を捉えている。

 現在、「むちゃ加那」の物語には「うらとみ」という母の物語が付随しているが、

今日の「うらとみ」「むちゃ加那」像をもっと具体化したのは、一九三四年発行の『奄美民謡大観』」(文潮光著、潮光とは英吉のこと)である。文氏は、同著で「うらとみ」は母、「むちゃ加郡は」娘というストーリーに仕立て上げたのだ。以下、一九四九年発行の『大奄美史』(昇曙夢著)はか、多くの奄美の文献でも文氏の説に依拠して「うらとみ」「むちゃ加那」親子(母娘)像をイメージしてきた。

 として、「うらとみ」は、「むちゃ加那」が生みだしたもうひとつの物語ではないか、としている。

 著者は、沖縄島でチョンダラーの足跡を追い、与路島の秘話に胸を痛め、大島で「いまじょう小」に戦慄する。こうしたルーツ探訪は、徳之島、沖永良部島、与論島にも及んでいる。島唄はいい。それはやすやすと、奄美と沖縄の境界を越えて琉球弧をつなぐ。それはしかし島唄のよさというだけでなく、著者の視野が奄美と沖縄の境界に囚われないのびのびしたものでもあるからだろう。『恋するしまうた 恨みのしまうた』からは、そんな愉しさが伝わってくる。


『恋するしまうた 恨みのしまうた』

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2009/08/05

維新は終わったのだ

 お国自慢を国家自慢にしたい。それが『世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵』(原口泉)の欲望だ。国家自慢というのは、薩摩が国家的活躍をしたということと、薩摩を国家とみなしたいという意味だ。

 一私藩を超えた国家的危機感に突きうごかされ、先駆的な工業立国を推進した薩摩藩主島津斉彬からはじまり、その遺志を受けて坂本龍馬など有為の人材を支えて世界進出を図った薩摩藩家老小松帯刀や、薩長藩閥の枠を超えて海運王岩崎弥太郎らを育てた明治政府の最高実力者大久保利通らの、日本経済への貢献を見直してみる必要があります。
 そして、ひた走る日本の資本主義国家化のなかで表われてきた矛盾、財政の行きづまりや殖産興業の弊害に立ちむかった財政家松方正義や農政家前田正名も注目されます。
 とくに、農商務省の高官として、すでに百年以上前から工業一辺倒の経済に警鐘を鳴らしつづけ、政界から追放されたあともポロを着て全国行脚を続けた前田正名の先見性は、今こそもっと見直されて然るべきと考えます。

 島津斉彬は「一私藩」(お国)を越えた「国家的危機感」で行動したのであり、小松帯刀がなければ坂本龍馬の活躍もなく、岩崎弥太郎を育てたのは大久保利通であり、松方正義や前田正名は現代にも通用する。要するに薩摩武門出身者の再評価である。このお国自慢は、お国自慢の枠組みを踏み破っていく。その読後感は、極度にちぐはぐであり、言ってみれば、数十センチの長さを測りたいときに、キロメートル単位のメジャーを当ててるように間尺が合わない。それはもはやお馴染みの感触だ。

 そのちぐはぐさは、薩摩武門出身者のお国自慢に次のようなモチーフが与えられることに胚胎している。

 私は先にも述べたように経済の専門家ではありませんが、幕末・維新を通じ、ピンチをチャンスに変え、日本の資本主義を立ちあげた人たちの足跡は、時代を超えて通用する、あるべき実業家の姿、モラルや倫理観といったものを示していると考えます。
 そしてそこには、今、苦境に立っている資本主義を再生するヒントや知恵が必ずや含まれているのではないかと思うのです。
 私がこの本で訴えたかったのは、まさにこの点です。

 お国自慢は、現在の社会状況の再生の役割を担わされる。それがどんなちぐはぐさを生むかといえば、

 フランスのシャンパーニュ地方のように、農産加工品を主力産業にして地域産業が成りたっているという例があります。これであれば、地域全体としての環境負荷が非常に低減することになります。
 それぞれの地域で、それぞれにもっている人材や伝統的な技術を活かし、世界経済が成りたつという理想主義の達成こそ、世代や人種、宗教や国を超えた人類の知恵なのではないでしょうか。
 いずれにしても、その変革の担い手となるのが東大やハーバード大学なのか、それよりもブータンや鹿児島やテキサスなのか、定かではありません。しかし、幕末の日本にそれを探るなら、それは薩摩であり佐賀だったといえます。

