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2009/06/30

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」7

 ところで一方、奄美のことを考え、存在しないかのような存在としての奄美を見出すと、ぼくははっとしました。なぜなら、鹿児島の他者の不在は、最大の隣人である奄美に対して向けられています。鹿児島の他者の不在と、存在しないかのような存在としての奄美は見事に対応しているわけです。しかし、そうすると鹿児島が維新止まりであるとするなら、奄美もそうだということになります。いやいやそれ以前に、奄美は1609年以後の歴史を持てないでいるのかもしれませんから発生は異なりますが、維新止まりであることは同じなのかもしれない。もっといえば、奄美は鹿児島の維新止まりの片棒をかついでいるのかもしれない。そういう内省がうまれます。そうであるなら、存在しないかのような奄美というあり方を脱することは、ひとり奄美のためだけではないということになります。

 ぼくはそれは、鹿児島を開くということだと考えます。鹿児島を開くとはどういうことでしょうか。
 たとえば、原口泉は鹿児島の文化についてこう書いています。

また、鹿児島人の誇りと自信といえば、個性的な黒い輝きを持った薩摩焼、泥染大島紬、黒麹焼酎。このほかにも、黒毛和牛、黒豚、黒マグロ、黒酢、黒潮、黒鳥、黒瀬杜氏、黒茶家(酒器)、黒の瀬戸、黒真珠、黒糖酒など数多くの「黒」が鹿児島には存在する。江戸時代から明治維新以後、黒船や蒸気機関車などの「黒」が新しい時代を象徴する色だったように、独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。(「鹿児島の文化と歴史」(原口泉、2005年)『織の海道』)

 これだけなら、なるほど鹿児島は「黒」の文化なのだと理解します。ところが原口は別の場所ではこうも書くのです。

奄美の魅力を問われれば、私は一番に黒糖焼酎を挙げたい。理由は芳醇いだけでなく、その甘い香りが奄美の世界に誘ってくれるからである。黒糖焼酎は奄美の歴史が長年にわたって育んできた黒潮文化に違いないと思う。
(中略)
 奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。黒豚(島豚)、クロマグロ、タロウサギ、泥染、黒酢、黒麹…などなど、奄美の魅力は尽きない。(「奄美の黒い輝き」(原口泉、2001年)『それぞれの奄美論・50』)

 さりげなく、奄美も、「黒」である、というわけですね。でも、奄美は「黒」ではありません。その前に、この言い草がどうして横暴に聞こえるかと言えば、それは400年前を起点にした境界に由来します。鹿児島本土とたとえば与論島には500キロの距離があります。500キロは、東京-大阪の距離があります。しかも海路です。この距離は、ただの空間距離を意味するだけではありません。かなり大雑把に言って、日本には大和文化圏と琉球文化圏があると言われていますが、その日本を二分すると言われるほどの大きな隔たりがあるにもかかわらず、同一県のなかにあり、しかも、琉球文化圏のほうは、鹿児島という表現のなかには、南西諸島などという地理概念で脱色化されるということに、途方もない横暴を感じます。

 原口がもし、鹿児島の知識人と自己規定するなら、彼がすべきなのは、鹿児島には、薩摩の文化が果てるところがあり、そこから先は、非薩摩的な時間と空間が広がっていること、ここでいえば、異なる「色」のあることを示すべきでしょう。気づかないだろうと、そっと同色化するなど、すべきことではありません。

 もうひとつ、山之内勉という人の文章があります。この方は、与論高校に赴任していた高校の先生で、たしかこの春から、本土に転勤されたと思います。

与論の風土は、郷土史の主役が島津氏や西郷、大久保だけではないことを教えてくれる。(中略)本土から約六百キロ離れた校舎の三階からは、もう沖縄が指呼の間に眺望できる。鹿児島県民という意識の希薄な与論の生徒は、本土規格ではない「もう一つの郷土史」への感受性が鋭敏なのだ。
「郷土史」、さらに「歴史」を考える場合、例えば与論のような政治・経済・社会・地理上の周縁部からの鋭い視線を内包化させ、歴史の重層構造を複眼思考で立体的にとらえることは極めて重要である。歴史に関与するさまざまな立場の人間への公平かつ多元的な目配りは、社会正義に不可欠の前提であり、普遍的価値への近道である。(中略)

 第一は、かの宝暦治水事件を新たに奄美群島からの視線から立体化することである。
 黒糖収奪が強化された一因に、宝暦治水による藩財政悪化があったことは容易に想像される。木曽三川に倒れた薩摩義士を顕彰するのは良い。だが、同時に、藩財政再建の人柱となった奄美群島の人々の無念も救済されなければならない。
 義士の鎮魂と島民の鎮魂を同時に行う慰霊祭など呉越同舟ではないか、という批判はあるだろうが、歴史における悲劇の連鎖、差別の再生産という視座は、宝暦治水事件に複雑な陰影を与えるのである。

 これは鹿児島の思想の画期をなしていると思います。義士の慰霊と奄美群島の人々の鎮魂を同時にという視点が生まれたことは、とても歓迎したいですし感謝したくなります。そう踏まえた上で言うなら、ぼくは二つのことを感じます。ひとつは、山之内は、奄美をマイノリティと位置づけているわけですが、奄美は人数でいえば確かに少数派でしょうが、それは人数のことであって、文化や自然は、巨大なわけです。その巨大さはマイノリティという言葉では表現できません。もうひとつは、義士の慰霊と奄美群島の人々の鎮魂を同時に、というのは、ぼくは、奄美群島の人々と薩摩の農民を同時に、そしてするのであれば義士をその後に、がまっとうな順序だろうと考えます。こうした代替案を持ちます。が、それでも、こうした発言が鹿児島の知識人から出たことは画期だとぼくは思います。

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2009/06/29

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」6

 では、400年の向こう側に行くには、奄美が「存在しないかのような存在」としてあるなら、奄美を現出させること、奄美が姿を現すことが重要だということになります。それは鹿児島を開くということではないでしょうか。

 まず、ぜひとも断っておかなければならないのは、ここにいう鹿児島とは、まず政治的共同体としての県という意味であり、また、思想としての鹿児島という意味で使っており、現にともに生活し交流している具体的な人々のことを指しているわけではないということです。人を指す場合があったとしても、思想や政治を担う個人という意味でのみ使います。それを念頭において聞いていただければと思います。 

 ぼくは鹿児島を評するによく「維新止まり」と言ってきました。明治維新以後の歴史が持てないでいるという意味です。そしてその「維新止まり」の核心にあるものとして、他者の不在と個の不在を挙げてきました。個というのは個人の不在という意味合いです。

 他者の不在というのは、たとえばこういう文章があります。2007年に『薩摩のキセキ』という本が出ていますが、そこにはこう書かれるわけです。

日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。

 これを見てぼくなどは愕然とするわけです。西郷は偉大に違いないが、「ほとんどの日本人がそう言うに違いない」というのは妄想だと感じられます。また昨年には、原口泉が『維新の系譜』という本を出しています。それは、のっけからこう始まるのです。

日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは「明治維新」ではないかと思います。

 これを見てもかなり不可解な印象を持ちます。明治維新がドラマであるに違いないにしても、どうしてそれが、日本人全員があたかも最大のドラマと思っているとどうしてみなせるのでしょう。ぼくは何もくさしたくて本を読むわけではありません。維新以後の歴史をつくろうとしている優れた思想に出会いたい。そう思って買って読むわけですが、のっけからこれだと大きく躓いてしまうわけです。なんというのでしょうか、自分たちの思っていることは日本人全員がそう思っているに違いないというところに、他者、つまり自分たちとは考え方や価値観の異なる人がいることが想定されていないと言えばいいでしょうか。

 去年の「ふるさと納税」の折、知事伊藤は県の政策を「第二次戊辰戦争」呼びました。これなども立場の違う人が見たらどう思うかという想像力の欠如した他者不在の見本のような言葉です。がっかりするわけです。

 個の不在は、例の「議を言うな」という言葉です。これはぼくのときとは経験の誤差があるかもしれません。現在でも威力ある言葉なのか、そうではなくなっているのか、つぶさには知らないので、誤差があったら教えてください。ここでは、相互の対話により物事をよくしようという機運がないことを指しています。

 ぼくは、県あるいは思想としての鹿児島には、この他者の不在と個の不在を感じてきました。それが維新止まりの核にあるものだと思っています。


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2009/06/28

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」ver.2

 7月5日のレジュメ。ほぼこれで行こうと思うが、もう少し考えたい。


2009年7月5日(日) カルチュラル・タイフーン2009
「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」
   
1.存在しないかのような存在としての奄美

「奄美にとってこの400年は何だったのか?」。
-存在しないかのような存在

(1)沖縄にとって

1)「琉球は大和ではない」
1617年「令達」
 「琉球生国の者日本人の髯髪衣裳に相かゆる事、停止せしむべし」
1624年「定」
 「日本名を付け日本支度を候者、かたく停止せしむべきこと」

2)「奄美は大和ではない」
1699年 喜界島代官宛て達書
 「道之島人儀は、島人相応之姿にて、名も附け来り候通り」
1728年「大島御規模帳」
 「島中の者共、日本人の如く髪を刺し売買のために他出致す儀、停止せしむべし」

3)「奄美は琉球ではない」
1623年「大島置目之条々」
 「諸役人は琉球に至り、はちまきのゆるしを取る事、停止せしむべし」
1728年「大島御規模帳」
 「島中の者、本琉球に至り、はち巻の免取る間敷事」

・奄美 「奄美は琉球ではない、大和でもない」二重の疎外
・沖縄 「沖縄人と大和人」の凝固化。
    「奄美は琉球ではない」→「奄美は大和である」という見做しへの転化


