« 鹿児島のなかの奄美 | トップページ | 「奄美にとって1609以後の核心とは何か」1 »

2009/06/21

ニ年祭と「奄美を語る会」

 父の霊祭。こんどは家族だけでひっそり行った。神官はスケジュールの都合で、葬儀や一年祭のときとは違う方にお願いした。しかし、父は生前、自分の時はこの方がいいと友人に話していたそうで、父が招いたのかもしれないと思った。しかし、神事の最中、ふと見上げると父の慰霊が目に入るが、なんでそこにいるんだろうと思うのだった。まだ、心の底からは父の他界を認められないのだろうか。

 何事によらず控えめな父だったが、逝くときまでそうだった。それはいかにも父らしいのだが、何もそこまでしなくてもと思う。それを、ぼくはほんの少し、納得してないのかもしれない。けれど、父の子全員そろって、よかった。


 霊祭が終わると、その足で教育会館へ。「奄美を語る会」、参加のため(「奄美にとって1609以後の核心とは何か」)。

 ぼくは二番手だったけど、三十度を超える夏日、冷房なく大きな扇風機のまわる大きな会議室で学校の教室のよう。懐かしい空気だった。

 予想通り、というか懸念した通り、年配の方が多い。どんな語り口にすればいいだろう。少し悩む。引用資料の著者の敬称を略すのは断りを入れればいいだろう。けれどそののっけの村上龍の小説あとがきの引用は、反発を招くんじゃないか。と、戸惑った。

 何人か、頷いて笑顔で聞いてくれる人がいて助かった。でも、大半はそうではない。お年寄りの表情はどうしてもそうなってしまうと思ったが、なかには明らかに反発が伝わってくる表情もあった。ぼくは同世代から若い人に対して、言葉のキャッチボールと笑いで話しを進めることが多いから、うまく乗れない感じはあった。ほんとうは檀上を降りて話したかったのだけれど、そうできなかった。

 けれど、終わった後は、本でしか存知あげなかった方々が声をかけてくれたり、ブログにコメントしてくれるshimanchuさんが質疑応答で話しをしてくれたりして嬉しかった。福岡からは、大山さん玉城さんがいらしてくれた。玉城さんからは400年だけでなく、500年のことを、と面白いアイデアを聞かせてもらった。大島の薗さんと久し振りの再会。父と同じ年だということも知り、父と話しているような気持ちになる。薗さんからも与論島での郷土研究会の活動など、あたたかい話を聞かせていただいた。

 その他、多くの方と言葉を交わすことができてありがたかった。こういう機会をくださった「奄美を語る会」の仙田さんはもとより、来ていただいたみなさんに感謝です。


 それから、こんども姪っ子どうしが再会できてよかった(「父の一年祭」)。「奄美を語る会」のぼくの話で、彼女たちが変な衝撃を受けてないことを祈ります(苦笑)。


Mei2009

|

« 鹿児島のなかの奄美 | トップページ | 「奄美にとって1609以後の核心とは何か」1 »

コメント

 「奄美を語る会」,お疲れ様でした。また,本当にありがとうございました。お会いできて,感激でした。
 奄美関係の話は,年配の方など差別問題などのネガティブな話が多く,ちょっと引き気味だったので,実は奄美関係の会に出席するのは今回が初めてでした。喜山さんへの興味だけで,出席させていただきました(笑)。適度な暑さで眠気が来ていたのですが,喜山さんの話はしっかり聞いていましたよ(笑)。
 事前に夜の部があると知っていたら,参加していたのに,予定が入っていていけませんでした。喜山さんとお話がしたかったです。とても,残念でした。
 喜界島の諺です。いちゃーりーばー,ひんにゃ,そーでー。(出会えば,皆,兄弟!)
 鹿児島にお越しの際には,声をかけてください,知り合いのシマンチュなど誘って参加します。もう,当分ないですか?鹿児島においでになることは。

投稿: shimanchu | 2009/06/22 21:33

shimanchuさん

ぼくも鹿児島で奄美会は初、でした(苦笑)。and
ぼくもshimanchuさんと話を続けられず、残念でした。懇親会にいるのかなあと淡い期待を抱いておりましたが、予定があったのだなあ、と。

そうですね、鹿児島行きの計画は今はないのですが、でも、今回、奄美つながりの同世代同士で集まって(先輩とは嫌だという意味ではなく)話したいと強く思いました。たとえば、二世の会などと称して。ぼくは二世というわけではありませんが、島に対する距離感がそうなっているという意味で。

なんか、そんな場、ほしくないですか?

投稿: 喜山 | 2009/06/22 22:13

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ニ年祭と「奄美を語る会」:

« 鹿児島のなかの奄美 | トップページ | 「奄美にとって1609以後の核心とは何か」1 »