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2009/07/31

「薩摩藩支配下、奄美諸島と琉球の関係」

 図書新聞の「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(2009-6-6)。上原兼善、紙屋敦之に続いて、弓削政己。「薩摩藩支配下、奄美諸島と琉球の関係」。

 奄美諸島でも、薩摩藩支配の評価と今後の行く末をどう考えるかという動きが出始めている。ただ、これまでの奄美諸島の歴史をどう把握するか、その端緒が議論されだしたという段階である。
 奄美諸島は琉球支配から、薩摩藩の代官直轄支配へと代わった。琉球は薩摩藩により、在番奉行を頂点とした間接支配を受けた。薩摩は奄美と琉球を分断し、両者の違いを前提しながら、関連させて統治の仕組みを考えていた。
 奄美諸島の歴史認識の出発点は、一八九一年一二月に都成植義『奄美史談』であり、それが今日まで受け入れられている。近年、この歴史像の再検討が行われてきているが、その検討には困難さもある。理由は、奄美諸島の人々の近現代における状況と、薩摩藩支配下の奄美諸島の解釈とが結びついている面が多々あること。しかも研究対象として薩摩の政策、冊封体制下の琉球の動向と、奄美諸島の各島の個性が結びついているためである。

 これは、弓削が「奄美の視点」として披歴したもので、近代以降の経験を過去に投影することが、奄美の歴史理解の進展を困難にしている、ということだ。

 薩摩による奄美の直轄支配を考える上では、黒糖が中心的問題となる。従来、奄美では、黒糖が税として直接上納されていたと考えられていた。だが、奄美においても上納の基礎計算は米の生産量を基準とする石高制であり、黒糖はあくまで特産品とみなされ、薩摩に買い上げられて石高で換算された。
 これまでも薩摩による黒糖収奪は指摘されてきた。しかし、このような収奪のシステムは、媒介として奄美諸島出自の島役人・士身分の郷士格(侍に準ずる身分)がいなければ不可能だ、という理解の視点は弱かった。実際、薩摩による直接支配体制のみでは、苛酷な収奪は不可能である。
 と同時に、過重な税負担に対する抵抗運動として知られる犬田布一揆など、抵抗・一揆に加担する島の下層役人もいた。こうした、島役人の二面性、内部構造の把握も重要である。
 また、島民は藩内黒糖生産の技術指導の役割を担っていた。馬や水車などの動力確保など、生産を高める島民の主体性のあり方、琉球との関係の同胞意識からの解釈とともに、利害対立の視角からの理解も必要である。

 島役人は、薩摩に思考収奪されて奄美内薩摩になった。それが奄美の屈服を決定づけている。島役人は、思考を収奪された頭脳としては薩摩として振る舞い、奄美の島人の身体としては奄美として振る舞った。そこに島役人の二重性が現れる。

 一六二六年、琉球側は藩に対して、冊封使がきた場合には、名目上中国に対して琉球国としての朝貢体制を維持するため、見次物(頁物)の要求があった。こうして中国からの冊封使来琉時には、奄美諸島から琉球への見次物が搬送された。たとえ奄美が飢饉時でも、との搬送がなされたが、伊波普猷はこれを「奄美は苦しい中でも琉球のために貢献してくれた」と同胞論的に理解していた。
 しかし、これは奄美と琉球との親和的な関係から生じたものではなく、琉球が薩摩へ搬送を依頼し、それを受けて薩摩が奄美に指示することで成立したもので、島民の藩への貢納の一形態だった。
 従来、奄美諸島と沖縄とは自然的、歴史的な関係から情緒的に「兄弟島」として一括して理解される傾向があったが、こうした史実が明らかにするように、両者の社会や統治形態には異なる面もあり、その理解は奄美にとっても沖縄にとっても、共通性と独自性を明らかにする上で有益だろう。

 奄美は琉球から疎外される存在であったとしても、それは島人相互の親和感と同居するものである。伊波普猷の同胞論的理解の錯誤は、政治に島人相互の同胞感を持ち込んだ点にあるので、同胞感そのものが否定されなくてもいい。

 薩摩は、奄美諸島の島民の服装や様態を琉球支配当時のままにさせ、「大和めく」ことを禁止した。また、郷士格への一字名字使用などについても、薩摩の直轄支配による差別政策の結果だという意見もある。それはまた、近代史での奄美諸島の人々の歴史体験の反映でもあった。
 しかし、そこには、冊封体制を維持するため、薩摩による直轄支配を隠蔽するという側面があったのではないか。『奄美史談』は、琉球との構造的連関の研究が弱い。こうした史実を踏まえ、琉球との関わりの視点からの奄美諸島の歴史像が必要である。そして、「冊封体制の底辺」(金城正篤)に位置づけられた奄美という視点からの把握が必要である。(奄美郷士研究会)

 奄美の一字姓について、奄美が近代以降に被った薩摩での差別経験をもとに見てしまうが、それは冊封体制への対応であった、というのが弓削の指摘である。ぼくが付け加えなければならないと思うのは、その冊封体制対応は、薩摩の琉球支配隠蔽のためであり疎外の結果である。その疎外の系譜は、近代以降の差別を露骨にした、ということだ。



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「シューンて行ってピュウって行けばあります!」

 この、与論の道案内は笑いました。で、懐かしい。

観光客いないから、道聞いてもシューンて行ってピュウって行けばあります!って真面目に言うんですから(笑)わかんなーいから郵便局に行って聞いたらずっとずっとまっすぐ…まっすぐ…まっ!途中で人に聞いた方がいいです。だよ(笑)真面目な顔で言うから笑えね~!

 「与論島、ベトナムそうめん」(みどっちふぁくとりーの素)

 みどっちさんのこのコメントも最高。

道の説明の究極です、ここの島がいちばんヘタというか自然なんすよ。
坂道の場合、空に向かって指指しますから…(笑)
朝から10人以上に道を尋ねては、その自然なシューンて行って、スッとかの表現力に感心。楽しくて聞いてしまう。恥ずかしそうに説明してくれるからかわいいの。途中、説明が詰まったら、指であの白い屋根よ!ってどんだけ目がええねん(笑)


 ぼくは極度の方向音痴だが、その由来が分かるような。島の血なのか?(笑)。

 でも、この道案内の仕方は、与論島のクオリアだよなあ。


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2009/07/30

「徳川幕府の対明政策と琉球侵攻」(紙屋敦之)

 図書新聞の「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(2009-6-6)の続きで、紙屋敦之による「徳川幕府の対明政策と琉球侵攻」。

 琉球侵攻について、対明政策の一環、島津氏の権力編成の二つの視点から考える。
 まず、対明政策の一環について。徳川幕府は豊臣秀吉の朝鮮侵略後、明との講和すなわち日明政策を推進した。そのため、交渉の仲介役を、明を宗主国と仰ぐ朝鮮、琉球に期待した。
 対明政策の過程で、幕府は一六〇七年に対馬藩を通じで朝鮮との国交を回復し、一六〇九年に薩摩藩を通じて琉球を服属させた。また、一六〇四年には、アイヌ・蝦夷地への対策を打ち出した。
 こうして、朝鮮に対する対馬口、琉球に対する薩摩口、蝦夷地に対する松前口、中国・オランダ船に対する長崎口を合わせて、東アジアに通じる四つの窓口が成立した。
 この薩摩口成立の契機となった薩摩藩の琉球侵攻に関して、琉球を仲介とする対明貿易を独占するためであったとする説があるが、それは結果論であって、当初の狙いは、幕府が押し進める明との講和交渉の一環として、琉球をして幕府に聘礼させる目的で実行されたのである。

 薩摩の琉球出兵は、幕府と明の講和交渉の仲介を琉球にさせるため、幕府への聘礼をさせるのが目的であり、対明貿易の独占は、結果であって目的ではなかった。

 尚寧の聘礼について。一六一〇年八月、尚寧は大御所徳川家康に面会した。尚寧をはじめ琉球人の装束は唐式だった。同年九月、二代将軍徳川秀忠は中山王(尚寧)の改易を禁じ、琉球を国家として存続させることを命じた。こうした家康、秀忠による厚遇は、日明通交を復活し、官船・商船の往来を構想して、琉球に日明講和(勘合貿易)の仲介を期待したからにはかならない。

 上原報告の記事は、「徳川政権は、琉球を介して明国との国交を図る戦略を持っていたが、この戦闘によって破綻した。」とあったが、戦闘が破たんに直結したのではなく、出兵後も明との通交回復を期待した段階があった。

 次に、薩摩の琉球侵攻について。一六〇二年冬、琉球船が陸奥・伊達政宗領内に漂著し、翌一六〇三年春、薩摩藩島津氏が琉球人を琉球に送還し、家康への謝恩の使者を要求した。しかし琉球側は使者の派遣を拒否。理由は①冊封を控えていた、②薩摩が「琉球附庸」説を唱えていた、③首里王府内に対立があった、ということが挙げられる。
 薩摩藩大島出兵の談合は、一六〇六年三月に行われた。それは来聘問題の打開と大島への版図拡大をめぐるものだった。そして一六〇九年三月、琉球出兵を実行した。その後、薩摩は琉球に対して慶長検地を行い、慶長内検を行った。

 ぼくは『奄美自立論』では、薩摩の過剰な武士団の国家幻想を満たすために、琉球出兵を行い、過剰な武士団の維持のために、奄美を割譲したと考えたが、もうひとつ、そこに朝鮮出兵の経験で、征服目標をまるで更地のように見なす視線を養っていた経験値が大きくものを言ったと思っている。

 薩摩の琉球政策は、「同化から異化へ」と変化した。対明政策は実現に至らず、幕府は朝鮮・琉球との闇に、自前の国際関係を形成していった。薩摩藩は一六二年、掟五ヵ条をはじめとする琉球支配の方針を定めた。
 薩摩は当初、琉球を日本に同化させることを企図していたが、幕府の対明政策が挫折した一六一五年を境に、琉球に固有の政治形態と風俗を認める「異化政策」に転じ、一六二四年にそれを確定した。これは、明との国交を実現できなかった日本にとって、琉球の明との冊封・朝貢関係が日明間をつなぐパイプとして重視された結果にはかならない。(早稲田大学文学学術院教授)

 琉球は、当初、「琉球は大和である」と規定されるが、幕府の対明政策の挫折を経て、「琉球は大和ではない」と規定し直される。琉球にとって、この経験の影響も小さくないと、ぼくは思う。


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きょう海からかえったらおかあさんが赤ちゃんをうんでいました。

 その日のことはよく覚えている。海で弟と遊んで家に帰ってみると、子どもが産まれていた。弟だった。年も離れていたので、かわいくてたまらなかった。あれから、38年経った。ぼくの絵日記によれば、当日、与論は曇りで11時の気温は30度。産婆さんが来ての自宅出産だったから、暑い中で産まれてきたんだね。

 誕生日おめでとう。


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2009/07/29

ふわふわボール

 一年半ぶりだろうか、同姓三人衆の再会。子どものころ、隣り同士で遊んだ、幼馴染であり親戚でありだから、ほぼ兄弟だった。イエロー・ジジイに続いて、話はいきおい長男・次男談義。お隣りの次男は、小学校のころから、美味しいものを作るのが好きで、夢中でやり続けてきた。途中、成績がよくなりかけると、大変だ、成績がこれ以上あがったら兄ちゃんみたいに大変になる、と、成績を上げない芸当をしても、好きなことを続け。いまは鹿児島で人気の店を構えているのだから、貫いたってこと。すごい。

 親が子に託す想いが身に染みている長男にはできない芸当だ。お隣りの長男は、やっかみ半分?、長男同士にしかできない会話があるんだといい、ぼくも多いに頷くが、弟君は一向に羨ましそうにない。ま、それはそうかも(苦笑)。

 あれから三十数年、年齢だけは大人になった。でも、これからどうやって、与論の、あの宇和寺にオープンなサンクチュアリをつくれるのか、そんな話題ができるのは、代えがたい嬉しさだ。

 お隣りの弟君とぼくの弟は、たぶん新聞紙を丸めてテープをぐるぐる巻きにして、ふわふわボールといって、キャッチボールや野球をしたそうな。石垣の門に、シークァーサーやミカンやガジュマルやクロトンが生い茂るなか、ふわふわボールが舞って、それを打って、草むらに入って探してまた遊んで。その様子はありありと思い浮かべることができる。

 再会の晩いらい、「ふわふわボール」が頭を過ぎる。ぼくは、直球しか投げられないと、ときに言われたりする。確かにそんなところはあり。ふわふわボールの軌道は、ゆらゆら揺れながら予測できない。オオゴマダラの舞いみたいに。それは、与論ぽい。ふわふわボールのような人生の軌道を描いてみたい、と長男の憧れみたいに思う。

 長男同士にしかできない会話も、他では得られない濃密な慰安なんだけど(笑)。


(本文とは関係ないけど、今日、飲んだ珈琲。おいしそうなカップだ。恵比寿にて)

Segafredo

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「島津氏の琉球侵略 もうひとつの慶長の役」(基調報告)

 「島津氏の琉球侵略 もうひとつの慶長の役」(上原兼善)。「図書新聞」の「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(2009-6-6)の続き。

 徳川政権は、琉球を介して明国との国交を図る戦略を持っていたが、この戦闘によって破綻した。そして、琉球を介して中国と結ばれるという国際関係のあり方が定まった。
 一方、中国は、日本の影響下に入った琉球に警戒心を強め、一〇年間の入貢を禁じた。だが、琉球を日本の側に追いやることになるのを恐れ、琉球との関係を断ち切ることはできなかった。日琉関係を知りながら、知らないというかたちで中琉関係を推持したのである。

 「この戦闘」とは、薩摩による1609年の琉球出兵のことを指している。上原の考察をそのまま受け取ると、徳川幕府は、当初、聘礼により琉球を日本に服属化させ、日明貿易の仲介をさせようとしていたが、藩内の内部矛盾を侵略により解消しようとした薩摩の出兵により、構想は破たんする。日-明の関係構築は難しくなり、日-琉-明と、琉球を間にはさんで明とつながる関係が構築されていった。

 こうやってみると、1609年のことは幕府の意思というより、幕府の意向を盾にとった薩摩の意思が強かったようにみえてくる。


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2009/07/28

「薩摩の琉球支配」というテーマの「炎上」

 「図書新聞」に、「特集 薩摩の琉球侵攻400年を考える」(「図書新聞」2009-6-6)と題して、5月9日、那覇で行われた、シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』の詳細がレポートされている。ありがたい。

まずは、「千載一遇の機会」と題した武石和実のイントロダクション。

 400年前のこの事件、島津の琉球侵略は沖縄の人々の心の中に重い影となって残り、様々な機会に思い起こされ、また関係づけられて、対大和との関わりの中で怨念にも近い観念としてとらえられてきたといえよう。
 しかし、この事件が歴史研究の課題として正面から俎上に載せられることは少なく近年になって紙屋敦之、上原兼善等によってとり上げれるようになったに過ぎない。

 そういう言い方をすれば、鹿児島出身の紙屋敦之、沖縄出身の上原兼善、そして奄美出身の弓削政己が積極的に取り上げてくれていると思う。

 この間の動きの大きな特徴は、かつての琉球王国を形成し、島津氏の侵略によって分断された奄美と沖縄の連携・交流にあるといっていい。奄美と沖縄は島津氏による分断支配を受け、すぐとなりなのに人の行き来、経済活動、ともに低くおさえられてきたといってよい。法的な制限があるわけではない。薩摩による分断の400年の歴史意識のズレのなせるワザと呼ぶしかない。そしてその克服への努力も今日まで沖縄・奄美双方で意識的に試みられてきたとはいえない。この間の一連の動きの中では研究者が相互に行き来し、問題意識の共有を図っている。

 ぼくの大雑把な見取り図はこう。

 薩摩の琉球出兵以降、奄美は「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を受ける。一方、沖縄は、対日本の関係でいえば、「琉球は大和ではない」という疎外を受ける。しかし、沖縄としての琉球は、その疎外を逆手に取り、積極的に「異国」を強調することで、琉球王国を存続させた。つまり、「琉球は大和ではない、琉球である」と、疎外の形を更新させた。

 近代以降、奄美と沖縄はそれぞれの切実さから、「日本人になる」ことをこの疎外の脱出口に見出す。脱出口に関する限り、それは共通していた。しかし、共通したということは、それぞれの交流を深める契機にならなかった。「日本人になる」ということは、「大和」の方から覆いかぶさってくるものと捉えられており、その点において、奄美も沖縄も北を向いたため、両者の視線は平行線を辿り、交点を持たなかった。奄美は鹿児島を向き、沖縄は日本を向いた。

 しかも近世に、「琉球は大和ではない、琉球である」と疎外の形を更新させ、「琉球」の主体を強めた沖縄は、逆に、「奄美は琉球ではない」という規定を進めて、「奄美は大和である」という見なしの反転に傾斜しやすかった。一方の奄美は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外のうち、前者の疎外を強調し、後者を否定することで、「奄美は大和である」と見なしたがった。ここでも両者は互いを誤解する。

 「日本人になる」ことの牽引ビームに捉えられるなか、「琉球は大和ではない、琉球である」と疎外の形を更新させた沖縄としての琉球は、「沖縄人」という自称を成長させたため、沖縄人を否定して日本人になる、という変身を伴った。その副産物のように、「大和人になりたくてなりきれないこころ」という心情が吐露された。

 他方、「奄美人」という自称を成長させることのなかった奄美は、「大和人になりたくてなりきれないこころ」とは言わずに、大和人へのなりすましを生んだ。

 こうした追跡は、一見、異なってみえる両者の姿に、行動の相似形を見出すことにつながると思う。

 実は島津の侵略を正面からとりあげた歴史論議は今年がはじめてのことである。研究者の豊見山和行氏が指摘しているのだが、300周年の時も、350周年の時もそのような論議が許されるような社会情況ではなかったのである。今年の400年は千載一遇の機会なのである。そしてそれは、琉球と薩摩、あるいは沖縄・奄美と大和・日本との関係性を改めて問い画す機会なのである。

 ぼくもそう思う。2009年は、1609年を対象化できる初めてのタイミングなのだ。


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2009/07/27

山中貞則、再び

 教えられて「サンデー毎日」(8.2号)の連載、「新 忘れられた日本人」を読んだ。『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の佐野眞一が改めて、薩摩の政治家、山中貞則について書いていた。

 佐野によれば、山中は「数々の伝説に彩られた破天荒な政治家」だった。鹿児島県会議員での地方選挙では、背中に「民族再建」というのぼりをくくり、馬にまたがって選挙区を回った。衆議院議貞に初当選時、国会で当時の総理大臣、吉田茂に挨拶して無視され、「こら待て、吉田」と怒鳴りつける。国政を一度、退いた後の次の衆議院議員選挙では、鹿児島に応援に駆け付けた元総理、中曾根に対し、「こういう政治家が日本をダメにした」と言ってのけた。かと思えば、日陰で選挙演説を聞いていた聴衆に向かい、「オレが暑い日向で演説しているのに、何でおまえらは日陰で聞いているんだ」と怒鳴りつける。