(2)鹿児島にとって

1)本土上陸による存在の顕在化

・アリモドキゾウムシ・アフリカマイマイ・マングース

「しかし奄美ではその病害虫のただ中に住み、その撲滅対策はいっこうはかどらないのです。病害虫をとじこめるために奄美を封印するのではなく、島の中から病害虫を根絶やしにする方法が、どうして積極的に考えられないものでしょうか」(島尾敏雄、1967年)

2)「ぼかし」としての奄美

「とにかく奄美は、「負」として位置づけられる。奄美の伝統的な慣習・信仰は、未開・野蛮・迷信であり、前世紀の遺物として早急に奄美人が脱却すべきものとして規定される。それでは「正」というのは、なにかといえば、それは身近かな鹿児島であり、それに連なる日本本土のそれであった。だからして、奄美を風化し、消去すること、日本人として生きることが奄美の教育の目標として高く掲げられることになった。奄美の明治・大正時代が近代化への準備、すなわち胎動の時期とすれば、昭和の前半は、皇民化の時期とでもいうべき時代であった。
 奄美人の出自を「ぼかす」という行動様式は、いうならば時代が、教育が生みだした奄美の近代の産物であったといえる。
(山下欣一、1989年「奄美人のアイデンティティをめぐって」)

「 会話

お国は? と女が言った
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずつとむかふ

ずつとむかふとは? と女が言った
それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で歩くとかいふやうな、憂鬱な方角を習慣してゐるあの僕の国か!
南方

南方とは? と女が言った
南方は南方、濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帯、龍舌蘭と梯梧と阿且とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被って寄り添うてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどゝ談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯

アネッタイ! と女は言った
亜熱帯なんだが、僕の女よ、眼の前に見える亜熱帯が見えないのか! この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所」                   (山之口獏、1911年)

・「日本人になる」という志向性は共通だが、失語の色合いは異なる。
・奄美は奄美の「会話」を欠いている。と同時に、奄美は奄美の「会話」を生みにくい。

3)隠された直接支配地

「第六十三 道之島内地附属」
「問て曰、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て曰、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし、故に代々の判物皆替ることなく拾二万三千七百石余なり、道之島人今に至り容貌を改めざるも是が為なるべし、琉球へ封王使渡来は中山国第一の大礼なり、此時には道の島より鶏、玉子、豚、薪の類を米にて調納する遺例ありて五島皆然り、島の大小に因て其品多寡ありとぞ、此時も外には何も交際あることなしと琉人より聞けり。」(汾陽光遠「租税問答」、1874年)

・「黒糖収奪」の激化を用意(隠と離)
・植民地像への接近
・配慮不要が空気になる

4)山中貞則の謝罪

「とはいっても侵攻の事実に変わりはない。またすでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。」(『顧みて悔いなし 私の履歴書』2002年)

・良心の美名のもとにも黙殺される。


2.奄美の現出。奄美が姿を現すこと。

(1)強者の論理の解体

「(前略)理屈をつければいくらでも征琉の口実はできるのである。要するに戦国末期から近世初期にかけておこなわれた覇者の国家的統一事業の一環にすぎない。強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、日本国中に弱肉強食がおこなわれて、結局徳川将軍による幕藩体制に組みいれられることになったのである。これまで同じ日本民族でありながら、南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、慶長十四年の征琉の役以後、日本の統一政権下にはいったといえる。隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併合されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。」(原口虎雄『鹿児島県の歴史』、1973年)

・加害を感謝の要求にすり替え、加害の内実を不問に付す。
・「原爆のおかげで戦争が終わった」と「米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある」(大統領オバマ)の間には千里の径庭がある。

(2)奄美の発語

1)七島灘を浮上させよ - 薩摩果つるところの奄美

「また、鹿児島人の誇りと自信といえば、個性的な黒い輝きを持った薩摩焼、泥染大島紬、黒麹焼酎。このほかにも、黒毛和牛、黒豚、黒マグロ、黒酢、黒潮、黒鳥、黒瀬杜氏、黒茶家(酒器)、黒の瀬戸、黒真珠、黒糖酒など数多くの「黒」が鹿児島には存在する。江戸時代から明治維新以後、黒船や蒸気機関車などの「黒」が新しい時代を象徴する色だったように、独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。」(原口泉「鹿児島の文化と歴史」『織の海道』、2005年)

「奄美の魅力を問われれば、私は一番に黒糖焼酎を挙げたい。理由は芳醇いだけでなく、その甘い香りが奄美の世界に誘ってくれるからである。黒糖焼酎は奄美の歴史が長年にわたって育んできた黒潮文化に違いないと思う。(中略)
 奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。黒豚(島豚)、クロマグロ、タロウサギ、泥染、黒酢、黒麹…などなど、奄美の魅力は尽きない。」
(原口泉「奄美の黒い輝き」『それぞれの奄美論・50』、2001年)

2)県境を越境せよ - 奄美と沖縄をつなぐ

「その上に折々出逢う島の人の物腰や心持にも、またいろいろの似通いがあるように思われた。海上は二百浬、時代で言えば三百年、もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが、やはり眼に見えぬ力があって、かつて繋がっていたものが今も皆続いている。」(柳田國男『海南小記』、1921年)

・奄美の自己発見

(3)「無言の支え手」から「繋ぎ手・助け手」へ

・状況   沖縄の「琉球王国の主体性」の強調と鹿児島の維新止まりの再生産。
・奄美   「琉球王国」と「明治維新」の無言の支え手。
・鹿児島へ 奄美の顕在化が、維新以後の歴史をつくる助けになる(他者の発見)。
・沖縄へ  「沖縄人と大和人」の間に緩衝帯を生む助けになる(隣人の発見)。

 もうすぐ皆既日食だが、日食の後に姿を現すのは太陽だけでなく、奄美(とその隣人としてのトカラ)の地理と歴史が姿を現さなければならない。


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「海が繋いだ薩摩-琉球 〔交錯するヒトとモノ〕」

 渡辺さんからいただいた。これも、400年イベントのひとつだと思う。徳之島出身の方から教えてもらったものが形になってきた。

「海が繋いだ薩摩-琉球-交錯するヒトとモノ-」
船舶行き交う海上の道で繋がった薩摩と琉球。現代に残された薩琉関係の諸資料から、薩摩と琉球の海洋交流史をひも解きます。

時期:2009年10月16日(金)~2010年1月13日(水)
会場:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館

「坊津歴史資料センター輝津館」

 なんというか、すごいデザインだ。鹿児島らしいというか。ちょっと引いてしまう。ぼくだったらOKは出さない(苦笑)。


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「島津氏の琉球出兵400年に考える -その実相と言説-」

 近所なのに行ったことのなかった立教大学。美しく落ち着いた雰囲気で、ここが池袋?と驚く。目的は、「島津氏の琉球出兵400年に考える -その実相と言説-」への出席。東京で参加できる400年イベントのつもりだった。でも、「立教大学史学会 公開講演会」と銘打っているように、研究者と学生の集まりの範囲内の印象だ。その分、琉球弧現地のイベントより、平均年齢が若くなり人数はこぶりになったのかもしれない。印象だけだが、平均40代、人数70弱。

 5時間強かけて8名の発表。まず、その量と質に迫力があった。いただいた資料も充実している。これで無料なのだ。400年はどのようにこの年、語れられているのか。そのことを把握するのに格好の場だった。


◇趣旨説明 荒野泰典。

 一つ。400年について、沖縄では関心が高いのに、本土ではそうではない。この温度差を何とかしたい。二つ。戦闘の経緯を知る。なぜ、徹底抗戦しなかったのか。なぜ、明に救援要請しなかったのか。三つ。この出来事について、日本/沖縄ではどのように語られているのか。

 いつもは「侵略」と言うが、沖縄の教科書では「出兵」という表現を使っているので、それに倣った。


◇「島津氏の琉球侵略-その原因・経緯・影響-」上原兼善

 原稿読み。棒読みに非ず。格調あり。講談の如し。

 『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』は読んでいたが、肉声が本の厚みを増すようだった。1606年に「大島出兵」の計画があったにもあっかわらず、1609年まで行われなかった、その経緯。

 1606年 琉球に冊封使が訪れていた。
 1607年 幕府が対朝鮮渉中。家康、肯ぜず。明に秀吉と同じと思われたくなかった。
 1608年 幕府、対明交渉。島津の出兵を牽制。

 威嚇による聘礼実現の狙いから牽制する幕府と、実行ありきの島津。ぼくが感じたのは、国内の延長に埋めるべき空白エリアのように国外をみなした秀吉の世界観は島津に託されたようにもみえる、ということ。

 1609年5月、尚寧は、明への咨文を託す。薩摩未介入と思われる。尚寧は一島の割譲と嘘をつくが、その一島は伊平屋島。本当は、奄美五島が割譲されていたということなのだが、このときもう五島と決まっていたのだろうか。ぼくは、鳥島と与論島の取引という伊波普猷の文章の真相が知りたくて、上原さんに尋ねるが、知らないというお返事だった。

 この頃の日明交渉のなかに、汾陽理心の名も出てきた。理心は、「租税問答」の光遠の七代前(「汾陽光遠、「租税問答」註。」)。

 琉球の武装の貧弱さは、もともと宗主国明に倣ったものではないか、という指摘も印象に残った。


◇「琉球王国の対応と言説-琉球はどにょうに対応し、語り伝えてきたか-」豊見山和行

 レジュメを見ながらの早口。手ぶりによる強調。

 400年議論のひとつの特徴は、「琉球の主体性」の強調である。豊見山の場合、日琉同祖論以来、本来は日本人なのに、島津が異国風を強いたので偏見が強くなったと言われてきたが、異国風は強いられたのではなくて、主体的な選択であったという文脈で語られた。

 その主体強調の延長で、紙屋敦之の「幕藩制国家の中の「異国」」という位置づけは、「幕藩制帝国下の従属国・琉球」と再定義したほうがいいのではないかという主張になっていった。