 本来であれば中心都市にある幕府がやらなければならないことを、地方都市が担っていたのです。
「薩摩が変われば世界が変わる」などというと非常に倣憶に聞こえるかもしれませんが、こうした一種の地域モデルから、金太郎飴のような同じ方式ではなく、それぞれの安定社会にもっていくことがポイントだと思うのです。
 要するに、「利己が利他につながる社会をつくっていく」ということです。このことを経営戦略の用語で「ハイシナジーな社会」といいますが、経営資源を組みあわせることによって相乗効果が生まれる、つまり、経営が成功するということです。

 こういう、まとめの言葉に特に露呈する。環境負荷の低減など、もっともらしい文脈のなかに、「世代や人種、宗教や国を超えた人類の知恵」、「ハイシナジーな社会」などのもっともらしい言葉が続くが、しかしあまりに内実が伴わず、空疎だ。語られる具体的な人物や事象と語られ方の空隙が巨大で、表現を重ねるほどに虚ろになっていく。なかで、やけに強調されて響くのは「薩摩が変われば世界が変わる」というフレーズだが、それはリアルだからではなく、妄想の強烈さが響いてくるのだ。

 脈があるといえば、「利己が利他につながる社会をつくっていく」という観点を打ち出しているところなのだが、それも、

 戦後の経営者でも、たとえばソニーの創業者井探大など、なんのために仕事をするのか、どんな報酬を求めて仕事をするかといった問いに対して、それはお金のためでも、名誉のためでも、地位のためでもなく、仕事のために仕事をすると考えていたようです。つまり、「いい仕事をすれば、またいい仕事がさせてもらえる。それが仕事の報酬としていちばんうれしい。お金や名誉はあとでついてくるものだ」というのです。
 仕事好きの技術者らしい考え方ですが、これもまさに、世のため人のためにならなければ仕事ができないという意味で、「公」が先、「私」はあとになっています。

 という、「「公」が先、「私」はあと」という後退理念に回収されて元の木阿弥となる。「「公」があと、「私」は先」というのが戦後の取り得だというのに、理念は、戦前にあっという間にさかのぼってしまう。それはきっと維新時点まで止まることができないのに違いない。

 こうした理念の後退感は、お国自慢のなかの奄美への触れ方にもよく表れる。

 もう一つ、薩摩藩の経済力に大きく貢献したものに奄美産の黒糖類があります。十八世紀のはじめに上方市場に出ますが、今まで和糖しかなかったことと、薬種・薬として珍重されたので、高級品として非常に高く評価されました。
 藩では、延享二年二七四五)、奄美に「換糖上納令」を出して、年貢を米ではなく黒糖で納めさせることにしました。さらに、安永六年二七七七)から十年間、第一次砂糖惣買入制を実施し、年貢を納めてなお余った砂糖を藩のレートで安く買いあげる直接専売制を徹底しました。天保改革の大黒柱が奄美の黒砂糖であったことは明白です。天保年間の第二次砂糖惣買入制のもと、薩摩藩の上方での黒糖売上高は十年間で二百三十五万両にも上っています。これは文政年間の総売上高を約百万両も上まわっています。
 このように、薩摩藩は天保年間に、立地と産物を非常に巧みに藩の収入源に活かし、財政改革を成功させ、格付けだけではなく、「雄藩」と呼ばれるにふさわしい大藩となっていったのです。

 奄美への直接支配と収奪は、藩の「巧み」さに回収され、あっという間に通り過ぎてしまわれる。そう、いつものように、現場を観光地化する頬かむりの視線によって。その頬かむりは、「南北戦争がなければ明治維新はなかった」と書けても、奄美の直接支配とその隠ぺいがなければ明治維新はなかったとは書けない。観光地は案内できても現場を案内できない。「本来であれば中心都市にある幕府がやらなければならないことを、地方都市が担っていたのです」などと、筋をそらしてはいけない。奄美・琉球支配を根拠に過剰な武士団の国家幻想が、端という幕府からの距離を梃になしたことと言うなら分かる。
 
