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2009/07/03

『われ島ン人を愛す』

 牧哲也の『われ島ン人を愛す』という本がある。「しまんちゅ」を愛す、である。

 牧は徳之島の人だが、この本では、与論島が2回も取り上げられている。「島ン人」の名が示すように奄美がテーマなのだから、与論に触れているのも不思議なことではないと思うかもしれない。けれど中身を見たうえでいえば、与論のことは、明確に与論だからこそ取り上げるというように俎上に載っている。与論島生まれのぼくは、つい、特筆に値すると反応してしまう。

 取り上げられているのは、あの与論献奉と観光のこと。

 話は与論憲法に帰るが、四年前に始めて与論島へ渡ったとき、私はこの儀式に感激した。酒が好きだったし、何よりもこのふん囲気がすばらしいと思った。自他の区別もなく酔いつぶれる世界、いいではないか、万万歳ではないかと手放しで礼讃したものだ。どうして憲法というのかそのいわれも知らぬ。果たして条文があるのかどうか、あるとすればどんな条文なのか研究しょうとも思わぬ。ただ始めて来た私に対してこうまで分けへだてなく迫ってくる人間の暖かさ。カミシモをとりはらった人間たちの赤裸々なブッつかり合い/これだから人間世界はいい。これだから奄美はすばらしく、これあるが故に与論島はなつかしいではないか、とほれ込んだのであった。

 与論献奉は色んな字があてられるから、与論憲法だと間違いであるとは一概に言えない。その強制力からすれば、「憲法」の語感のほうが合ってそうですらある。ところで牧が言うのは、与論献奉礼賛、ではない。

 そして、つい一週間前の再体験。人の評価の何と定かでないことよ。この度、私の日は終始批判的に動かざるを得なかった。「あの人は胃の調子が惑いというのに、また無理に飲まされて……。身体をこわさなければよいが」とバラバラする。「この人は、もともと飲めないたちなのに、あんなに思いきりよく飲み干して……。きっとあとで気分が恵くなるに違いない」と案ずる。血圧が高いので焼酎は自分の健康によくないといつも思っている人が、その場の調子で勢いよく飲みかつ論じている。きっと明日は後悔するはずであるひそれにしてもこれ以外に方法はないのか。人と人が歓談し合う場は酒宴しか考えられないのか。「酒は百祭の長」などと誰が言いふらしたのか。人類をおとし入れる悪い魂胆でもあるとしか思えない。

 そう、この章のタイトル。「与論憲法批判」なのである。

 私は知る限りの与論島の人々に心から親近感をいだいているし、この人たちの親切な歓迎ぶりや、やさしい心遣いについていつも感謝の思いで一はいである。したがって私のこの憲法批判が彼等の心証を害することになるかも知れないことを心からおそれるものである。私はどうかしてこの一文を公けにすることを断念したいとも考えた。しかし、私の良心は敢えて公表することを自らに命ずる。なぜなら、ことは与論町だけの問題ではなく、奄美の島々においてはそこに住む人たちがアルコールの魔力に対してあまりにも無防備な状態にあるからである。アルコールが敵であることを知らず、却って親しい身内か味方のように思いなしている。肉体をけがすものであるのに、逆に体内のよごれを消毒してくれる艮菜だぐらいに考えている。
 アルコールを甘くみてはいけない。酒が人間にとって、大きな力をもった害悪であることを私はせいいっぱい警告したいと思う。(昭和四十六年六月、大島支庁だより)

 アルコールは「敵」ではないけれど、「アルコールの魔力に対してあまりにも無防備」なことに牧の批判の核心はあり、そこに共感する。牧は「与論憲法」を、奄美全体の酒に対する姿勢のシンボルとして挙げているのだ。そう言われてみれば、与論献奉は奄美の飲酒姿勢の象徴かもしれず、その闇雲さにときに辟易しているぼくなどは、牧の批判を好もしく感じる。

 もうひとつは観光地として与論、である。タイトルは、「与論島は楽園か?」。

 夏季の観光客の増加を見越して、船会社がダイヤを変えようとしたがこの案が住民の足を無視したものであるということで大問題になっている。瀬戸内町などおこるのはもっともであるが、いっぽう喜こんでいいはずの与論町においても、事態は単純でない。飲料水の供給力の問題とか墓などが荒らされたとか、また風紀上の問題とかいろいろあって、むしろ「これでは観光公害だ」と嘆く声すら上がっている。せっかく美しい海と白砂の浜辺を持つ素朴な島が、いまや都会の若者たちによって汚染されようとしているという危機感はうそではない。