 印象に過ぎないが、当たらずとも遠からずの言説の「当たらず」を否定するときに、近代化と劇画化が伴って、その近代化と劇画化の明快さのなかで「遠からず」が捨象されてしまわないかという危惧を感じる。琉球の国家、幕藩制国家の帝国としての強調。王府にたてつく島人の強調は、江戸上りの異国風による偏見の醸成の否定として言うのだが、どちらにも近代化と劇画化が共通していないだろうか。

 ぼくはそれにより、奄美からの贔屓目だが、奄美を含めた琉球理解の必要性の強調に、進展を感じた。

 鳴物停止令(なりものちょうじれい)。聞く範囲では、鳴物停止令とは、高位の人物の死去に際して、「鳴物」を一定期間、禁止するもので、音楽、工事、殺傷に及ぶ。服喪の形なのだと思う。豊見山は、この期間の比較かた、琉球の対外的従属度を、(島津氏)>(幕府)≧(中国)、と考察していた。

 「大島代官記」をみると、1832年12月、島津重豪の死去に際して、奄美への鳴物停止令が出されている。

 もうひとつ、興味深かったのは、琉球としての道之島の対日関係隠蔽に、琉球が主導権を採っていたのではないかという指摘だった。この文脈も、「琉球の主体性」のなかで語られている。ぼくには、1753年の「旅行心得之条々」に先立つ1728年の「大島御規模帳」による、「奄美は大和ではない」という規定には、琉球の働きかけが反映していると思えてくる。

 レジュメのタイトルは、「敗者の戦略としての琉球外交-「唐・大和の御取合」を飼い慣らす-」。


◇「近世説話文学に見る島津氏の琉球出兵-日本人はどのように語り伝えてきたか-」小峰和明

 風貌古典的文学研究者。語気力強し。

 「薩琉軍記」を歴史書であるとともに、文学書としても読む。歴史学と文学とのタイ・アップ。「侵略文学」というジャンルが作れるのではないかという提起。

 「薩琉軍記」は写本によって広がっていったもの。写本は百本以上あって、その数はまだ増えている。わたしたちも、ヤフー・オークションで獲得している。これからも出てくるだろう。写本は、写本を書く人が作者になる。写本とは、読者=作者として広がってゆく。そこに、朝鮮侵略はじめ、東アジアとの関係意識を読みとることができる。

 薩摩の琉球侵略前に書かれた袋中の「琉球神道記」「琉球往来」には、琉球衰微の予見と思われるような記述がある。

 興味深い話だった。前段、「南島」という言葉について、大和からの視線のものであり、使うべきではないという発言があった。いつものように、ぼくはそこまで倫理として捉える必要はないと思った。「南島」という言葉の響きはとてもいいと感じる。


◇「薩摩支配下の琉球外交について」紙屋敦之

 重要なのは、1609年から1879年までの琉球処分まで、琉球王国が存在したということ。ここに、小国の理論がある。この間に、段階を持って琉球が主体性を形成していった。

 紙屋の議論は、近代化と劇画化があまり感じられない良さがあると思う。

 ぼくは思わず、紙屋さんは鹿児島弁だけれど、どこですか?と質問。昔の川内市、と。鹿児島の方で琉球の研究というは珍しいと思うが? 薩摩藩制史をやろうと思っていたが、それをやるなら琉球も重要と指摘されて、琉球に。そしたら先が長かった。しつこく、鹿児島の方が深い琉球理解を示す態度はすごいと思うが孤立もしたのではないか? ぼくはただ、「事実」を知りたいだけだから。さらにしつこく。薩摩藩制史もやってほしい。もう年だから。

 「事実」探究の姿勢が純粋な方にはぼくは脱帽する。

 一方、1609から1879の270年間、琉球王国が存在した、そこに小国の論理があるという視点からは、奄美は琉球王国存在にとっても、無言の立役者であったことを思う。琉球王国と明治維新と。ぼくたちはやはり、ここから、沖縄へ、鹿児島へ、伝えられることがあるのだ。


◇「文学の立場から」渡辺憲司

江戸っ子にとっての薩摩と琉球・<外様雄藩>的脅威の薩摩と<異境>的憧憬の琉球::嫌われた薩摩と未知の憧れの琉球

 「江戸っ子」からの視点が新鮮だった。


◇「フロア発言のための覚書」渡辺美季

 「高校野球ではまず、沖縄を応援する。次は鹿児島」、「侵攻の目的は日明貿易」、「薩摩のやむなさもある」。視点の位置ということを思った。ぼくは、内側から扉を開けていけたらと思う。

 渡辺さんには、「日本人になりすます琉球人」で、難しいと感じたことを質問。当時の人の感じ方に耳を澄まして理解すると、受け止めて、すっきりした。


◇「<薩琉軍記」について>」目黒将史

 地図、が面白かった。『琉球属和録』。「小琉球 大嶋」と「徳嶋」がほぼ同じ大きさ。そこに「与論嶋」が続き、「徳嶋」と「与論嶋」の横に「沖永良部嶋」があった。「宮古嶋 石垣嶋」は一つの島。「八重山嶋」も一つ。成果の論文も読みたい。


 8つの充実コンテンツに、19時前はへとへとだった。

 400年イベントで語られていることに共通しているのは、「琉球の主体性」のように感じる。それを、琉球-薩摩という関係だけでなく、日本や中国、東アジアといった関係のなかで捉えるという視点は広くある気がした。

 得能さんは、庶民視点がほしいと話していたが、ぼくもそう思った。

2009shigakukai

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2009/06/27

「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」ver.1

 7/5のカルチュラル・タイフーンのレジュメ。ただ、これは「奄美を語る会」の話の流れを引きずっているので、再編するつもりのものだ。


[Room 102] 16:30-18:10, 5 July
奄美にとってこの400 年は何だったのか? 
 What were these 400 years for Amami?

◆北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ
"Surface the Shichitou-nada Sea in the north. Cross the prefectural border to the south."

◇四百年前を起点にした奄美の困難は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外である。その根底にあるのは、奄美が隠された直接支配地だったことだ。そこで奄美は、北からも南からも、存在しないかのような存在と見なされてきた。現在、それは「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」と更新されている。二重の疎外は依然としてぼくたちの課題であり、そうであるなら克服されなければならない。求められるのは、島を足場にし島に止まらない奄美の語りである。針路はこうだ。北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ。

Abstract
The difficulty of Amami that began 400 years ago is a double alienation; "Amami is neither Yamato nor Ryukyu." In the basis of the alienation, Amami was a "region under concealed direct rule." Amami has been almost nonexistent in the eyes of the north as well as the south. Today, the situation is only slightly updated to a view "Amami is neither Kagoshima nor Okinawa."
If this double alienation is still our problem, it is necessary to be overcome. What we are called on to present is a narrative of Amami which is based on the "Island" though not restrained to the "Island." The course is this: Surface the Shichitou-nada Sea in the north; cross the prefectural border to the south.

◇レジュメ

1.存在しないかのような存在としての奄美

1)アリモドキゾウムシ・アフリカマイマイ・マングース

「しかし奄美ではその病害虫のただ中に住み、その撲滅対策はいっこうはかどらないのです。病害虫をとじこめるために奄美を封印するのではなく、島の中から病害虫を根絶やしにする方法が、どうして積極的に考えられないものでしょうか」(島尾敏雄)

2)「ぼかし」(山下欣一)

「とにかく奄美は、「負」として位置づけられる。奄美の伝統的な慣習・信仰は、未開・野蛮・迷信であり、前世紀の遺物として早急に奄美人が脱却すべきものとして規定される。それでは「正」というのは、なにかといえば、それは身近かな鹿児島であり、それに連なる日本本土のそれであった。だからして、奄美を風化し、消去すること、日本人として生きることが奄美の教育の目標として高く掲げられることになった。」

3)山中貞則の謝罪

「とはいっても侵攻の事実に変わりはない。またすでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。」


2.隠された直接支配地

1)二重の疎外

「奄美は琉球ではない、大和でもない」

2)二重の疎外の隠蔽

「琉球人両人交り居り候ては如何と存じ、月代を剃り、日本人の姿に仕立て、登世村を村右衛門、島森を島右衛門と名付け置き申し候」

3)隠された直接支配

「問て曰、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て曰、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし」(「第六十三 道之島内地附属」「租税問答」(汾陽光遠、1874年)


3.「維新止まり」と「失語」の相互規定

1)維新止まり-他者の不在と個の不在

「日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。」『薩摩のキセキ』
「日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは、「明治維新」ではないかと思います。」原口泉

2)維新止まり-個の不在

「議を言うな」

3)維新止まりは、奄美の失語と相互規定的ではないだろうか。


4.北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ

1)強者の論理の解体

強者の論理-加害を感謝の要求にすり替え、その内実を不問に伏す。
「もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる」原口虎雄

2)「黒」としての鹿児島(原口泉)(鹿児島→奄美)と「内地」としての奄美(沖縄→奄美)

「独自の文化である「薩摩の黒」を生かして新しい時代を築き、誇り高き鹿児島になることを期待している。」
「奄美はこれからも生命を育む黒い輝きを増していくにちがいない。」

3)奄美と沖縄をつなぐ

「時代で言えば三百年、もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが」、「かつて繋がっていたものが今も皆続いている」(柳田國男)

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2009/06/26

「実感するのは難しいが事実だけは胸に刻みたい」

 書店直販の版元として名高いトランスビューの工藤さんが、「いける本 いけない本」(2009夏10)に、「いける本」として書評を書いてくださっていた。

○喜山荘一『奄美自立論-四百年の失語を越えて-』(南方新社)

 琉球からも大和からも疎外され、同化と異化を同時に強いられた奄美の歴史を、資料を読み解きつつ明らかにする。与論出身の著者が自らのために記したともいえる、つまりは渾身の一冊。薩摩の琉球侵略から四百年、実感するのは難しいが事実だけは胸に刻みたい。溢れる郷土愛を育んだシマを羨ましくも思う。