 一方、総理佐藤栄作の時代に総理府総務長官として初入閣した際、佐藤に向かい、「沖縄に関する限り、各省の権限をこの山中にすべてゆだねると約束してくれるなら、お引き受けしましょう」と、前代未聞の条件をつける。変動相場制への移行の際、本土復帰目前の沖縄にも適用されれば、沖縄経済が莫大な損害を蒙ると見るや、大蔵省、米国政府が猛反対するのを承知の上で、補填政策を命じる。金融機関保護のため、本土銀行の沖縄出店を阻止した。また、軍用地主の要求に対し、ほぼ要求通りに応じて軍用地主たちを喜ばせた。

 酒場では、さしづめ武勇伝として語られるだろう数々のエピソードを数え上げて、佐野は、

こうした点を見る限り、確かに山中は沖縄にとって余人に代え難い大恩人だった。だがその反面、現在の本土依存の補助金づけ体質にしてしまったという意味では、山中は沖縄の自助努力を殺いだA級戦犯でもあったといえる。

 と断じている。

 ぼくは、これらのエピソードを前に、山中が「沖縄の自助努力を殺いだA級戦犯」に値する大きさは無いように思える。確かに威勢はいいものの、日陰で選挙演説を聞いている聴衆に対し、「オレが暑い日向で演説しているのに、何でおまえらは日陰で聞いているんだ」と怒鳴るあたり、強きをくじき 弱きを助けるのではなく、肥大した妄想自我の住人である。そこからは、中曽根も聴衆も、自己を引きたてる存在になるだろう。ここからはかなり単細胞な印象、いわば、封建的風土に豊富に残る人間的情感に、あの、実際的武断の気質を接ぎ木した人物像がやってくる。

 台湾で教鞭をとっていた屋良朝苗の日本復帰への情熱にふれたことが山中の沖縄への思いを決定づけ、それが薩摩の琉球出兵に対する沖縄への謝罪へとつながったと、山中は解説している。

 ぼくは、この実際的武断の単細胞に対し、沖縄への謝罪があって、奄美への謝罪がないのはなぜなのか、と問い、その態度のどこかに、陰影や含みを求めるのは土台、無理なのかもしれないと感じた。彼の行動型は、薩摩の実際的武断を、沖縄を拠点に日本に対して発動させるとどうなるかを演じてみせたもののように見える。


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2009/07/26

『大奄美史』をバイブルから古典へ

 8月に、昇曙夢のあの『大奄美史』が南方新社から復刊されるそうだ。

来月、昇曙夢著「大奄美史」(「南海日日新聞」2009/07/18)

 「奄美史のバイブル」として知られる昇曙夢(1878~1958年)が著した「大奄美史」が8月、復刊される。本書は先史時代から近代までの奄美史をつづった。ことしは薩摩軍の奄美、琉球侵攻400年。奄美への注目が集まっている中、待望の復刊といえる。
 昇は奄美大島実久村(現在の瀬戸内町)生まれ。郷里の小学校を経て96年、ニコライ正神学校に入学。雑誌「正教時報」主筆、ニコライ露語学院長。ロシア文学に関する著述翻訳多数。ロシア研究でも顕著な功績を残した。

 「大奄美史」は①奄美大島の先史時代②琉球服属時代③薩摩直轄時代-など6編と奄美諸島年中行事(付録)で構成。「奄美の人々への的確な提言と忠告の書であり、奄美人への類まれな贈り物」(山下欣一・鹿児島国際大学名誉教授)。
 本書は1949年、和泊町出身の武山宮信が起こした奄美社が最初に刊行。次いで原書房が79年に出版したが、いずれも絶版になっており、入手は困難。今回、南方新社(鹿児島市)が遺族の了解を得て復刊することになった。
 本書は8月12日まで予約を受け付けている。予約特価は8960円(税込み)。問い合わせは電話099(248)5455南方新社へ。

 復刊は嬉しい。手元に置こうとすれば、オンデマンド版があったが、高価になってしまう(もっとも、今回も安価というわけにいかないのだけれど)。ぼくは、奄美社版も原書房版も、国会図書館で読んできた。

 ただ、それとは別に、この記事は「『奄美史のバイブル』復刊へ」と題されるのだが、『大奄美史』が「バイブル」だというなら、それはぼくたちの課題なのではないだろうか。ここは本来なら、「『奄美史の古典』復刊へ」と言うべきところだろう。

 『大奄美史』は、奄美には語るべきことがあることを教え、「奄美同胞」という表現で奄美人という自称の可能性を示唆した書であり、それは今でもぼくたちへの励ましであり続けているが、『大奄美史』によって奄美の「二重の疎外」を克服することはできない。ぼくはこれをバイブルとは呼べない。

 『大奄美史』をバイブルから古典へ。それが、この復刊から受け取る課題だ。


 

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2009/07/25

皆既日食当日の奄美、トカラの消費者ブログ数

 7月22日、皆既日食当日の消費者ブログの数を奄美周辺で比較してみる(「クチコミ係長」)。

 当日は、「悪石島」を話題にしたブログが3432と最も多く、「喜界島」は186で最も少ない。皆既日食がクリアに観測できた喜界島が最低数で、悪天候で観測できなかった悪石島が最高数なのは皮肉なことだが、メディアの注目が悪石島に集まっていたことと不運が重なって数を増やし、一方の喜界島は、奄美大島が何かと話題の中心だったので、そこから外れたことが少数に拍車をかけたのだと思う。

 「奄美」、「トカラ」と地域名のブログも「悪石島」に続いて多い。「奄美」、「トカラ」は、皆既日食を通じて、話題に上ったのがうかがえる。

 当たり前ではあるが、このグラフの推移を見ても、ブログは当日メディアというか、リアルタイム性が高いのがよく分かる。


2399 奄美
1596 トカラ
1071 屋久島
1664 奄美大島  
186 喜界島
3432 悪石島

Kaikiblog4

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沖縄県産本フェアに『奄美自立論』

 池袋ジュンク堂が沖縄県産本フェアを企画していて、そこに『奄美自立論』が!

 沖縄県産本フェアのなかに置いてくれるのは効果的だと思う。座りもいいような!?(笑)。表紙も見せてくれて、ジュンク堂の書店員さん、ありがとうございます。


Junku1Junku2

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2009/07/24

「琉球の視点」とは何か

 高良倉吉による「琉球の視点」。

「“徳川日本”時の近世琉球は・・・大国に埋もれず、独自の文化開花」(「南海日日新聞」2009年1月1日)

 琉球にとって薩摩に侵攻されたことは、琉球がやがて時間をかけながら日本という国家に編成されていくプロセスの始まりだったといえる。そこから、「徳川日本」の経済や政治により強く組み込まれる状況が生まれた。そして二百七十年の近世琉球が続く。
 きずなを結ぶ中国と、薩摩を介して「徳川日本」という東アジアの超大国に結び付けられていく中で、近世琉球は実に微妙なバランスを取っている。面白いのは、中国でもなく、日本でもなく、両方の大国に吸収されない琉球というアイデンティティーをどうつくっていくかを模索していることだ。

 中国や薩摩、江戸上りなど、頻繁に外に出て行くうちに、琉球人には、中国でもない、日本や薩摩でもない、われわれは琉球だ、という意識が生まれたといえる。経済力が軍事力のない小さな王国が没しないためには、揺るぎないアイデンティティーをどうつくっていくかということを模索するしかなかった。言い換えると、中国や日本が近世琉球を映す鏡としての効果を持っていたということだ。
 琉球が大国の間のパワーポリティクスに埋没せず、巧みにハンドリング操作を行いながらつくっていった王国の体制と、それを作った自信や成果の上に、今日の音楽や芸能など文化の花が開いたといえよう。

 だが、与論島以北の奄美諸島が薩摩直轄領としてとられたことで、急速に奄美の存在に対する意識が薄ていくことも見逃してはならない。近世琉球の人間が編さんしたさまざまな歴史本を見ても、奄美の記述が抜けていることから、意識の上で奄美離れが起こっていることがうかがえる。
 奄美と琉球の薩摩支配の体験の違いは大きい。奄美は薩摩から代官を派遣され、直轄支配にあり、薩摩藩の政策が直接に及んでいた。薩摩との間に首里王府というクッションボードがある琉球とは、支配体験はまったく違う。
 古琉球の資料を見ると、奄美には沖縄本島に近いような行政制度が敷かれている。奄美より宮古や八重山の方が、違う制度に編成されていた。だが侵攻以後は奄美が消え、八重山と宮古を沖縄地区に結び付ける状況が生まれる。それが現在の沖縄県の基礎になった。

 いまの県民にとって、薩摩侵攻は今の沖縄を語るために重要な歴史の記憶としてとらえられてはいない。それよりは琉球処分が身近な問題としてあり、さらに沖縄戦も横たわる、それと比較すると、四百年前の侵攻はリアリティーを持たない。だが、感情や情緒的な感じでとらえる問題ではなくなりつつあるからこそ、なぜあの事件が起こったのか、歴史としてトータルに描くことができるだろう。

 琉球論に欠けているのは奄美論ではないかと、これを読んで思った。

 「琉球人には、中国でもない、日本や薩摩でもない、われわれは琉球だ、という意識が生まれたといえる」という観点には、「琉球ではない、大和でもない」と規定されて空虚化していった奄美がそれを無言に支えているという視点がない。その分、「われわれは琉球だ、という意識」は過大評価されている。それは、「われわれは琉球だ、という意識」が、琉球王府としての政治的共同体に止まっていることに現われている。琉球は、うちなーんちゅ(沖縄人)という自称は作ったが、りゅうきゅうんちゅ(琉球人)という自称をつくるに至っていない。

 琉球処分や沖縄戦に比べたら「四百年前の侵攻はリアリティーを持たない」というなら、琉球論は奄美論を組み入れたらいい。そうすれば、琉球処分の根拠の深化も相対化もできるし、沖縄戦が沖縄だけで行われたわけではないことも見えてくるだろう。それは、「感情や情緒的な感じでとらえる問題ではなくなりつつあるからこそ」ではなく、むしろ感情や情緒に連なる問題として捉え返すからこそであり、それを通じて、琉球処分や沖縄戦に対する感情や情緒を洗い、捉え返すことができるからである。



 

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2009/07/23

近代以降・島役人・琉球/薩摩

 弓削政己の「奄美の視点」。弓削はここでいくつかの事実を挙げて自説を述べるのだけれど、その事実の幾つか、あるいは多くは、彼が地を這うような独力で発掘してきたものだ。それによってぼくたちは、奄美についてああだこうだと考えることができる。弓削の小論について触れる前に、そのことにまず言及しなければならないと思う。瀬戸際のように言えば、ひとり弓削政己がいなければ、ぼくたちは奄美の歴史について事実を発掘することすら覚束ない現状を抱えているのではないか。何より弓削は、事実発掘者として貴重である。

「「薩摩直轄支配」の歴史論は・・・冊封体制背景の新機軸で再考を」(「南海日日新聞」2009年1月1日)

 現在、奄美の歴史像は難しいところにきている。
 一つは従来の歴史方法に対する疑問だ。これまでは「薩摩」による「奄美」の直接支配を基軸に歴史をとらえてきたが、近年、奄美に冊封体制の影響があることが分かってきた。「冊封体制と奄美」という基軸も入れて、歴史を見詰め直さなければならない。
 二つ目は、奄美の薩摩藩認識の根拠としていた従来の論が揺れ動いている点だ。例えば、系図差し出しなどがそうだ。琉球王国時代、奄美の家々に伝えられていた家系図が、薩摩支配の下、集められて焼却されたとされているが、そういう評価が修正されつつある。

 一八三〇年には、黒糖の抜け荷(横流し)で「抜け荷死罪」となったが、それは前年に種子島の船頭、水主(乗組員)と喜界島の人々が抜け荷で捕まったことが契機となった。調所広郷の時代の、砂糖を基本にした藩財政立て直しの中にあっては、種子島も含め、抜け荷は重く処罰された。背景の把握が必要だ。
 また、一八七二年に大島商社が砂糖の専売制をつくり上げたことについて、鹿児島県が「島の役人をだまし討ちにして商社が立ちあげられたというのが、従来の歴史像だった。だが近年、明治政府の「自由売買」方針の下に商社が入ってきたものの、島の役人たちに品物の注文権や配布権など、利権をつかませることで、鹿児島県は商社と専売制の契約を結ばせたということが分かってきた。薩摩の収奪が基本ではあるが、それを見るためには、極めて内部の問題に向き合わなくてはならないということだ。島役人を媒介にした収奪システムがある。四百年の歴史を、薩摩による収奪の論理のみに逃げるわけにはいかない。

 三つ目は、奄美だけではなく、奄美以北のトカラ列島や屋久島、種子島などを含めて、歴史を見直す必要があることだ。奄美が「鹿児島は何もしてくれなかった」という一方、大島管轄の行政区域だったときのトカラから「大島は何もしてくれなかた」と言われることがあった。奄美が薩摩に対して抱く思いと同様、トカラもまた奄美に対して同じ思いを抱いたという。重層構造を見ることを忘れてはいけない。
 奄美の人々が従来持っている歴史認識には、以上のような点が見られるものの、それが近現代の歴史体験と密接に結び付いている点も見逃すことはできない。これが奄美から四百年をとらえることが難しい最後の理由だ。
 明治以降の時代、島から外へ出稼ぎに行き、朝鮮人と同様に差別された経験を奄美の人々も抱えている。苦い思いが今も受け継がれている。四百年の歴史は近現代の経験を通し、歴史像、歴史意識がどこまで拡大生産されたかというところまで考えないといけない。
 以上、四つの理由を踏まえ、多角的に四百年を見なければ、奄美の歴史像を語りきれないし、従来の歴史的方法を乗り越えることはできないだろう。

 この小論は、対薩摩との関係でがんじがらめになっていると見なされる従来の奄美論の相対化という意味を持っている。四つの理由をたどってみる。

 一つ目。従来は、薩摩による奄美の直接支配として奄美の歴史は語られてきたが、冊封体制も基軸になっているということ。

 二つ目。系図の差し出しが強制されたことで、系図が存在しないと言われてきたが、残っているものも出てきた。そういうことだと思う。また、大島商社による黒糖収奪も、薩摩の一方的なものではなく、そこに協力した島役人の存在を抜きには語れない。

 三つ目。鹿児島は何もしてくれなかった、と奄美は言ってきたが、トカラも奄美に対して同じことを言う。その疎外の連鎖を見なければいけないということ。

 四つ目。近代以降の本土での苦労を投影して過去を見てしまう傾向がある。

◇◆◇

 1609年以降の奄美は、薩摩支配一色に言われてきたが、冊封体制も組してきた。残っていないと言われてきた系図も意外とある。黒糖収奪も島役人の関与がなければできない。奄美が鹿児島に対して抱く悪感情をトカラは奄美に対して抱いている。そして近代以降の受難を過去に投影して見ている。弓削は、奄美の歴史像が「難しいところにきている」と遠慮がちに言うが、奄美の歴史像にある薩摩一辺倒、薩摩諸悪の根源像を相対化しなければならない。そういうことだと思う。

 ぼくも、ここに思うことを書いておきたい。

 冊封体制の関与は、ぼくの文脈に引き寄せていえば、薩摩による奄美の直接支配は、「奄美は琉球ではない」という背景にあるものであり、冊封体制は「奄美は大和ではない」という規定の背景にあるものだ。特に後者の場合、奄美は「琉球国之内」という仮構の維持のため、冊封体制に対応させる必要があった。これは、琉球もこの規定を強化する側にいたという面もあれば、対幕府に奄美を「琉球国之内」と見せるための役割も果たした。

 最後の、奄美の歴史観、薩摩観が近代以降の経験を過去に投影したものであるという指摘は、奄美の鎮静剤になる。内省が過ぎるというものだ。けれど一方で感じるのは、従来が、1609年以降を近代以降の実感で塗りつぶしがちだったとすれば、今度は、近代以降の実感は近代のみのことであるとして、近代までの1609年以降が空白になってしまうことである。いままで近世を近代として見すぎたとしたら、今度は近世を脱色化しすぎてしまわないか。だが、二重の疎外は1609年以降に共同体に構造化され、近代以降、個人の問題になった。つまり、ここには、あの近世なくしてこの近代もない、という視点がなければならないと思える。

 薩摩支配が相対化されると同時に、島役人の関与が浮かび上がってくる。近代を黒糖収奪の続行にしてしまった大島商社も、島役人の関与なしには専売化しなかった。これは、薩摩支配以降、島役人が奄美内薩摩と化したことを思い出せば、その行動型を抜け出なかったことを示している。当然、島役人の関与がなければ、薩摩支配は成立していない。

 しかし、弓削の文脈を離れて、ここから仮に、島役人こそは支配の張本人であり、謝罪すべきは島役人である、と論を進めたら、滑稽になると思う。確かに、奄美の屈服は島役人の思考収奪に始まり、ここから黒糖収奪も家人の発生も見通すことができる結果になってしまった。島役人は奄美内薩摩として、畏敬の対象になり、その反映として現在その末裔を誇る勘違いもいる。この、奄美内薩摩を対象化することは奄美の自立にとって当然、必要なことだ。

 しかし、被支配者は支配の仕方から支配を学ぶものである。薩摩支配なくして島役人も存在しない。そうだとしたら、島役人こそは批判すべき対象なのではなく、薩摩批判の流れのなかで島役人も位置づけられるべきものだ。このあたりからぼくはよく分からないのは、「従来の歴史的方法」の文脈をよく踏まえられないところがある。たとえば、従来は薩摩への怨念ばかりが強かったとよく言われる。しかしぼくが奄美論の系譜を読んだ範囲では、その怨念がよく分からなかった。どこに素直に正面から吐露されているのか、見つけきれない。ひょっとしてそれは酒場でのことではないだろうか、と勘ぐってしまう。ぼくの観点では、怨念の発露も見られないが、薩摩への批判も充分であるとは思えなかった。すると、薩摩への批判が的を射てもいないのに島役人に批判の対象を移行するのは本末転倒に思える。もしくは酒場での怨念への疲労がそうなせるのだろうか。しかも現在、島役人は階級を構成しているわけではないから、謝罪すべきと見なされる主体も存在しない。

 また、奄美が鹿児島に抱く感情を、トカラが奄美に抱く感情によって相対化するのは当然のことだとしても、それが思考停止を招いてはならない。ぼくたちが立ち止まってきた場所は、鹿児島だって同じだった、沖縄は大変だった、アイヌほどではない等々と、その手の比較の前に、もの言わぬ奄美はさらに失語を深くしてきたのである。だからこそ、困難の構造の固有性が抽出されなければならない。トカラと比較するなら、トカラの疎外の構造はどうだったのか、明らかにされなければならない。奄美の対鹿児島感情とトカラの対奄美感情は、そうしないと、一挙に一緒くたに“同じ”と見なしたら、奄美もトカラも発語していけない。

 こうした相対化の立ち位置の延長にも、奄美も薩摩も大変だったのであり、その外枠には、琉球も薩摩も大変だったのだという視点が控えているだろう。それは両者から等距離の場所に立ち位置をとれば、当然そう見えてくる。それは相対化の作業には必要ですらある。しかし少なくともぼくたちは思考ゲームをしたいわけではない。歴史を現在に引き受けざるをえない状況を克服したいのである。それが奄美という立ち位置であれば、奄美の内側から扉を開けて外に出る作業がなければ、ぼくたちがすぐに薩摩と奄美を等距離に見る立ち位置のみに飛んでいけるわけではないし、もしそれのみになってしまったら、奄美はそれこそ空虚化されてしまうしかないと思える。


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2009/07/22

嗚呼、日食

 これは、前利さんに送ってもらった沖永良部の日食。

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 これは、「あまみ便りblog」さんの大島の日食。

 皆既日食、当日!