 「薩摩が変われば世界が変わる」というのはある意味言い得ていて、それはしかし、薩摩から見える世界が変わるということ、もっといえば、世界が見えてくるということだ。維新の夢にまどろんでは現実はひっかけない。だが、もう知った方がいい。維新は終わったのだ。それも一世紀半近く前に。


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2009/08/04

『おきなわ女性学事始』

 『おきなわ女性学事始』で、もっとも心を動かされ、かつモチーフが鮮明に表れるのは次の箇所だと思う。

 深海を棲み処とする人魚が、地上の人との愛を成就させるために、尾びれをひき裂き、鱗を払い、ぬめりを拭って四肢を得た。そして地上へ躍り出た。けれどその代わり、人魚は声を失う誓約を交わさなければならず、そのため真実を語ることができないまま、愛の成就もならないままに、深海の藻屑と消えてしまった。
 魚が陸にのぼるには、四肢を得てまばゆい変身を遂げなければならない。けれど、真実を語り愛を成就させるためには、決して声を失ってはならないはずである。人間と魚の境界に在る人魚姫の悲劇は、人間界の周縁に生息する不可視の人魚が可視性を得るために、あえて真実を語る声を犠牲にして、人間に変容してしまったことにある。完壁な人間になろうとした人魚は、自分の半身を棄てたのだ。

 他者の視線を内面化してしまう悲劇は、植民地主義的な抑圧構造の中で無数に生じている。王子の住む世界に憧れるあまり、王子の視線(価値観)を内面化してしまった人魚は、人魚の姿のまま王子の視線に晒される勇気を失った。
 だから「サカナ」としてのアイデンティティを放棄して、完壁な「ヒト」になろうと背伸びする。自分自身の「サカナ」の部分を忘れて、完壁な「ヒト」を演じることは、自己同一性の幻想に身をゆだねてしまうことでもある。周縁よりも中心に価値を置くことは、もう一人の自分自身を窒息させてしまうことでもある。中心に同化して、はぐれものの自分自身をみずから裏切ることになるからだ。自分自身を裏切ることは、とりもなおさず、自身の声を失うことである。
 サカナなのかヒトなのか、形も定まらず浮揚していた人魚は、だからそのままヒトとサカナの境界に漂うはかはない。うずしお逆巻く境界にたたずむほかはない。たたずみながら、人魚はあくまで人魚の声を紡ぎつづけるだけでいい。人間には「沈黙」としか思えない人魚の物語りを、語って聞かせるだけでいい。やがてその「沈黙の物語り」が、地上世界の物語群をしのぐ彪大な深海のサーガ(物語群)を形成してゆくほどに、人魚の語り部は、ひたすら語りつづければいい。

 たとえば人魚の沈黙を「未生の生」と名づければ、「おきなわ女性学」というジャンル設定によってわたしが心を砕くのは、このような「未生の生」の言語化である。歴史的にも、地理的にも、そして文化的にも、中心から遠く隔てられたことによって息づく「おきなわ女性」の、すでに無限に存在する「沈黙」を、ことばにして語ることである。

 「人魚姫」は、粗野なぼくには思いつかないメタファーだった。この本の趣旨に沿わない言い方かもしれないが、繊細で女性的な表象ではないだろうか。そして確かに切実に響いてくる。

 ぼくは、太宰治の「わたしは、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ。」(俗天使)という言葉を思い出す。あるいは、『ワン・ピース』の、トナカイでもない人間でもない存在としてのトニー・トニー・チョッパーを。

 著者は、「人形姫」としてのメタファーに至る自己形成を披歴している。

 ふり返ってみると、一九六〇~七〇年代は、「沖縄」を原日本として神話化する民俗学的な言説が大量に出まわった時代だった。しかも「祖国復帰」前の「かわいそうな沖縄」だった。少しでも沖縄出身であることを口にすると、わたしのすべてが 「古琉球」一色に塗り込められたり、わたしのことばが政治的な文脈に還元されてしまうような危うさを直感した。
 普通に生きたいという思いから、沖縄の出自をことさら触れまわらないことを学習する。沖縄というなつかしい「訛り」は、お預けになった。ところが、沖縄アイデンティティを発揚する場を回避しているうちに、わたしはわたしでなくなってしまった。橋を渡るということは、わたしにとっても住み慣れた世界を離れることであり、喪失であり、後戻りのきかない一方通行だったのである。