 そうそう、その通りの141文字。圧縮簡潔。感謝。

 「自らのために記したともいえる」。そう、その通り。ぼくのために書いた。この本への批判と読みとった文章の、その批判のありように、「きみにこれを書かざるをえない切実さがわかるか」と、ゆうべ呟いたばかりだった。

 「実感するのは難しいが事実だけは胸に刻みたい」。そう、そうだよね。正直な述懐はむしろありがたい。どうしたら、この、所在定まらない、いつも言葉を飲み込んでいるような感じを伝えることができるだろう。もっとも身近な人にさえ言葉を届かせるのは難しい。シンパシーを感じてくれる友人が、邪気なく「シマ」を劣位のキーワードとして使うとき、言葉を失う。それが傷つけると、言えない。ただ、悲しくなる。でも、それはもはや彼ら彼女らの責任ではない。歴史が醸成した共同幻想を解体するしかないのだ。それに、こういう自分が他者の痛みに配慮を行き届かせているかは、かなり覚束ない。ぼくは、ぼくの表現を深める努力を続けようと思う。

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「奄美にとって1609以後の核心とは何か」5

 他にも奄美の形容になったのは、山下欣一のいう「付録」があります。

 あの著名な吉田東伍編纂『大日本地名辞書』続篇「北海道・樺太・琉球・台湾」の初版刊行は一九〇九年明治四二)であり、「琉球」の項目を担当したのは東恩納寛惇であった。
(中略)この辞書を開くと「奄美」は「付録」として「琉球」の末尾につつましくその座を占めている。沖縄でもなく、鹿児島でもない奄美は、いつも「付録」でしか処理できないということを示している。(「奄美人のアイデンティティをめぐって」(山下欣一、1989年)「新沖縄文学 NO.81」)

 この、付録は、沖縄にとっても付録であり、鹿児島にとっても付録という意味です。これも、存在しないかのような存在になるということは、その前段にどういう状況があるのかを教えてくれます。それが「付録」です。また、山下は出自をぼかすという意味で、「ぼかす」という形容もしてきました。

 とにかく奄美は、「負」として位置づけられる。奄美の伝統的な慣習・信仰は、未開・野蛮・迷信であり、前世紀の遺物として早急に奄美人が脱却すべきものとして規定される。それでは「正」というのは、なにかといえば、それは身近かな鹿児島であり、それに連なる日本本土のそれであった。だからして、奄美を風化し、消去すること、日本人として生きることが奄美の教育の目標として高く掲げられることになった。奄美の明治・大正時代が近代化への準備、すなわち胎動の時期とすれば、昭和の前半は、皇民化の時期とでもいうべき時代であった。
 奄美人の出自を「ぼかす」という行動様式は、いうならば時代が、教育が生みだした奄美の近代の産物であったといえる。

 存在してないかのような存在であるという背景を置くと、「ぼかす」意味がよく分ります。自分にとってはありありとしているのに、相手にはそうでないだろう、そこでぼくたちはぼかすわけです。

 もうひとつ、山下欣一は、2年前の『しまぬゆ』の冒頭で、この年を契機に、奄美諸島はその姿を南海上に没するのである。」と書きましたが、この直感的によく分かる「没する」という意味は、やはり、存在しないかのような存在としての奄美という素性をよく表しています。

 「付録」「ぼかし」「没する」という形容で表される奄美とは、この、存在しないかのような存在としての奄美という意味ではないでしょうか。
 
 ぼくは、この400年について、どれかひとつ大事な文書を挙げるとしたら、「道之島内地附属」のことを挙げるでしょう。それはいずれ大島経済のときに、「内地経済からの分離」という言葉に変わります。つまり、内地への附属と内地からの分離です。ぼくたちはこの、附属と分離に大いに煩わされてきた民でもあります。

 1609以後の核心とは、「御届けなしの蔵入り地」ということ、つまり隠された直接支配地であったことであり、それは「存在しないかのような存在としての奄美」という現在形であるということだと、ぼくは考えます。

 さらにもうひとつ、存在しないかのような存在とはどう扱われるのか、格好の例があります。昨年出た『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』のなかで佐野眞一は政治家、山中貞則の発言を引いています。

 結局、島津は徳川時代に入って間もない慶長十四年(一六〇九年)、武器を持たず文字どおり徒手空拳の琉球に攻め込み、支配してしまった。以後、島津は琉球を通じて密貿易をし、とりわけ黒糖の一手販売で儲けたという。ゆえなく島津に侵略され、厳しく年貢を取り立てられ、島津の参勤交代の際には中国人の服装で上洛させられるという屈辱を味わったため、沖縄の人たちは本土の中でも鹿児島縣には特別の感情を抱いている。
 島津義久の書簡は薩摩藩にもともと琉球侵攻の意志があったわけではないことを推察させるものだった。とはいっても侵攻の事実に変わりはない。すでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。

 ぼくはこれを読み、心底、驚きました。ぼくの経験値からいって、その度し難い頑迷さからすれば、薩摩の共同意思が、謝罪を口にするなど不可能である、仮に可能であったとしても自分が生きているうちにはないだろうと思ってきたからです。しかし、ここであっさりそれは実現されているようにみえます。

 ところが一方、別の驚き、そしてこちらの驚きのほうが大きいわけですが、山中はこの謝罪を沖縄に向かってしているわけで、奄美に対して行っているわけではないからです。特に、「とりわけ黒糖の一手販売で儲けた」ことは奄美に対して向けられるべきですが、山中は奄美を素通りして沖縄に向かっているのです。沖縄では、山中は良心的な政治家として感謝されています。ここに、存在しないかのような存在として奄美の影をぼくたちは見ないでしょうか。ぼくたちは、山中が良心的と評価を受ける最中にも黙殺されているのです。ぼくはここにいるときも顔くらいしか山中のことを知りません。山中貞則の肉声を知っている方のなかには、奄美への触れ方を知っている方もしるかもしれないので、もじご存知でしたらぜひ教えてください。

 ぼくは佐野が引用している山中の発言の原典を見たいと思い、探しました。ところが、この本は市販されていないので、すぐには手に入りません。国会図書館にもありませんでした。ぼくはあちこち問い合わせてこの本、『顧みて悔いなし 私の履歴書』(2002年)を手にすることができました。どうして見たかったのか。佐野の引用外の箇所に奄美への言及がないか、確かめたかったからです。しかし、ぼくの見落としがなければ、残念ながら、本全体を通じても、「奄美」の二文字はありませんでした。存在しないかのような存在であるとはどういうことなのか、ここにも示されていると思えます。

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「奄美同胞」の響き

 syomuさんが、『大奄美史』序文の「奄美同胞」のことに触れていて、あそうか、と気づくことがあった。

私が高校生の時にこの序文を初めて読み“奄美同胞”という言葉に物凄く衝撃を受けたわけです。
奄美二世のエントリーでまた触れたいと思いますが、『同胞』という意識がまったくなかったからです。(『大奄美史』 昇曙夢

 『奄美自立論』の装丁を見たとき、「帯のメッセージ」に怖気づいて代案を出したのだが、思えば、「奄美同胞」という表現にも大きく躓いたのだった。syomuさんは「同胞」という意識が無かったと書いているが、ぼくはもっと性質悪く、「同胞」という語彙が自分にとって生きたものになってないからだった。

 でも、syomuさんの記事を見て、そうか、これは『大奄美史』の言葉を継いだものだったのだなと、遅ればせながら気づいた。ぼくは、『大奄美史』の戦前的精神の流れに目を奪われて、「奄美同胞」を注視していなかったと思う。

 ただ、「同胞」という言葉が蘇ってくるのを感じたことはあった。子どもが読んでいる漫画『ワン・ピース(ONE PIECE)』では、海賊の「仲間」であり、魚人族の「同胞」でありという言葉がよく出てくる。それが、アナクロニズムではなく、新鮮なものにみえ、「仲間」や「同胞」が時代のなかで蘇るのを感じた。ぼくも、半ば自滅的に「仲間」や「同胞」を拒んできたのに、『ワン・ピース(ONE PIECE)』のそれには心を動かされて、我ながら驚いている。

 しかし思い返してみれば、ブログ縁や「奄美を語る会」では、奄美の島と同じ目線で考えてくれる人や、同じことに悩んできた人との出会いがあった。それは望んでも叶わないことと、望むことを諦めてきただけに、それこそ望外な想いがしている。ぼくに、「奄美同胞」という言葉はやっぱり定着しにくいけれど、『ワン・ピース(ONE PIECE)』が表現している「仲間」や「同胞」の言葉は、いま、リアルに響いてくる。

 何年も前、小学生だった下の子に、「お父さんも友達つくったほうがいいよ」と冗談ぽく言われたことがあった。ぼくは、そのとき「そうだよね」と答えたけれど、胸の内では何度も繰り返し、「そうだよね」と呟いてきた。


Obi

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2009/06/25

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」4

 奄美論を読むのは驚きに満ちみちていました。それはまず、自分は「二重の疎外」を自分の沈静剤として自分のためだけに考えた概念でしたが、それは奄美のことではないかと思うことができました。そして、なおかつ、1623年の『大島置目之条々』や1728年の『大島御規模帳』などをたどると、「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」という二重の疎外は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という順番で構造化されたことを知ることもできました。400年前から続く歴史を知って今への影響を考えたわけではありません。自分が肌で感じてきたことは歴史的な由来を持つこと、長い時間をかけて構造化されてきたのを知ったのです。それはとても驚きでした。

 でも驚くのは早くて、その先がありました。歴史を知ることによってしか分からなかったのは、二重の疎外が隠蔽もされていたということです。隠されていたわけですね。でも、隠されていることが露出する、見えない関係が見えるときがありました。それは漂着のときです。漂着といえば、不測の事態です。これは不測の事態にしか隠されているのが露呈することはなかったということと、にもかかわらず不測の事態である漂着は珍しい出来事ではなかったことが同時に物語られていると思います。