 そして、わが与論の日食。(by あんとに庵さん)

 [島日記]日食写真撮ってみた


 ため息です。悪石島などで見れなかったのが何とも残念だけど。



 

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「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの現在進行形

 昨日、日経の夕刊の末尾。「奄美と沖縄をつなぐ」イベントが紹介されていた。

 奄美の歴史を振り返るイベントは夏以降も続く。10月3日には民間有志が鹿児島市で「島津藩による奄美・琉球侵略400年記念祭」を開催。11月14日には奄美と沖縄双方の島唄を比較するコンサートなどを軸にしたイベント「奄美と沖縄をつなぐ」が東京・新宿で開かれる。
 22日、奄美大島北部と喜界島は一瞬、皆既日食の闇に落ちる。埋もれがちな奄美を象徴するようだが、再び明るさを取り戻す空のもと、「奄美の地理と歴史が目の前にくっきりと表れてこなければいけない」と喜山氏は期待を込める。(文化部 郷原信之)

 具体的な案内のフライヤーを掲載する。カルチュラル・タイフーンで配ったものだ。
 パネリスト、演者の交渉大詰め。もう一人のパネリストは、快諾いただいているのだが、スケジュール調整の返事をお待ちしているところ。出演可能を期待している。

 このイベントは、出演者の決定に時間がかかっている。知己が少ないからなのだが、このテーマですぐに思い出せる人がいないのだ。その分、貴重な対話ができるのではないかと思っている。それに、シマウタが明白につないでてくるはずだから。

 決定次第、またお知らせしたい。


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2009/07/21

「「帰属しない」奄美史に脚光」

 今日7月21日、日経新聞の夕刊の文化欄に奄美の記事。

 ほんとはこの下にも記事が続くが、イメージということで。

 皆既日食前の日というまたとないタイミングに力強い取材記事。
 文化部の郷原記者に感謝である。

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「薩摩の視点」とは何か

 「トレジャーアイランド@徳之島」に、5月2日、徳之島で開催された「薩摩半奄美琉球侵攻400年記念事業」で配布されたであろう資料が公開されていて読むことができる。とてもありがたい。

 「薩摩半奄美琉球侵攻400年記念事業」資料

 そのなかに元旦の南海日日新聞に寄せられた、「薩摩の視点」という原口泉の記事があった。

 「琉球侵攻の目的は・・・幕府が明国との橋渡し役を期待」(原口泉)

 二〇〇八年、衆参両院でアイヌ民族を先住民と認める初の国会決議を採択した。これにより、日本が単一民族国家ではないという意識がある程度広まり、日本民族の多様性の問題が多少は意識されるようになった。

 歴史をさかのぼって考えた場合、琉球にとって国家の在り方が大きく変わった出来事が、一六〇九年に起きた薩摩による侵攻だ。一つの独立国家を形成していた琉球王国が幕藩体制に取り込まれたという点で、一六〇九年の問題は、単に鹿児島と沖縄の問題ではなく、国家と国家の問題だといえる。
 琉球侵攻の目的は、幕府が琉球に明国との橋渡し役を期待していた点にあった。独立国に侵攻することは、長期戦になった場合、攻めた国が非常に厳しい状況に追い込まれることを意味する。なぜなら国際的な問題になるからだ。とにかく早く投降させることが、琉球侵攻の最大の目標だった。
 成熟した階級国家である琉球が日本の幕藩体制の中に吸収されたことは「侵略」だったといえる。だが、この言葉を使うと、大日本帝国段階での侵略をイメージしてしまう。わたしは「侵攻」という言葉を使っている。
 幕末の島津斉彬(一八〇九~五八)や安部正弘(一八一九~五七)の時代、幕府は琉球にかかわる外交問題で日本が影響を受けないように対応していた。明治時代の琉球処分なども、そうした積み重ねの現れだ。第二次世界大戦では、沖縄は米軍の本土上陸を長引かせる「不沈空母」となった。こうした日本の考えは、幕末から続いていたものだった。
 この沖縄に対する日本の態度は、長い歴史過程の中で続いている。その始まりが、四百年前に起きた琉球侵攻だった。わたしたちが考えないといけないことは、その考え方が今、克服されているかという問題だ。

 一六〇九年のあの悲劇が持つ意味を、日本人も歴史学者も考えないといけない。
 今、鹿児島で琉球侵攻のことを考えている人はほとんどいない。先祖が悪いことをした、という意識はあるが、あえて沖縄の問題を真剣に考えることはない。平和学習では沖縄戦を見ているが、琉球侵攻はあまりに彼方のことである上、第二次世界大戦の悲劇が大きかっただけに、日本の国自体も十分に教えていない。
 そして沖縄の歴史学研究には、薩摩研究をやる人がいない。だが、沖縄、鹿児島が、相互に突っ込んだ議論をしていかないくては、真の歴史の克服にはならない。薩摩を研究して、沖縄から内部構造を批判してもらうことが、鹿児島にとってもありがたい提案になる。
 繰り返しになるが、琉球侵攻は国家と国家の重要な問題だ。沖縄の近世や近現代の歩みを認識することが、これからの日本の国の在り方にとっても必要だ。これまでの来し方の認識なしには、つまりこの問題を考えることなくしては、東アジアで日本が万国に対峙することはできないと思う。(「南海日日新聞」2009年1月1日)

 1609年をテーマにしたおよそ原稿用紙三枚分の文章で、しかも奄美の人が元旦に読むものに、「奄美」の文字が一度も出てこない。それがこの小論の性格を雄弁に物語っている。

 「わたしたちが考えないといけないことは、その考え方が今、克服されているかという問題だ」と、問いの立て方は真っ当を装っているが、ここで開陳されているのは、しかも残念ながらそれはこの論者の常なのだが、克服とは対極の直視回避の方法である。

 それはここでの場合、「一六〇九年の問題は、単に鹿児島と沖縄の問題ではなく、国家と国家の問題だといえる」と書くように、いきなりマクロに視点を押し上げることにある。それは彼の地の野郎自大の風土に見合ったものかもしれないが、核心の被覆になってしまっている。彼は、「国家と国家の問題」と言う前に、「一六〇九年の問題は、単に鹿児島と沖縄の問題ではなく、奄美の問題である」と書けて初めて、直視の契機を持つことができる。鹿児島論にしても沖縄論にしても、奄美論を欠いているのだ。欠如と見なされるほうは、流行りの小説風に言えば、まるで「160Q年」に紛れ込んだように、自らをフィクションのように感じざるをえない。だが、1609年が見えなくなっている、あるいは見ないで過ぎようとしているのは、この論者の方である。

 国際問題にしないために、「とにかく早く投降させることが」最大の目標だったというが、こういう言い草の影に、投降の前に、いち早く奄美を征服することが過剰な武士団延命のために急務だったという理由がネグられてしまうのだ。沖縄を防波堤にするという日本の考え方の起点を1609年に求めていながら、そのマクロに一気に視点を上げることで、奄美を防波堤とする鹿児島の考え方に触れずに済ますのである。これでは「克服」は覚束ないどころか、「克服」を口にできる段階にない。

 彼は、本気ではない。それは、「薩摩を研究して、沖縄から内部構造を批判してもらうことが、鹿児島にとってもありがたい提案になる」という欺瞞によく現われている。ぼくなら、考えられないことだ。他者に言われたくないからではない。奄美は、まず奄美自身によって自己対象化され、課題を克服する方途を見つけ出すべきで、それを他者にやってもらおうなどとは考えない。自身で「内部構造を批判」することができない現状を見据えずに、沖縄にそれを委ねるように言うのは、間抜けであるだけでなく、あなどってさえいると思える。

 マクロ視点は、冒頭の、何のために取り上げるのか不明なアイヌの話題に始まり、「東アジアで日本が万国に対峙する」という野郎自大な末尾まで貫かれるが、直視回避のため内容が虚ろだ。

 論者が挙げている言葉を頼りに直視への活路を見いだすとしたら、「先祖が悪いことをした、という意識」を不要とすることである。1609年のことを直接実行したのは、藩としての薩摩の国家意思であり、その主体を現在に求めようとすれば、政治的共同体として県であり、個々の具体的な人々が罪責感を覚える問題ではないし、それが求められているわけではない。「今、鹿児島で琉球侵攻のことを考えている人はほとんどいない」のは、維新至上主義の勘違いにもよるが、個人として罪責感を感じなければならないのではないかという強迫があるからではないのか。

 「薩摩の視点」には1609年直視が求められている。


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2009/07/20

「シマの視点で見詰めよう」

 7月5日のカルチュラル・タイフーンに関する南海日日新聞の記事。

 【東京支社】東京で初めてとなる「薩摩侵攻400年を考える」パネルディスカッションが5日、府中の東京外語大学であった。大学教授や郷土史家ら3人のパネリストは持論を展開し、「島には従来ないといわれた系図など文書が見つかっている。奄美の人が奄美のことをもっと研究し、知ってほしい」などと提言した。司会者は「奄美の魅力は多様性、薩摩でもない琉球でもないファジー(不鮮明)さ。その柱であるシマ(集落)の視点から『400年』の過去、現在、未来を見詰めることが大事」などとまとめた。
 同ディスカッションは「図書出版まろうど社」(神戸市)代表の大橋愛由等さんが企画し、司会を務めた。パネリストは酒井正子氏(川村学園女子大学教授)、喜山壮一氏(マーケター)、前利潔氏(知名町公民館)の3人。

 司会の大橋さんは「400年のとらえ方は奄美の島々によって違う。そしてそれを誰が語る資格があるのか。私たちはさまざまな分野にわたって400年を客観的に注意深く分析することが必要だ。このことが奄美の新しい記憶の創出となる」と論議を投げ掛けた。
 酒井氏は研究分野のフィールドワークで長年、徳之島にかかわった。「徳之島は奄美諸島のへソの位置にあり、研究者にとっても魅力的な島。シマ唄は独白の曲や薩摩圧政の歌詞が他の島より多い。薩摩侵攻では最大の激戦地で、その先頭に守ったのは琉球より派遣された統治者の一族だった。島の底流に琉球意識が流れる一方、薩摩系の郷士格の子孫も多い。双方と独自の距離感を保ってきた島の人たちのバランス感覚とダイナミックな行動を400年の歴史にみる」と語った。
 喜山さんは「400年前を起点にした奄美の困難は『奄美は琉球ではない、大和でもない』二重の疎外に始まる。それはいまも、依然として私たちの課題だ。求められるのは、島を足場にし島に止まらない奄美の語りである。奄美の針路についてこう言いたい。『北の県境を越境せよ』」と語った。
 前利さんは知名町在住。「奄美は政経的な側面で薩摩の影響を強く受けたが、現在も琉球文化圏。明治の『琉球処分』や戦後の米軍政府下から日本に復帰する際にはその帰属が問題となった。道州制の導入が論議される現在も、〝無国籍″の奄美の帰属が問われている。400年を自分たちの視点から見詰めることが大事だ」と語った。(「南海日日新聞」7月11日)

 取材はありがたい。しかし、パネリストの報告記事は、当日の内容というより配布された要旨のまとめなのがさびしい。当日を彷彿とさせる迫力がほしい。

 当日のレポートは、

 「カルチュラル・タイフーン2009『薩摩侵攻/侵略400年を考える』」(「凍てつく南島」)

 「薩摩侵攻/侵略400年を考える」(「朝吼夕嘆・晴走雨読」)

 に生々しい。

 ぼくが話した分は、「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」に掲載している。

 
 それにしても今年は、自分の名前が受難で、なかなか正しく書いてもらえない(苦笑)。


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2009/07/19

知られざるアルキメデス

 風呂場で湯船につかったときに溢れるお湯を見て、体積を測るヒントを得て、ユーレイカ(この本では、ヘウレーカ)「わかったぞ」と叫んで裸身のまま街を駆け抜けたこと、敵の兵士を前に、幾何学の問題を解いていると説明して殺害された。そんなエピソードしか知らないといっていい歴史上の人物が『よみがえる天才アルキメデス』で、生き生きと蘇ってきた。

 アルキメデスが進化させたのは二重帰謬(きびゅう)法。円錐の体積が円柱の体積の3分の1であるということを、既知の角錐を内接させて円柱、円錐に近づけながら、円錐の体積が円柱の体積の3分の1より大きい場合も、小さい場合も、矛盾することを示して証明する。内側からと外側からと二重に矛盾を明らかにして、真を導く方法だ。

 こでは極限という概念が数学上まだ存在していない段階で多いに威力を発揮するが、二重帰謬法が困難に見えるのは、2回矛盾を指摘することと見えがちだが、それは慣れてしまえばルーチンである。真の困難は、体積を求めたい未知の立体に対して、それに内接、外接する既知の立体を簡潔に関係づけることにある、と著者の斎藤は解説している。
 
 そしてこの方法論でぶつかるアルキメデスの困難は、彼の時代、幾何学を代数学に還元する観点がないため、代数的に処理すれば立ちどころに解けるものについて、あくまで幾何学としてアプローチして、代数的に処理するまのでに多くの段階を踏まなければならなかったことにあった。

 一言で言えば,アルキメデスは幾何学をしていたのに,我々は代数学によってそれを解釈しているのです.上で見てきたように,我々にとって次の3つの和はどれも同じ和の公式から計算でき,本質的に同じ計算です.

・平方数の和1+4+9+…
・辺が等差列をなす正方形の面積の和α2+(2α)2+(3α)2+…
・回転楕円体(の半分)の外接立体(小円柱の和)の体積

 これらの和を数式で書いてしまうと,上の3種類の和が本質的に同じ問題であることがすぐに分かります.これは,我々が用いる代数的記号法が,整数と正方形と円柱という異なる対象からそれらに共通する量的関係を抽出して表現してくれるからです.
 しかし,アルキメデスにとって最初の計算は平方数の和という整数の問題であり,次は正方形の面積の和です.そして最後は円柱の体積の和であって,平方数の和とも,正方形の和とも違う問題なのです.彼の対象はあくまで正方形や円柱という具体的な図形なのです.これが,アルキメデスは幾何学をしているのであって,代数学をしているのではないということの意味です.それらの図形の大きさの間に一定の比例関係があることをうまく利用して,円柱の和の問題を正方形の和の問題に帰着させているのですが,そのためにアルキメデスは非常な苦労をしたわけです.

 しかしここから先にドラマがあった。アルキメデスの著作が20世紀になって発見されたのだ。研究者の間でC写本と呼ばれている本は、1906年に、アルキメデスの『方法』という著作であると分かるのだが、第一次世界大戦後、行方不明に。おそらくは盗まれたであろう一葉が慰みのように1971年に発見されるのも本体は不明。それが1998年にオークションに出品されて、ようやく日の目を見ることになり、痛んだ写本は現代科学の助けを借りて解読がなされる。そうして『方法』は姿を現す。書かれてから実に2200余年後のことである。

 アルキメデスはここで、仮想の天秤を構想して、回転放物体の体積が円柱の体積の半分になることを見事に導く。しかしそこでアルキメデスは、回転放物体の無限個の切り口の円を一要素として抽出してそれを根拠にするが、それは有限をもとに無限を導くようにみえるわけで、深淵をやすやすと跨いでいるようにみえなくない。

 アルキメデスはこれについて突っ込んで議論していません.彼は円柱や回転放物体といった立体が,切り口の円によって「満たされる」ということを述べるだけです.

 しかしアルキメデスのこの展開は重要だった。ここで、彼は図形から量的なものへの関心の移行を示しており、それは近代数学の手前まで歩みを進めたことを意味するものだった。

◇◆◇

 ぼくはこの本を読んで、さまざまな連想が膨らんでいった。たとえば、ぼくたちは一方で西洋哲学や思想の限界を、その起源がギリシア哲学・思想以前に遡れないことに根拠を求めるときがある。身近なところに例をとっても、奄美ならやすやすとギリシア以前にさかのぼれるし、むしろギリシア以前をふんだんに持っている。それを論理として持っているわけではないが、身体と人間と自然の関係として持つものだ。その豊穣さを見つけ出そうという関心を持つが、しかし、改めてギリシアの思考を追うと、その論理的な蓄積に圧倒される。これには及びがたいという圧倒感だ。

 それは論理の展開なのだが、しかし一方、それは圧倒的に個人によって人間的に担われているのにも目を見張る。斎藤も、

 歴史に「もし」はないということは承知のうえで,もしアルキメデスの『方法』が20世紀でなく16世紀に再発見されていたら,微分法の発見や関数という概念の成立はもっと早まっていたのではないか,ついそんなことを想像してしまいます.