 沖縄もシマの一つであってみれば、沖縄から都会への出郷は、不可逆的な移動であり、後戻りのきかない変容である。それは無垢から経験へ、共同体的無意識から個の意識へ、「われわれ」から「私」へ、前近代から近代への移行となる。そして両者にはきっぱりと境界線が引かれ、二項対立的な図式でふり分けられ、しかも一方が他方に優位に立つような図式である。みんなこぞって上昇を志向した。だからその境界に踏みとどまることは、時代の流れに逆行することだった。
 しかし、近代的人間になるということは、「身体と欲望と経験をもつ我」を徹底的に管理統制し、訓練して鍛え上げ、「より上位の我」 へと上昇させていくことである。いわば「自我の階級闘争」を起動させることである。そこには、「上位の我」が「身体と欲望と経験をもつ我」を管理し統制し、果ては抹殺したいという排除の欲望がはたらいている。これは、白身の身体や欲望を物象化する構造であり、この構造は波及して他者の排除と物象化をもたらす。
 つまり、近代的自我主体は、それ自体、一種のヒエラルキーをなしていて、主体を確立することは、同時にそれまでのわたしの一部を捨て去ることである。ここにも、近代の宿命のように、後戻りのきかない橋が架けられている。

 もちろん、わたしは泣く泣く遊廓に身売りされたわけではない。むしろ家からの解放を求めて自分から積極的に橋を架けてしまったわけで、それは自業自得というものかもしれない。けれど、この不可逆性は、いったい何なのだろう? 渡ってしまうと自分が自分でなくなり、そして後戻りのできない橋とは?
 異文化と異文化をつなぐ「懸け橋」は、どこにでもあるが、それが一方通行であるような橋を架けていたのは、わたしだけなのだろうか。往来自由な橋を架けることはできないのだろうか。あるいは、向こう岸に渡ることを拒みつづけて橋の上にとどまることはできないのだろうか。

 率直な自己開示だと思う。そして、ぼくたちはぼくたちもまた、「わたしはわたしでなくなってしまった」とつぶやいたことがある者として共感する。

 著者は自分の立脚点を、こう措定している。

 もちろん、こうして論考を書いているわたし自身もその非を免れることはできない。その自覚があるからこそ、わたし自身、はたして「おきなわ女性」を研究対象にできるのかどうか、沈黙と語りのはぎまで葛藤をくり返してきた。
 しかし、かろうじて免罪を得ることができるのではと考えたのは、「おきなわ女性」を研究するということが、沖縄に生まれ育ったわたしにとっては、自分自身をも狙上にのせることを意味する、ということである。つまり、わたしの「ポジショナリティ(立脚点)は」と問われれば、「沖縄に生まれ育った研究者」と答えることができるのではないかと考えたからである。
 つまり、沖縄に生まれ育って折々にインフォーマントとして調査・研究を手伝った地元の人間として、西欧の学問によって啓蒙され西欧的な方法論を纏って、ようやく研究者として緒についた存在であるということ。しかも、主流の視点から一方的に付与されるイメージをそのまま鵜呑みにして内面化することができず、与えられた自己像に違和感を覚え、初めてマイノリティというポジションが自覚され、周縁に身を置いて、そこから対抗的に主流文化を見やる視点を形成しはじめた存在だということである。

 免罪もなにも、遠慮することなど何もないではないかと思う。それはぼくが学問的世界への配慮を不要としている場にいるからではない。「沖縄に生まれ育った研究者」という立脚点は、ある場合に特権的に見えるかもしれないが、それはそれに従って生きるしかない宿命であるからだ。その宿命としての負荷は、著者の自己開示に正直に開陳されている。

