「島津氏の琉球侵略 もうひとつの慶長の役」(基調報告)
「島津氏の琉球侵略 もうひとつの慶長の役」(上原兼善)。「図書新聞」の「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(2009-6-6)の続き。
徳川政権は、琉球を介して明国との国交を図る戦略を持っていたが、この戦闘によって破綻した。そして、琉球を介して中国と結ばれるという国際関係のあり方が定まった。
一方、中国は、日本の影響下に入った琉球に警戒心を強め、一〇年間の入貢を禁じた。だが、琉球を日本の側に追いやることになるのを恐れ、琉球との関係を断ち切ることはできなかった。日琉関係を知りながら、知らないというかたちで中琉関係を推持したのである。
「この戦闘」とは、薩摩による1609年の琉球出兵のことを指している。上原の考察をそのまま受け取ると、徳川幕府は、当初、聘礼により琉球を日本に服属化させ、日明貿易の仲介をさせようとしていたが、藩内の内部矛盾を侵略により解消しようとした薩摩の出兵により、構想は破たんする。日-明の関係構築は難しくなり、日-琉-明と、琉球を間にはさんで明とつながる関係が構築されていった。
こうやってみると、1609年のことは幕府の意思というより、幕府の意向を盾にとった薩摩の意思が強かったようにみえてくる。
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