 と漏らすように。

 そしてここからもうひとつ、アルキメデスが20世紀に近い思考の射程を持ったということを強引に言いかえると、初源には世界はその全てを垣間見せるということである。彼は幾何学という世界からスタートしているが、そのなかで近代数学に通じるまでの射程を持つ法則を見出していった。それは彼が幾何学の初源という立ち位置の力でもあったのではないか。初源という立ち位置を得て、その梃で、数学の世界を作ったのである。

 ぼくは1996年にeメールのマーケティングに携わったとき、色んな法則がそこで姿を現すのに驚いた。そしてそれは現在でも生きていることを考えると、それも初源という立ち位置の力ではないかと思えてくる。ささやかなことだが、アルキメデスから受け取る励ましだ。

 『よみがえる天才アルキメデス』を経て、数学は、公式の美にとかく目を奪われがちだが、そこには極めて人間的な個人的な営みが背景にあることを、冒険のように知ることができた。


  『よみがえる天才アルキメデス―無限との闘い』

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2009/07/18

「太陽加那志の島」

 屋久島、トカラ、大島、喜界島は、もうお祭り気分に突入してるだろう。愉しい日々でありますように。

 南海日日新聞によると、

奄美市、龍郷町、喜界町の各実行委員会は6月30日、観測ツアーのテントサイトの申し込みを締め切った。同日現在の応募状況は総定員3820人に対し、56%の2152人止まり。

 これについては、ツアー料金がネックになっているという分析もある。

 日食ツアー当て外れ、あと1カ月なのに空き

 でも、宿の決まらない旅行者へ切り替えたりもするようだから、混乱なく収まるといい。

 奄美パークでは、今日から、「夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュッ!!」。21日からは「奄美皆既日食音楽祭」

 ただ、奄美の外でも見ることはできる。

 LIVE! ECLIPSE 2009

 宇宙からみた皆既日食も。

 皆既日食の衛星画像

 ぼくも事情が許せば、観たいと思っている。

 
 ところで、皆既日食の「太陽加那志の島」は、これしかないいいコピーだと思う。


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距離の極大と配慮の極小

 最近は知らぬ間に始まり知らぬ間に終わっている高校野球大会だったけど、今回は昔、応援していたときのように熱くなった。徳之島が鹿実に勝ったというのだから。

 昨夏代表の鹿児島実、初戦で徳之島に敗れる 延長13回

 サヨナラのヒットを放ったのは喜山君。自分の親戚以外にこの苗字を見たことがないので、驚き。パラジなのかそうではないのか。たぶん違うんだろうけど、いいや、ここはパラジ気分で、でかしたと、記事越しに声をかけた。

 でも、よかったよかったというばかりではなかった。勝てば費用がかさむ、しかも今年は皆既日食という事情が重なった。

 悩ましい快進撃 鹿児島・喜界高、勝ったら島に帰れない

 結局、負けたから杞憂に終わるわけだけど、世界への距離が負荷としてのしかかるのは離れ島のこれまでの宿命だ。

 しかし、それだけでもない。中学総体は、日食の日をはさんで行われてしまう。

 離島選手ら観測ピンチ 鹿県中学総体、日程重なる

 これは、「奄美の家」の圓山さんも「県知事さん、お願いしますよ!」と訴えて、あまみ便りblogさんも「これだけ盛り上げといて・・・(7/22県中学総体)」と、声を挙げていた。

 記事によれば、声は届かず、「日食当日は、試合を中断して、部分日食でも体験できるように配慮したい」ということなのだが、トカラ、奄美にしてみれば、世界が果てにあるのではなく、世界がここにやってくるまたとない機会だった。総体に出る子どもたちにしてみれば、世界はここでもずれてしまう。世界への距離が極大なのに配慮は極小というのは、奄美的状況なのだ。

 本土で見る部分日食を、心のバネにしてほしいと思う。


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2009/07/17

「皆既日食への対応と奄美の可能性」

 平田隆義(奄美市長)と奥篤次(あまみ商工会長 ばしゃ山村代表)の対談(「南海日日新聞」2009/07/01)。

 (奥)石垣島へ行った時、バスの運転手さんがガイドをしていたんですね。そのガイドが非常に面白いんです。「私は話しがうまいでしょう。実はPTA会長を長年してるんです、それで話しもうまくなったんです、どうですか」って言う。みんな拍手するわけです。都会では予想も出来ないようも島の生活をそのまま話すんです。それが面白くす面白くて、バスの中の全然関係ない人たちがみんなもうげらげら笑うわけです。沖縄の島々ではそういう面白い人たちがぴんどん育っているんですね。とても大事なことです。面白おかしい文化を表現してますよね、沖縄の人たちは。しかもその人たちがリーダーなんですね。

 奄美は残念ながら面白いリーダーたちがいないわけですよ。奄美は真南目なことを言う人がリーダーになれるんですが、これは地域に合ってないんですよ、武士文化みたいなところがあってね。名瀬であった「ヤンバル交流会」でも、沖縄の首長はみんなお国自慢してずっこけているんですね。面白くておかしい。これに対し、奄美の首長のみなさんのあいさつはみんな堅くて立派なんです。対照的でした。旧名瀬市は沖縄に市の職員を送っていましたね、私は拍手喝采していました。向こうに送った人たちがリーダーになってきたら奄美は面白くなってくると息うんです。

 沖縄のリーダーは面白く、奄美のリーダーは真面目。これは実感的によく分かる。思い出せば、しかめっ面が多い。ぼくはこれは、薩摩侵略以降、薩摩武士団の「こわばりの論理」を輸入し「おおらかさの論理」を追いやった結果だと思っている。ぼくたちは、こわばってしまったのだ。それが「武士文化」などもともと無いにもかかわらず、それめく根拠である。

 実は市役所の中にも面白い、すごい人たちがいっぱいいます。その人たちを引き出し、応援してほしいですね。島の人の面白おかしさはすごい観光資源であると私は思うんです。れを引き出す何か方法ないかと思いますね。皆既日食の交通整理でも観光のお客さんたちとは面白おかしく話したりし話したりしながらやっていただきたいですね。

 そう。しかし面白い人はいっぱいいる。ぼくも、与論ガイドになればいいのにとすぐに思い浮かべる人が何人もいるが、こぞって面白い人々である。

 (奥)奄振もインフラ整備のための時限立法から、原点に返って地元の豊かさになるよう思い切って変える。例えば(整備予算の)半分が島の豊かさのために使えるのであればその方が島にとっての効果は絶大だと息うんです。航空運賃への転換も私たちは何回も育ってきましたが、法律が、県が、国が、という話で止まっていました。それが今度は動き出しました。だからやれば出来るんですよ。奄振自体も思い切って方向転換して、(企画立案も)県庁に置くのではなく大島支庁にテーブルを持ってきて支庁を中心にやるべきだと思います。それぐらいの思い切った方向転換をしないと島は良くなりませんよ。

 これも奥の発言だが、地元でも「奄振自体も思い切って方向転換して、(企画立案も)県庁に置くのではなく大島支庁にテーブルを持ってきて支庁を中心にやるべきだと思います」という声があるなら、ぜひそうしたらいいのではないかと思う。支庁の役人が誰なのかは知らないのだけれど。奄美が奄美のために企画することが大事だと思う。

-那覇-奄美間の復活という話もありますね。
(平田)商工会議所のみなさんが一生懸命やってくれていますね。JTA(日本トランスオーシャ航空)も乗り気なようですね。以前、奄美・沖縄の交流シンポジウムでも「沖縄が観光客を増やすオプションは八重山、石垣、周辺の離島だけではとてもまかないきれない。奄美がある」と理解を示していました。琉球エアーコミューターが就航した時も沖縄の人が理解を示していただいてからですが、なかなか行政区域もあって難しいところがあります。

 (奥)沖縄と合併した方がいいんじゃないですか。
 (平田)別行動したらこれがまた大変なんですぬ。だから文化とかで交流をしていく。(沖縄とは)何となく肌が合いますからね。一度、福岡から人が来て「ところで道州制の話があるけど奄美は沖縄と一緒になるんですか」と言ってきました。「いやそれはないんじゃないですか。物とエネルギーがいるんですよ」と話しておきました。やっぱり交流をどうするかがポイントになると思います。難しい話ですね。沖縄からすれば奄美もやっぱり離島ですからね。

 政治家的おとぼけ発言に思えるのだが、「(沖縄とは)何となく肌が合いますからね」の、「何となく」とは一体何何のだろう。奄美市長はこの程度の認識なのだろうか。これを読むと、道州制で奄美が沖縄(州)にならないのは、「物とエネルギー」を北から持ってこなきゃいけないからという風に聞こえるが、本当だろうか。

(奥)沖永良部と与論は沖縄文化で、沖縄の北部につながる島々ですね。観光スポットとしては同じエリアなわけです。今はもうどこもアイデア詰まりですから、・沖縄観光も島を増やすしかない。沖縄との観光交流について話し合う機会をつくり、適宜やっていただきたいと思います。私は今後やらないといかんのは交流事業だと思うんです。「出会い文化」ですから交流事業を他の地域よりも盛んにやることだと思うんです。航空会計も組んで少し補助も出して。姉妹盟約とかもどんどん進めていく島の人は人が大好きです、人が来るというのが好きですから、交流は観光の一つの柱になってくると思います。

 「沖永良部と与論は沖縄文化」というなら、それ以外の奄美は何文化なのだろうか? 奄美のリーダーなら、「沖永良部と与論は沖縄文化」などという表層理解はもう卒業してほしい。表層を見ても、沖永良部にも与論にも非沖縄的なものがあり、深層に行けば、奄美大島や喜界島だって沖縄的なものがある。こういう言い方が、奄美の内部にも疎外を生み、交流を阻害する要因であると認識してほしい。それこそ、「島の人は人が大好きです」は共通しているのだから。


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2009/07/16

奄美で漫画家3人展

 皆既日食に合わせて、岡野玲子、萩尾望都、美内すずえの原画が、名瀬に展示されると、ニュースで知った。

 日食に合わせ少女漫画家3人展 奄美で宇宙、天体テーマに

 この三人の原画を間近で見れるなんてすごい。ぼくはこの中では、岡野玲子の作品は読んだことがないが、出版社で精巧な原画を見て驚いたことがある。

 幸いなるかな、奄美(大島)の子たち。三人の原画を直に見た子のなかから漫画家が育つ。そんな夢を見たくなる。


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宇宙の与論

 同級生が小惑星の命名者になった。目でたい!

星の海に浮かぶ小島に与論島-。地球と同様に太陽系を回る小惑星にこのほど「Yoron(与論)」が仲間入りした。名付け親は与論町の写真館経営で天文愛好家の上野裕司さん(45)。

 上野君は語る。

「宇宙に与論があるのは不思議な感じ」と上野さん。(小惑星に「Yoron」命名 与論町の天文愛好家・上野さん

 そんなことはないよ、上野君。与論の星空は、ひらべったい島と地続きに見えるじゃない。与論は宇宙に浮いてるようなものだよ。でしょう?


 まあそれはともかく、めでたい。おめでとう、上野君。


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「皆既日食をどう生かすか」

 安田壮平は、来たる皆既日食を単なる天体ショーにとどめずに、「(皆既日食から)導かれるストーリーやメッセージを考えてみることが、この島の将来づくりにつながってゆくのではないか」と問題提起している(「皆既日食をどう生かすか」南海日日新聞)。

 試みに、今回の皆既日食から導かれる、わたしなりのストーリーないしはメッセージを記そう。キーワードは「内なる光」ではないかと思う。歴史をさかのぼれば、琉球王国・薩摩藩・アメリカ軍による統治と支配を受け、わが島の先人たちは、泉芳朗翁の詩「赭土の島」に代表されるような苦渋と忍従を味わってきた。その血とこの地を受け継ぐわたしたちは、先人たの艱難辛苦を胸に秘めながら、将来に向かって、決して希望を失うことなく、力強く進んでゆこうではないか。たとえ浩中がどれほど多くの閉塞で覆われ、外からの光を失ったとしても、内なる光を信じ、内なる光を発して、たくましく歩んでゆこうではないか。このようなメッセージを、太古の昔からわれわれの先人たちを懐に抱いてきたこの島の大自然が伝えているのではないだろうか。

 ぼくが安田さんの相方だったら、「チャクラか」とツッコミを入れるところである。しかしもちろん茶化したいわけではない。ぼくにしても『奄美自立論』で、奄美のことを「秘する花」と形容したのだし、.『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』の酒井正子さんはカルチュラル・タイフーンで奄美のことを「秘密の花園」のようだと話していた。奄美というところは、外からは見えない内なる魅力を根拠にイメージされるるのは共通しているのかもしれない。

 安田もまた、「内なる光」を奄美「本来」の魅力と捉えている。

 ここでいう「内なる光」とは、すなわち、奄美本来の良さ・美し・素晴らしさだと思う。それを発するとは、奄美本来の良さなどを見詰め直し、現代的に生かしてゆくことだと考える。自然と共に暮らし、海を渡って来た人たちを大切にもてなし、「兄弟っくわ」に表わされる人のつながりを事にする生き方。また辛苦の歴史を味わってきたからこそ培われた、人の痛みや苦しみに深く思いを致すことができる願いやり・人情と、そこに宿る癒やし・救い・よみがえりの力。そして「たちかしゃ」「きもぎょらさ」「すっとごれ」などに代表される言葉と思想の総体。これらを生かしてゆくことが、わたしたちの生活に心物両面の豊かさをもたらすであろうし、また生き方を見失い混迷を深めるわが国と世界の人々に新しい価値観や生き方の一つの指針を投げ掛けることができるのではないかと思う。

 「わが国と世界の人々」と大きくつなげる発想はぼくにはないけれど、つながりと思いやりを生かすのはその通りだと思う。

皆既日食をめぐるストーリーやメッセージは、百者百様、たくさんある方がよいと思う。将来振り返ってみたとき、この年が奄美にとって一つの重大な転機だったと、子孫たちに胸を張って伝えることができるように、お互いに知恵を絞り合いたいものである。 (奄美市名瀬・NPOスタッフ)(「南海日日新聞」2009/07/06)

 「皆既日食をめぐるストーリーやメッセージ」は、ぼくの位置からは「皆既日食もひとつの契機にしたストーリーやメッセージ」という方がコミットしやすいが、百者百様が望ましいのは、ぼくもそう思う。

 「皆既日食」×「400年」で、2009年を、太陽(ティダ)とともに「奄美」が姿を現す年として位置づける。

 「奄美出現キャンペーン」
 1.奄美郷土テキストの作成(各島/シマごとに)。
 2.奄振の企画立案権を奄美自身が行えるよう要請。
 3.奄美コント大会。(奄美の歴史を「笑い」で表現する)。奄美漫談へ。
 4.島唄「船倉」大会。(どの島/シマ)の島唄もやる。奄美も沖縄も。
 5.奄美ビジョンの議論。どうする道州制。
 6.「産む島・帰る島・逝く島」としての「南のふるさと島」構想。
 7.東京、大阪への奄美物産店開設。

 なんか、レベルもばらばらですが、アイデアとして。


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2009/07/15

『横目で見た郷土史―言いたい放題でごめんなんせ』

 「奄美を語る会」のような場以外にも、こういう声が聞こえてくるようだったら、ぼくも鹿児島にいることができたかもしれない。『横目で見た郷土史―言いたい放題でごめんなんせ』を読んで、感じたのはそういうことだった。

 それは、ぼくたちが感じる、「郷中教育」、「山坂達者」、「示現流」、「泣こよか、ひっ跳べ」、「妙円寺詣り」、「いろは歌」、「議を言うな」、「ボッケモン」、西郷隆盛などといった鹿児島的事象に対する素朴な疑問が、鹿児島の内部から開陳されているからだ。これら全てに全否定を加えたいからではない。そうではなく、これら事象に対する素朴な疑問すら禁止されていると感じてきたからだ。こういう声が聞こえてくるようだったら、高圧密閉空間に風穴を感じることはできただろう。ぼくはそこで息継ぎできたかもしれない。

 ぼくが鹿児島の内側から聞きたいと切に願ってきた声も、ここにはあった。その最たるものは、これだ。

 県外の人には、薩摩隼人というと徹底的に攻めまくり、退却を知らぬ、無知で勇猛果敢なサムライ集団の子孫、というイメージがあるようだ。が、この郷土で周囲を見渡すと、そんな荒々しい連中より、むしろ温和な人々が多いようである。
 七、八世紀の大和朝廷で記録にある隼人族は、薩摩大隅などに土着の、南方的な明るさを持った、平和で陽気な人ばかりだ。
 いくらキバッテみても、台風の常襲地帯では自然の災害には逆らえない。大まかな生き方のテゲテゲ精神の元祖のような、ノンキな連中ばかりだったのだろう。

 そこへ、頼みもせんのに文治元年(一一八五)、できたばかりの、鎌倉幕府の源頼朝が任命した島津氏がやって来た。
 守護地頭から大名となり、七百年もの長い間、領主として鎌倉からの多数の武士団を、支配者の手先の役人として配置。息の詰まるような専制政治を温和な隼人族の領民の上にしいたはずである。
 例えてみれば、ライスカレーの白いご飯のような、温かい人情を持つ隼人族の上にピリリと辛い鎌倉特製のカレーの武士集団の固まりが、覆いかぶさったのと同じ。
 県外の人たちには、下の方の温かいライスの本物の隼人族が見えず、上の方の辛いカレーの部分を隼人族と誤解した。
 関ヶ原や西南戦争で勇名を馳せた薩摩隼人は、カレー族の人たちだ。下のライス族の本物の隼人族は、いつの時代も被害者でこそあれ、こんな武力の人たちとは無縁であった。県下の苦な民俗芸能や民謡、民踊など多くの楽しい民俗行事は、このライス族の人たちがつくりだしたものだ。カレー族の方は民俗芸能など目もくれず、「郷中教育」で自分たちの子弟を鍛えた。ただただ君主へのタテ社会の忠誠心養成のためだった。

 ライス族の民衆の方は、カレーの連中からの過酷なまでの重税に耐える連帯から、地域社会への奉仕やヒューマニズムの思想が生まれ、自然に体得したヨコ社会の強い助け合い精神で、生き抜いてきたはずである。
 これらのカレー族は、明治になって、平民の上に位した士族身分として、旧武士階級の優越感を「一応満足させられた。社会の近代化とともにその身分が、有名無実となりかけたとき、西南戦争という士族暴動を起こして、ついに自滅したと歴史は語る。
   「ヒューマニズム」の言葉は上ずってしまっているが、主旨を損なうものではない。ここには、素直に見つめれば、そうではないかと思うことが率直に述べられている。それは隼人族そのものか、霧散したあとの姿かは知らないけれど、「この郷土で周囲を見渡すと、そんな荒々しい連中より、むしろ温和な人々が多いようである」というのは、ぼくもそう思う。そういう自然身体の顔つきや身体性に関する限り、それはわが奄美と地続きである。

 でも、「頼みもせんのに文治元年(一一八五)、できたばかりの、鎌倉幕府の源頼朝が任命した島津氏がやって来た」という声は、ぼくは聞いたことが無かった。この言葉、胸がすくようだ。そしてこの視点は、鹿児島がその、圧倒的なこわばりの論理から脱するために、奄美との対話に入るために必要だと思える。

 たとえばぼくも、「頼みもせんのに慶長一四年(一六〇九)、島津氏が襲ってきた」と言う。それに対して、鹿児島の思想は、いや、自分たちも「頼みもせんのに文治元年(一一八五)、できたばかりの、鎌倉幕府の源頼朝が任命した島津氏がやって来た」と言う権利を持っている。そこで、奄美は島津の加害の内実を明らかにしようとするが、それと同じように、鹿児島もそれを行うことができる。そこで初めてぼくたちは、「ここが同じだ」ということを、「ここが違う」ことと同時に言うことができるだろう。