 その立脚点から、著者は、統一的なアイデンティティに収斂できない「おきなわ」の多層性を生かすほうへ展望を見出している。

 それならば、その多層性の宿命を逆手にとって、ジャンルの捉をくつがえすジャンルをつくってみてもいいのではないか。アイデンティティが多層ならば、それを容れる器も多層であっていい。証言集も写真集も、文字も歴史も、公文書も日記も、映画もニュースも、伝統芸能も現代アートも、フィクションもノンフィクションも、すべては「記憶の継承」という一大プロジェクトの中にすでに取り込まれているのだと考えれば、「おきなわ」は、ガルガンチュア(フランス作家ラプレーの長編滑稽諷刺小説の主人公。並はずれた食欲の持ち主)の食欲のように、ジャンル横断的にすべてを飲み込んでもいいのではないか。
 すでに、「おきなわ」は市場で消費されており、作者の数だけ「おきなわ」像が作品化され生産されてきたといえる。イデオロギーの対立もあるが、どれがほんとうの「おきなわ」かと、峻別にこだわる必要はない。
 それよりも、「おきなわ」は、その作者をも取り込み、さらに、それを消費した人をも取り込むという「おきなわ病」症候群を蔓延させていることに日を向けてみよう。作者と読者、舞台と客席、供給と受容、さらには利用する者と利用される者の区別を前提とする旧来のジャンルの錠には収まらなくなっていることが見えてくる。
 つまり「おきなわ」は、すでに撹乱や転覆と同義語である。だから心おきなく、伝統的なジャンルの錠をこわしてみるといい。そうして出来あがった試供品が、「民族の詩学(エスノポエティクス)」である。それを、別名を「沖縄学」と呼ぼう。

 ぼくはこれを、沖縄を過剰性として見るということだと受け止めてみる。それは、人でもないトナカイでもない「化け物」として疎外されてきたトニー・トニー・チョッパーが、「面白い」と受け止められることで生きる道を見出したように。

 沖縄に比べて、奄美は「市場で消費」されていない。でも、奄美にとっての活路も、奄美を欠如としてみるのではなく、過剰として見ることのなかにあるのは同じだ。

 これは「沖縄学」だと、著者は言うのだが、その「学」は堅牢な構えを見せていない。ここには、悩み立ち止まりためらい沈黙し、行きつ戻りつしながら言葉を出そうとする繊細なふるえがある。けれどぼくは、これこそがこの本の魅力だと思えた。


  『おきなわ女性学事始』

Okinawazyoseigaku

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2009/08/03

「薩摩の琉球侵攻400年を考える」パネルディスカッション

 「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(図書新聞」2009-6-6)には、パネルディスカッションも掲載されている。奄美に関わる個所を抜粋したい。

豊見山 中国の外交関係で、琉球側の対応のあり方と奄美諸島の対応のあり方が、これまでバラバラに考えられてきた。弓削さんは、それらを帯びつけて擁護すべきではないかと握起されました。冊封関係における奄美諸島のありかたを積極的に見直す意味について、お話しいただけますか。

弓削政己 奄美で議論しているときに、冊封体制下での奄美という歴史的視点を導入すると提起をしているけれども、人々の暮らしや感情の問題を含めて、なかなか受け入れ難いところもありますね。
 一七八三年に、奄美は一字名字と決まりましたが、これは「唐物方」管轄での判断です。そういう意味で言うと、やはり冊封体制の問題とのからみで議論したはうがいいのではないかと思います。

 ただ、従来この話をしますと、鹿児島で馬鹿にされて苦しかったことを思い出すなあ、という話がまだ出てくるわけです。明治以降、東京や大阪に引っ越すと、押紙の人は「朝鮮人と琉球人は就職お断り」と言われ、奄美の郷友会の方の体験を聞くと、「朝鮮人と、大島の人は就職お断り」と言われたとか。
 奄美の歴史が非常に難しいのは、そうした奄美の人々の体験の解明と併せて近世の歴史を捏供しないと、なかなか腑に落ちないということです。そういう体験の中で、近世の歴史と重ね合わせて、その立場から解釈をしていく。

 「冊封体制下での奄美という歴史的視点」は、ぼくの文脈では、二重の疎外のうち、「奄美は大和ではない」という規定の具体的な現われである。弓削は、近代以降の経験を過去に投影することによる誤解を指摘している。ぼくは、近代以降の経験も、その前から続く疎外の構造が無ければ激化しなかったと捉える。

