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2009/08/27

「とまどう与論島」(「唐獅子」5)

 奄美の日本復帰以後、与論島と沖縄島の間の境界が、再び浮上したのは、沖縄の復帰運動においてだったと思う。

 当時、ぼくは小学生だったから運動の同時代的雰囲気を味わっていない。だが、こちら(与論島)を日本ということも、あちら(沖縄島)をアメリカということも、どちらもピンと来なかったのを覚えている。

 ところが後年、運動のさなか、辺戸岬から与論島を見て、あそこには憲法があるという言葉が発せられたのを知ってとても驚いた。最初は誤解して、あの、宮古島のオトーリと並んで知られる酒の回し飲み作法、与論「献奉」のことを指しているのかと思ったほどだ。与論島には日本国憲法がある。それは嘘ではない。しかし、日本国憲法のある場の象徴としてスポットライトを当てられると、その実感の希薄な当の与論島は、とまどうのだ。

 「日本が見える」と新川明は書いた。「与論島/よろんじま!/そこは/日本の最南端/〈祖国〉のしっぽ/日本の貧しさが/集約されて/ただよう島。」(「日本が見える」)、と。

 だが与論島は「日本の貧しさが集約されて漂う島」ではない。薩摩軍も上陸せず米軍も上陸せず(上陸すればよかったという意味ではない)、おまけ中のおまけのような島に「日本の貧しさ」は集約されない。むしろその圏外で実質的に貧しかっただけだ。それは沖縄の離島の似姿でもあったろう。あるいは、復帰運動でマスコミが殺到したのを機に、与論は日本の最南端の島として観光ブームが訪れるが、その意味では、沖縄の未来像でもあった。

 ぼくは新川明の詩に異を唱えたいわけではない。ただ、そこに線が引かれて境界があるというだけで、与論が日本の象徴になってしまう、それは意地悪なことだと思うのだ。

 辺戸岬沖の27度線近く、与論島から出た船からは「沖縄を返せ」とシュプレヒコールされた。それは日本いう立場からすればその言葉で意味は通っただろう。しかしたとえば、与論の島人がそう叫んだとしたら、違和感がよぎらなかっただろうか。誰が誰に返すのか、ピンとは来ない。むしろその叫びは、与論島と沖縄島の間にあった自然な交流が阻害されてあることへの異議だったのではないだろうか。(マーケター)


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