 そうした声が封じられているというのが、度し難い頑迷と呼ぶ印象の根拠であり、封じられるどころか無傷なまま称揚されているのが不可思議でならない。もし封じ込められているのは実は、傷痕であるとするなら、奄美以上の傷痕を鹿児島の常民は抱え込んでいるかもしれないという可能性すら思い浮かぶ。

 だから、この片岡の本は、風穴として稀有な意味を持つのだ。

 この本には、黄色と赤のコントラストの装丁色が使われている。それは、からしと唐辛子をイメージしたもの、つまり、辛口であることを読者に予想させる意図を持つだろう。しかしぼくの読後感はそれとは違い、穏やかに柔らかに、面白おかしく鹿児島への違和を語るものに見える。それは先の隼人族と島津氏を「ライス族」と「カレー族」に喩える素朴さを見ても明らかだし、この節が「薩摩隼人はライスカレー ライス族もカレー族も協力を」と題され、

「四民平等」という言葉の意義にはっきり目覚めた、新しい県民性を育てたい。ライス族も、カレー族も、手を取り合って協力していきたいものである。

 と締めくくられる、そのバランス感覚からも分かるだろう。書名の前に「言いたい放題でごめんなんせ」と断りがきのようなリード文が付くのも内容に照らすと大げさである。こういうところ、この本が対峙している圧力の強さが読み取れる。書名の「横目で見た」というくだりもそうだ。これは斜に構えているという意味では全くない。むしろ、ここにいう「横目」は、

人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横より見てゐる心。

 という石川啄木の「横より見てゐる心」のことだ。これは、鹿児島の風土をその内側から素直に描く、かの地では珍しい肩の力の抜けた素直な郷土史なのだ。ぼくは、リード文や書名や装丁や帯のメッセージが醸す雰囲気から、この本が怪書のように扱われないことを願う。


 片岡は冒頭、「巻頭提言」として書いている。

 奄美の黒糖で島津藩は莫大な利益を独占したにも拘わらず、それらの生産者にはその利益は全然還元されずに、僅かの労賃として生命の糧の米を死なない程度に与えられたようである。また、領内の櫨の実や樟脳などの特産物なども、大阪方面の高価な買入れ値とは無関係に、安い労賃が支払われたというから、生産者の勤労意欲が向上するはずもなく、ただのヤラズブツタクリの見本であろう。

 それらの事業の費用の何分の一でもいい、領内の農漁村の子弟に読み書きソロバンを教える寺小屋を、三十軒でも五十軒でも作られたら名君の一人に数えてあげたいと思う。当時、江戸市中で繁昌した沢山の寺子屋、そこで学んだ江戸庶民の子供や親の笑顔を、残念ながら江戸育ちの斉彬公はご存知なかったのだろうか。要するにガス灯や写真術などハイカラな実験は、下じもの人情を全然ご存知ない所のいわゆる〝殿様芸〟にすぎなかったようで、名君もただの庶民からみると、ただの凡君としか思われないようである。

 さて、昭和二十年の敗戦後に歴代の内閣の責任者はアジアの諸外国に対し、戦争中の悲惨な被害に対して戦時中の指導者に代わり、頭を下げて素直にそのことを謝り諸国もそれなりに了解したようである。そこでまことに言いにくいことだが、現在の島津の当主の方々がせめて奄美の人々にだけでも、ご先祖の領主の残酷な政道について陳謝されたら、受ける側の人々はその誠意に対し、素直に諒解を示されるのではなかろうか。

 現在の島津家の方々は温厚で立派な方ばかりで、万一実行されたら、今でもよく聞く奄美の人々の百年以上も涙と共に語り継がれた怨み言が、鎮まるきっかけになろうし、また県内各地の昔の領民の子孫の人々や奄美の人々も、現憲法では旧領主の子孫の方々と、基本的人権は同等同格であれば、恐らく共感を覚え心から喝采を送るのではと思う。

 毎年発表される全国の県民所得番付で、わが郷土鹿児島県はずーっとビリから二、三位を抜け出せない。その遠因が七百年来の旧島津藩の苛酷な収奪行政でないとはいえない。とすれば、前記の陳謝が述べられてもいいのではないかと思われ、奄美のみならず県内一般から、さらに隣県や国内の人々まで賛辞を送られ感動を呼ぶと信ずる。

 島津の当主が謝罪したとて、ぼくは苦笑しこそすれ喝采など送らない。現在の島津の当主の行為は私人としての意味しか持たず、政治的共同体の意思は、県が持つものだからだ。そこに何がしかの意味を見ようとするのは、5月2日の島津修久のスピーチのように、当人の勘違いと行政としての徳之島茶番にしか過ぎない。しかも、謝罪はそれ自体がもっとも重要なのではない。謝罪するには謝る内容が必要だが、現状、それが認識、理解されているとは思いがたい。何に謝っているのか分からないのに謝ったり、謝るべきことを外していたら、ぼくたちがそれによって消したいと思っていることはそれと気づかれずに残ってしまうだろう。何があったのか、認識すること理解することが、その前に重要であるに違いないのだ。

 けれども、片岡の想いは、素直に受けとることができる。まして片岡が、「この提言は、恐らく余命少ないこの著者の遺言として残しておきたい。」と提言を結ぶとき、ぼくは半畳を入れずに、そのまま受け止めたいと思う。『横目で見た郷土史―言いたい放題でごめんなんせ』は、鹿児島を覆うこわばりの論理に対する内側からの解体の試みだ。この、内側からの、ということに、代えがたい価値がある。

 この本は頂き物として読むことができた。感謝したい。


『横目で見た郷土史―言いたい放題でごめんなんせ』(片岡吾庵堂、1996年)

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2009/07/14

従来の琉球観は近代以降の状況を過去に投影した倒錯であるというのは琉球言説の今風であるらしいのだが。

 南海日日新聞にも、立教大学での「島津氏の琉球出兵400年に考える-その実相と言説-」の記事が出ていた(07/01)。記事に添えられている「聴きいる聴衆」の中央にいるのが登壇者の一人、上原さんだ。

 立教大学史学会公開講演会「島津氏の琉球出兵400年に考える-その実相と言説」(同大文学部史学科、同大史学会主催)が6月27日、東京の同大で開かれた。約60人の聴衆が集い琉球が日本の領土に編入される端緒となった薩摩侵攻の歴史的意義について、活発に意見を交わした。

 講演では岡山大学の上原兼善特任教授、琉球大学の豊見山和行教授、立教大学の小峯和明教授が登壇。上原氏が侵攻の経緯を説明したほか、豊見山氏は琉球が中国風衣装を強制されたとする史料を「飾りものだけで衣装についての指示はない」と言及。琉球の正装は元来中国様式であり「中国衣装の強制が沖縄への偏見を本土に植え付けたという言説は、戦前の時代状況に絡むものではないか」と指摘した。

 当日の印象を交えて言ってみる。
 従来の琉球観は、近代以降(この場合戦前)の状況を過去に投影した倒錯であるというのは琉球言説の今風であるらしい。では、それに代わる琉球像はというと、正装だからという以上の理由はないかのように聞こえてくるのだが、正装だから着るという選択意思がとても近代的に見えてくる。あの江戸上り行列絵巻の琉球人を、従来は、屈辱感を隠した姿態に見えていたとすれば、この代替像は、われ関せずのジコチュー的な姿態に見えてこなくもない。

 しかし、いかに正装だから着けていたとはいえ、「大和めくな」という規定は強いられていたのであり、大和での好奇の視線も、屈辱感も感じたろうし、中国の威光を借りた虚勢もあっただろう。そして、琉球を主体的に打ち出すことが琉球の存続に欠かせないから、中国風を誇示しようという戦略も。強いられた関係性のなかで、自己を保つための努力のひとつとして、この中国風のいでたちを受け止めればいいのではないだろうか。

 屈辱感にまみれた像からわれ関せずのジコチュー的像への置換は、近代を退けて、また近代を引き寄せたものにみえる。結局、従来の琉球像が従属的だったものが、近代個人的なものに置き換わったように見えてくる。それは、時々の琉球に対する自己像の変遷を物語るにすぎないのではないかという疑念が過る。歴史認識にまつわる現在と過去の二重性について、過去の人々の感受をそのままに生き生きと受け取る側面が、ぼくたちは貧弱になりがちなのではなだろうか。そういう課題を突き付けられる気がしてくるのだ。


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2009/07/13

「両属生かし、芸能はぐくむ」

 2004年に亡くなった東郷実正さんが伝承していた「アンマメグヮ」という島唄。

 シマジヒジカマとぅ平安統主がうかぎいくさはぐらかちしまやなぎてぃ
 「住吉のヒジカマと平安統主のおかげで、薩摩軍との戦いを避けて、島は平穏無事であった」

 これを受けて、沖永良部の先田光演の行った解説の記事(「南海日日新聞」2009/07/05)。

 1609年4月、琉球王国は薩摩軍に敗れる。その後、薩摩藩は北側の奄美の島々を奪い取り、11年から直接支配することにした。しかし、薩摩藩は奄美の島々を領土にしたことを隠して「琉球国の内」であると言い続けた。これは琉球王国が行っていた中国貿易の利益を得るための言い訳だった。
 中国は琉球国が臣下であるという関係から使者を派遣して交易をしていた。中国の品々は高い値段で売ることができた。薩摩藩はこの利権を狙った。琉球国を薩摩が支配したことを中国側に知られると」貿易ができなくなる恐れがあり、奄美の島々を「琉球国」であると隠蔽してきたのだ。

 ここは隠蔽を二重に言う必要があるところではないだろうか。まず、対中国貿易は幕府の意向であり、その実現のため琉球は国家として存続したと同時に、薩摩による支配は隠蔽される。しかし一方、奄美は琉球から割譲され、薩摩の直接支配を受ける。そしてこのことは幕府にも隠蔽される。奄美は、中国に対しては、薩摩による直接支配が隠蔽され、ということは、「琉球国の内」になり、それとしては幕府、薩摩による間接支配が隠蔽される。かつ、幕府に対しても薩摩の直接支配は隠蔽されるのである。ここに、琉球が国家の破壊されなかったことを逆手に存続の道を探ることができたのに対して、奄美はその契機を失う根拠があった。

 これは奄美の島々の帰属がはっきり定まらなかったことを意味している。なんとも不思議な「両属の位置」に置かれたのだ。このような歴史を現在の評論家たちは、薩摩藩に支配された奄美の歴史は抑圧され、自信喪失し、従属的な島民性になってしまったと論評している。永良部の歴史をひもとくと、「両属の位置をたくましく生き抜いてきた先人たちの歴史を知ることができる。沖永良部は「踊りが年貢であった島」といわれる。永良部の土地は生産性が低く、薩摩時代は奄美で一番貧しい小島だった。鹿児島役人たちは島の人たちに年貢と同じように定期的に踊りを見せるよう命じたそうだ。少ない年貢を補うために踊ってもらったのだろうか。各集落は競って上手な踊り、面白い踊りをつくり上げたと容易に想像できる。

 ヤッコ踊りは壮観だ。薩摩役人は大いに喜んだに違いない。踊りの動作が鹿児島のヤッコ踊りだからだ。鹿児島では今でも奴という男踊りが神社の奉的舞として踊られている。薩摩役人にとってこの上もない慰安になったことだろう。島の人たちにとっては琉球の歌詞と音階で歌われるヤッコは紛れもない自分たちの踊りとして親しみを感じたはずだ。
 先人たちは薩摩、琉球に両属していたことをプラス思考でとらえ、自分たちの芸能文化を豊かにはぐくんできた。苦しく貧しい時代にお互い励まし合い、支え合い、新しい芸能を生み出すことで自立的な生き方をしてきたということになる。

 踊りは鹿児島で歌詞と音階は琉球という型には、薩摩への従属も尊重も、その逆の対抗も感じられる。いびつでもあれば痛ましくもあり、面白さもある。でも、痛みの伴った切断から文化は生まれるものだとすれば、沖永良部は文化を生んだ、あるいは、沖永良部が生んだ文化は、「踊りは鹿児島で歌詞と音階は琉球」という形になったと評価することができる。その切実さからみれば、「プラス思考」や「自立的な生き方」は、上ずって聞こえないだろうか。同様に、沖永良部が「薩摩時代は奄美で一番貧しい小島だった」というのも、わずかに演出がかって聞こえる。それより、「踊りは鹿児島で歌詞と音階は琉球という型」に沖永良部らしさを、ぼくは感じる。


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2009/07/12

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」6

 質疑応答編。

(大橋) 喜山さんの仕事をわたしなりに整理すると、喜山さんは奄美をほぐしていくんですね。つまり、なんとなくもやもやとしていた奄美に対する気持ちや想いを、本を読みながら考えながらブログを書きながら歩きながらほぐしていくんですね。しかしほぐせばほぐすほど奄美がいいなずんでいる状態であることが分かってきた。それは喜山さんの言葉でいえば、失語状態なんですね。四百年間、奄美はこの失語状態になるではないかということを気づいた。その気づきというのが、いまの時点で大きく共感される部分があると思います。喜山さんがお書きになった『奄美自立論』ですね。本当に読まれているのは、奄美出身でありながら奄美の二世だったり三世だったりの人、それから一世でありながら奄美のことをもう一度、捉え直そうという人には非常に大きないい仕事だと思います。

 喜山さんは、四百年前のことは決して昔のことじゃないんだよいうことをおっしゃいました。つまり、奄美にとってこの四百年というのは共時的なもの、つまりひとつの大きな時代のブロックなんですね。ですから、四百年前だといってもすぐ近くの話題であるということが考えられます。

 次の前利さんへのつなぎとしていうと、四百年といっても近世と近代とでは、時代の位相が違ってくるとわたしは思っています。つまり、奄美が差別されてきた、鹿児島の人たちが抑圧的に出てきたというのも、実は近代に明治以降に作られてきたことが多いんじゃないかということですね。それは昔からと思いがちですけれど、実は制度的、人情的に決定的につくられたのは近代ではないかと思っています。その辺のところを詳しく見ていく必要があるんだろうと思います。

 喜山さんへの質問ありますか?

 Sといいます。山中さんが奄美に謝らずに沖縄に謝ったというのは、ご存知だと思うけれど、個人的な理由があったんです。山中さんは台湾で中学、出てるんです。そこで沖縄の屋良朝苗が先生でした。(中略)当時とても可愛がられて、相当、子弟愛があったと思います。だったら奄美にも触れてほしかったと思いますが、そういうこともあったと思います。だからどう、ということではないですけどね。

 Jといいます。奄美の人についてですが、ウチナーンチュではなくて、ヤマトゥンチューではなくて、奄美の人が自らに対して特別表現はありますか? もしそれがあればいつから始まりましたか?

(喜山)えっと、ウチナーンチュという言葉に対してはアマミンチュという言葉が概念としては作れるんですけど、存在してはいません。アマミンチュっていう風に言おうじゃないかという運動として存在しているもので、ぼくなんかも、アマミンチュって言われると、最初は、「え、誰のこと?」と反応してしまいます。ただ、さっき「シマ(島)は生きてきた」といいましたが、このシマは最少単位の集落のことあるいはアイランドのことを指していますが、そこの言葉、たとえばぼくの場合、与論はユンヌっていうんですが、ユンヌンチュっていう言葉はあります。それはものすごくリアリティはあって、それはアイデンティティを支えてくれます。でも、ウチナーンチュのように、島(シマ)を越えて共同化していう言葉がないので、どこの人?と聞かれたときに、アマミンチュとは言えないわけです。ユンヌンチュという言葉はずっと昔からあります。

(大橋)今のテーマは非常に面白いです。ウチナーンチュという言葉はあります。それは意識的に沖縄の人が作ったということがあるんですけれども、それは奄美にはないんですよね。シマンチュとかシマッチュっていう言葉はありますけど、それは統一的な表現にはなっていません。

(酒井)総称としての自称は無くて、もともとシマっていうのは、集落、自然発生的な村落が基本ですから、そこを出ることがないのが私の理解ですね。

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2009/07/11

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」5

 さて、この400年を契機にしたイベントのなかで、主張されていることは、「琉球の主体性」だと思います。1609年以来、琉球は幕府や薩摩に従属的であったと言われてきたが、そうではなく、1609年から1879年までの270年間、琉球王国を存続させてきたのであり、そこには小国の論理がある、と。ぼくはこれは主張に足ることだと思いますが、この「琉球の主体性」の主張のなかでも、奄美は、存在しないかのような存在として扱われるのはお分かりだと思います。400年のイベントの成果のひとつは、かつて奄美は沖縄と命運をともにしたことを思い出させたことだと思いますが、「琉球の主体性」の主張のなか、奄美諸島は直轄領となった、以上、で終わってしまうのです。またしても。

 しかし、「琉球の主体性」の主張を奄美として受け取るなら、従来、明治維新への貢献が言われてきましたが、琉球王国の存続への貢献もあるということに気づきます。奄美が薩摩の直轄領となったことで、琉球は従属性を軽くすることができたという面もあるはずですから。奄美は明治維新だけでなく、琉球王国存続にとっても無言の支え手だったのです。

 奄美はこの理解をもとに、島人(しまんちゅ)の得意な相互扶助の気持ちとして、沖縄に向かっては、隣人としてそのつながりを伝えることで、ときに「沖縄人vs大和人」の構図が硬直化するのを和らげてあげられるのではないでしょうか。そして鹿児島には、他者として存在を伝えることで、鹿児島が維新以後の歴史を持つことを助けることもできるのではないでしょうか。それが、琉球と大和の交流地域である奄美にできることではないかとぼくは思います。

 いま奄美は皆既日食を控えています。でもこれをただのイベントで終わらせてしまうのはとてももったいないと思います。日食の後に姿を現すのは太陽だけでなく、奄美の地理と歴史が姿を現さなければならないと強く思います。

 400年のことを云々すると、そのことに対して、400年前のことを昨日のことのように言うのを驚かれたり揶揄されたりしているのをブログなどでみかけます。それはぼく分かるんですけれども、でも、400年てそんな昔のことじゃないと思います。日本にスタンスを置くと、明治維新からいままでの百数十年ですら連続した時間のなかに捉えられない、切断がいたるところにあり、歴史感覚を蘇らすのは大変な労力が要るわけですが、こと、奄美に関する場合、400年前が昨日のことのように感じられる、そういう歴史感覚というか、時代を呼吸できる感覚はものすごいアドバンテージではないかと思います。

 それは、奄美は「存在しないかのような存在」と言いましたが、それをポジティブに捉えれば、「島(シマ)を島(シマ)たらしめてきた」ことにあるんじゃないでしょうか。奄美の島々は、さっきの酒井さんの話をお聞きすると、やっぱり徳之島ってすごいなあと思うように、奄美の各島々はそれぞれの個性が際立っています。そういったことは、これからそれぞれの島(シマ)を主役にできるという強さに転化して、近代以後をどうやってつくっていくんだという課題に対して時代の貌を作っていくこともできるのではないかと考えています。また、そういうことをこれからも考えていきたいなと思っています。これで終わらせていただきます。ありがとうございました。