 直轄支配と冊封支配とのからみで、どんな話が出るかというと、薩摩船に乗った琉球人が中国に漂着した時は、薩摩的な待遇を受けます。ところが、大島の人たちは直轄支配であるために、琉球の船に乗って中国に漂着すると、大和的な書き物があったら海に捨てて事なきを得るということですし、薩摩船に乗って中国に漂着した時には、大和的な苗字を名乗らされる。琉球人は、薩摩に渡ったときだけ薩摩的にすればいいんですけども、大島の人たちは琉球の船に乗ったら琉球の形で、薩摩の船に乗ったら薩摩的というふうに、その立場で整理をしていかないといけない。
 ですから、構造的な歴史をどう組み込むか。奄美は直轄支配であるために、薩摩藩の法令がストレートに入ってくる。琉球は間接的に入ってくるという関係だろうと思います。

 これは、琉球が受けた「琉球は大和ではない」という疎外と、奄美の「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外が、どういう違いを生むか、その具体例として重用な指摘だと思う。

豊見山 では、まとめの一言をお願いします。高良さん、いかがでしょうか。

高良倉吉 この二〇年から三〇年近く、東アジアの中で琉球を考える、奄美を含めて島々の中で琉球を考えてきましたが、やはりアジアということに目線が行っていたように思います。ですが、琉球、奄美、薩摩にとって一七世紀とはどういう時代であったのかと、琉球、奄美、薩摩と向き合いながら、持続的に考えていく必要があったと思うのです。
 一つ強調しておきたいことは、現在、琉球-奄美便は一日二慢しかない。奄美の人口は約一〇万人いますが、やはり奄美との交流が少ないですね。
 ですから、奄美の歴史状況、問題意識の交流を継続的に行う必要があると思います。

 交流が必要だと、思う。なぜ、いままでなかったのかが不思議なくらいだから。

上原 皆さんの発表をお聞きしながら、琉球侵略を通じて、何がどう変わって行くのか、そして変わったのかという、もう少し長い見通しの上に立った議論を深めていく必要があると感じました。
弓削 奄美の歴史を見る時に、他者との関係で論議する伝統があります。薩摩に収奪されていた時代があり、最近では、琉球は神のようだったという議論も展開されていますが、実は琉球にも収奪されていた。
 大島には、詰役人と島役人がいます。私はよく、「詰役人は、どのくらい来ていますか」と質問しますが、七、八人ですね。後は足軽しかいない。この七、八人で、大島全体のすさまじい砂糖収奪はできませんよ。
 やはり、奄美の内部収奪の検討が必要です。内部の階層(郷士格)などをきちんと論議していく必要性があります。そのことによって、奄美の主体的な人々の展望が見えてくると思います。

 奄美の内部の支配構造への視線を促したもの。ぼくは、薩摩の支配なしに島役人の収奪も生まれていないことを補足したい(「近代以降・島役人・琉球/薩摩」)。

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2009/08/02

「薩摩の琉球侵攻と琉球史像」

 「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(図書新聞」2009-6-6)の4つめの報告は、高良倉吉による「薩摩の琉球侵攻と琉球史像」。

 四〇〇年前の薩摩の軍事行動を、どのように表現すべきかという問題がある。歴史用語として、どのようにネーミングすべきかという問題それ自体が、実は歴史の問題である。
 侵略した薩摩の側は、「琉球入」「琉球征伐」「琉球出兵」などという。侵略された側の琉球は、「御手内」「侵攻」「侵入」「進入」などいう。そのどちらにも拘束されたくない「客観派」は、「慶長の役」などの用語に隠れようとする。そして奄美の側では、どう呼ぶべきかという問題はネグレクトされている。

 奄美では呼称の問題はネグレクトされている、というのはどういう意味だろうか。奄美では問われていない、ということだろうか。もしそうならなめた言い方である。たとえ口に出さずとも、胸の内にしまい込まれた沈黙の言葉としてそれはれっきとしてある。買い言葉のように言えば、奄美にとっての侵略の意味を問う視線が沖縄に不足していた、のではないのか。

