「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」2
こうして、南から奄美は「存在しないかのような存在」と化すわけです。一方で、北、鹿児島からも「存在しないかのような存在」と見なされるわけですが、これはぼくたちの皮膚感覚に照らしても実感的です。それが端的に示されたもののひとつに、ぼくは山中貞則の謝罪があると思います。
山中は鹿児島出身の著名な政治家です。山中は晩年の2002年に『顧みて悔いなし 私の履歴書』という書物を出すわけですが、そこで、こう言うのです。「とはいっても侵攻の事実に変わりはない。またすでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。」ぼくは最初、これを読んだときとても驚きました。あの、ぼくの知っている度し難い頑迷さからすれば、薩摩の政治家が「謝罪」を言うなど不可能か、あるいはぼくが生きている間ではありえないと思ってきたからです。でも、それは今から7年も前になされているわけです。
しかし、ぼくはそのことよりももっと驚くことがここにはあります。それは、山中は「沖縄」に謝罪しているのであって、「奄美」ではないことです。山中は謝罪の中身について、黒糖のことも触れているのですが、にもかかわらず、奄美は触れられません。どういうことでしょうか。山中は沖縄では良心的な政治家として評価されています。この本にも当時の稲嶺知事の献辞が寄せられています。その良心的な政治家が良心のありようを吐露し、まさに良心的にみえているまさにその最中のパフォーマンスの場面で、奄美は黙殺されてしまうのです。まさに奄美は「存在しないかのような存在」と化しているわけです。
どうしてこうなるのでしょうか。ぼくは、それは「奄美は琉球ではない」と規定した直接支配が隠されたことにあるのではないかと考えます。汾陽光遠という薩摩の人が、明治7年に書いた「租税問答」という文書があります。その六十三番目の文章にはこうあります。「問て曰、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て曰、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし」。ぼくはこれを読むと、いつもひそひそ話のように聞こえてきます。
奄美は、お届けなしの蔵入り地だったわけです。直轄領であることを隠したということが、奄美の「存在しないかのような存在」の色合いを最もよく物語っていると思えます。ぼくはこの400年の意味を最もよく示す文章を挙げよと言われれば、汾陽光遠の「租税問答」「第六十三 道之島内地附属」を挙げます。直轄領であることを隠すことによって、奄美は存在しなかのような存在と化します。存在しないかのような存在になるということは、配慮が不要になるということにつながりますから、それが黒糖の収奪を激化させたでしょうし、近代以降も奄美を食い物にする傾向が続いたのも、理解しやすくなります。
この、隠すということが致命的だと思うのは、それは人様の視線を浴びないということではないでしょうか。他者の視線がないということは、それはまずいんじゃないの、とか、そんなことしちゃいけないんじゃないの、と言われるきっかけを無くすということです。2007年の『薩摩のキセキ』という本のなかでは、「日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。」と、いうことが書かれたり、去年は原口泉が『維新の系譜』という本で、「日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは「明治維新」ではないかと思います。」と言うわけですが、どちらも世の中は違う価値観や世界が存在している他者の存在への配慮がない、巨大な勘違いをしていると感じられます。この「維新止まり」であり他者不在の感覚は、直轄領を隠すという行為とぼくはつながっていると思うのです。
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