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「梅雨の奄美の森」試飲の巻

 「カフェあまんゆ」のコーヒー、「梅雨の奄美の森」を試飲させていただく。「ご希望の方は自分で挽いてください」という山川さんのアイデアは、倉本聰のTVドラマ「優しい時間」を思い出させた。喫茶店「森の時計」にやってくるお客さんで希望者は好みのコーヒーミルで挽いていたが、そこでお客さんは日常の時間の流れを減速させて、ゆっくりコーヒーを飲む構えをそこで作っているようにみえた。もちろんいいアイデアだと思う。

 ザッセンハウスの手挽きコーヒーミルで挽くと、もうすすぐにコーヒーの、あのなんとも言えない落ち着く香りが広がっていった。そうか、自分で挽くということは、香りも存分にいただくということなのだな。

 いただいた「梅雨の奄美の森」は、濃い味わいなのに苦味が控えめで、体の水分を奪われない感じがした。「梅雨の奄美の森」という名づけに納得。ぼくはコーヒーは、ミルクがないと飲めない口なのだが、すいすい飲めた。沖縄の名護コーヒーと飲み比べながら、コーヒーで奄美の島々を表現するのは楽しそうだ。

 あまみんちゅドットコムでお世話になった柳澤さんとカフェのゾーニングを聞き、柳澤さんはWeb構成のアイデアを伝える。動き始めた勢いを感じた。不況下だから新しいものが生まれる。時勢もいい後追いをしてくれますように。

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2009/07/10

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」4

 その上で、ぼくは進むべきベクトルを「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」と考えました。これは奄美に視点を置いた言い方です。七島灘とは、奄美の北を東へ蛇行する黒潮の流れを指したもので、海の難所を意味していました。南の県境とはいわずもがなの、あの境界のことです。この画像はたまたま与論島から沖縄から眺めた画像です。次の地図は、酒井さんの『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』から拝借してきたものです。ぼくはこの地図が大好きで、眺めるだけでも癒される感じがあります。どうしてかといえば、ここには黒潮の流線以外、余計な境界が引かれていないからです。

 「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」として言いたいのはこういうことです。たとえば、同じく鹿児島の歴史家、原口泉は、薩摩の色を「黒」と言います。「独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。」というように。ところが、こんどは奄美の人が読むであろう本では、「奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。」などとも書くわけです。原口は、さりげなく奄美も「黒」であると、さりげなく言うわけです。これも、配慮不要の奄美への処し方の典型的なものです。

 しかし原口がもし自分を鹿児島の知識人と思うなら、彼がすべきなのは、鹿児島には、薩摩の自然と文化と言葉の果てるところがあり、そこから先を奄美というと、積極的に言うべきでしょう。それを「奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。」などというのは、まさに他者不在で、奄美はますます薩摩になると言っているようなもので、こんな不気味な予言めいた言葉は拒まなければなりません。

 従来、七島灘は海の難所と呼ばれ、奄美の復帰前には、日本へ密航するのに命がけで越えていかなければならなかった海域です。いまは大型フェリーや航空機によって、七島灘は難所ではなくなったわけですが、こんな頬かむりで存在しないかのようにみなされるなら、ぼくたちは文化や思想の七島灘を浮上させなければならないと考えます。

 そして南へ目を向ければ、この400年のあいだの最もいびつな境界である沖縄島と与論島の間に引かれた境界が、県境という以上に意味を持ってしまっていることを越えていかなければなりません。奄美と沖縄をつなぐのです。柳田國男は『海南小記』で「その上に折々出逢う島の人の物腰や心持にも、またいろいろの似通いがあるように思われた。海上は二百浬、時代で言えば三百年、もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが、やはり眼に見えぬ力があって、かつて繋がっていたものが今も皆続いている。」と書きましたが、ぼくに言わせれば、四百年経ってもつながっていると感じられるのです。

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2009/07/09

コンセプトとしての「船倉」

 syomuさんが、カルチュラル・タイフーンの懇親会の濃くて深い感じ(Deep Reef)を、

名瀬港まで二泊三日も時間がかかる船中では二等船室の至る所で酒盛りやおしゃべりが繰り広げられ、ゴロンと横になって聞こえてくる島口に、あの人のなまりは大島だな、あの人はバアさんの島口に近いから徳之島だな、ん?沖縄の人かね?などと想像をふくらませたり。船旅はあまりにも時間があるので、隣の人と二言三言話しているとどこかで知り合いが重なっていたり、親と昔付き合いがある人だったり、とそういう経験は二回や三回ではおさまりません。

思えば、私は小学校に入学する前の一番楽しい夢のあった幼い時間だけ島の空気を吸い、島の自然を見て、島の人と触れ合って過ごしたので、感傷的になり、島への感情がほとばしりがちなのかもしれません。

島に向かう船に揺られているようなそんな居心地の良さでパネルも懇親会も楽しませていただきました。(カルチュラル・タイフーン2009『薩摩侵攻/侵略400年を考える』

 と、書いているのを読んで、そうだ、あの Deep Reef クオリアは、黒潮づたいのあの、船の底に似ているのに気づいた。

  道之島といえばおりおり思い出すことがある。昭和十三年から十七年まで大島通いの上り船は名瀬港を夕方出航した。三等室船内の中央部の下は船倉になっていて夜は船倉の上を舞台にして、各島自慢の競演になった。
  与論島の人は沖縄民謡の「上り口説」、沖永良島の「永良部百合の花」、徳之島の「ちゆつきやり節」、大島の「野茶坊節」、喜界島の「池治長浜節」などつぎつぎ繰り出され、指笛の噺子で調子がますます高まる。
  大島各島上り船に乗っていた沖縄の中年の方が二人で「鳩間節」や「四季口説」を歌い踊った手ぶり口ぶりは忘れられない。
  船員の中には芸達者な人がいて三味線、片面太鼓を持ち出し、また洗面器の底をたたき、あるいは変装して踊る人気者もいた。
  「上り口説」、「下り口説」は音痴の私でさえ暗唱しおかしく歌えるが、道之島の部分だけ挙げてみる。

 上り口説(前を略す)

七、伊平屋立つ波押し添ひて
  道の島々見渡せば
  七島渡中人なだやしく
八、立ちゆる煙は硫黄が島
  佐多の岬もはいならで
  あれに見ゆるは卸開聞
  富士に見まがふサクラ島
 下り口説(前と後を略す)
  風やまともに 子丑のは
  サダの岬も あとに見て
  七島渡中も なだやすく
  波路をはるかに ながむれば
  あとや先にも 友船の
  帆をひきつれて 走りゆく
  道の島々 はやすぎて
  伊平屋渡たつなみ おしをひて

 船が少し揺れ始めるころ、船酔い恐怖症の人は二段になった寝ぐらであお向きになり、横向きになり、洗面器を枕もとに寄せて上り口説、下り口説の「七島渡中もなだやすく」と念ずる気持ちになる。
 船倉の上の舞台も一人去り二人去り遂に静かになる。このあたりは七島灘に入る手前である。そのころ三等室に柱時計はなし、ラジオも、もちろんテレビもなし、各人の腕に腕時計も巻き着いていない。おそらく二十二時のころであったであろう。各島回りの定期船は笠利岬灯台の光源の届かぬ闇の海を北に進む。
 早朝、前方に「ご開聞」の薄い姿を拝み、三時間かけて「富士に見まごう桜島」の姿に安堵して身回りの品々を手もとに寄せ、下船の準備をしたのである。(『道之島紀行』)

 この、栄喜久元の述懐を借りると、船倉の舞台、なのだ。

 「船倉」をコンセプトとして捉えると、それはいまぼくなどが欲しいと思う場を表してくれる。琉球弧の島人が集い、ある島のことだけではない、どの島の人も主役になる場面を持ち、しかも、一緒に乗り合わせている旅人を排除しない。一緒に場を共有できる。「船倉」はそういう場だ。

 コンセプトとしての「船倉」。育ててみたい。


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「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」3

 「奄美にとってこの400年とは何だったのか」。それは存在しないかのような存在と化したということであり、そうであるなら、ぼくたちはやはり姿を現す必要があるのだと思います。そのためには何が必要でしょうか。鹿児島の歴史家原口虎雄は、『鹿児島県の歴史』のなかで、「もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。」と書きます。

 これ、よく聞き覚えのある言い方です。でも知識人がこう言うと、この延長で「日本にしてやった」とかそういう言い草すら出てくるわけです。ぼくはこれを強者の論理と呼んできました。強者の論理は、加害、加害者の加害です、加害を感謝の要求にすり替えて、加害の内実を不問に付すという構造をしています。これにどうやって言葉を返して言ったらいいのか、とても悩んできました。

 ところで今年は、奄美にとって400年の年でありますが、スピーチが印象的な年でもあります。2月には村上春樹のエルサレムでのとても印象的なスピーチをしましたね。そして、ぼくはその就任演説には心を動かされませんでしたが、4月の「米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある」という大統領オバマのスピーチには心を動かされました。

 これは、従来、「原爆のおかげで戦争は終わった」としか言われてこなかったものです。この、「原爆のおかげで戦争は終わった」が、やはり加害を感謝の要求にすり替えて、その内実を不問に付すという構造をしています。そして、この強者の論理と、「核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある」という言い方の間には、ものすごい距離があるわけです。ぼくたちも、強者の論理に抗する言葉を出していかなければならないと思います。

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2009/07/08

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」2

 こうして、南から奄美は「存在しないかのような存在」と化すわけです。一方で、北、鹿児島からも「存在しないかのような存在」と見なされるわけですが、これはぼくたちの皮膚感覚に照らしても実感的です。それが端的に示されたもののひとつに、ぼくは山中貞則の謝罪があると思います。

 山中は鹿児島出身の著名な政治家です。山中は晩年の2002年に『顧みて悔いなし 私の履歴書』という書物を出すわけですが、そこで、こう言うのです。「とはいっても侵攻の事実に変わりはない。またすでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。」ぼくは最初、これを読んだときとても驚きました。あの、ぼくの知っている度し難い頑迷さからすれば、薩摩の政治家が「謝罪」を言うなど不可能か、あるいはぼくが生きている間ではありえないと思ってきたからです。でも、それは今から7年も前になされているわけです。

 しかし、ぼくはそのことよりももっと驚くことがここにはあります。それは、山中は「沖縄」に謝罪しているのであって、「奄美」ではないことです。山中は謝罪の中身について、黒糖のことも触れているのですが、にもかかわらず、奄美は触れられません。どういうことでしょうか。山中は沖縄では良心的な政治家として評価されています。この本にも当時の稲嶺知事の献辞が寄せられています。その良心的な政治家が良心のありようを吐露し、まさに良心的にみえているまさにその最中のパフォーマンスの場面で、奄美は黙殺されてしまうのです。まさに奄美は「存在しないかのような存在」と化しているわけです。

 どうしてこうなるのでしょうか。ぼくは、それは「奄美は琉球ではない」と規定した直接支配が隠されたことにあるのではないかと考えます。汾陽光遠という薩摩の人が、明治7年に書いた「租税問答」という文書があります。その六十三番目の文章にはこうあります。「問て曰、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て曰、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし」。ぼくはこれを読むと、いつもひそひそ話のように聞こえてきます。

 奄美は、お届けなしの蔵入り地だったわけです。直轄領であることを隠したということが、奄美の「存在しないかのような存在」の色合いを最もよく物語っていると思えます。ぼくはこの400年の意味を最もよく示す文章を挙げよと言われれば、汾陽光遠の「租税問答」「第六十三 道之島内地附属」を挙げます。直轄領であることを隠すことによって、奄美は存在しなかのような存在と化します。存在しないかのような存在になるということは、配慮が不要になるということにつながりますから、それが黒糖の収奪を激化させたでしょうし、近代以降も奄美を食い物にする傾向が続いたのも、理解しやすくなります。

 この、隠すということが致命的だと思うのは、それは人様の視線を浴びないということではないでしょうか。他者の視線がないということは、それはまずいんじゃないの、とか、そんなことしちゃいけないんじゃないの、と言われるきっかけを無くすということです。2007年の『薩摩のキセキ』という本のなかでは、「日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。」と、いうことが書かれたり、去年は原口泉が『維新の系譜』という本で、「日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは「明治維新」ではないかと思います。」と言うわけですが、どちらも世の中は違う価値観や世界が存在している他者の存在への配慮がない、巨大な勘違いをしていると感じられます。この「維新止まり」であり他者不在の感覚は、直轄領を隠すという行為とぼくはつながっていると思うのです。

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2009/07/07

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」1

 カルチュラル・タイフーンでの発表を掲載します。「奄美を語る会」での発表と重複するところも多いですが、語り口を変えたり考えをわずかながら進めたりしたところもあるので、ご容赦ください。

◇◆◇

 喜山と申します。「やまといしゅぎり」はどうやって歌うんだろうと思っていたので、酒井さんが披露してくださった徳之島の島唄には大変、得をした気分でいます(笑)。ふだんはマーケティングをしていますが、与論島生れというバックグランドからこのテーマに関心を持ちます。

 去年、同じ場で「アイヌ・奄美・沖縄-まつろわぬ民たちの系譜」というテーマをいただいたとき、アイヌ、沖縄はいざ知らず、奄美を「まつろわぬ民」と呼ぶのは無理があると思い、失語、自失つまり自己喪失がふさわしいのではないかと考え、そう言いました。今回、「奄美にとってこの400年とは何だったのか」と問われて、それについてぼくは、「存在しないかのような存在」になった時間であると言えるのではないかと考えました。

 「存在しないかのような存在になった」。たとえば島尾敏雄が「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」と1965年に言いましたが、それは「存在しないかのような存在」を意味していると捉えると合っているのではないかと思います。その起点は、奄美は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と規定されたことにあります。それがこの所在ない感じの発端になっていると思います。この二重の疎外の契機になったのが、1609年であり、それ以降、長い時間をかけて、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と規定されていきました。そして近代以降、それは一人ひとりの悩みになります。近代になってぼくたちは「個人」という概念を持って、他県、他地域の人と交流するようになりました。そうなって二重の疎外は個人の悩みになったわけです。

 この悩みはどういえば、分かってもらえるだろうとよく考えるのですが、うまく言えた試しがないなあと考えあぐねるところで、思い出すのが、あの、「お国は?」と聞く、山之口獏の「会話」です。「お国は? と女が言った/さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが」、前置きが長いんですが、それに対して「ずつとむかふ」と、答える、あの「会話」です。このあと、「南方」「亜熱帯」「赤道直下のあの近所」などと応えていくわけが、肝心の沖縄とは言えないままはぐらかします。この「会話」の場面は、琉球弧の島人は必ずどこかで出会っているという普遍的な詩だと思います。

 この「会話」のような場面のことを、奄美について、山下欣一は「ぼかす」と言いました。出自をぼかす行動様式、というわけです。しかし厳密にいえば、山之口の「会話」はぴったりぼくたちには当てはまるわけではありません。ぼくたちは、もっと所在なさがつきまとって浮遊してしまうわけです。沖縄は「琉球は大和ではない」と規定され、それは奄美も同様に「奄美は大和ではない」と規定されました。

 しかし沖縄は「琉球は大和ではない」され、それを逆に、「琉球は大和ではない琉球である」と規定し返していったわけですが、奄美の場合、そこに「奄美は琉球ではない」という規定も加わっていました。それが、二重の疎外であるわけで、ぼくたちは、そういう意味では奄美は、奄美にとっての詩としての「会話」を欠いていると言うこともできます。

 でもまあ落ち込むのはさておきとして、ここに、沖縄にとって奄美が「存在しないかのような存在」になる構造も見えてきます。奄美は「奄美は琉球ではない」と規定された、これは直轄領にされたという意味ですが、これを沖縄から見ると、「奄美は琉球ではない」が、「奄美は大和である」と反転されるわけです。本当は「奄美は大和ではない」とも規定されているわけですが、その面は無視されて、「奄美は琉球ではない」から「奄美は大和である」と見なされてしまいます。そこで、「奄美は内地だから、大和だから」とかときに言われて悲しいわけですが、二重の疎外が背景にはあります。

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2009/07/06

「奄美にとってこの400年は何だったのか?」を終えて

 昨日のカルチュラル・タイフーン、「奄美にとってこの400年は何だったのか?」を終えたが、思いの外、疲れていた。「奄美を語る会」の1/3の持ち時間と半分弱の人数にもかかわらず、倍の披露感がやってきた。どうしてかよく分からないが、仕事でやるセミナーと違って、自分の感情や思考を率直に吐露するので、エネルギーを遣うのには違いない。何というか、仕事のときに比べてはるかに無防備に自分をさらけ出している。

 それにしても、40名程の参加人数は少なかった。去年の仙台も、30名強はいたのだから、人口母体や400年というテーマからすれば、もっといてもおかしくなかったと思う。日曜の夕方、府中で、という時間と場所の条件の不利はあるだろうけれど、なんか悔しい、と柄にもなく思ってしまう。来るべきだなんて思わないけれど、400年といっても特異な関心事たらざるをえないんだろうか。八重山セッションの盛況を聞くと、なおさらである。ぼくはもっと多くの奄美への想いを知りたかった。

 まあ仕方ない。でもいらした方は濃い方揃いだったと思う。

 終わったあと、質問に来た方と二人で話した。名瀬出身でもう東京が長いそうなのだが。

 「今日のようなことは、教えてもらったことがないので全く知らなかった。鹿児島に謝罪や賠償を要求する動きはないのか。今日はそんな話が聞けると思って来たが全くなかったので残念だった。」

 ここまでストレートに考える方が東京にいるのか、と新鮮に驚いた。こういう、具体的な声をぼくはもっと聞きたい。

 パネラーの酒井さんも前利さんもぼくも、持ち時間20分を意識しながら、かなり圧縮した時間を刻まざるを得なかった。テーマや想いの大きさからすれば、短すぎるので、参加した方も消化する間もなく次から次へと大変だったと思う。3倍くらいの時間をかけて、参加者の一人ひとりの声をお聞きしながらやれたら、もっと充実感はあったと思う。

 ぼく個人は、

かしゅていしゃんてん誰が為どなりゆり、やまといしゅぎりやがためどなりゆる
(これほどまでに難儀苦労して働いたとて一体誰のためになるのだ、やまとの丁髷のためにしかならない)

 の唄を実際に聞けたのが、いちばんの収穫だった。


 しっかり宿題も受け取ったつもりでいる。それは今後、越えていけるように努めたい。奄美の生は無言のうちに濃くて深い想いを宿してる。それを口にできずに胸に秘めている人は少なくない。そういう想いをくみ上げる言葉を出せて行けたらと思う。


