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2009/07/23

近代以降・島役人・琉球/薩摩

 弓削政己の「奄美の視点」。弓削はここでいくつかの事実を挙げて自説を述べるのだけれど、その事実の幾つか、あるいは多くは、彼が地を這うような独力で発掘してきたものだ。それによってぼくたちは、奄美についてああだこうだと考えることができる。弓削の小論について触れる前に、そのことにまず言及しなければならないと思う。瀬戸際のように言えば、ひとり弓削政己がいなければ、ぼくたちは奄美の歴史について事実を発掘することすら覚束ない現状を抱えているのではないか。何より弓削は、事実発掘者として貴重である。

「「薩摩直轄支配」の歴史論は・・・冊封体制背景の新機軸で再考を」(「南海日日新聞」2009年1月1日)

 現在、奄美の歴史像は難しいところにきている。
 一つは従来の歴史方法に対する疑問だ。これまでは「薩摩」による「奄美」の直接支配を基軸に歴史をとらえてきたが、近年、奄美に冊封体制の影響があることが分かってきた。「冊封体制と奄美」という基軸も入れて、歴史を見詰め直さなければならない。
 二つ目は、奄美の薩摩藩認識の根拠としていた従来の論が揺れ動いている点だ。例えば、系図差し出しなどがそうだ。琉球王国時代、奄美の家々に伝えられていた家系図が、薩摩支配の下、集められて焼却されたとされているが、そういう評価が修正されつつある。

 一八三〇年には、黒糖の抜け荷(横流し)で「抜け荷死罪」となったが、それは前年に種子島の船頭、水主(乗組員)と喜界島の人々が抜け荷で捕まったことが契機となった。調所広郷の時代の、砂糖を基本にした藩財政立て直しの中にあっては、種子島も含め、抜け荷は重く処罰された。背景の把握が必要だ。
 また、一八七二年に大島商社が砂糖の専売制をつくり上げたことについて、鹿児島県が「島の役人をだまし討ちにして商社が立ちあげられたというのが、従来の歴史像だった。だが近年、明治政府の「自由売買」方針の下に商社が入ってきたものの、島の役人たちに品物の注文権や配布権など、利権をつかませることで、鹿児島県は商社と専売制の契約を結ばせたということが分かってきた。薩摩の収奪が基本ではあるが、それを見るためには、極めて内部の問題に向き合わなくてはならないということだ。島役人を媒介にした収奪システムがある。四百年の歴史を、薩摩による収奪の論理のみに逃げるわけにはいかない。

 三つ目は、奄美だけではなく、奄美以北のトカラ列島や屋久島、種子島などを含めて、歴史を見直す必要があることだ。奄美が「鹿児島は何もしてくれなかった」という一方、大島管轄の行政区域だったときのトカラから「大島は何もしてくれなかた」と言われることがあった。奄美が薩摩に対して抱く思いと同様、トカラもまた奄美に対して同じ思いを抱いたという。重層構造を見ることを忘れてはいけない。
 奄美の人々が従来持っている歴史認識には、以上のような点が見られるものの、それが近現代の歴史体験と密接に結び付いている点も見逃すことはできない。これが奄美から四百年をとらえることが難しい最後の理由だ。
 明治以降の時代、島から外へ出稼ぎに行き、朝鮮人と同様に差別された経験を奄美の人々も抱えている。苦い思いが今も受け継がれている。四百年の歴史は近現代の経験を通し、歴史像、歴史意識がどこまで拡大生産されたかというところまで考えないといけない。
 以上、四つの理由を踏まえ、多角的に四百年を見なければ、奄美の歴史像を語りきれないし、従来の歴史的方法を乗り越えることはできないだろう。

 この小論は、対薩摩との関係でがんじがらめになっていると見なされる従来の奄美論の相対化という意味を持っている。四つの理由をたどってみる。

 一つ目。従来は、薩摩による奄美の直接支配として奄美の歴史は語られてきたが、冊封体制も基軸になっているということ。

 二つ目。系図の差し出しが強制されたことで、系図が存在しないと言われてきたが、残っているものも出てきた。そういうことだと思う。また、大島商社による黒糖収奪も、薩摩の一方的なものではなく、そこに協力した島役人の存在を抜きには語れない。

 三つ目。鹿児島は何もしてくれなかった、と奄美は言ってきたが、トカラも奄美に対して同じことを言う。その疎外の連鎖を見なければいけないということ。

 四つ目。近代以降の本土での苦労を投影して過去を見てしまう傾向がある。

◇◆◇

 1609年以降の奄美は、薩摩支配一色に言われてきたが、冊封体制も組してきた。残っていないと言われてきた系図も意外とある。黒糖収奪も島役人の関与がなければできない。奄美が鹿児島に対して抱く悪感情をトカラは奄美に対して抱いている。そして近代以降の受難を過去に投影して見ている。弓削は、奄美の歴史像が「難しいところにきている」と遠慮がちに言うが、奄美の歴史像にある薩摩一辺倒、薩摩諸悪の根源像を相対化しなければならない。そういうことだと思う。