 たとえば、『薩洲人唐国漂流記』を見ると、薩摩の船に漕ぎ手が足りないので、沖永良部の人を二人乗船させたときがありました。ところがその船は大風で漂流します。雨を飲み水にしてなんとかしのいでいると、向こうに陸が見えてきます。近づいてくると、どうも中国じゃないかと気づくわけです。で、考えるわけですが、大和人のなかに琉球人が混じっていてはいかがなものか、と、いかがなものかというのは、要するに、中国に対して隠していることが露呈しはしまいかということですね。で、どうしたか。沖永良部の二人の髪を剃って、時代劇でよくみる月代にして、名前も登世村を、なんでしたっけ、そうそう、村右衛門、島森を島右衛門と名づけさせるわけです。そして、一同薩摩の者だと自己紹介して事なきを得ています。

 最近の南海日日新聞で、渡辺美季(「日本人になりすます琉球人」)が同じような事態のときに、金城さんは金右衛門、呉屋さんは五右衛門にしたというのが紹介されていました。呉屋さんが五右衛門ですよ。これ、笑っちゃいますよね。お笑いのコントさながらじゃないですか。でも、笑えるのはコントを思い出すからで、これ現場のことを考えたら、沖永良部の人は命がけで演技をしているわけです。これは自己を消去して対応するしかないわけです。人形のように振舞わされているわけですよね。でも、これも思い当たる節があるわけです。鹿児島で奄美の人が身を隠すようにしてきた、その隠すという所作につながっていると思えるからです。これも、歴史が過去ではなく、現在のことだと思えることです。

 まだあります。二重の疎外の隠蔽は琉球と日本が中国に対して行っていたことですが、こと奄美に関しては、薩摩は日本に対しても隠していたのです。汾陽光遠(かわみなみこうえん)という人が明治七年に書いた「租税問答」という文書があります。その六十三は「道之島内地附属」と題されています。

 問て日、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て日、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし(汾陽光遠『租税問答』)

 ぼくはこれを読むといつも内緒話のように聞こえてきます。「然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て日、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし」。ひそひそと声が聞こえてくるようじゃないですか。ぼくはこれを見たとき、いろいろなことが氷解する気がしました。そういうことだったのかと思ったのです。奄美は、直接支配地でしたが、ただの直轄領ではない。隠された直接支配地だったのです。「御届けなしの蔵入り地」です。

 これを読んでぼくは、奄美にさまざまに言われてきた形容の意味が分かる気がしました。たとえば、島尾敏雄は、「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた。本土から軽んじられると、だまってそれを受けてきた。」と言いました。島尾の南島エッセイはいろんな人に気を使っていると思えるのですが、ここで「本土から軽んじられると」というのは主にどこの人のことを言っているのか、ぼくたちは痛いほど分かるはずです。

 で、島尾のいう「値打ちのない」ことの意味が、隠された直接支配地ということのなかから見えてきます。それはつまり、奄美は存在しないかのような存在であるということではないでしょうか。値打ちがないということが、存在してないかのようなという意味だと受け取ると、実感的にも分かります。

 汾陽光遠は薩摩の人ですが、明国から来た人で歴代、島津家の重役に登用されていて、光遠はその七代目に当たるということです。薩摩の人でありながら、外部からの視線が入った文章を残しているのは、明から来たという来歴のなせる技ではないかと思われます。

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「月の天使」と「陽の悪戯」

 独立マーケターの先輩と「黒うさぎ」で飲む。

 マーケターは、幅の広い言葉だから、自分たちを規定するのに、リサーチング・マーケターという言葉があるんじゃないかという仕事仲間の話を聞かせてもらった。たしかに。ぼくは、マーケターをむりやり格好つけていえば、市場哲学者だと思っているので、リサーチング・マーケターは、中国語っぽくすると、さしずめ調査的市場哲学者、である。

 「有泉」が無くなり、「れんと」を飲みついでいるところ、お店の人から、期間限定品として勧められたのが、「月の天使」と「陽の悪戯」。「月の天使」はとがっていたような気がするが、もう定かではない。

 暗い中、ふたつ並ぶと、村上春樹の『1Q84』のふたつの月-黄色の月と緑の月を思い出す。社会の冷たさを天使の悪戯のように和らげようとする夜だった。


Tsukinotenshi

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2009/06/24

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」3

 そのときのぼくの鹿児島に対する態度はこうです。
 村上龍の小説に『69』があります。これは彼が佐世保で高校生のときに暴れた?経験をもとにした痛快な小説ですが、そのあとがきにはこうあります。今日はご年配の方も多いので、不快に感じられるかもしれませんが、どうぞお付き合いください。

 これは楽しい小説である。
 こんなに楽しい小説を書くことはこの先もうないだろうと思いながら書いた。
 この小説に登場するのはほとんど実在の人物ばかりだが、当時楽しんで生きていた人のことは良く、楽しんで生きていなかった人(教師や刑事やその他の大人達、そして従順でダメな生徒達)のことは徹底的に悪く書いた。
 楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れていない。
 数少ない例外の教師を除いて、彼らは本当に大切なものをわたしから奪おうとした。
 彼らは人間を家畜へと変える仕事を飽きずに続ける「退屈」の象徴だった。
 そんな状況は、今でも変わっていないし、もっとひどくなっているはずだ。
 だが、いつの時代にあっても、教師や刑事という権力の手先は手強いものだ。
 彼らをただ殴っても結局こちらが損をすることになる。
 唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。
 楽しく生きるためにはエネルギーがいる。
 戦いである。
 わたしはその戦いを今も続けている。
 退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは死ぬまで終わることがないだろう。
 『69 Sixty nine』(村上龍、1987年)

 鹿児島の特異性に対する思いを別にすれば、ぼくはほぼこれと同じ気持ちでしたし、励まされもしました。で、ぼくもここにあるように笑って生きていこうと、それが復讐であると考えてきました。

 ところが、ぼくは与論島出身なので、与論への想いは切れません。それを胸のうちに抱えるだけでは収まりがつかなくなって4年前でしょうか、ブログを書き始めました。みなさんのなかで個人的にブログを書いてらっしゃる方はいますか? あ、お一人いらっしゃいますね。ブログは不思議なもので、ブログを通じた縁ができ、奄美や沖縄とのつながりが生まれるようになりました。それはとてもうれしかったのですが、同時にわが与論も鹿児島の行政下にあることが否応なく分かってくるわけです。

 たとえば、去年の「ふるさと納税」に関する報道。最初、「県が窓口を一本化し、県が四割、各市町村が六割を受け取る」となっていました。ぼくは愕然としましたが、同時に激しい既視感も覚えるわけです。いかにも鹿児島らしいと。これは何も奄美に対してのみ向けられた政策ではないですが、こんな政策下に与論もあるということに暗澹たる気分になるわけです。何も変わっていないし何も終わっていない。そう思いました。で、南方新社の向原さんのお誘いに乗っかるように本を書くのをきっかけにして奄美論の本をたどってみました。ぼくはもともと本は好きですが、奄美論というより、琉球弧論というか、奄美も沖縄もひっくるめて見る議論に惹かれてきたので、奄美自体にフォーカスしたことはあまりなかったのです。

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「調所家と田畑家 その功罪と展望」

 呑気な対談ではないだろうか。「調所家と田畑家 その功罪と展望」(南海日日新聞 6月14日)。大江修造と調所一郎。

調所 たまたま薩摩の琉球・奄美侵攻400年が騒がれていて、薩摩と奄美とのかかわりの始まりが侵攻400年だとしたら、最後はやはり、幕末から明治にかけての砂糖絡みのもろもろの事だったと僕は考えています。島津家の侵攻から始まって最後はサトウキビ。薩摩と島津と奄美の関係、始まりと終わりはそこにあります。
 (調所家の)血を受け継いでいる自分としては責任があります。今回のことを機に、プラスマイナスをきちんと認めた上で、これからの未来へプラス思考で何かできないか。具体的にはサトウキピ資料館を造ることです。(大江先生も書かれているように)サトウキビは明治維新の近代日本の礎の大きな一つになっています。少なくとも日本史を学ぶ大学生は一度ぐらい奄美に来るべきだと思うし、そういう運動をしたいですね。そのためには受け入れ側として資料館ぐらいないとね。観光にも役立ち、勉強にもなるようなものがあればいいですね。

 調所は何の資格があって、奄美に「資料館ぐらいないとね」などと言えるのだろう。そもそも「薩摩と奄美とのかかわり」は終わっていない。日本史を学ぶ学生に来いというのは自分を棚上げし過ぎである。

 大江 龍郷町には西郷隆盛が遠島になった際の住家が残っています。その周辺に空き地が目立っています。そういう所に奄美の砂糖が明治維新をもたらしたという記念館を建てておけば観光客の目にもとまるのではと思います。
 調所 あそこは観光客もよく来ますからね。たまには僕が、末裔が来て説明するのもいい(笑)。
 大江 やはり奄美は人情がいいんですよ。島の方言をお聞きになると分かる通り温かみを感じますが、薩摩弁は逆に力強さを感じます。

 末裔が来て説明するなら、常在しないとね。一方の大江は、「薩摩弁は逆に力強さを感じます」と言うが、薩摩弁は奄美でどんな風に発せられているのか、知っているだろうか。それに、薩摩弁は、女性的で音楽的な響きだって持っている。

 -400年の歴史の中で、それぞれご先祖の功と罪についてはどうお考えですか?

