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2009/06/12

汾陽光遠、「租税問答」註。

 小野武夫による汾陽光遠「租税問答」についての注。

明治七年薩摩の人汾陽光遠の著す所にして(中略)、薩隅日三州幵に琉球群島の租税沿革を記したるものなり。(中略)島津藩の田制を調ふる上に於て最も参考に資すべきものとす。(『近世地方経済史料』1958年)

 明治7年は、1874年。丸田南里が、勝手商売のメッセージを出した年。

 また、汾陽とは。

 汾陽家の祖先は、永禄二年(一五五九)に来日して島津氏第十六代義久に仕え、汾陽光禹(号理心)と改名した明国汾陽の郭建演(国安)であるが、現存する汾陽文書の多くは、所謂「汾陽二男家」の記録・古文書類である。汾陽二男家は、寛永四年理心の跡を二男光昌が継いだのに対し、嫡子光裎の聟春子とされていた法元仁右衛門盛尚の二男光東が別立(分家)して、二代盛春、三代盛賢(光来二男)、四代盛昭(光克一二男盛常の四男)、五代光亨(感昭二男)、六代光明、七代盛徳(光遠)と承け継がれ幕末・維新に至った系統である。初代の次郎右衝門光東は、島津氏第十九代藩主光久に近侍して惣田地奉行ときれた地方功者(農政の権威)であった。またその三男盛常は三十七年間も郡奉行職にあって、近世中期幕藩典故の理念とその政策展開の在り方を窺うに好個の農書である『農業法』の著者として知られる。そして大代光明は物奉行、琉球在番、町奉行等の要職に、七代盛徳は御記録奉行、御納戸奉行、江戸御留守居等の重職を歴任し、ともに幕末にかけて、「汾陽氏要用万留」とその間の往復書翰類をほぼ纏まった形で残している。(黒田安雄「藩政改革と対外的危機-汾陽文書の紹介-」「人間文化・第2號」愛知学院大学、1986年)

 汾陽は1559年に明から来日した家系。光遠はその七代目に当たり、藩の「御記録奉行、御納戸奉行、江戸御留守居等の重職」に就いていた。

 汾陽光遠は「薩摩の人」であるにもかかわらず、「租税問答」のなかで藩の方針に疑義を呈したり、藩の秘密を書いたりすることができたのは、明から来た家系の閲歴が、外部から客体する視線を喚起したからではないだろうか。



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