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2009/07/15

『横目で見た郷土史―言いたい放題でごめんなんせ』

 「奄美を語る会」のような場以外にも、こういう声が聞こえてくるようだったら、ぼくも鹿児島にいることができたかもしれない。『横目で見た郷土史―言いたい放題でごめんなんせ』を読んで、感じたのはそういうことだった。

 それは、ぼくたちが感じる、「郷中教育」、「山坂達者」、「示現流」、「泣こよか、ひっ跳べ」、「妙円寺詣り」、「いろは歌」、「議を言うな」、「ボッケモン」、西郷隆盛などといった鹿児島的事象に対する素朴な疑問が、鹿児島の内部から開陳されているからだ。これら全てに全否定を加えたいからではない。そうではなく、これら事象に対する素朴な疑問すら禁止されていると感じてきたからだ。こういう声が聞こえてくるようだったら、高圧密閉空間に風穴を感じることはできただろう。ぼくはそこで息継ぎできたかもしれない。

 ぼくが鹿児島の内側から聞きたいと切に願ってきた声も、ここにはあった。その最たるものは、これだ。

 県外の人には、薩摩隼人というと徹底的に攻めまくり、退却を知らぬ、無知で勇猛果敢なサムライ集団の子孫、というイメージがあるようだ。が、この郷土で周囲を見渡すと、そんな荒々しい連中より、むしろ温和な人々が多いようである。
 七、八世紀の大和朝廷で記録にある隼人族は、薩摩大隅などに土着の、南方的な明るさを持った、平和で陽気な人ばかりだ。
 いくらキバッテみても、台風の常襲地帯では自然の災害には逆らえない。大まかな生き方のテゲテゲ精神の元祖のような、ノンキな連中ばかりだったのだろう。

 そこへ、頼みもせんのに文治元年(一一八五)、できたばかりの、鎌倉幕府の源頼朝が任命した島津氏がやって来た。
 守護地頭から大名となり、七百年もの長い間、領主として鎌倉からの多数の武士団を、支配者の手先の役人として配置。息の詰まるような専制政治を温和な隼人族の領民の上にしいたはずである。
 例えてみれば、ライスカレーの白いご飯のような、温かい人情を持つ隼人族の上にピリリと辛い鎌倉特製のカレーの武士集団の固まりが、覆いかぶさったのと同じ。
 県外の人たちには、下の方の温かいライスの本物の隼人族が見えず、上の方の辛いカレーの部分を隼人族と誤解した。
 関ヶ原や西南戦争で勇名を馳せた薩摩隼人は、カレー族の人たちだ。下のライス族の本物の隼人族は、いつの時代も被害者でこそあれ、こんな武力の人たちとは無縁であった。県下の苦な民俗芸能や民謡、民踊など多くの楽しい民俗行事は、このライス族の人たちがつくりだしたものだ。カレー族の方は民俗芸能など目もくれず、「郷中教育」で自分たちの子弟を鍛えた。ただただ君主へのタテ社会の忠誠心養成のためだった。

 ライス族の民衆の方は、カレーの連中からの過酷なまでの重税に耐える連帯から、地域社会への奉仕やヒューマニズムの思想が生まれ、自然に体得したヨコ社会の強い助け合い精神で、生き抜いてきたはずである。
 これらのカレー族は、明治になって、平民の上に位した士族身分として、旧武士階級の優越感を「一応満足させられた。社会の近代化とともにその身分が、有名無実となりかけたとき、西南戦争という士族暴動を起こして、ついに自滅したと歴史は語る。
   「ヒューマニズム」の言葉は上ずってしまっているが、主旨を損なうものではない。ここには、素直に見つめれば、そうではないかと思うことが率直に述べられている。それは隼人族そのものか、霧散したあとの姿かは知らないけれど、「この郷土で周囲を見渡すと、そんな荒々しい連中より、むしろ温和な人々が多いようである」というのは、ぼくもそう思う。そういう自然身体の顔つきや身体性に関する限り、それはわが奄美と地続きである。

 でも、「頼みもせんのに文治元年(一一八五)、できたばかりの、鎌倉幕府の源頼朝が任命した島津氏がやって来た」という声は、ぼくは聞いたことが無かった。この言葉、胸がすくようだ。そしてこの視点は、鹿児島がその、圧倒的なこわばりの論理から脱するために、奄美との対話に入るために必要だと思える。