 調所 功は明らかに、島津家から見れば、あるいは薩摩藩から見れば、明治維新の主役に躍り出る礎をうちのご先祖が奄美を利用して成し遂げた。そういうことが功の部分だと思います。あくまでも島津、薩摩側から見ればですね。

 一方、罪の部分は、やはり三島方ですが、奄美の人たちから見れば、非常に苦しかったといわれています。実際に死罪になった人はいないようですが、家人という奴隷に陥れられた人がいたのは事実。さらに奄美、島の中で、支配者層と被支配者層に二層化して階層、あつれきをつくってしまいました。
 「南島夜話」などに書かれているように、歌に残っているわけだから、過酷な労働があったことは事実だと思います。その辺がやはり罪といえば罪だと思います。ただ、奄美の中でもやはりおいしい思いをした階級もあって、人口が増えているわけですから。それが今の奄美の経済を支えている一つにもなっているというのが、功というよりも、末裔の者から見るとほっとします。ちょっとはプラスの部分もあったと思えることが、僕としては、一種の免罪符というか慰めにもなるんですね。それを功と言っていいかどうか分かりませんが・・・。

 功と罪というか、光と影があったのは事実ですね。当時の影の部分が今は光として作用しているのは僕としてはうれしいですね。影の部分がいまだにずっとひきずっていたら大変なんですが。

-サトウキビ産業が島の経済を支えていることは結果的にはほっとする部分がある?

 調所 結果的にそうなっている点についてはほっとするところもあります。

 大江 私もほぼ同意見です。こちらは間接支配の支配者側に回ったということで、考えなければいけないことはありますが、功ということで申し上げると、砂糖増産に相当努力して、水車を発明して、それ以前と比べると倍増したそうですから。それから開墾、埋め立ても相当やったんですね。田畑も増やしました。全島にそういうことをやりましたから。狭い空地を有効に活用する努力は薩摩藩に協力してやったので、その辺は功といえば功ですね。享保年間に相当大胆にやりました。それがあったから、明治末期の急激な増産に対応できたと思います。

ただ罪の方は難しいです。郷士格というけれども、薩摩藩の中で侍になったものは帯刀を許されたが、奄美の郷士格は帯刀を許されなかった。ですから、武力を持たない侍。早く言えば管理職ですぬ。なので、薩摩藩にいう下地があるから、薩摩の圧政に対して実力で手向かうことは無理でした。それが圧政に組したと言われるかもしれないですが。
名誉のために申し上げると、先祖はみんな佐文仁、佐文主と呼ばれていました。圧政に組したかもしれないが、奄美の人のことを考えていた。そうでなければ、佐文主という呼び方はしなかったのではないかと思います。一種の尊敬の念が含まれているようにも思います。私は2世だからこそその感じがよく分かるんです。百パーセント圧政に組したわけではなくて、いろいろ思いやりもあったと思います。

 「ご先祖様」の責任は、末裔であるご両人には何の関係もない。ご両人は、先祖のしたことは自分には何の関係もない、と、そう言い切っていいのだし、そう言うのが自然である。現在の個人が歴史の責任を背負う謂れなど何もないのである。それなのに、背負えないものを背負おうとするから、その引き受け方は中途半端にならざるをえない。だから煮え切らない煩悶的見解になってしまうのだ。でも、それは歴史ではない。それはちょうど、大山麟五郎が自身の家系の煩悶を記述しても、それは一族史ではあっても郷土史にはならないのと同じである。

 関係がないと言っても、個人的な良心として責任を感じることはあるだろう。でも、それは個人的な気持ちにしまっておけばいいことだし、それこそ資料館を作るなら、個人として黙ってやればいいことだ。

 そして、「ご先祖様」の責任を、末裔である個人が背負えないのは、同時に、公の立場として歴史を担う権利もないことを意味する。「島津家から見れば、あるいは薩摩藩から見れば、明治維新の主役に躍り出る礎をうちのご先祖が奄美を利用して成し遂げた。そういうことが功の部分だと思います。あくまでも島津、薩摩側から見れば」という見解に個人的見解以上の意味を持たせることはできない。

 ここで、明治維新が絶対化される度合いに応じて、薩摩の実行の内実は不問に伏されてしまう。薩摩は明治維新の重要な役割を担った。しかしそこには奄美に対するモノとコトの収奪が伴っており、薩摩評価に深い影と終わらない課題を残すことになった、という視点は欠ける。それは薩摩側から見ているからという以上に、個人の見解に過ぎないものに公的な意味があると見なしているからである。

 島津であれ尚であれ、田畑であれ調所であれ、現在の個人の発言に公的な意味など持たせようがない。島津と尚を呼ぼうとした徳之島のイベントは茶番でしかない。来なかった尚は賢明である。また、挨拶した島津がそこにいささかなりとも、公的な意味があると思ったら滑稽なのだ。同じように、聞く方もそこに公的な意味を感じているとしたら滑稽である。それは、この紙面の対談も同様だと思う。何がしか公的な意味を持つとご両人が思っているとしたら、とんだ野郎自大な錯覚である。

 どうして、この企画を止めてあげなかったのだろう。この対談、新聞の二面ほぼ全てを使って巨大な見出しのもと行われている。しかし、これは二面大の勘違いである。

 大江 中国は植民地化されましたね。日本は植民地化されなかった。そこには黒糖が利いていると思います。

 中国は植民地化された。日本は植民地化されなかった。では、奄美は?

 大江 今、日本は原点に戻らなければいけない。経済、政治もでたらめ。明治維新の日本をつくることが求められています。われわれが明治維新に回帰するのは意味があることです。この明治維新こそ、薩摩・奄美の力により達成できたのです。なんといっても日本の近代化は明治維新。奄美・薩摩の名誉を確固たるものにする必要があります。そういう知悪を歴史に学びたい。500万両の借金をちゃらにしたとは言いにくいが、どうやってしのいできたかは今の日本にも役立つ話です。

 現在、「明治維新の日本をつくることが求められている」のではなく、近代以降をつくることが求められているのではないのか。ここで大江の発言はきわめて薩摩的色彩を帯びる。大江と調所と、両輪で維新止まりを更新している。鹿児島の「維新止まり」は奄美の支えなくして成り立っていない。その現在版をこの対談は見せてしまったのではないだろうか。

 大江 そこで薩摩と奄美が一体にならないと。しかし、はっきり言って薩摩は奄美から搾取したことを隠している。そうやっているうちはダメですよ。

 「薩摩と奄美が一体にならないと」いけないのでは、ない。薩摩と奄美は、それぞれが語る主体を自立させた上で、奄美が姿を現さなければいけない。

 明治維新が絶対化され、自身の発言の公的意味を信じている分だけ、歴史評価は、薩摩に、島役人に肩入れするようにできている。しかし、明治維新は絶対でもなければ、ご両人の発言に公的な意味は全くない、のである。


 言い換えてみる。個人と家系の歴史がうまく分離されていない。あるいは、家系の歴史を個人と直接、結びつけてしまっている。そのため、歴史評価が家系の歴史評価と重なってしまい、個人的煩悶を抱え込まざるを得ない。その中途半端さを救抜するように、明治維新が絶対化されて呼び寄せられる。明治維新が絶対的な善になれば、薩摩のなしたことが絶対的に評価され、同時に、奄美も「黒糖」で評価されることになる。

 しかしそれで全て解消されるわけではなく、両家は薩摩そのものではないから、中途半端さは残り、やれ尊敬されていただの、あまい汁を吸ったのもいるだの、サトウキビは今も島の経済を支えているだの、と、同類や逃げ道を探すことになる。そして「免罪符」という言葉が出てくるように罪責感は消えない。そこで、教科書への黒糖一行や、資料館などが、補償のように登場してくる。しかし、家系の歴史の延長のように言うのなら、言わないほうがいい。本気で主張し本気でやろうと思うなら、家系の一切の背景を抜きに、まったき個人として言うべきことであり、そうなってはじめていくばくかの意味を持つことである。


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2009/06/23

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」2

 ぼくは小6、中学、高校とここの学校を出ましたが、友人からはいわゆる嫌な思いを直接的には受けていません。シマンシや島流しという言葉は耳にしましたが、彼らも親や年長者が使っているから使っている感じで、直接ぼくが面罵されるということはなかったのです。でも、それは幸運なことだったろうと思います。というのも、ぼくの同年代の奄美の人に聞けば、たいがい激しい喧嘩をしてきているからです。ぼくの感じ方は、下に続く世代のさきがけだったかもしれません。

 しかし、友人は親切でしたが、息苦しさを感じていました。教師や学校ともしばしば衝突しました。でも、ぼくはその息苦しさの由来も衝突の理由もはっきり分かりませんでした。ぼくたちの世代は、戦争はもちろん学生運動も経験していません。つまり、自分の悩みを横のつながりで共有できる言葉にする空気は全くなかったのです。ですから、ぼくの悩みが誰かと共有できるものだとは思わず、ひたすら孤立した悩みになったわけです。

 いま思えば、ぼくの友人には島の出身者もいれば、親のどちらかが奄美、沖縄である人もいました。ぼくはどちらかといえば、彼ら彼女らと親しくなりやすかったと思いますが、お互いの会話のなかに、島の話題が出ることは、まず無かったです。それは、積極的に避けられているわけではないにしても、どう言葉にすればいいのかわからなかったのだと思います。ぼくたちは、顔つきや人懐っこさなどから、惹かれあって、かすかな気配を分かち合っていたのかもしれません。

 それでぼくはただただここを出ることを考えたわけですが、出たころには、もう毒舌家が一丁できあがっていました。何を見ても聞いても気に入らず、とにかく毒ついていました。ニュースを見ればコメンテーターの発言に、大学に行けば友人に毒つきました。得たいの知れない憎悪がとぐろを巻いていて持て余しました。いまでも毒舌モードになると流暢になるのに驚きます。当時、ときあたかもバブルの前期ですが、本当に時代の空気とは不似合いな感覚でした。