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雑誌「中部財界」『奄美自立論』書評

 雑誌「中部財界」、「注文の多い本のレストラン」に載った『奄美自立論』の書評。

 ん~。継はぎ感を否めないけれど、あり難い。

 緑の大地に覆われた島、奄美。世間一般のイメージは、青い海とサンゴ礁に囲まれた南の島のイメージである。琉球文化圏のため、沖縄県と勘違いをしている人も少なからずいる。奄美は鹿児島県だ。
 奄美に住む人は「奄美は琉球ですか」と聞かれると「鹿児島だ」と答え、逆に「鹿児島県ですか」と問われると、違和感を覚える人が多い。
 この著書では、奄美に関する疑問や、課題を島の歴史に基づき、奄美出身(与論島)の著者が、薩摩と沖縄に正面から向き合い、これまでにない奄美論を展開している。
 時は四〇〇年前、琉球が薩摩に侵略されることに始まる。一六〇九年の三月四日、薩摩の軍勢は琉球を侵略すべく出航。当時琉球支配下にあった南西諸島は約一ケ月で侵略される。トカラ列島を経て、奄美大島北部の笠利湾に着き、戦闘が始まったのが七日。その日以来、奄美は言葉を失ってしまった。
 奄美はそれ以来「琉球でもない」、「大和でもない」と二重に阻害されてきた。書はその「二重の疎外」の構造と由来を追い、それをどのように克服するかを、各地で出自を隠すように生きてきた六〇万奄美同胞に提起する。同時にそれは、国内植民地としての奄美の現実を広く明らかにするものでもある。
 奇しくも今年の七月二十二日皆既日食が奄美市で観測される。日食以外にも歴史も観測されるのではないだろうか。


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Deep Reef

 濃く深く。それ以外、どう表現したらいいか、うまい言葉が見つからない。

 徳之島の想いがあり、与論の想いがあり沖永良部の想いがあり大島の想いがあり、そこへ接近しようとする想いがあり、深い理解があり。それぞれの想いを聞くうちに、自分の想いが深化され、また独りよがりが相対化されていった。

 鈴木さんユキさんの「朝花節」に始まり、宗さん持田さんの「諸鈍長浜」、持田さんの「五尺ヘンヨー」、シーサーズの琉球舞踊があり。それはそれはご機嫌だった。琉球弧のどこか、だけやるんじゃなくて、どれもやる。これ、ありだなと改めて思った。聞く島人が、これは自分たちの歌だと必ず思える場面が持てるし、それは大切なことなんじゃないかな、と。

 あまりに濃くて深くて。ぼくは、酒も食事もだけど、あと倍くらいは時間がほしく、その場の方たちの想いを一つひとつ聞いていたかった。度の高い酒は希釈してゆっくり味わうことができる。時の流れとともに、この晩に語られた想いの意味がしみじみやってくるのを待ってようと思う。

 それから、

 さっきから、煙草ばかり吸っている。
 「わたしは、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ」幼い子供たちが、いつか、あわれな節をつけて、野原で歌っていた。私は家で寝ころんで聞いていたが、ふいと涙が湧いて出たので、起きあがり家の者に聞いた。あれは、なんだ、なんの歌だ。家の者は笑って答えた。蛸幅の歌でしょう。鳥獣合戦のときの唱歌でしょう。「そうかね。ひどい歌だね」「そうでしょうか」と何も知らずに笑っている。(太宰治「俗天使」)

 ある方の話をお聞きしていたら、このくだりが思いだされた。奄美的生はこの心情がよく分かると思う。


 ※恥ずかしながら、出版のお祝いもしていただいた。感謝です。(「高円寺Reef」


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2009/07/05

鹿児島弁で島のアイデンティティを叫ぶ

私は、鹿児島本土で育ちながらずっと“島んちゅ”のアイデンティティを感じていました。

しかし、それは確かにあるんだけれども最初は無色透明のようなものでした。(「凍てつく南島」

 syomuさんが、鹿児島の島んちゅのアイデンティティの初期形を「無色透明」というとき、ぼくはどきっとする。東京で社会人になったとき、自分を「無色透明」化しようと意識していた。社会人としてやっていくのも覚束ないだろう自分の存在の仕方として「無色透明」が合っている気がしたからだが、それはもしかしたら、奄美の島人の本土でのアイデンティティ初期形の姿なのかもしれなかった。それは他のどこより、鹿児島で「無色透明」化は要求される。ぼくは鹿児島で培ったものを、東京で生きるに当たって、生きる技術として抽斗から取り出してきたのかもしれなかった。

公に島んちゅ自身が“島の血を引く者”を奄美の同胞として『民族教育』をすることもありませんし、本土の新聞やラジオ・テレビなどの鹿児島のメディアからは鹿児島弁での発信はあっても、島口が聞こえてくることはありません。

私は沖縄のあるラジオ番組から島口が次々に聞こえてきた時には衝撃でした。公のメディアから島口が聞こえてくる体験がなかったからです。

通常の学校教育で島の歴史の詳細が時間をかけて教えられることもありません。

昔は島と本土との人の往来や交流も限られていましたが、現代では交通の便も発達し島の血を引く二世・三世たちが次々に生まれている状態だと思います。

二世・三世たちの家の中で島の話がなかったり、島唄も島口さえも聞こえてこなければ自分自身で“島んちゅ”のアイデンティティに色を塗り重ねるしかありません。それはとても孤独で、溶けて消えてくれたら楽だろうと感じるかもしれません。本当にこんな彩りでいいのかと疑問に思い、塗っても自信が持てないかもしれません。

私もずっとそうでした。鹿児島弁で島のアイデンティティを叫ばなければならないような時に今でも絶望がありますが、私の場合は家の中で島口や島唄が聞こえてましたからまだ楽だったと感じてます。

 ぼくは、奄美について、二世というアイデンティティのありようがあるのをほとんど知らなかった。与論ゆかりの本山謙二が「「二世」のシマ」(「鹿児島市のシマ」『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』)と書いているのを読んで初めて知ったくらいだった。

 ぼくは与論二世を自称したことはない。与論島「生まれ」であることをことさらのように強調して、与論人(ゆんぬんちゅ)と自称してきた、したがってきた。ぼくは、幼いころのsyomuさんのように、「カタシテ」と言って仲間に入れてもらうこともしなかった。むしろ、鹿児島弁をアクセントもろとも拒んできた。この言葉は覚えない、と。でも、それは小さいのに反鹿思想だったからではない。そんなこと知るよしもない。最初は、疎外感から、そしてやがては意思になっていったが、ぼくの場合は、与論島では島の言葉を禁じられていたのに、なぜ鹿児島では自由なのかが解せなかったのに端を発していた。

 鹿児島の友人に、「鹿児島でも共通語をしゃべりましょう、って言われてたんだよさあ」と鹿児島弁で言われる。そのとき、与論島では、それが日本人の証になるだけ強迫観念が伴うこと、それを時には、鹿児島弁で強いられることもあるのを、どう伝えたらいいのか分からない。

 でも、それに応えるより前に、ぼくもsyomuさんのように、「家の中」で、親が話す与論言葉(ゆんぬふとぅば)を身体に刻むように覚えておこうとした。それにか、ぼくが与論人(ゆんぬんちゅ)であることを証しだてる材料がないように感じてきたからかもしれない。

 そう自分を作ってきたので、syomuさんや「奄美を語る会」で出会った友人のように、鹿児島弁で語る奄美アイデンティティはとても新鮮な驚きがあった。こういうあり方だってアリなのだと思わないわけにいかなかった。むしろ、ぼくのほうが土地の言葉に馴染もうとしなかった分だけいびつな形をしているのかもしれない。

 「とても孤独で、溶けて消えてくれたら楽だろうと感じ」、「本当にこんな彩りでいいのかと疑問に思い、塗っても自信が持てない」という感じ方は共通していて、鹿児島弁の「二世」アイデンティティにとても共感する。むしろ、「世界の中心で愛を叫ぶ」ではないけれど、「鹿児島弁で島のアイデンティティを叫ぶ」痛切さに心を打たれる。

 でも、そんな声を聞けたことのほうが、ぼくには遥かに嬉しい。悩みという形ではあるけれど、独りではないと思うことができる。在鹿・奄美アイデンティティの行方は、ぼくにとって他人事のようには思えないのだ。


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「奄美」カルチュラル・タイフーンと懇親会

 今日の「奄美」カルチュラル・タイフーンと懇親会の案内を再掲します。懇親会だけの方も歓迎です。

◇◆◇

カルチュラル・タイフーン2009 / INTER-ASIA CULTURAL TYPHOON

☆パネルディスカッション

 「奄美にとってこの400年は何だったのか?--薩摩侵攻/侵略400年を考える」

☆開催日時/2009年7月5日(日)午後4時30分~午後6時10分
☆開催場所/東京外国語大学府中キャンパス「研究講義棟」102号室

◇東京外国語大学府中キャンパス

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「研究講義棟」102号室

◇交通アクセス

◆JR中央線
「武蔵境」駅のりかえ
西武多摩川線「多磨」 駅下車
徒歩5分
(JR新宿駅から約40分)

◆京王電鉄
「飛田給」駅北口より多磨駅行き京王バスにて約10分
「東京外国語大学前」下車

☆開催趣旨

 このイベントは、カルチュラル・タイフーン(文化台風)という文化研究のためのひとつとして行われるものです。私(大橋)は、5年前から、この毎年開催都市と会場を変えて催されるカルチュラルタイフーンにおいて、奄美に特化したバネルディスカッションを開催してきました。今回で5回目となります。今年は、奄美が1609年に薩摩に侵攻/侵略されたちょうど400年にあたることことから、この400年間の来し方の意味をテーマとするものです。こうした400年を考えるイベントは、奄美や沖縄で多く開催されているものの、このたび東京でもこうした奄美の歴史と社会、文化を考えるイベントを開くことになりましたので、ここにお知らせしておきます。(「神戸まろうど通信」から)

☆参加者/パネラー

・酒井正子氏(川村学園女子大学教授/奄美歌謡研究の第一人者・著作に『奄美歌掛けのディアローグ あそび・ウワサ・死』、『奄美沖縄 哭きうたの民族誌』ほか) 
・喜山荘一氏(マーケター/著作に『奄美自立論』ほか、与論島出身、東京在住)
・前利潔氏(沖永良部・知名町中央公民館勤務、『無国籍としての奄美』を今秋刊行予定)
〈司会・進行〉大橋愛由等(図書出版まろうど社代表)

☆内容

 2009年は、奄美にとって歴史的な年であると言えよう。
 1609年に、薩摩軍が琉球王国に、軍事侵略して、今年でちょうど400年になる。
その時から、奄美の支配者は、琉球王国から、薩摩藩に変った。「那覇世(なはんゆ)」から、「大和世(やまとゆ)」となった(これはいずれも奄美独自の歴史区分である)。奄美にとって、薩摩と鹿児島に支配された400年間とは何だったのか。それはとりもなおさず、薩摩と鹿児島は、奄美に対して、なにをしてきたのか、を意味する。これに対して、奄美の内部では、どのように対応したのだろうか。また、奄美の社会や人々は、どのように変化していったのだろうか。
 奄美には、薩摩と鹿児島に対する強い感情が、現在も残っている。こうした感情の元となったものは何なのか。我々は客観的にかつ注意深く分析する必要がある。
我々は、歴史、民俗、社会、文化などさまざまな分野で、この奄美の400年間について、まさに今、総括しなければならない。
 こうした今回のパネルディスカッションの問いは、奄美にとって、新しい記憶の創出となるであろう。

☆各パネラーの発表骨子

(1)酒井正子氏
 徳之島は、1609年の琉球侵攻途上最大の激戦地(秋徳の戦い)とされる。鉄砲で武装した薩軍数千人に果敢に立ち向かったのは、琉球より派遣された統治者(首里の主)の一族であった。彼らの子孫は藩政末期にも、植民地的支配に抗し武力蜂起(犬田布騒動)の先頭に立っている。一方薩摩系の郷士格の子孫も多数島に根付く。奄美諸島の中央にあって、鹿児島、沖縄双方と独自の距離感を保ちつつ生き抜いてきた徳之島のバランス感覚とダイナミックな行動力に注目し、その島民意識の一端を、支配層、民衆各々についてみてゆく。

(2)喜山荘一氏
 四百年前を起点にした奄美の困難は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外である。その根底にあるのは、奄美が隠された直接支配地だったことだ。
 そこで奄美は、北からも南からも、存在しないかのような存在と見なされてきた。現在、それは「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」と更新されている。二重の疎外は依然としてぼくたちの課題であり、そうであるなら克服されなければならない。求められるのは、島を足場にし島に止まらない奄美の語りである。針路はこうだ。北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ。

(3)前利潔氏
 奄美諸島にとって、「薩摩・鹿児島の時代」(400年)は、「琉球の時代」よりも長い。にもかかわらず、言語、民謡、民俗などの文化は、薩摩の影響を基本的に受けることなく、現在も琉球文化圏である。琉球文化圏は、徳之島以北の奄美文化圏、沖永良部島以南から沖縄島周辺の沖縄文化園、宮古・八重山の先島文化圏に分かれる。
 その中で、沖永良部島は、「琉球」なのか、「奄美」なのか、というテーマは重要な意味を持つ。一方で、奄美諸島は、政治的、経済的な側面では、薩摩の影響を強く受けていた。薩摩藩による奄美諸島に対する経済政策は、黒糖(さとうきび)政策を中心に展開され、奄美内部に、階級分化を生み出した。明治になると、「琉球処分」(1879年)との関連で、奄美諸島がどこに帰属するかについて、琉球王府、清国政府、明治政府、鹿児島県の思惑が絡みながら決定されていたことを明らかにする。また米軍政下(1946-1953)から日本に復帰する際には、鹿児島県以外の帰属も考えられた。奄美そして沖永良部島はいったいどこに帰属するのか、道州制の導入がささやかれる今も常に問われているのだ。

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カルチュラル・タイフーン懇親会&
喜山荘一さん『奄美自立論』出版を祝う会

7月5日(日)19時30分予定
 
場所 高円寺 LIVE & DINING BAR Reef(リーフ) 
〒166-0003 東京都 杉並区高円寺南3-46-9 プラザU B1F 
TEL 03-3313-5980
高円寺駅南口から徒歩2分


Reef_2

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2009/07/04

「サンゴの川」

 中村喬次による、宮古の地名ウルカ理解。

 同姓で真っ先に思い出すのは宮古のウルカ集落である。「あそこは村の8割方が砂川姓だよ」と聞いた。30年前の話である。今はどうなんだろうと、友利研一自治会長に電話で聞いた。
 ウルカは旧城辺町の海寄りの集落。砂川と書いてウルカと読む。現在冊用260世帯。宮古島市の集落では大きい方だ。その6割方が砂川姓だという。(中略)
 ところで、このウルカという集落名、最初聞いたとき、ピンと来るところがあった。ウル石とかウル墓、ウル割りといった言葉は、子どものころ耳になじんだ。同じウルなら、サンゴの川! なんとすてきな名前かと思った。
 ウルカ集落に砂川という川が流れているわけではなかった。宮古は全島真っ平らで山と呼べる山がないから、生活用水はもっぱら洞窟の地下水に頼っていた。「ウリガー」とか「カー」と呼ばれる。ウルカには「アマカー」と呼ぶ洞窟があるが、それを称してウルカと言っているのでもない。集落の前に横たわるサンゴ礁こそウルカの由来だった。サンゴが砕けて白砂になり、それが川のように延びている、そんなイメージが、僕を詩的興奮にいざなうのだった。(中村喬次「南海日日新聞」6/24)

 これは素敵な理解だと思う。ありうると思うけど真偽を判断しきれない。けれど、そうあってほしいと思う地名意味だ。珊瑚の川のウルカ。地勢の特徴を言うことが、詩にも通じた稀有な例だと思う。

 ぼくのいとこ叔父は、夜空の星を皆既日食という太陽と月の交わりが生んだ子どもたちだと言っていた。こちらは正真正銘のロマンテシズム。

 明日は、カルチュラル・タイフーンだ。


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2009/07/03

『われ島ン人を愛す』

 牧哲也の『われ島ン人を愛す』という本がある。「しまんちゅ」を愛す、である。

 牧は徳之島の人だが、この本では、与論島が2回も取り上げられている。「島ン人」の名が示すように奄美がテーマなのだから、与論に触れているのも不思議なことではないと思うかもしれない。けれど中身を見たうえでいえば、与論のことは、明確に与論だからこそ取り上げるというように俎上に載っている。与論島生まれのぼくは、つい、特筆に値すると反応してしまう。

 取り上げられているのは、あの与論献奉と観光のこと。

 話は与論憲法に帰るが、四年前に始めて与論島へ渡ったとき、私はこの儀式に感激した。酒が好きだったし、何よりもこのふん囲気がすばらしいと思った。自他の区別もなく酔いつぶれる世界、いいではないか、万万歳ではないかと手放しで礼讃したものだ。どうして憲法というのかそのいわれも知らぬ。果たして条文があるのかどうか、あるとすればどんな条文なのか研究しょうとも思わぬ。ただ始めて来た私に対してこうまで分けへだてなく迫ってくる人間の暖かさ。カミシモをとりはらった人間たちの赤裸々なブッつかり合い/これだから人間世界はいい。これだから奄美はすばらしく、これあるが故に与論島はなつかしいではないか、とほれ込んだのであった。

 与論献奉は色んな字があてられるから、与論憲法だと間違いであるとは一概に言えない。その強制力からすれば、「憲法」の語感のほうが合ってそうですらある。ところで牧が言うのは、与論献奉礼賛、ではない。

 そして、つい一週間前の再体験。人の評価の何と定かでないことよ。この度、私の日は終始批判的に動かざるを得なかった。「あの人は胃の調子が惑いというのに、また無理に飲まされて……。身体をこわさなければよいが」とバラバラする。「この人は、もともと飲めないたちなのに、あんなに思いきりよく飲み干して……。きっとあとで気分が恵くなるに違いない」と案ずる。血圧が高いので焼酎は自分の健康によくないといつも思っている人が、その場の調子で勢いよく飲みかつ論じている。きっと明日は後悔するはずであるひそれにしてもこれ以外に方法はないのか。人と人が歓談し合う場は酒宴しか考えられないのか。「酒は百祭の長」などと誰が言いふらしたのか。人類をおとし入れる悪い魂胆でもあるとしか思えない。

 そう、この章のタイトル。「与論憲法批判」なのである。

 私は知る限りの与論島の人々に心から親近感をいだいているし、この人たちの親切な歓迎ぶりや、やさしい心遣いについていつも感謝の思いで一はいである。したがって私のこの憲法批判が彼等の心証を害することになるかも知れないことを心からおそれるものである。私はどうかしてこの一文を公けにすることを断念したいとも考えた。しかし、私の良心は敢えて公表することを自らに命ずる。なぜなら、ことは与論町だけの問題ではなく、奄美の島々においてはそこに住む人たちがアルコールの魔力に対してあまりにも無防備な状態にあるからである。アルコールが敵であることを知らず、却って親しい身内か味方のように思いなしている。肉体をけがすものであるのに、逆に体内のよごれを消毒してくれる艮菜だぐらいに考えている。
 アルコールを甘くみてはいけない。酒が人間にとって、大きな力をもった害悪であることを私はせいいっぱい警告したいと思う。(昭和四十六年六月、大島支庁だより)

