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2009/06/18

「日本人になりすます琉球人」

 5月29日、南海日日新聞記事。「薩摩侵攻400年 未来への羅針盤」16。担当は、渡辺美季。

 1832年、日本で出版された『琉球年代記』。

 ある時、日本人の八郎が海難事故で琉球へ漂著した。国王の命令により四名の琉球人が八郎らを日本へ送遷しようとしたが、途中で再び遭難し、今度は中国に漂著してし事つくすると中国の陸地を目前にした琉球人が悲しげな顔をして言った。
 「小国の浅ましさで、中国に対しては日本との関係を隠しています。今のわれわれの状態を見られたら、琉球と日本の関係が中国にばれて、われわれは殺され、国家の惑いを招くでしょう」

 そこで、八郎は一計を案じる。

髪をそってちょんまげを結い、和服に着替え、日本風の偽名を名乗り、日本人のふりをすればよい、と提案したのである。琉球人がこのアイデアに従ったところ、果たして何の問題もなく上陸でき、「日本人」として救助されたという。

 これは物語上のことだが、こういう形で、琉日関係の隠蔽を、日本人は知る機会があったということ、それはぼくは知らなかった。渡辺はこの物語の背景にあった事実を指摘する。

例えば一七一四年に中国に漂着した薩摩船には、二名の琉球人が同乗していたが、彼らは上陸前に包丁で髪を切って日本人の姿になり、金城は金右衛門、呉屋は五右衛門と変名している。もちろん琉球と薩摩の関係は中国に対して内密にされた。

 やれやれ、とぼくたちは思う。『薩州人唐国漂流記』では、沖永良部の島人が同じような場面で月代をし、「登世村を村右衛門、島森を島右衛門と名付け」たのを知っている(「琉球にもなれ、大和にもなれ 2」)。こんどは、「金城は金右衛門、呉屋は五右衛門」か、と。

 渡辺によれば、『琉球年代記』の作者は、「この漂流記は…ただ琉球人が月代を剃って中国人の目をくらましたおかしさを摘んでここに載せるのである」と書かれていることから、

どうやら江戸時代の日本では、「琉球人が日本人になりすます隠蔽行為」は一般には知られていない珍談であったこと、またそれを「おかしさ」として受け入れることのできる社会状況が存在していたことが推測できる。

 渡辺が言うのはこういうことだ。

 薩摩侵攻後の琉球の状況は、往々にして「薩摩支配の時代」「日中両属」などと表現されがちである。しかしそのような言葉では、ここに述べてきたような「中国(清)-琉球-日本」の複雑な関係は決してとらえきれないだろう。一方で江戸時代の日本の人々は、それらをひっくるめて「おかしさ」として受け止めようとした。そのやわらかな姿勢に思いをはせながら、われわれはここでいま一度、先入観にとらわれずに侵攻後の琉球の姿を眺め直してみる必要があるのかもしれない。

 ここのところ、どう眺め直すということなのか、ぼくには難しい。

 ぼくは漂着時の琉球人の隠蔽行為は、いまのぼくたちはまるでコントのようだと笑いそうになるが、でも彼らにしてみたら命がけだったのだと、見なしてきた。ぼくにとって、このエッセイからの学びは、この隠蔽行為を日本人は知る機会があったということ、そしてそれを今のぼくたちのように「おかしさ」と捉える余裕があったということだ。それは日本からみた琉球に対する距離の遠さを物語ると思う。自分たちのことではないという距離感が、「おかしさ」を生んでいる。それが、渡辺のいう「やわらかな姿勢」の背景にあるものだ。

 もう少し、想像して、「眺め直し」を考えてみたい。

 付け加えれば、もうひとつ思うのは、琉日関係の隠蔽を日本人は知るきっかけがあった。しかし、奄美が「御届けなし」の「蔵入り地」であったことは知る由もなかったのではないかということだ。



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