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2009/07/30

「徳川幕府の対明政策と琉球侵攻」(紙屋敦之)

 図書新聞の「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(2009-6-6)の続きで、紙屋敦之による「徳川幕府の対明政策と琉球侵攻」。

 琉球侵攻について、対明政策の一環、島津氏の権力編成の二つの視点から考える。
 まず、対明政策の一環について。徳川幕府は豊臣秀吉の朝鮮侵略後、明との講和すなわち日明政策を推進した。そのため、交渉の仲介役を、明を宗主国と仰ぐ朝鮮、琉球に期待した。
 対明政策の過程で、幕府は一六〇七年に対馬藩を通じで朝鮮との国交を回復し、一六〇九年に薩摩藩を通じて琉球を服属させた。また、一六〇四年には、アイヌ・蝦夷地への対策を打ち出した。
 こうして、朝鮮に対する対馬口、琉球に対する薩摩口、蝦夷地に対する松前口、中国・オランダ船に対する長崎口を合わせて、東アジアに通じる四つの窓口が成立した。
 この薩摩口成立の契機となった薩摩藩の琉球侵攻に関して、琉球を仲介とする対明貿易を独占するためであったとする説があるが、それは結果論であって、当初の狙いは、幕府が押し進める明との講和交渉の一環として、琉球をして幕府に聘礼させる目的で実行されたのである。

 薩摩の琉球出兵は、幕府と明の講和交渉の仲介を琉球にさせるため、幕府への聘礼をさせるのが目的であり、対明貿易の独占は、結果であって目的ではなかった。

 尚寧の聘礼について。一六一〇年八月、尚寧は大御所徳川家康に面会した。尚寧をはじめ琉球人の装束は唐式だった。同年九月、二代将軍徳川秀忠は中山王(尚寧)の改易を禁じ、琉球を国家として存続させることを命じた。こうした家康、秀忠による厚遇は、日明通交を復活し、官船・商船の往来を構想して、琉球に日明講和(勘合貿易)の仲介を期待したからにはかならない。

 上原報告の記事は、「徳川政権は、琉球を介して明国との国交を図る戦略を持っていたが、この戦闘によって破綻した。」とあったが、戦闘が破たんに直結したのではなく、出兵後も明との通交回復を期待した段階があった。

 次に、薩摩の琉球侵攻について。一六〇二年冬、琉球船が陸奥・伊達政宗領内に漂著し、翌一六〇三年春、薩摩藩島津氏が琉球人を琉球に送還し、家康への謝恩の使者を要求した。しかし琉球側は使者の派遣を拒否。理由は①冊封を控えていた、②薩摩が「琉球附庸」説を唱えていた、③首里王府内に対立があった、ということが挙げられる。
 薩摩藩大島出兵の談合は、一六〇六年三月に行われた。それは来聘問題の打開と大島への版図拡大をめぐるものだった。そして一六〇九年三月、琉球出兵を実行した。その後、薩摩は琉球に対して慶長検地を行い、慶長内検を行った。

 ぼくは『奄美自立論』では、薩摩の過剰な武士団の国家幻想を満たすために、琉球出兵を行い、過剰な武士団の維持のために、奄美を割譲したと考えたが、もうひとつ、そこに朝鮮出兵の経験で、征服目標をまるで更地のように見なす視線を養っていた経験値が大きくものを言ったと思っている。

 薩摩の琉球政策は、「同化から異化へ」と変化した。対明政策は実現に至らず、幕府は朝鮮・琉球との闇に、自前の国際関係を形成していった。薩摩藩は一六二年、掟五ヵ条をはじめとする琉球支配の方針を定めた。
 薩摩は当初、琉球を日本に同化させることを企図していたが、幕府の対明政策が挫折した一六一五年を境に、琉球に固有の政治形態と風俗を認める「異化政策」に転じ、一六二四年にそれを確定した。これは、明との国交を実現できなかった日本にとって、琉球の明との冊封・朝貢関係が日明間をつなぐパイプとして重視された結果にはかならない。(早稲田大学文学学術院教授)

 琉球は、当初、「琉球は大和である」と規定されるが、幕府の対明政策の挫折を経て、「琉球は大和ではない」と規定し直される。琉球にとって、この経験の影響も小さくないと、ぼくは思う。


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