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2009/06/28

「島津氏の琉球出兵400年に考える -その実相と言説-」

 近所なのに行ったことのなかった立教大学。美しく落ち着いた雰囲気で、ここが池袋?と驚く。目的は、「島津氏の琉球出兵400年に考える -その実相と言説-」への出席。東京で参加できる400年イベントのつもりだった。でも、「立教大学史学会 公開講演会」と銘打っているように、研究者と学生の集まりの範囲内の印象だ。その分、琉球弧現地のイベントより、平均年齢が若くなり人数はこぶりになったのかもしれない。印象だけだが、平均40代、人数70弱。

 5時間強かけて8名の発表。まず、その量と質に迫力があった。いただいた資料も充実している。これで無料なのだ。400年はどのようにこの年、語れられているのか。そのことを把握するのに格好の場だった。


◇趣旨説明 荒野泰典。

 一つ。400年について、沖縄では関心が高いのに、本土ではそうではない。この温度差を何とかしたい。二つ。戦闘の経緯を知る。なぜ、徹底抗戦しなかったのか。なぜ、明に救援要請しなかったのか。三つ。この出来事について、日本/沖縄ではどのように語られているのか。

 いつもは「侵略」と言うが、沖縄の教科書では「出兵」という表現を使っているので、それに倣った。


◇「島津氏の琉球侵略-その原因・経緯・影響-」上原兼善

 原稿読み。棒読みに非ず。格調あり。講談の如し。

 『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』は読んでいたが、肉声が本の厚みを増すようだった。1606年に「大島出兵」の計画があったにもあっかわらず、1609年まで行われなかった、その経緯。

 1606年 琉球に冊封使が訪れていた。
 1607年 幕府が対朝鮮渉中。家康、肯ぜず。明に秀吉と同じと思われたくなかった。
 1608年 幕府、対明交渉。島津の出兵を牽制。

 威嚇による聘礼実現の狙いから牽制する幕府と、実行ありきの島津。ぼくが感じたのは、国内の延長に埋めるべき空白エリアのように国外をみなした秀吉の世界観は島津に託されたようにもみえる、ということ。

 1609年5月、尚寧は、明への咨文を託す。薩摩未介入と思われる。尚寧は一島の割譲と嘘をつくが、その一島は伊平屋島。本当は、奄美五島が割譲されていたということなのだが、このときもう五島と決まっていたのだろうか。ぼくは、鳥島と与論島の取引という伊波普猷の文章の真相が知りたくて、上原さんに尋ねるが、知らないというお返事だった。

 この頃の日明交渉のなかに、汾陽理心の名も出てきた。理心は、「租税問答」の光遠の七代前(「汾陽光遠、「租税問答」註。」)。

 琉球の武装の貧弱さは、もともと宗主国明に倣ったものではないか、という指摘も印象に残った。


◇「琉球王国の対応と言説-琉球はどにょうに対応し、語り伝えてきたか-」豊見山和行

 レジュメを見ながらの早口。手ぶりによる強調。

 400年議論のひとつの特徴は、「琉球の主体性」の強調である。豊見山の場合、日琉同祖論以来、本来は日本人なのに、島津が異国風を強いたので偏見が強くなったと言われてきたが、異国風は強いられたのではなくて、主体的な選択であったという文脈で語られた。

 その主体強調の延長で、紙屋敦之の「幕藩制国家の中の「異国」」という位置づけは、「幕藩制帝国下の従属国・琉球」と再定義したほうがいいのではないかという主張になっていった。

 印象に過ぎないが、当たらずとも遠からずの言説の「当たらず」を否定するときに、近代化と劇画化が伴って、その近代化と劇画化の明快さのなかで「遠からず」が捨象されてしまわないかという危惧を感じる。琉球の国家、幕藩制国家の帝国としての強調。王府にたてつく島人の強調は、江戸上りの異国風による偏見の醸成の否定として言うのだが、どちらにも近代化と劇画化が共通していないだろうか。

 ぼくはそれにより、奄美からの贔屓目だが、奄美を含めた琉球理解の必要性の強調に、進展を感じた。

 鳴物停止令(なりものちょうじれい)。聞く範囲では、鳴物停止令とは、高位の人物の死去に際して、「鳴物」を一定期間、禁止するもので、音楽、工事、殺傷に及ぶ。服喪の形なのだと思う。豊見山は、この期間の比較かた、琉球の対外的従属度を、(島津氏)>(幕府)≧(中国)、と考察していた。