 これが書かれたのは1971年。そう、与論が島の大きさに比べたら大数の若者を受け入れ、与論イメージが膨張する時期に当たっている。

 白い浜辺に黒々とシミのようなスラッジを見るとき、公害がこの南の小島にも無線ではあり得ないと知って愕然とする。聞くところによればタンカーの乗組員たちがテレビの鮮明度を追って陸地に近寄り過ぎるためだという。大型タソカーが文明の利器ならテレビだってそうである。そしてテレビ番組の娯楽を求める乗組員の心情も、ごくあたりまえのことなのだ。どれも否定し去ることはできないが、ここから海や白浜の汚染という事実が惹起される。人間の営みがこうも自然を傷つけないでは何事も進展しないという「めぐり合わせ」が、たまらなくさびしい。

 浜辺にできた真っ黒いラインをぼくたちはコールタールと呼んでいた。でも、それがテレビ見たさのタンカー接近が原因かもしれない、なんて、想像すらしたことなかった。いまはコールタールはない。けれど珊瑚も消えてしまった。

 しかし、まだまだ与論はきれいである。これをめざして若者たちが熱病のようにむらがってくる。平凡なサラリーマソであり、普通の学生であるだろう彼等が、異様な(?)いでたちで島の中をかっ歩する。新しい食料品店がたち、簡易宿泊施設がどんどんできていく。島の各所が昔日のおもかげを大きく変え始め、人々は商売のうま味を知るようになった。そして少くはない現金収入と引きかえに、人々が何かしら大事なものを失ないつつあるという実感はいずれ来るだろうが、いまはまだない。要は、せっかくのもうけるチャソスをみすみす逃がす法はないのである。

 商売経験は浅いのに商売のうまみを知ってしまった果ては、商売を無くすというごく単純なことだった。ぼくたちは「大事なものを失」ったろうか。少なくとも、島の人の心は大丈夫だと思う。一方、「若者」を「異様な(?)いでたち」とは、子どものぼくは思ってなかった。これは、大人にとっての衝撃を語るものとして受け止めようと思う。

 さて、この若者たちは勢いのおもむくところ、これからもどんどんはいってくるに違いない。そして、おおかたの者が自分の振舞いたいように振舞って、別天地の生活を遊び楽しむことであろう。この際、彼等が地元民の迷惑など考慮に入れてくれると期待することはできぬ。もともと観光客というのはどこにあっても無責任な人種なのだ。その上、彼等の大部分は経済的にも余裕のない人たちであるだろう。無計画というか、かなりに成行きまかせの旅行であろうから、金がなくなれば「かせげばいい」とし、またその手段を選ばないことも十分に考えられるのである。こういう野放図を含めて、これが現代の若者の天国であるとするなら、それは世の親たちが自分の息子や娘にはどうしてものぞかせたくない楽園であるにちがいない。若者たちにとって別天地である同じ場所が、島の住民にとっては日常の生活の根拠地であると知ることはきわめてたいせつである。

 「若者たちにとって別天地である同じ場所が、島の住民にとっては日常の生活の根拠地であると知ることはきわめてたいせつである」という認識は確かに求めてよいことだと思う。ただ、ここではその心配のあまり、旅人は少々悪人に描かれすぎている。でもそれも同時代の心配のなせる業だ。

 牧が取り上げた二つのテーマは、与論を素材にしながら、そこに奄美の問題の象徴を見たのだと思う。与論への真摯な向き合いに感謝したい。

 ところでこの引用はぼくの好みによるもので、牧の関心はもちろんまず、徳之島に向けられている。

 父の死はあまりにもアッケなかったが、年前においても単刀直入、直情径行型の人間であったらしい。喜怒哀楽の衷情が豊かというか、激しく大きく、酔って興に乗ると裸踊りまで辞さず、勢いあまって遊女のところに轟沈することも再三であったとか。
 サソシルを抱いて「ラ・クソパルシータ」の曲を奏でながら、バラバラと落涙するかと思え、ふと思い立って「俺の唐手を見ろ」とばかりに診療虫のガラスだなを血にまみれた手と足で、つぎつぎに打ち割ていくのであった。また、あるときほ麹小足にはいっていき、逃げまどう鶏どもを片っぽLから残らず締め殺すといった具合で、こんな時のオヤジは子ども心にも無気味な存在として映った。すでに四十五、六才にはなっていたはずであるのに自らの感情の異常なまでのたかぶりは、尋常の手段で制禦できなかったのであろうか。