 たとえばぼくも、「頼みもせんのに慶長一四年(一六〇九)、島津氏が襲ってきた」と言う。それに対して、鹿児島の思想は、いや、自分たちも「頼みもせんのに文治元年(一一八五)、できたばかりの、鎌倉幕府の源頼朝が任命した島津氏がやって来た」と言う権利を持っている。そこで、奄美は島津の加害の内実を明らかにしようとするが、それと同じように、鹿児島もそれを行うことができる。そこで初めてぼくたちは、「ここが同じだ」ということを、「ここが違う」ことと同時に言うことができるだろう。

 そうした声が封じられているというのが、度し難い頑迷と呼ぶ印象の根拠であり、封じられるどころか無傷なまま称揚されているのが不可思議でならない。もし封じ込められているのは実は、傷痕であるとするなら、奄美以上の傷痕を鹿児島の常民は抱え込んでいるかもしれないという可能性すら思い浮かぶ。

 だから、この片岡の本は、風穴として稀有な意味を持つのだ。

 この本には、黄色と赤のコントラストの装丁色が使われている。それは、からしと唐辛子をイメージしたもの、つまり、辛口であることを読者に予想させる意図を持つだろう。しかしぼくの読後感はそれとは違い、穏やかに柔らかに、面白おかしく鹿児島への違和を語るものに見える。それは先の隼人族と島津氏を「ライス族」と「カレー族」に喩える素朴さを見ても明らかだし、この節が「薩摩隼人はライスカレー ライス族もカレー族も協力を」と題され、

「四民平等」という言葉の意義にはっきり目覚めた、新しい県民性を育てたい。ライス族も、カレー族も、手を取り合って協力していきたいものである。

 と締めくくられる、そのバランス感覚からも分かるだろう。書名の前に「言いたい放題でごめんなんせ」と断りがきのようなリード文が付くのも内容に照らすと大げさである。こういうところ、この本が対峙している圧力の強さが読み取れる。書名の「横目で見た」というくだりもそうだ。これは斜に構えているという意味では全くない。むしろ、ここにいう「横目」は、

人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横より見てゐる心。

 という石川啄木の「横より見てゐる心」のことだ。これは、鹿児島の風土をその内側から素直に描く、かの地では珍しい肩の力の抜けた素直な郷土史なのだ。ぼくは、リード文や書名や装丁や帯のメッセージが醸す雰囲気から、この本が怪書のように扱われないことを願う。


 片岡は冒頭、「巻頭提言」として書いている。

 奄美の黒糖で島津藩は莫大な利益を独占したにも拘わらず、それらの生産者にはその利益は全然還元されずに、僅かの労賃として生命の糧の米を死なない程度に与えられたようである。また、領内の櫨の実や樟脳などの特産物なども、大阪方面の高価な買入れ値とは無関係に、安い労賃が支払われたというから、生産者の勤労意欲が向上するはずもなく、ただのヤラズブツタクリの見本であろう。

 それらの事業の費用の何分の一でもいい、領内の農漁村の子弟に読み書きソロバンを教える寺小屋を、三十軒でも五十軒でも作られたら名君の一人に数えてあげたいと思う。当時、江戸市中で繁昌した沢山の寺子屋、そこで学んだ江戸庶民の子供や親の笑顔を、残念ながら江戸育ちの斉彬公はご存知なかったのだろうか。要するにガス灯や写真術などハイカラな実験は、下じもの人情を全然ご存知ない所のいわゆる〝殿様芸〟にすぎなかったようで、名君もただの庶民からみると、ただの凡君としか思われないようである。

 さて、昭和二十年の敗戦後に歴代の内閣の責任者はアジアの諸外国に対し、戦争中の悲惨な被害に対して戦時中の指導者に代わり、頭を下げて素直にそのことを謝り諸国もそれなりに了解したようである。そこでまことに言いにくいことだが、現在の島津の当主の方々がせめて奄美の人々にだけでも、ご先祖の領主の残酷な政道について陳謝されたら、受ける側の人々はその誠意に対し、素直に諒解を示されるのではなかろうか。