 「大島代官記」をみると、1832年12月、島津重豪の死去に際して、奄美への鳴物停止令が出されている。

 もうひとつ、興味深かったのは、琉球としての道之島の対日関係隠蔽に、琉球が主導権を採っていたのではないかという指摘だった。この文脈も、「琉球の主体性」のなかで語られている。ぼくには、1753年の「旅行心得之条々」に先立つ1728年の「大島御規模帳」による、「奄美は大和ではない」という規定には、琉球の働きかけが反映していると思えてくる。

 レジュメのタイトルは、「敗者の戦略としての琉球外交-「唐・大和の御取合」を飼い慣らす-」。


◇「近世説話文学に見る島津氏の琉球出兵-日本人はどのように語り伝えてきたか-」小峰和明

 風貌古典的文学研究者。語気力強し。

 「薩琉軍記」を歴史書であるとともに、文学書としても読む。歴史学と文学とのタイ・アップ。「侵略文学」というジャンルが作れるのではないかという提起。

 「薩琉軍記」は写本によって広がっていったもの。写本は百本以上あって、その数はまだ増えている。わたしたちも、ヤフー・オークションで獲得している。これからも出てくるだろう。写本は、写本を書く人が作者になる。写本とは、読者=作者として広がってゆく。そこに、朝鮮侵略はじめ、東アジアとの関係意識を読みとることができる。

 薩摩の琉球侵略前に書かれた袋中の「琉球神道記」「琉球往来」には、琉球衰微の予見と思われるような記述がある。

 興味深い話だった。前段、「南島」という言葉について、大和からの視線のものであり、使うべきではないという発言があった。いつものように、ぼくはそこまで倫理として捉える必要はないと思った。「南島」という言葉の響きはとてもいいと感じる。


◇「薩摩支配下の琉球外交について」紙屋敦之

 重要なのは、1609年から1879年までの琉球処分まで、琉球王国が存在したということ。ここに、小国の理論がある。この間に、段階を持って琉球が主体性を形成していった。

 紙屋の議論は、近代化と劇画化があまり感じられない良さがあると思う。

 ぼくは思わず、紙屋さんは鹿児島弁だけれど、どこですか?と質問。昔の川内市、と。鹿児島の方で琉球の研究というは珍しいと思うが? 薩摩藩制史をやろうと思っていたが、それをやるなら琉球も重要と指摘されて、琉球に。そしたら先が長かった。しつこく、鹿児島の方が深い琉球理解を示す態度はすごいと思うが孤立もしたのではないか? ぼくはただ、「事実」を知りたいだけだから。さらにしつこく。薩摩藩制史もやってほしい。もう年だから。

 「事実」探究の姿勢が純粋な方にはぼくは脱帽する。

 一方、1609から1879の270年間、琉球王国が存在した、そこに小国の論理があるという視点からは、奄美は琉球王国存在にとっても、無言の立役者であったことを思う。琉球王国と明治維新と。ぼくたちはやはり、ここから、沖縄へ、鹿児島へ、伝えられることがあるのだ。


◇「文学の立場から」渡辺憲司

江戸っ子にとっての薩摩と琉球・<外様雄藩>的脅威の薩摩と<異境>的憧憬の琉球::嫌われた薩摩と未知の憧れの琉球

 「江戸っ子」からの視点が新鮮だった。


◇「フロア発言のための覚書」渡辺美季

 「高校野球ではまず、沖縄を応援する。次は鹿児島」、「侵攻の目的は日明貿易」、「薩摩のやむなさもある」。視点の位置ということを思った。ぼくは、内側から扉を開けていけたらと思う。

 渡辺さんには、「日本人になりすます琉球人」で、難しいと感じたことを質問。当時の人の感じ方に耳を澄まして理解すると、受け止めて、すっきりした。


◇「<薩琉軍記」について>」目黒将史

 地図、が面白かった。『琉球属和録』。「小琉球 大嶋」と「徳嶋」がほぼ同じ大きさ。そこに「与論嶋」が続き、「徳嶋」と「与論嶋」の横に「沖永良部嶋」があった。「宮古嶋 石垣嶋」は一つの島。「八重山嶋」も一つ。成果の論文も読みたい。


 8つの充実コンテンツに、19時前はへとへとだった。

 400年イベントで語られていることに共通しているのは、「琉球の主体性」のように感じる。それを、琉球-薩摩という関係だけでなく、日本や中国、東アジアといった関係のなかで捉えるという視点は広くある気がした。

 得能さんは、庶民視点がほしいと話していたが、ぼくもそう思った。

2009shigakukai

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