 けれどそんな体たらくであったとしても齢は重ねるもので、結婚して子どもができたとき、この憎悪の垂れ流しの姿を子どもにさらすわけにはいかないと思い、この生き難さはどこからやってくるのか突き止めたくて、書く作業をしました。最初は自己批判から始めました。しかしそれだけではどうしても収まりきれないものがあるのを感じ、それが鹿児島批判として降りてきました。

 そして郷中教育や薩摩武門のあり方などを知っていく中で、ぼくは、当時は与論を主体にして考えていましたので、「与論は沖縄ではない、鹿児島でもない」という言葉を見出しました。ぼくはそれを「二重の疎外」と呼びましたが、どうやら沖縄からも鹿児島からも疎外されてあるという関係の構造が、生き難さの中身になっていると掴めたような気がしたのです。実際そのおかげで、これは大きな沈静剤になってくれ、少なくとも無闇に毒づかなくすることはできました。他愛ないですが、主観的には必死だったんでしょうね。

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2009/06/22

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」1

 20日、「奄美を語る会」で話したことを抄録したい。参加していただいた方は300円を支払って聞いているのですが、場内の空気や橋口さんの話を載せるわけではない、ということでお許しください。

◇◆◇

 こんにちは、喜山と申します。ぼくは1963年の与論島生まれです。

 鹿児島で人前で話すのは、高校のとき以来です。これまで鹿児島で人前で話すことがあるとは夢にも思っていませんでした。ただ、鹿児島で奄美のことを話すのであれば、話は別です。そういう意味でこいういう機会をくださった仙田さんに感謝いたします。「奄美を語る会」が和眞一郎さんらによって始められたのは1981年と聞いていますが、ぼくはその頃、ここを出たいという一心でいました。とにかく鹿児島を出たい、と。もしあのとき、「奄美を語る会」を知っていれば、出たいというだけではない気持ちももてたのではないかと反省します。

 反省するということにはもうひとつこういうこともあります。ぼくは学生になって鹿児島を出てからは、帰りたい場所といえば与論でしたから、しょっちゅう与論に帰りました。しかも行き方も、鹿児島を経由していくと気分的にきついものですから、那覇を経由して、那覇を経由すると気分的にもいいので、那覇経由で与論に行きました。島では、帰りは親に会って帰るのかと言われましたが、いれるだけ与論にいて、また那覇経由で東京に戻るなんてことをしていました。

 ところが、二年前、父が突然、他界いたしました。何の予告もなく、突然のことだったのです。今回、鹿児島にいるのも父の二年祭にきたのでした。ぼくは与論に行くことばかり考えてきたのですが、思い違いをしていたとすれば、親はいつまでも元気ということです。そこで自分の生き方を反省させられました。ぼくにとって鹿児島はいたくないのにいなきゃいけないところだったわけですが、だからなるべく行かないで済ませてよかったのかと思ったのです。

 そう思うと、もうひとつ気づくことがあります。ぼくは今回、お誘いを受けてまたとない機会と、うかうかと引き受けてしまったわけですが、その際、テーマはやっぱり1609年のことだろうと考えました。今年、400年をめぐって各地でイベントが開かれています。那覇、大島、徳之島、沖永良部島など、そして年の後半からは東京などでもあるようです。

 しかし、よく考えてみると、400年のことは、ここ鹿児島で語られるのがもっともふさわしいひとつではないでしょうか。なぜなら、400年の意味を、最大重力で引き受けてきたのは、ほかならぬ、鹿児島にいる奄美の人だからです。そしてそうであるなら、ぼくはやっぱり語るべき主役ではないと思います。本来であれば、みなさんが話しをして、ぼくがそれを聞くというのがあるべきあり方だろうと思います。だから語るべき主役ではなく、主役が語る機会があることを願いますが、今回は、鹿児島を通過した者としてご容赦ください。

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2009/06/21

ニ年祭と「奄美を語る会」

 父の霊祭。こんどは家族だけでひっそり行った。神官はスケジュールの都合で、葬儀や一年祭のときとは違う方にお願いした。しかし、父は生前、自分の時はこの方がいいと友人に話していたそうで、父が招いたのかもしれないと思った。しかし、神事の最中、ふと見上げると父の慰霊が目に入るが、なんでそこにいるんだろうと思うのだった。まだ、心の底からは父の他界を認められないのだろうか。

 何事によらず控えめな父だったが、逝くときまでそうだった。それはいかにも父らしいのだが、何もそこまでしなくてもと思う。それを、ぼくはほんの少し、納得してないのかもしれない。けれど、父の子全員そろって、よかった。


 霊祭が終わると、その足で教育会館へ。「奄美を語る会」、参加のため(「奄美にとって1609以後の核心とは何か」)。

 ぼくは二番手だったけど、三十度を超える夏日、冷房なく大きな扇風機のまわる大きな会議室で学校の教室のよう。懐かしい空気だった。

 予想通り、というか懸念した通り、年配の方が多い。どんな語り口にすればいいだろう。少し悩む。引用資料の著者の敬称を略すのは断りを入れればいいだろう。けれどそののっけの村上龍の小説あとがきの引用は、反発を招くんじゃないか。と、戸惑った。

 何人か、頷いて笑顔で聞いてくれる人がいて助かった。でも、大半はそうではない。お年寄りの表情はどうしてもそうなってしまうと思ったが、なかには明らかに反発が伝わってくる表情もあった。ぼくは同世代から若い人に対して、言葉のキャッチボールと笑いで話しを進めることが多いから、うまく乗れない感じはあった。ほんとうは檀上を降りて話したかったのだけれど、そうできなかった。

 けれど、終わった後は、本でしか存知あげなかった方々が声をかけてくれたり、ブログにコメントしてくれるshimanchuさんが質疑応答で話しをしてくれたりして嬉しかった。福岡からは、大山さん玉城さんがいらしてくれた。玉城さんからは400年だけでなく、500年のことを、と面白いアイデアを聞かせてもらった。大島の薗さんと久し振りの再会。父と同じ年だということも知り、父と話しているような気持ちになる。薗さんからも与論島での郷土研究会の活動など、あたたかい話を聞かせていただいた。

 その他、多くの方と言葉を交わすことができてありがたかった。こういう機会をくださった「奄美を語る会」の仙田さんはもとより、来ていただいたみなさんに感謝です。


 それから、こんども姪っ子どうしが再会できてよかった(「父の一年祭」)。「奄美を語る会」のぼくの話で、彼女たちが変な衝撃を受けてないことを祈ります(苦笑)。


Mei2009

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鹿児島のなかの奄美

 昨日の「奄美を語る会」の熱気を冷ますように雨が降っている。

 むかし学生の頃、与論から東京に戻ると、自然と文化と言葉と、その隔たりを一方の極からもう片方へとたどり着くのがきつかったけれど、それがぼくの生きる条件だと、ふたつの極をまたぐ技術を身につけようとしてきた。

 鹿児島から東京に戻るときはそういうことはない。むしろ、拘束から解かれるように心は自由な感じを覚えた。鹿児島に帰ると思ったことはない。そこはいつも行く場所だったし、これからもそうだろう。そしてそこは親類に会いに行くという点の場所だった。けれど、今回、「奄美を語る会」などを通して、会いたい語りたい人たちがいる場所という意味に少しだけ変わるような気がする。

 ぼくにとって鹿児島のなかの奄美とは、鹿児島と不可解にも同じ県のなかにある奄美の島々という意味だった。けれど、そこにはもうひとつの側面があり、鹿児島本土のなかにある奄美という意味があり、そこにも濃厚な奄美がある。そこで奄美がどう語られるかということは、ことの他重要な意味を持っている。そしてそこには、かつて奄美を表現する術を知らずにいた自分も入っている。そういうことに、気づいた。

 思えば、鹿児島で人前でしゃべって、それが肯定的に受け止められたのは(立腹した方もなかにはきっといたと思うけれど)、三十年ぶりに近いことだった。ぼくは、自分を追放された精神だと思ってきたから、受け入れられるということが不思議な想いだ。もっとも、それは「奄美」に向かって話したのだから自然なことといえばそうだ。鹿児島に、奄美は、ある。

 リムジンバスはいま、天王洲アイルをゆっくり進むところ。


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「薩摩は中国人を隠れて検分」

 1742年3月19日、沖縄北部の運天村で、琉球の衣装を着た2人の薩摩役人が、ある家屋の中から御簾ごしに外を眺めていた。やがて御簾の向こうに散歩をする人々の姿が見えた。それは付近の仮小屋に滞在していた中国人漂着民であった。2人は彼らの様子をそっと観察し始めた・・・。

 琉日関係の隠蔽に対する薩摩の振る舞い方を、渡辺美季はこんな風に描写している(6月5日、南海日日新聞記事。「薩摩侵攻400年 未来への羅針盤」17)。そして、あれこれ手を尽くして関係の隠蔽に力を尽くす琉球と薩摩に対して、清はそれを知っていたことも書いている。

 (清朝)は本当に琉日関係に気づかなかったのだろうか。実は琉球の努力にもかかわらず、中国はとうの昔に「事実」を感知していたのである。ただ中国は{琉球は中国に従っている」という体面が保たれてざえいればよいと考えていたために、あえて内賓は問わず「見て見ぬふきをしていたのであった。琉球が順調に隠蔽策を実施することができた背景には、このような中国の姿勢があったことも忘れてはならないだろう。

 と、いうことは、琉日関係の隠蔽とは、「中国(清)-琉球-日本」の共犯関係だということになる。

 17世紀後半から約2世紀にわたって、「中国(清)-琉球-日本」は長い平和を維持した。それはまさに琉球の「隠す」努力、薩摩の隠蔽への協力、中国の「隠される」努力(=見て見ぬふ盟が交差していた時期であった。もちろん隠蔽の当事者たちは「国際的な平和維持」などの壮大な日的意識を持って(隠蔽活動を行っていたわけでは決してないだろう。しかし彼らの必死の骨折りは、三国の歴史上、極めてまれに出現した平和にいささかなりとも嚢献していたのではないか。 そのように考えてみた時、現代では想像しづらい当時の外交の絶妙さと弾力性に気付かされ、果たしてわれわれは本当に「進歩」しているのだろうかと不安にもなるのである。

