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2009/06/22

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」1

 20日、「奄美を語る会」で話したことを抄録したい。参加していただいた方は300円を支払って聞いているのですが、場内の空気や橋口さんの話を載せるわけではない、ということでお許しください。

◇◆◇

 こんにちは、喜山と申します。ぼくは1963年の与論島生まれです。

 鹿児島で人前で話すのは、高校のとき以来です。これまで鹿児島で人前で話すことがあるとは夢にも思っていませんでした。ただ、鹿児島で奄美のことを話すのであれば、話は別です。そういう意味でこいういう機会をくださった仙田さんに感謝いたします。「奄美を語る会」が和眞一郎さんらによって始められたのは1981年と聞いていますが、ぼくはその頃、ここを出たいという一心でいました。とにかく鹿児島を出たい、と。もしあのとき、「奄美を語る会」を知っていれば、出たいというだけではない気持ちももてたのではないかと反省します。

 反省するということにはもうひとつこういうこともあります。ぼくは学生になって鹿児島を出てからは、帰りたい場所といえば与論でしたから、しょっちゅう与論に帰りました。しかも行き方も、鹿児島を経由していくと気分的にきついものですから、那覇を経由して、那覇を経由すると気分的にもいいので、那覇経由で与論に行きました。島では、帰りは親に会って帰るのかと言われましたが、いれるだけ与論にいて、また那覇経由で東京に戻るなんてことをしていました。

 ところが、二年前、父が突然、他界いたしました。何の予告もなく、突然のことだったのです。今回、鹿児島にいるのも父の二年祭にきたのでした。ぼくは与論に行くことばかり考えてきたのですが、思い違いをしていたとすれば、親はいつまでも元気ということです。そこで自分の生き方を反省させられました。ぼくにとって鹿児島はいたくないのにいなきゃいけないところだったわけですが、だからなるべく行かないで済ませてよかったのかと思ったのです。

 そう思うと、もうひとつ気づくことがあります。ぼくは今回、お誘いを受けてまたとない機会と、うかうかと引き受けてしまったわけですが、その際、テーマはやっぱり1609年のことだろうと考えました。今年、400年をめぐって各地でイベントが開かれています。那覇、大島、徳之島、沖永良部島など、そして年の後半からは東京などでもあるようです。

 しかし、よく考えてみると、400年のことは、ここ鹿児島で語られるのがもっともふさわしいひとつではないでしょうか。なぜなら、400年の意味を、最大重力で引き受けてきたのは、ほかならぬ、鹿児島にいる奄美の人だからです。そしてそうであるなら、ぼくはやっぱり語るべき主役ではないと思います。本来であれば、みなさんが話しをして、ぼくがそれを聞くというのがあるべきあり方だろうと思います。だから語るべき主役ではなく、主役が語る機会があることを願いますが、今回は、鹿児島を通過した者としてご容赦ください。

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