 ぼくは『奄美自立論』では、「侵略」という言葉を使った。それが近代的な概念だとしたら、「琉球征伐」が国内的なニュアンスが伴うのに対して、国外的なニュアンスを示そうと、「琉球出兵」という言葉を使っている。これは適切ではないのだろうか。 

 「国語」「国史」「国民」は、近代国家日本の装置であったが、その「国史」の側は、一三〇年前の「琉球処分」をどう評価したか。同時にまた、四〇〇年前の「琉球侵攻」とその後を、どう評価できたのだろうか。
 私は、琉球史という歴史研究の立場を構築する、という課題を追究してきた。四〇〇年前の事件を琉球史として問題にするためには、事件以前の時代(古琉球)をどう措定するか、その後の時代(近世琉球)をどう構成するか、そして、それらの問題群が意味するところのものを、歴史の全体像にどのように位置づけられるかが、常に問われているはずである。
 古琉球に起こった首里軍の奄美や八重山などの対する軍事遠征と、薩摩の琉球侵攻の違いは何なのか。明治国家が、警察官や軍隊を動員して断行した「琉球処分」と、それ以前の薩摩による琉球侵攻は、歴史的対比として語ることができるのか。できるとすれば、その理由と根拠は何か。

 「薩摩の琉球侵攻」は、「琉球処分」や「沖縄戦」と並ぶ琉球史のキーワードである。その歴史学的検証作業と同時に、絶えず琉球史像の評価作業として、横たわり続けるテーマである。
 その重要課題に向き合うためには、古琉球に終止符が打たれ、新たに近世琉球という時代が出現したことを、その二つの時代の地平に立って考えるしかない。
 四〇〇年前の薩摩侵攻以降の、琉球の支配者たちの、いまに残る資料でみるかぎり、薩摩支配を受け入れた上で、琉球支配以前の古琉球の評価などに言及している。薩摩侵攻がまともに取り上げられたのは、沖縄出身の研究者たちが琉球の立場に立って議論を始めて、約一〇〇年の伝統である。
 古琉球と近世琉球は、断絶ではなく、流れのなかで検討されぬばならない。琉球侵攻とその後についての研究も、薩摩、奄美、琉球の相互関連のなかで検討されることが重要である。

 仮説として。「首里軍の奄美や八重山などの対する軍事遠征」は、同一・類似集団による軍事行動で先ほどの語彙を使えば「征伐」的。「薩摩の琉球侵攻」は、異集団による軍事行動で「出兵」的である。

 「琉球処分」は、近代民族国家形成過程での、軍事的威圧を使った列島内異集団のひとつの琉球の併合、「琉球侵攻」は、軍事行動を伴った列島内異集団のひとつの琉球の内部化。両者の違いは、近代民族国家理念の有無になる。

 もっと仮説を進めれば、ぼくは島人としての自分の実感と人間と自然の関係の在り方からすれば、もともと琉球弧には、国家を形成する必然性は無いと思っている。すると、琉球王国の成立も、大和あるいは異集団勢力のインパクトを梃になしたものと見なすこともできる。そうだとすれば、琉球王国自体、さほど評価することはできないと思える。

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2009/08/01

「女性史から見た琉球・薩摩」

  図書新聞の「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(2009-6-6)で、真栄平房昭の報告は、いままで聞かれなかったテーマ設定で新鮮だ。「女性史から見た琉球・薩摩」。

 薩摩侵攻時、女性たちはどうなったか。薩摩軍は各地で略奪を行い、家に火を放った。琉球側が徹底抗戦しなかったため、幸いに女性たちは島津軍に殺されずにすんだ。それは同時に、首里城明け渡しの交換条件として、「女房衆」の身柄の安全が確保されたともいえる。敗戦後、尚寧王は側近とともに薩摩へ連れて行かれてしまった。

 「琉球側が徹底抗戦しなかったため」、薩摩に簡単に敗れてしまった、と従来ネガティブに語られたところ、ここでは、「幸いに女性たちは島津軍に殺されずにすんだ」とポジティブに捉えられている。硬い主題が柔らかに捉え返される。

