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2009/07/13

「両属生かし、芸能はぐくむ」

 2004年に亡くなった東郷実正さんが伝承していた「アンマメグヮ」という島唄。

 シマジヒジカマとぅ平安統主がうかぎいくさはぐらかちしまやなぎてぃ
 「住吉のヒジカマと平安統主のおかげで、薩摩軍との戦いを避けて、島は平穏無事であった」

 これを受けて、沖永良部の先田光演の行った解説の記事(「南海日日新聞」2009/07/05)。

 1609年4月、琉球王国は薩摩軍に敗れる。その後、薩摩藩は北側の奄美の島々を奪い取り、11年から直接支配することにした。しかし、薩摩藩は奄美の島々を領土にしたことを隠して「琉球国の内」であると言い続けた。これは琉球王国が行っていた中国貿易の利益を得るための言い訳だった。
 中国は琉球国が臣下であるという関係から使者を派遣して交易をしていた。中国の品々は高い値段で売ることができた。薩摩藩はこの利権を狙った。琉球国を薩摩が支配したことを中国側に知られると」貿易ができなくなる恐れがあり、奄美の島々を「琉球国」であると隠蔽してきたのだ。

 ここは隠蔽を二重に言う必要があるところではないだろうか。まず、対中国貿易は幕府の意向であり、その実現のため琉球は国家として存続したと同時に、薩摩による支配は隠蔽される。しかし一方、奄美は琉球から割譲され、薩摩の直接支配を受ける。そしてこのことは幕府にも隠蔽される。奄美は、中国に対しては、薩摩による直接支配が隠蔽され、ということは、「琉球国の内」になり、それとしては幕府、薩摩による間接支配が隠蔽される。かつ、幕府に対しても薩摩の直接支配は隠蔽されるのである。ここに、琉球が国家の破壊されなかったことを逆手に存続の道を探ることができたのに対して、奄美はその契機を失う根拠があった。

 これは奄美の島々の帰属がはっきり定まらなかったことを意味している。なんとも不思議な「両属の位置」に置かれたのだ。このような歴史を現在の評論家たちは、薩摩藩に支配された奄美の歴史は抑圧され、自信喪失し、従属的な島民性になってしまったと論評している。永良部の歴史をひもとくと、「両属の位置をたくましく生き抜いてきた先人たちの歴史を知ることができる。沖永良部は「踊りが年貢であった島」といわれる。永良部の土地は生産性が低く、薩摩時代は奄美で一番貧しい小島だった。鹿児島役人たちは島の人たちに年貢と同じように定期的に踊りを見せるよう命じたそうだ。少ない年貢を補うために踊ってもらったのだろうか。各集落は競って上手な踊り、面白い踊りをつくり上げたと容易に想像できる。

 ヤッコ踊りは壮観だ。薩摩役人は大いに喜んだに違いない。踊りの動作が鹿児島のヤッコ踊りだからだ。鹿児島では今でも奴という男踊りが神社の奉的舞として踊られている。薩摩役人にとってこの上もない慰安になったことだろう。島の人たちにとっては琉球の歌詞と音階で歌われるヤッコは紛れもない自分たちの踊りとして親しみを感じたはずだ。
 先人たちは薩摩、琉球に両属していたことをプラス思考でとらえ、自分たちの芸能文化を豊かにはぐくんできた。苦しく貧しい時代にお互い励まし合い、支え合い、新しい芸能を生み出すことで自立的な生き方をしてきたということになる。

 踊りは鹿児島で歌詞と音階は琉球という型には、薩摩への従属も尊重も、その逆の対抗も感じられる。いびつでもあれば痛ましくもあり、面白さもある。でも、痛みの伴った切断から文化は生まれるものだとすれば、沖永良部は文化を生んだ、あるいは、沖永良部が生んだ文化は、「踊りは鹿児島で歌詞と音階は琉球」という形になったと評価することができる。その切実さからみれば、「プラス思考」や「自立的な生き方」は、上ずって聞こえないだろうか。同様に、沖永良部が「薩摩時代は奄美で一番貧しい小島だった」というのも、わずかに演出がかって聞こえる。それより、「踊りは鹿児島で歌詞と音階は琉球という型」に沖永良部らしさを、ぼくは感じる。


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コメント

はじめまして。
私は沖永良部島の世之主の子孫と言われている宗家の親族で鈴木と申します。
私は大阪在住ですが、お爺様が昭和の初期に世之主神社の神主をしており、当時に開催された親族会で先祖の調査依頼をされ、色々と世之主との繋がりを調査しておりました。私はそのお爺様の資料をもとにしながら、意思を継ぐ形で昨年から様々な調査をしております。調査内容などはブログに記載しております。

こちらのブログ、とても勉強になるので拝見させてもらっております。
ここに書かれているアンマメグゥの島唄ですが、youtubeにもあったので聴いてみたのですが、歌詞が全く分かりませんでした。もしご存じであれば、教えて頂けませんでしょうか。当家の先祖である平安統が薩摩藩と対応した際のことが歌の歌詞となっているようなので、親族としてはとても興味があります。

ご存じであれば、どうぞよろしくお願い致します。

鈴木裕美

投稿: 鈴木裕美 | 2021/04/30 01:50

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