 思うにこの種の狂気-というよりは、熱っぽい人間味と評価したいのだが-は、奄美五島の中でも徳之島の人間がいちばん多く持っているのではあるまいか。飲む紅も、踊る紅も、また遊ぶにしても、とことん倒れるまで享楽しなければ後味が惑いとする気質は、生命をその極限において燃焼させたいとするその燃焼のさせ方に問題はあるとしても、父の島の人たちには普遍的に見られるひとつの特質であるように思えてならない。そしてこれは、別に理論的に抽き出されたものでなく、宗教上の信念にもとづくものでもなく、ただ生命の欲求のままに、遠く父祖から引き継いだ血の騒ぎの故に、そう生きるしか仕様がないのだといった具合に受取れるのである。

 牧はこの「血の騒ぎ」にたびたび言及している。これは徳之島が奄美一ではないか、と。たしか、徳之島出身の作井満も「徳之島野蛮」という言い方で説明したことがあった。闘牛といういかにもそれらしいイベントも徳之島で盛んだ。

 これを外側から理屈づけてみようとすると、大和勢力と琉球勢力の波をともに受けていること、しかし波をかぶる最初の島ではないこと、18世紀に、7人に1人という巨大な餓死を経験していること、そしてそびえる山があること。そんなことを漠然と思い浮かべるが、しかしこの「血の騒ぎ」の文章に触れて、徳之島は違うなというよりも、ぼくも同じだと思った。むしろ、自分でも持て余すほどのこの「血の騒ぎ」としかいいようのない熱情は、個人的なものではなく、島ん人(しまんちゅ)に共有されたものではないか、と。そう、まさに、「そう生きるしか仕様がない」という宿命的なものとして。そのやむなさに言葉を届かせているのが、『われ島ン人を愛す』の深さだと思う。

 『われ島ン人を愛す』には島尾敏雄も書評を寄せていて、そこでも「日常の中ででもおさえることはむずかしい」「執着心のたかぶり」に触れている。

 さて牧哲也は故郷の徳之島を回想するときにそのこころがあやしくざわめくのをおさえることができないようだ。特に亡父の生涯に於いて故郷のすがたが象徴的にあらわれ、天城町のふしぎな町政問題に対しては、故郷に向かって具体的な姿勢を迫られるもののように行動しないわけにはいかない。彼の故郷への思いが熱っぽいのは、孤絶された故郷のすがたが裏打ちされているからだろう。たとえ無意識の中ででも故郷の孤独な広がりに対してのよりいっそうの執着心のたかぶりが認められるからである。彼は熱中する自らのかたむきを故郷のこころと思い、それは彼の日常の中ででもおさえることはむずかしいように見える。たとえば囲碁の世界へのひたむきな傾斜は名瀬に棋院支部を設ける行動に到達しなければおさまることはない。

 さて私は、奄美の(もしくは徳之島の)孤独な混沌の、外がわからでなく内がわからの記録を、彼の此の薯に見るわけだが、それは孤独な環境に投じられたひとつの魂の精神軌跡がどんなかたちを捕きだすかの試み、となってあらわれているように思う。つまりひとつの無垢の魂が孤独な島の環境にいどみかかる攻撃なのではないか。熱いこころで折々の痛みにたえながら、彼自身の表現を確かな自立に導きたいと願望しているように見える。その鏡わぬこころで島の孤独の真髄にふれたとき、思わず表現は確かなひびきをかきならす。

 「孤独な島の環境にいどみかかる攻撃」というところ、これはひとり牧のことだけでなく、自分のことを言われている気がした。ぼくが書くのも、まさにそれではないか、と。こう言ってもらえたなら、本としてはもって瞑すべしというものではないだろうか。

 牧は囲碁狂である。そしてぼくの父とひとつしか年齢が違わない。牧がこの本を1971年に出したとき、ぼくたちは与論にいたから、重なる時期があったのかわからないけれど、本にある住所は鹿児島に移って以降の、ぼくたちの居所の近くだ。牧は、同じく囲碁狂だった父と対局を持つことはなかったろうか。そんなことが気になってくる。

 この本は、syomuさんが貸してくださった。奄美の図書館にならきっとあるだろうけれど、国会図書館にはない。syomuさんがこの本を印象にとどめ父親の書棚から拝借して手元に置くことがなかったら、ぼくが借りることもできなかっただろう。「血の騒ぎ」のつながりだと思った。

Makitestuya

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