 現在の島津家の方々は温厚で立派な方ばかりで、万一実行されたら、今でもよく聞く奄美の人々の百年以上も涙と共に語り継がれた怨み言が、鎮まるきっかけになろうし、また県内各地の昔の領民の子孫の人々や奄美の人々も、現憲法では旧領主の子孫の方々と、基本的人権は同等同格であれば、恐らく共感を覚え心から喝采を送るのではと思う。

 毎年発表される全国の県民所得番付で、わが郷土鹿児島県はずーっとビリから二、三位を抜け出せない。その遠因が七百年来の旧島津藩の苛酷な収奪行政でないとはいえない。とすれば、前記の陳謝が述べられてもいいのではないかと思われ、奄美のみならず県内一般から、さらに隣県や国内の人々まで賛辞を送られ感動を呼ぶと信ずる。

 島津の当主が謝罪したとて、ぼくは苦笑しこそすれ喝采など送らない。現在の島津の当主の行為は私人としての意味しか持たず、政治的共同体の意思は、県が持つものだからだ。そこに何がしかの意味を見ようとするのは、5月2日の島津修久のスピーチのように、当人の勘違いと行政としての徳之島茶番にしか過ぎない。しかも、謝罪はそれ自体がもっとも重要なのではない。謝罪するには謝る内容が必要だが、現状、それが認識、理解されているとは思いがたい。何に謝っているのか分からないのに謝ったり、謝るべきことを外していたら、ぼくたちがそれによって消したいと思っていることはそれと気づかれずに残ってしまうだろう。何があったのか、認識すること理解することが、その前に重要であるに違いないのだ。

 けれども、片岡の想いは、素直に受けとることができる。まして片岡が、「この提言は、恐らく余命少ないこの著者の遺言として残しておきたい。」と提言を結ぶとき、ぼくは半畳を入れずに、そのまま受け止めたいと思う。『横目で見た郷土史―言いたい放題でごめんなんせ』は、鹿児島を覆うこわばりの論理に対する内側からの解体の試みだ。この、内側からの、ということに、代えがたい価値がある。

 この本は頂き物として読むことができた。感謝したい。


『横目で見た郷土史―言いたい放題でごめんなんせ』(片岡吾庵堂、1996年)

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コメント

時々拝見させていただいています。
今日は長文、最後まで読ませていただきました

今まで何度か読ませていただいて・・・
県外の、素朴な疑問なのですが、
鹿児島県や奄美の方々は、喜山さんが感じておられるような感情を、実際に今感じておられるのでしょうか?
個人のものとして、苦しんでおられるのでしょうか?

今までこのような歴史は何も知らず、失礼な質問かもしれませんが、ご容赦ください。
また、勉強させてください。

投稿: kemo | 2009/07/16 09:20

kemoさん

読みにくい文章にお付き合いくださり、ありがとうございます。

ぼくの人としての不出来によるところも大きいのですが、他の人にも当てはまる部分もあります。

それが、もう過去のことでもはやこだわる必要のないことなのか、その逆に、島の気持ちに充分にたどり着けていなくはないか、いつも気になることなんですよ。

投稿: 喜山 | 2009/07/16 22:58

喜山さんごぶさたしてます。
この本が出版された時は鹿児島で働いてましたから印象に強く残ってますよ。
私がいた職場では著者は“変わり者”扱いで含み笑いで黙殺されていましたね。鹿児島メディアで大きく紹介したところはなかったんじゃないかな?
 NHK大河「飛ぶが如く」の観光ブームが終わって、八・六水害で傷つき、流出した石橋を復元・保存する公園を作ろうという声が大きく上がっていた頃で、やっぱり島津=鹿児島で盛り上げていこうという雰囲気の中で忘れ去られた画期的な本だという印象です。

投稿: syomu | 2009/07/17 08:20

syomuさん

ブログを読んでいるのでごぶさたな気があまりしないわたしです(笑)。5日の日はありがとうございました。

「変わり者」扱いは予想できますが、残念です。「忘れ去られた画期的な本」。なるほどと思います。

投稿: 喜山 | 2009/07/17 13:44

喜山さん、
勉強不足な質問へ、コメありがとうございます。

郷里への愛着を感じます。
きっと答えはあるようで、ないようでなのかなと思いました。また、お邪魔させてください☆

投稿: kemo | 2009/07/17 21:17

kemoさん

答えは明瞭にして愛着は狂おしいほどに。持て余すんですよ。やれやれでしょう?(苦笑)。

投稿: 喜山 | 2009/07/18 08:27

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