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2009/06/28

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」ver.2

 7月5日のレジュメ。ほぼこれで行こうと思うが、もう少し考えたい。


2009年7月5日(日) カルチュラル・タイフーン2009
「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」
   
1.存在しないかのような存在としての奄美

「奄美にとってこの400年は何だったのか?」。
-存在しないかのような存在

(1)沖縄にとって

1)「琉球は大和ではない」
1617年「令達」
 「琉球生国の者日本人の髯髪衣裳に相かゆる事、停止せしむべし」
1624年「定」
 「日本名を付け日本支度を候者、かたく停止せしむべきこと」

2)「奄美は大和ではない」
1699年 喜界島代官宛て達書
 「道之島人儀は、島人相応之姿にて、名も附け来り候通り」
1728年「大島御規模帳」
 「島中の者共、日本人の如く髪を刺し売買のために他出致す儀、停止せしむべし」

3)「奄美は琉球ではない」
1623年「大島置目之条々」
 「諸役人は琉球に至り、はちまきのゆるしを取る事、停止せしむべし」
1728年「大島御規模帳」
 「島中の者、本琉球に至り、はち巻の免取る間敷事」

・奄美 「奄美は琉球ではない、大和でもない」二重の疎外
・沖縄 「沖縄人と大和人」の凝固化。
    「奄美は琉球ではない」→「奄美は大和である」という見做しへの転化


(2)鹿児島にとって

1)本土上陸による存在の顕在化

・アリモドキゾウムシ・アフリカマイマイ・マングース

「しかし奄美ではその病害虫のただ中に住み、その撲滅対策はいっこうはかどらないのです。病害虫をとじこめるために奄美を封印するのではなく、島の中から病害虫を根絶やしにする方法が、どうして積極的に考えられないものでしょうか」(島尾敏雄、1967年)

2)「ぼかし」としての奄美

「とにかく奄美は、「負」として位置づけられる。奄美の伝統的な慣習・信仰は、未開・野蛮・迷信であり、前世紀の遺物として早急に奄美人が脱却すべきものとして規定される。それでは「正」というのは、なにかといえば、それは身近かな鹿児島であり、それに連なる日本本土のそれであった。だからして、奄美を風化し、消去すること、日本人として生きることが奄美の教育の目標として高く掲げられることになった。奄美の明治・大正時代が近代化への準備、すなわち胎動の時期とすれば、昭和の前半は、皇民化の時期とでもいうべき時代であった。
 奄美人の出自を「ぼかす」という行動様式は、いうならば時代が、教育が生みだした奄美の近代の産物であったといえる。
(山下欣一、1989年「奄美人のアイデンティティをめぐって」)

「 会話

お国は? と女が言った
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずつとむかふ

ずつとむかふとは? と女が言った
それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で歩くとかいふやうな、憂鬱な方角を習慣してゐるあの僕の国か!
南方

南方とは? と女が言った
南方は南方、濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帯、龍舌蘭と梯梧と阿且とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被って寄り添うてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどゝ談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯

アネッタイ! と女は言った
亜熱帯なんだが、僕の女よ、眼の前に見える亜熱帯が見えないのか! この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所」                   (山之口獏、1911年)

・「日本人になる」という志向性は共通だが、失語の色合いは異なる。
・奄美は奄美の「会話」を欠いている。と同時に、奄美は奄美の「会話」を生みにくい。

3)隠された直接支配地

「第六十三 道之島内地附属」
「問て曰、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て曰、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし、故に代々の判物皆替ることなく拾二万三千七百石余なり、道之島人今に至り容貌を改めざるも是が為なるべし、琉球へ封王使渡来は中山国第一の大礼なり、此時には道の島より鶏、玉子、豚、薪の類を米にて調納する遺例ありて五島皆然り、島の大小に因て其品多寡ありとぞ、此時も外には何も交際あることなしと琉人より聞けり。」(汾陽光遠「租税問答」、1874年)

・「黒糖収奪」の激化を用意(隠と離)
・植民地像への接近
・配慮不要が空気になる

4)山中貞則の謝罪

「とはいっても侵攻の事実に変わりはない。またすでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。」(『顧みて悔いなし 私の履歴書』2002年)

・良心の美名のもとにも黙殺される。


2.奄美の現出。奄美が姿を現すこと。

(1)強者の論理の解体

「(前略)理屈をつければいくらでも征琉の口実はできるのである。要するに戦国末期から近世初期にかけておこなわれた覇者の国家的統一事業の一環にすぎない。強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、日本国中に弱肉強食がおこなわれて、結局徳川将軍による幕藩体制に組みいれられることになったのである。これまで同じ日本民族でありながら、南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、慶長十四年の征琉の役以後、日本の統一政権下にはいったといえる。隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併合されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。」(原口虎雄『鹿児島県の歴史』、1973年)

・加害を感謝の要求にすり替え、加害の内実を不問に付す。
・「原爆のおかげで戦争が終わった」と「米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある」(大統領オバマ)の間には千里の径庭がある。

(2)奄美の発語

1)七島灘を浮上させよ - 薩摩果つるところの奄美

「また、鹿児島人の誇りと自信といえば、個性的な黒い輝きを持った薩摩焼、泥染大島紬、黒麹焼酎。このほかにも、黒毛和牛、黒豚、黒マグロ、黒酢、黒潮、黒鳥、黒瀬杜氏、黒茶家(酒器)、黒の瀬戸、黒真珠、黒糖酒など数多くの「黒」が鹿児島には存在する。江戸時代から明治維新以後、黒船や蒸気機関車などの「黒」が新しい時代を象徴する色だったように、独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。」(原口泉「鹿児島の文化と歴史」『織の海道』、2005年)

「奄美の魅力を問われれば、私は一番に黒糖焼酎を挙げたい。理由は芳醇いだけでなく、その甘い香りが奄美の世界に誘ってくれるからである。黒糖焼酎は奄美の歴史が長年にわたって育んできた黒潮文化に違いないと思う。(中略)
 奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。黒豚(島豚)、クロマグロ、タロウサギ、泥染、黒酢、黒麹…などなど、奄美の魅力は尽きない。」
(原口泉「奄美の黒い輝き」『それぞれの奄美論・50』、2001年)

2)県境を越境せよ - 奄美と沖縄をつなぐ

「その上に折々出逢う島の人の物腰や心持にも、またいろいろの似通いがあるように思われた。海上は二百浬、時代で言えば三百年、もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが、やはり眼に見えぬ力があって、かつて繋がっていたものが今も皆続いている。」(柳田國男『海南小記』、1921年)

・奄美の自己発見

(3)「無言の支え手」から「繋ぎ手・助け手」へ

・状況   沖縄の「琉球王国の主体性」の強調と鹿児島の維新止まりの再生産。
・奄美   「琉球王国」と「明治維新」の無言の支え手。
・鹿児島へ 奄美の顕在化が、維新以後の歴史をつくる助けになる(他者の発見)。
・沖縄へ  「沖縄人と大和人」の間に緩衝帯を生む助けになる(隣人の発見)。

 もうすぐ皆既日食だが、日食の後に姿を現すのは太陽だけでなく、奄美(とその隣人としてのトカラ)の地理と歴史が姿を現さなければならない。


Kuroshio2

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