« 「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」ver.2 | トップページ | 「奄美にとって1609以後の核心とは何か」7 »

2009/06/29

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」6

 では、400年の向こう側に行くには、奄美が「存在しないかのような存在」としてあるなら、奄美を現出させること、奄美が姿を現すことが重要だということになります。それは鹿児島を開くということではないでしょうか。

 まず、ぜひとも断っておかなければならないのは、ここにいう鹿児島とは、まず政治的共同体としての県という意味であり、また、思想としての鹿児島という意味で使っており、現にともに生活し交流している具体的な人々のことを指しているわけではないということです。人を指す場合があったとしても、思想や政治を担う個人という意味でのみ使います。それを念頭において聞いていただければと思います。 

 ぼくは鹿児島を評するによく「維新止まり」と言ってきました。明治維新以後の歴史が持てないでいるという意味です。そしてその「維新止まり」の核心にあるものとして、他者の不在と個の不在を挙げてきました。個というのは個人の不在という意味合いです。

 他者の不在というのは、たとえばこういう文章があります。2007年に『薩摩のキセキ』という本が出ていますが、そこにはこう書かれるわけです。

日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。

 これを見てぼくなどは愕然とするわけです。西郷は偉大に違いないが、「ほとんどの日本人がそう言うに違いない」というのは妄想だと感じられます。また昨年には、原口泉が『維新の系譜』という本を出しています。それは、のっけからこう始まるのです。

日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは「明治維新」ではないかと思います。

 これを見てもかなり不可解な印象を持ちます。明治維新がドラマであるに違いないにしても、どうしてそれが、日本人全員があたかも最大のドラマと思っているとどうしてみなせるのでしょう。ぼくは何もくさしたくて本を読むわけではありません。維新以後の歴史をつくろうとしている優れた思想に出会いたい。そう思って買って読むわけですが、のっけからこれだと大きく躓いてしまうわけです。なんというのでしょうか、自分たちの思っていることは日本人全員がそう思っているに違いないというところに、他者、つまり自分たちとは考え方や価値観の異なる人がいることが想定されていないと言えばいいでしょうか。

 去年の「ふるさと納税」の折、知事伊藤は県の政策を「第二次戊辰戦争」呼びました。これなども立場の違う人が見たらどう思うかという想像力の欠如した他者不在の見本のような言葉です。がっかりするわけです。

 個の不在は、例の「議を言うな」という言葉です。これはぼくのときとは経験の誤差があるかもしれません。現在でも威力ある言葉なのか、そうではなくなっているのか、つぶさには知らないので、誤差があったら教えてください。ここでは、相互の対話により物事をよくしようという機運がないことを指しています。

 ぼくは、県あるいは思想としての鹿児島には、この他者の不在と個の不在を感じてきました。それが維新止まりの核にあるものだと思っています。


|

« 「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」ver.2 | トップページ | 「奄美にとって1609以後の核心とは何か」7 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「奄美にとって1609以後の核心とは何か」6:

« 「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」ver.2 | トップページ | 「奄美にとって1609以後の核心とは何か」7 »