 薩摩へ連動て行かれた尚寧の帰国を待ちわびる「王妃」が詠んだとされる歌がある。その歌からは、北の方角を仰ぎ見て、祈るように夫の帰りを待ち続けた王妃の心情が伝わる。尚寧が許されて薩摩から帰国したのは二年後であった。
 性と権力関係について見ると、「女房衆」の知行権廃止令が挙げられる。幕藩制国家の政策論理から、島津氏は、「女房衆」に知行を与えてはならないと命じた。だが、琉球では、王府から神女やノロが知行を給与されることは古くからの伝統であった。島津氏が命じた「女房衆」知行禁令にもかかわらず、その権限は実質的に王国末期まで保持された。

 「女房衆」の知行権廃止令も、従来、迷妄からの脱却のように言われてなかったろうか。けれど、神女やノロの存在は、琉球の深さも物語る。

 また、女性の入墨習俗と伝承について見ると、近世琉球の女姓たちのあいだでは入国「=ハジチ(針突)」は美徳とされ、結婚適齢期の娘たちの雨手の甲に入墨をする風習があり、一種の成人儀礼でもあった。しかし、近代化の論理として、入墨は「野蛮」とみなされ、政府による弾圧が行われた。
 入墨伝承にみる民衆の薩摩観はどうだったのか。小原一夫『南島入墨考』(筑摩書房、一九六二年)によると、尚円王時代、神事を司る聞得大君の王女が久高島に参詣に行く途中、海上で船が漕難し、薩摩の海岸に漂著した。そこの領主が琉球の王女を見初めたが、王女は手の甲に入れ墨をする。それを見た領主は、「汚れた手だ」と驚き、琉球に帰したという伝説がある。

 ハジチに驚く薩摩という図が、薩摩の琉球出兵の別の側面を浮かび上がらせる。それは、1609年は異なる歴史の段階同士の衝突ということであり、多くの植民地がそうであったように、新段階側が旧段階側を覆うことになった。しかし、琉球の段階の根拠の深さゆえに、容易に破壊することはできず、だが、「野蛮」とみなす無理解も呼ぶ。これが、「琉球は大和ではない」という疎外が、差別に傾斜した背景をなした。ぼくはもちろんこれを優劣とはみない。ハジチは、身体を霊魂の衣装と見なした初源の世界観を示すものであり、琉球弧はそれをよく保存していたのだ。

 『女の歴史への誘い』(藤原書店、1994年)で、歴史家G・デュビィとM・ペローが、次のような注目すべき指摘を行っている。「この歴史は、女性たちの歴史よりも、(男女)両性の関係の歴史であろうとしている。この関係こそが、おそらく問題の核心であり、女性を他者としてまた自己として、規定するものなのだ」。こうした「歴史への問いかけ」は、普遍的な意味で琉球・沖縄史にも向けられている。

 ジェンダーの視点から歴史を見直すということは、単に男女平等を主張することではないし、また男と女の関係を抑圧と従属、支配と被支配という二項対立的に見る、つまり女性を被害者の視点だけで見ることでもない。今後とも、女性をめぐる視点から歴史をひもといていきたい。近世の女性のほとんどは文字を書けず、文字による記録を残していない。しかし「薩摩に連れてゆかれないために入墨を入れた」という伝承が数多く伝えられている。文字以外の伝承に目を向ける必要性がある。もちろん、伝承と史実は単純に同一視できないが、女性をめぐる視点から歴史を紐解くとき、伝承は有効な手段と思われる。(神戸女学院大学教授)

 「女性をめぐる視点」は、琉球の在り方をその深さから捉えるのに有効ではないか。と、思った。


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「ヤイユーカラの森」に『奄美自立論』

 昨年、「まつろわぬ民たちの系譜」でご一緒させていただた計良さんから「ヤイユーカラの森」のニュースレターが届いた。アイヌの刺繍にいつも見とれるのだが、最近、先住民の問題で取り上げられることの多くなったアイヌについて、アイヌ自身はそれをどう受け止めているのか、ぼくたちはどう受け止めたらいいのか、切実で難しいテーマを考える手がかりをもらっている。

 さて、楽しみに封を開けると、扉のページに読んだことのある文章が。よく見ると、なんと『奄美自立論』のそれ。引用してもらった個所は、自分でも白熱したところ。恥ずかしいやら嬉しいやら。

 計良さん、ありがとうございます。

Yayyukar

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