 アルコールは「敵」ではないけれど、「アルコールの魔力に対してあまりにも無防備」なことに牧の批判の核心はあり、そこに共感する。牧は「与論憲法」を、奄美全体の酒に対する姿勢のシンボルとして挙げているのだ。そう言われてみれば、与論献奉は奄美の飲酒姿勢の象徴かもしれず、その闇雲さにときに辟易しているぼくなどは、牧の批判を好もしく感じる。

 もうひとつは観光地として与論、である。タイトルは、「与論島は楽園か?」。

 夏季の観光客の増加を見越して、船会社がダイヤを変えようとしたがこの案が住民の足を無視したものであるということで大問題になっている。瀬戸内町などおこるのはもっともであるが、いっぽう喜こんでいいはずの与論町においても、事態は単純でない。飲料水の供給力の問題とか墓などが荒らされたとか、また風紀上の問題とかいろいろあって、むしろ「これでは観光公害だ」と嘆く声すら上がっている。せっかく美しい海と白砂の浜辺を持つ素朴な島が、いまや都会の若者たちによって汚染されようとしているという危機感はうそではない。

 これが書かれたのは1971年。そう、与論が島の大きさに比べたら大数の若者を受け入れ、与論イメージが膨張する時期に当たっている。

 白い浜辺に黒々とシミのようなスラッジを見るとき、公害がこの南の小島にも無線ではあり得ないと知って愕然とする。聞くところによればタンカーの乗組員たちがテレビの鮮明度を追って陸地に近寄り過ぎるためだという。大型タソカーが文明の利器ならテレビだってそうである。そしてテレビ番組の娯楽を求める乗組員の心情も、ごくあたりまえのことなのだ。どれも否定し去ることはできないが、ここから海や白浜の汚染という事実が惹起される。人間の営みがこうも自然を傷つけないでは何事も進展しないという「めぐり合わせ」が、たまらなくさびしい。

 浜辺にできた真っ黒いラインをぼくたちはコールタールと呼んでいた。でも、それがテレビ見たさのタンカー接近が原因かもしれない、なんて、想像すらしたことなかった。いまはコールタールはない。けれど珊瑚も消えてしまった。

 しかし、まだまだ与論はきれいである。これをめざして若者たちが熱病のようにむらがってくる。平凡なサラリーマソであり、普通の学生であるだろう彼等が、異様な(?)いでたちで島の中をかっ歩する。新しい食料品店がたち、簡易宿泊施設がどんどんできていく。島の各所が昔日のおもかげを大きく変え始め、人々は商売のうま味を知るようになった。そして少くはない現金収入と引きかえに、人々が何かしら大事なものを失ないつつあるという実感はいずれ来るだろうが、いまはまだない。要は、せっかくのもうけるチャソスをみすみす逃がす法はないのである。

 商売経験は浅いのに商売のうまみを知ってしまった果ては、商売を無くすというごく単純なことだった。ぼくたちは「大事なものを失」ったろうか。少なくとも、島の人の心は大丈夫だと思う。一方、「若者」を「異様な(?)いでたち」とは、子どものぼくは思ってなかった。これは、大人にとっての衝撃を語るものとして受け止めようと思う。

 さて、この若者たちは勢いのおもむくところ、これからもどんどんはいってくるに違いない。そして、おおかたの者が自分の振舞いたいように振舞って、別天地の生活を遊び楽しむことであろう。この際、彼等が地元民の迷惑など考慮に入れてくれると期待することはできぬ。もともと観光客というのはどこにあっても無責任な人種なのだ。その上、彼等の大部分は経済的にも余裕のない人たちであるだろう。無計画というか、かなりに成行きまかせの旅行であろうから、金がなくなれば「かせげばいい」とし、またその手段を選ばないことも十分に考えられるのである。こういう野放図を含めて、これが現代の若者の天国であるとするなら、それは世の親たちが自分の息子や娘にはどうしてものぞかせたくない楽園であるにちがいない。若者たちにとって別天地である同じ場所が、島の住民にとっては日常の生活の根拠地であると知ることはきわめてたいせつである。

 「若者たちにとって別天地である同じ場所が、島の住民にとっては日常の生活の根拠地であると知ることはきわめてたいせつである」という認識は確かに求めてよいことだと思う。ただ、ここではその心配のあまり、旅人は少々悪人に描かれすぎている。でもそれも同時代の心配のなせる業だ。

 牧が取り上げた二つのテーマは、与論を素材にしながら、そこに奄美の問題の象徴を見たのだと思う。与論への真摯な向き合いに感謝したい。

 ところでこの引用はぼくの好みによるもので、牧の関心はもちろんまず、徳之島に向けられている。

 父の死はあまりにもアッケなかったが、年前においても単刀直入、直情径行型の人間であったらしい。喜怒哀楽の衷情が豊かというか、激しく大きく、酔って興に乗ると裸踊りまで辞さず、勢いあまって遊女のところに轟沈することも再三であったとか。
 サソシルを抱いて「ラ・クソパルシータ」の曲を奏でながら、バラバラと落涙するかと思え、ふと思い立って「俺の唐手を見ろ」とばかりに診療虫のガラスだなを血にまみれた手と足で、つぎつぎに打ち割ていくのであった。また、あるときほ麹小足にはいっていき、逃げまどう鶏どもを片っぽLから残らず締め殺すといった具合で、こんな時のオヤジは子ども心にも無気味な存在として映った。すでに四十五、六才にはなっていたはずであるのに自らの感情の異常なまでのたかぶりは、尋常の手段で制禦できなかったのであろうか。

 思うにこの種の狂気-というよりは、熱っぽい人間味と評価したいのだが-は、奄美五島の中でも徳之島の人間がいちばん多く持っているのではあるまいか。飲む紅も、踊る紅も、また遊ぶにしても、とことん倒れるまで享楽しなければ後味が惑いとする気質は、生命をその極限において燃焼させたいとするその燃焼のさせ方に問題はあるとしても、父の島の人たちには普遍的に見られるひとつの特質であるように思えてならない。そしてこれは、別に理論的に抽き出されたものでなく、宗教上の信念にもとづくものでもなく、ただ生命の欲求のままに、遠く父祖から引き継いだ血の騒ぎの故に、そう生きるしか仕様がないのだといった具合に受取れるのである。

 牧はこの「血の騒ぎ」にたびたび言及している。これは徳之島が奄美一ではないか、と。たしか、徳之島出身の作井満も「徳之島野蛮」という言い方で説明したことがあった。闘牛といういかにもそれらしいイベントも徳之島で盛んだ。

 これを外側から理屈づけてみようとすると、大和勢力と琉球勢力の波をともに受けていること、しかし波をかぶる最初の島ではないこと、18世紀に、7人に1人という巨大な餓死を経験していること、そしてそびえる山があること。そんなことを漠然と思い浮かべるが、しかしこの「血の騒ぎ」の文章に触れて、徳之島は違うなというよりも、ぼくも同じだと思った。むしろ、自分でも持て余すほどのこの「血の騒ぎ」としかいいようのない熱情は、個人的なものではなく、島ん人(しまんちゅ)に共有されたものではないか、と。そう、まさに、「そう生きるしか仕様がない」という宿命的なものとして。そのやむなさに言葉を届かせているのが、『われ島ン人を愛す』の深さだと思う。

 『われ島ン人を愛す』には島尾敏雄も書評を寄せていて、そこでも「日常の中ででもおさえることはむずかしい」「執着心のたかぶり」に触れている。

 さて牧哲也は故郷の徳之島を回想するときにそのこころがあやしくざわめくのをおさえることができないようだ。特に亡父の生涯に於いて故郷のすがたが象徴的にあらわれ、天城町のふしぎな町政問題に対しては、故郷に向かって具体的な姿勢を迫られるもののように行動しないわけにはいかない。彼の故郷への思いが熱っぽいのは、孤絶された故郷のすがたが裏打ちされているからだろう。たとえ無意識の中ででも故郷の孤独な広がりに対してのよりいっそうの執着心のたかぶりが認められるからである。彼は熱中する自らのかたむきを故郷のこころと思い、それは彼の日常の中ででもおさえることはむずかしいように見える。たとえば囲碁の世界へのひたむきな傾斜は名瀬に棋院支部を設ける行動に到達しなければおさまることはない。

 さて私は、奄美の(もしくは徳之島の)孤独な混沌の、外がわからでなく内がわからの記録を、彼の此の薯に見るわけだが、それは孤独な環境に投じられたひとつの魂の精神軌跡がどんなかたちを捕きだすかの試み、となってあらわれているように思う。つまりひとつの無垢の魂が孤独な島の環境にいどみかかる攻撃なのではないか。熱いこころで折々の痛みにたえながら、彼自身の表現を確かな自立に導きたいと願望しているように見える。その鏡わぬこころで島の孤独の真髄にふれたとき、思わず表現は確かなひびきをかきならす。

 「孤独な島の環境にいどみかかる攻撃」というところ、これはひとり牧のことだけでなく、自分のことを言われている気がした。ぼくが書くのも、まさにそれではないか、と。こう言ってもらえたなら、本としてはもって瞑すべしというものではないだろうか。

 牧は囲碁狂である。そしてぼくの父とひとつしか年齢が違わない。牧がこの本を1971年に出したとき、ぼくたちは与論にいたから、重なる時期があったのかわからないけれど、本にある住所は鹿児島に移って以降の、ぼくたちの居所の近くだ。牧は、同じく囲碁狂だった父と対局を持つことはなかったろうか。そんなことが気になってくる。

 この本は、syomuさんが貸してくださった。奄美の図書館にならきっとあるだろうけれど、国会図書館にはない。syomuさんがこの本を印象にとどめ父親の書棚から拝借して手元に置くことがなかったら、ぼくが借りることもできなかっただろう。「血の騒ぎ」のつながりだと思った。

Makitestuya

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2009/07/02

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」9

 さて、この400年に際しては、道州制の問題が付随してきたり、奄美として鹿児島に謝罪を要求するという声があったり、琉球として日本の植民地支配に異議申し立てをするという声も出ています。ぼくは今日、そういうことに触れませんでしたが、それはそういう問題は関係がないと思っているわけではなく、そこに連なる材料であると考えています。ただ、ぼくたちは戦争であれ、薩摩軍であれ、米軍統治であれ復帰であれ、いつも問題は抗いようもない巨大な波として訪れて、そこで正体を失って右往左往してきました。だから、いきなり大文字の問題として考えずに、身近なところから始めたいと思ったのです。

 ぼくはむしろ、ぼくのブログに寄せられた、「知ったところで今更どうしようもない。知らないなら知らない方が悩まずに済む」という奄美縁で本土育ちの20代の声に応えることを切実なこととして考えてみたいと思いました。これはぼくの言葉ではなく、ぼくの好きな文芸批評家の言葉なのですが、同様の問いかけに対し、彼は、「歴史を引き受ける義務はないが、歴史を引き受ける自由はある」と応えていました。

 ぼくも、同じように、奄美の歴史を引き受ける義務はないが引き受ける自由はある、と答えたいのです。ぼくにしても奄美の歴史を知らず、でもきっかけがあって調べると、そこで理解できることのなかには、自分の困難の由来をよく教えてくれるものがありました。それを知るということは、よりよく生きていくための術を教えてくれるわけです。この20代も若い奄美世代に対して、「知ったところで今更どうしようもない」かどうか、長い目で考えてみてほしいと思う点です。

 奄美の人は、自身を隠すことによって生きてきました。でも、それでは終わらないと思います。ブログをやってこの4年間の間に、ぼくは似た二つの問い合わせを受けました。自分の何世代か前はどうも奄美らしい。でも、祖父母も両親もそんなことを話したことはなかったので、ぼくは知らない。知りたくて休みを利用して島に行き、いろいろ聞いてまわったけれど、短い滞在日数もあり、知ることができなかった。ブログをやっているあなたなら何か知ってないか、というものでした。

 その声は具体的で切実でした。当然ながら知らない自分をとても歯がゆく感じました。隠す人は、苦労を自分の代で終わらせようとして隠すのでしょう。でもそのことによっては終わらないのです。知らない子はこうして奄美ルーツを探し始めるのですから。

 だから、鹿児島にいる奄美の方にも、表現をしてほしいと思います。たとえば、さきほどブログを書いているという方は一人いらっしゃいました。インターネットはたかがインターネットにしか過ぎません。でも、考えたり想像したりする世界がビジュアル化されて広がっている世界だと見なせば、そこで存在することもまたある存在感を示すことにつながります。奄美つながりのブログについていえば、奄美にいて奄美のブログを書いている人は大勢います。もう一方、奄美の外にいて奄美のブログを書いている人もいます。しかしそうやって見渡すと、鹿児島にいて奄美のことを書いているブログが少ないのに気づくのです。ブログは一例に過ぎませんが、このなかから奄美語りのブログが生まれるのを期待しています。

 最後は与論の言葉を交えて終わらせてください。とうとぅがなし。ありがとうございました。


◇◆◇

 質疑応答のなかで会場から寄せられた声。共感の声もいただいたが、照れくさいのでそれ以外を。

・奄美は戦後、沖縄に差別された。
・大山麟五郎が小学校のとき、学級のみなが「日本人」と認めてほしくて、「ワンダカヤー」と声を挙げたエピソードがあるが、自分のなかにはいまもそれに似た気持ちが残っている。中国の人に、「お前は何民族」かと聞かれて返答に悩んだ。中国の人は、「きみは琉球民族だ」とはっきり言ったが、自分は「大和民族」なのか「琉球民族」なのか、悩みに悩んで「大和民族」と答えた。が、いまでもすっきりしない。
・400年の問題は相当、大きな問題ではあるが、奄美に限らず、島出身というだけで自分も差別を受けた経験がある。奄美だけではない面もあることを覚えておいてください。

(2009/06/20、15:30-16:30
鹿児島市山下町4−18 鹿児島県教育会館3階会議室にて)

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カルチュラル・タイフーン「奄美から問う」懇親会

 持田さんから案内状をいただいた。こんどの日曜のカルチュラル・タイフーン「奄美から問う」は、その後、懇親会を開きます。よろしければいらしてください。パネルディスカッションに参加できなかった方も歓迎です。


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カルチュラル・タイフーン懇親会&
喜山荘一さん『奄美自立論』出版を祝う会

7月5日(日)19時30分予定
 
場所 高円寺 LIVE & DINING BAR Reef(リーフ) 
〒166-0003 東京都 杉並区高円寺南3-46-9 プラザU B1F 
TEL 03-3313-5980
高円寺駅南口から徒歩2分

文化台風(Cultural Typhoon 2009)

パネルディスカッション
「奄美から問う 薩摩侵攻/侵略400年」
7月5日(日) 午後4時30分〜6時10分
東京外大 府中キャンパス  「研究講義棟」102号室 
 (「武蔵境」駅から西武多摩川線「多摩」駅で下車)

◆パネラー
 酒井正子、
 前利潔、
 喜山荘一
 司会/大橋愛由等(まろうど社)

東京外大 府中キャンパスへの交通アクセス
府中キャンパスのイラスト


Reef_2

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2009/07/01

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」8

 もうひとつ、大江修造は南海日日新聞に「黒糖と明治維新」を書いています。大江は、大統領オバマが「核を使用した唯一の保有国としての道義的責任」として、「核のない、平和で安全な世界を米国が追求していくことを明確に宣言する」と述べたことを引用して、黒糖の問題に結びつけています。

 このオバマ演説に関連して外国では日本こそ被爆国として、核拡散防止条約(NPT)にリーダーシップを発揮すべきであるという意見がある。
 ひるがえって奄美の黒糖問題を考えるとき、奄美人が主張を続けるべきであろう。具体的には義務教育の教科書に一行「奄美の砂糖が明治維新に大きく貢献した」と加えさせることを目標に努力することが必要であろう。

 大江がオバマの言葉を引くのは決して大げさなことではありません。それは奄美の問題として考えることができる面を含んでいます。たとえば、核に対して、これまでアメリカからは、「原爆のおかげで戦争は終わった」と言われてきていたのです。それが、「核を使用した唯一の保有国としての道義的責任」となったということには千里の径庭があると言うべきです。たとえば、「原爆のおかげで戦争は終わった」という言い方は、原口虎雄の口吻を思い出させます。

隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併合されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。(『鹿児島県の歴史』1973年)

 これも「原爆のおかげで戦争は終わった」と同型であることが分かるでしょう。
 ぼくはこれを強者の論理と呼んできました。強者の論理は、加害を感謝の要求にすり替え、その内実を不問に付すという形をしています。オバマの発言は、この強者の論理から歩みを進めているのが分かります。
 しかし、この強者の論理は、強者の論理によってのみ支えられるのではなく、それを受ける側が、被害を感謝のにすり替え、その内実を不問に付すとしたときに成り立ちます。内実を不問に付すという構造は共通しているのです。

 そこを抜けだすという意味で、大江のいう教科書に「奄美の砂糖が明治維新に大きく貢献した」を加えるのは意味のあることであると考えます。しかし、大江が、

奄美侵攻四百年の年に当たり、このような活動を展開する好機である。教科書に「奄美の砂糖が明潜維新に大きく貢献した」と記載されることにより、長年の奄美人の心にある黒糖地獄に対する怨念は昇華する。奄美人の黒糖地獄DNAを書き換える効果がある。

 と続けるのには立ち止まる必要があると思います。

 400年に際して、怨念ばかり言っていても仕方がないという声があります。そして確かにそうだと思うので反省するのですが、しかし、怨念は怨念を止めましょうということによっては止みません。それは、正体を突き止めること、その原因があるならそれを取り除くことによって、止めることができるのではないでしょうか。そういう意味では、「黒糖」は怨念の正体のひとつではありますが、その全てではありません。変な話ですが、もし「黒糖」だけであるとするなら、明治維新のほぼ十年前に惣買入制の始まった与論の民の末裔が、こうして生き難さを感じていることは無かったのではないでしょうか。そこには、ぼくの言葉でいえば、「二重の疎外」があるという視点が必要だと思うのです。

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「中部財界」の7月号に

 月刊誌「中部財界」7月号の「本のレストラン」というコーナーに、『奄美自立論』の書評が載っている。載っているといっても現物は見ていない。目次にあったからわかった。

 「月刊中部財界」2009年7月号

 読みたい。

 それにしても、地元紙はともかく、日経にしても中部財界にしても経済系が反応してくれるのはどうしてだろう。不思議だ。ビジネスのかけらもない内容なのに。


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