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2009/07/10

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」4

 その上で、ぼくは進むべきベクトルを「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」と考えました。これは奄美に視点を置いた言い方です。七島灘とは、奄美の北を東へ蛇行する黒潮の流れを指したもので、海の難所を意味していました。南の県境とはいわずもがなの、あの境界のことです。この画像はたまたま与論島から沖縄から眺めた画像です。次の地図は、酒井さんの『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』から拝借してきたものです。ぼくはこの地図が大好きで、眺めるだけでも癒される感じがあります。どうしてかといえば、ここには黒潮の流線以外、余計な境界が引かれていないからです。

 「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」として言いたいのはこういうことです。たとえば、同じく鹿児島の歴史家、原口泉は、薩摩の色を「黒」と言います。「独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。」というように。ところが、こんどは奄美の人が読むであろう本では、「奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。」などとも書くわけです。原口は、さりげなく奄美も「黒」であると、さりげなく言うわけです。これも、配慮不要の奄美への処し方の典型的なものです。

 しかし原口がもし自分を鹿児島の知識人と思うなら、彼がすべきなのは、鹿児島には、薩摩の自然と文化と言葉の果てるところがあり、そこから先を奄美というと、積極的に言うべきでしょう。それを「奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。」などというのは、まさに他者不在で、奄美はますます薩摩になると言っているようなもので、こんな不気味な予言めいた言葉は拒まなければなりません。

 従来、七島灘は海の難所と呼ばれ、奄美の復帰前には、日本へ密航するのに命がけで越えていかなければならなかった海域です。いまは大型フェリーや航空機によって、七島灘は難所ではなくなったわけですが、こんな頬かむりで存在しないかのようにみなされるなら、ぼくたちは文化や思想の七島灘を浮上させなければならないと考えます。

 そして南へ目を向ければ、この400年のあいだの最もいびつな境界である沖縄島と与論島の間に引かれた境界が、県境という以上に意味を持ってしまっていることを越えていかなければなりません。奄美と沖縄をつなぐのです。柳田國男は『海南小記』で「その上に折々出逢う島の人の物腰や心持にも、またいろいろの似通いがあるように思われた。海上は二百浬、時代で言えば三百年、もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが、やはり眼に見えぬ力があって、かつて繋がっていたものが今も皆続いている。」と書きましたが、ぼくに言わせれば、四百年経ってもつながっていると感じられるのです。

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