 ぼくも、ここに思うことを書いておきたい。

 冊封体制の関与は、ぼくの文脈に引き寄せていえば、薩摩による奄美の直接支配は、「奄美は琉球ではない」という背景にあるものであり、冊封体制は「奄美は大和ではない」という規定の背景にあるものだ。特に後者の場合、奄美は「琉球国之内」という仮構の維持のため、冊封体制に対応させる必要があった。これは、琉球もこの規定を強化する側にいたという面もあれば、対幕府に奄美を「琉球国之内」と見せるための役割も果たした。

 最後の、奄美の歴史観、薩摩観が近代以降の経験を過去に投影したものであるという指摘は、奄美の鎮静剤になる。内省が過ぎるというものだ。けれど一方で感じるのは、従来が、1609年以降を近代以降の実感で塗りつぶしがちだったとすれば、今度は、近代以降の実感は近代のみのことであるとして、近代までの1609年以降が空白になってしまうことである。いままで近世を近代として見すぎたとしたら、今度は近世を脱色化しすぎてしまわないか。だが、二重の疎外は1609年以降に共同体に構造化され、近代以降、個人の問題になった。つまり、ここには、あの近世なくしてこの近代もない、という視点がなければならないと思える。

 薩摩支配が相対化されると同時に、島役人の関与が浮かび上がってくる。近代を黒糖収奪の続行にしてしまった大島商社も、島役人の関与なしには専売化しなかった。これは、薩摩支配以降、島役人が奄美内薩摩と化したことを思い出せば、その行動型を抜け出なかったことを示している。当然、島役人の関与がなければ、薩摩支配は成立していない。

 しかし、弓削の文脈を離れて、ここから仮に、島役人こそは支配の張本人であり、謝罪すべきは島役人である、と論を進めたら、滑稽になると思う。確かに、奄美の屈服は島役人の思考収奪に始まり、ここから黒糖収奪も家人の発生も見通すことができる結果になってしまった。島役人は奄美内薩摩として、畏敬の対象になり、その反映として現在その末裔を誇る勘違いもいる。この、奄美内薩摩を対象化することは奄美の自立にとって当然、必要なことだ。

 しかし、被支配者は支配の仕方から支配を学ぶものである。薩摩支配なくして島役人も存在しない。そうだとしたら、島役人こそは批判すべき対象なのではなく、薩摩批判の流れのなかで島役人も位置づけられるべきものだ。このあたりからぼくはよく分からないのは、「従来の歴史的方法」の文脈をよく踏まえられないところがある。たとえば、従来は薩摩への怨念ばかりが強かったとよく言われる。しかしぼくが奄美論の系譜を読んだ範囲では、その怨念がよく分からなかった。どこに素直に正面から吐露されているのか、見つけきれない。ひょっとしてそれは酒場でのことではないだろうか、と勘ぐってしまう。ぼくの観点では、怨念の発露も見られないが、薩摩への批判も充分であるとは思えなかった。すると、薩摩への批判が的を射てもいないのに島役人に批判の対象を移行するのは本末転倒に思える。もしくは酒場での怨念への疲労がそうなせるのだろうか。しかも現在、島役人は階級を構成しているわけではないから、謝罪すべきと見なされる主体も存在しない。

 また、奄美が鹿児島に抱く感情を、トカラが奄美に抱く感情によって相対化するのは当然のことだとしても、それが思考停止を招いてはならない。ぼくたちが立ち止まってきた場所は、鹿児島だって同じだった、沖縄は大変だった、アイヌほどではない等々と、その手の比較の前に、もの言わぬ奄美はさらに失語を深くしてきたのである。だからこそ、困難の構造の固有性が抽出されなければならない。トカラと比較するなら、トカラの疎外の構造はどうだったのか、明らかにされなければならない。奄美の対鹿児島感情とトカラの対奄美感情は、そうしないと、一挙に一緒くたに“同じ”と見なしたら、奄美もトカラも発語していけない。

 こうした相対化の立ち位置の延長にも、奄美も薩摩も大変だったのであり、その外枠には、琉球も薩摩も大変だったのだという視点が控えているだろう。それは両者から等距離の場所に立ち位置をとれば、当然そう見えてくる。それは相対化の作業には必要ですらある。しかし少なくともぼくたちは思考ゲームをしたいわけではない。歴史を現在に引き受けざるをえない状況を克服したいのである。それが奄美という立ち位置であれば、奄美の内側から扉を開けて外に出る作業がなければ、ぼくたちがすぐに薩摩と奄美を等距離に見る立ち位置のみに飛んでいけるわけではないし、もしそれのみになってしまったら、奄美はそれこそ空虚化されてしまうしかないと思える。


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