 この、渡辺のいう「絶妙さと弾力性」は理解できる。ひとくちに、大人の関係というような。渡辺の「不安」に対しては、ぼくたちは進歩してない。そう言っていいのではなだろうか。あるいは、この関係力学を発揮できた歴史に学び、琉球弧の明日に生かすように考えたい、と。


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2009/06/19

鹿児島「でんすけ」ナイト

 沖永良部の方の「でんすけ」で、奄美つながりの方々と合流。

 南方新社、向原さんの呼びかけで、お会いしたかったけれど機会のなかった方や、知ればお会いしたくなるはずだけれど知る機会のなかった方たちと話すことができた。中身はもちろん、奄美談義。

 ぼくの場合、もともと自分の出身地的悩みが他人と共有できるものとは思っていなかったので、もっぱら内省に頼ってきたし、本を書くにしても先人の書いたものを手がかりにしている。こうした場合、もっとも削がれやすいのは言葉にされていない個々の想いやニュアンスだ。そしてそれらは書かれてきたものより、大きく、深い。『奄美自立論』にしても、その分、単線的で単純であることを免れていないはずなのだ。だから、一人ひとりの奄美つながりの人の声を聞きたいと思う。

 いろいろな人の想いを聞けば何も書けなくなるというのではなく、できるできないはともかく、それを最深度で掬い上げる捉え方をしたいと思うから。そしてそういう想いの一端をうかがうことができて、とても嬉しい夜だった。奄美出身で鹿児島在住、本土生まれで奄美に帰ったことがある、親のどちらかが奄美の出、そしてそのつながりをもとに二世と自己紹介する場合と二世自称が必要ではないと感じる場合。由緒人ゆらいと家人ゆらい。それぞれにそれぞれの奄美想いがある。そしてそれらはどれもひとしい。

 ぼくより年長者だけれど、「日本人全員が同じ苦労しているわけで奄美だけ特別ではない」と言う声は印象的だった。ぼくは、その声を数十年前から聞いていて、どうすれば、そこに奄美ならではのニュアンスを伝えることができるのだろう、と考えてきたけれど、こうした声の背景にもし、躓かない生があるとするなら、それはとてもいいことだし、こうした声が奄美内からもあることは大切なことだと思う。

 それからこの話題、どうしても年長者と共有することが多いので、同世代の方と話ができ、想いをお聞きすることができたのもありがたかった。

 のっけから濃かったと思う。話す内容が。途中の大声の口論もあり、その濃さと熱さで、その場を画像に収めるアイデアすらどこかに飛んでいた。深夜、店の外に出て、ああここは鹿児島なのだと気づく。いちばん濃厚に奄美を感じられるのは、ひょっとしたら鹿児島なのかもしれない。そんな想いが過ぎる。そのことにもう少し早く気づいていたら、行きたくなる場所になっていたかもしれない、と。

 お聞きできた声、その想いを受け止めることができたら、と思う。みなさんに感謝。


◇◆◇

 なんと実家からはワイヤレスでネットにつながらず、インターネットカフェでこれを書くなり。暗くひんやりした空間はちと苦手で、長居できそうにない。もろもろ遅れ気味のお返事、ご容赦ください。



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2009/06/18

「日本人になりすます琉球人」

 5月29日、南海日日新聞記事。「薩摩侵攻400年 未来への羅針盤」16。担当は、渡辺美季。

 1832年、日本で出版された『琉球年代記』。

 ある時、日本人の八郎が海難事故で琉球へ漂著した。国王の命令により四名の琉球人が八郎らを日本へ送遷しようとしたが、途中で再び遭難し、今度は中国に漂著してし事つくすると中国の陸地を目前にした琉球人が悲しげな顔をして言った。
 「小国の浅ましさで、中国に対しては日本との関係を隠しています。今のわれわれの状態を見られたら、琉球と日本の関係が中国にばれて、われわれは殺され、国家の惑いを招くでしょう」

 そこで、八郎は一計を案じる。

髪をそってちょんまげを結い、和服に着替え、日本風の偽名を名乗り、日本人のふりをすればよい、と提案したのである。琉球人がこのアイデアに従ったところ、果たして何の問題もなく上陸でき、「日本人」として救助されたという。

 これは物語上のことだが、こういう形で、琉日関係の隠蔽を、日本人は知る機会があったということ、それはぼくは知らなかった。渡辺はこの物語の背景にあった事実を指摘する。

例えば一七一四年に中国に漂着した薩摩船には、二名の琉球人が同乗していたが、彼らは上陸前に包丁で髪を切って日本人の姿になり、金城は金右衛門、呉屋は五右衛門と変名している。もちろん琉球と薩摩の関係は中国に対して内密にされた。

 やれやれ、とぼくたちは思う。『薩州人唐国漂流記』では、沖永良部の島人が同じような場面で月代をし、「登世村を村右衛門、島森を島右衛門と名付け」たのを知っている(「琉球にもなれ、大和にもなれ 2」)。こんどは、「金城は金右衛門、呉屋は五右衛門」か、と。

 渡辺によれば、『琉球年代記』の作者は、「この漂流記は…ただ琉球人が月代を剃って中国人の目をくらましたおかしさを摘んでここに載せるのである」と書かれていることから、

どうやら江戸時代の日本では、「琉球人が日本人になりすます隠蔽行為」は一般には知られていない珍談であったこと、またそれを「おかしさ」として受け入れることのできる社会状況が存在していたことが推測できる。

 渡辺が言うのはこういうことだ。

 薩摩侵攻後の琉球の状況は、往々にして「薩摩支配の時代」「日中両属」などと表現されがちである。しかしそのような言葉では、ここに述べてきたような「中国(清)-琉球-日本」の複雑な関係は決してとらえきれないだろう。一方で江戸時代の日本の人々は、それらをひっくるめて「おかしさ」として受け止めようとした。そのやわらかな姿勢に思いをはせながら、われわれはここでいま一度、先入観にとらわれずに侵攻後の琉球の姿を眺め直してみる必要があるのかもしれない。

 ここのところ、どう眺め直すということなのか、ぼくには難しい。

 ぼくは漂着時の琉球人の隠蔽行為は、いまのぼくたちはまるでコントのようだと笑いそうになるが、でも彼らにしてみたら命がけだったのだと、見なしてきた。ぼくにとって、このエッセイからの学びは、この隠蔽行為を日本人は知る機会があったということ、そしてそれを今のぼくたちのように「おかしさ」と捉える余裕があったということだ。それは日本からみた琉球に対する距離の遠さを物語ると思う。自分たちのことではないという距離感が、「おかしさ」を生んでいる。それが、渡辺のいう「やわらかな姿勢」の背景にあるものだ。

 もう少し、想像して、「眺め直し」を考えてみたい。

 付け加えれば、もうひとつ思うのは、琉日関係の隠蔽を日本人は知るきっかけがあった。しかし、奄美が「御届けなし」の「蔵入り地」であったことは知る由もなかったのではないかということだ。



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2009/06/17

『まれびとたちの沖縄』

 東京から沖縄の尋常中学校に赴任し、伊波普猷が沖縄学への道を歩む大きなきっかけを与えた田島利三郎、琉球が日本になるために呼び寄せられたような源為朝、幕末の琉球で布教活動を行ったベッテルハイム、大正後期に沖縄芸能の価値を見出すも、戦時下では雅楽に傾斜した田辺尚雄。『まれびとたちの沖縄』で取り上げられているのは、沖縄にやってきて沖縄に痕跡を残していった人々である。

 なかでも、「おもろそうし」として知られることになる意味不明の文書を見出し、それを伊波普猷に託した田島の物語は印象に残る。

 そして伊波は序文(田島の本の-引用者注)のなかで、『おもろさうし』を世に出したいという決意も述べている。すでに柳田國男が来押しており、沖縄研究は注目されているが「オモロの研究は流行と何等の関係もない。人が読もうが、読むまいが、私の関するところではない。田島先生に対する義理ででもこれだけはどうにかして完成したいと思っている」。
 この言葉どおり、同じ年に伊波は『おもろさうし選釈』を出版。本の冒頭に「この小冊子を百七十年間埋もれし『おもろさうし』を掘出し給いし恩師田島利三郎先生」への謝意が述べられている。田島の資料、さらに尚家に保管されていたもの(一七一〇年ごろ謄写・現存最古)、また伸吉本といわれる写本を校合し、おもろ一五五四首のうち九十八首をえらび、解釈をしたものである。おもろのいきいきとした解説のみならず、うたわれた時代の歴史的背景、伝承や民俗学的見地からのアプローチもあり、今日的視点も採り入れられた。伊波の文章はわかりやすく、詩的な表現があることが特徴だがこの本にもその魅力があふれている。

 「人が読もうが、読むまいが、私の関するところではない」というのは、考えるということの無償性が生きているとともに、田島との関係の濃密さも思わせる。学と人と。かつてこういう関係はありえたのだ。

 しかしこの本は、総じて、それらの人々の具体像を浮き彫りにするというより、むしろ沖縄の表情を浮かび上がらせている。たとえば、「この国はある程度まで独立しているとはいえ、あらゆる点について日本の不可分の一部である」と、英国海軍軍艦の主教が、布教活動を行っていたベッテルハイムから教わった言葉を紹介することによって。

 ぼくたちは滞在者からの沖縄像をここに見る。

 十代後半から、この世にいない父と母のうしろ姿を追いかけるように沖縄の旅をつづけた。子どものころに聞かされたふたりの沖縄をじぶんの日でたしかめたかったのかもしれない。そんな私も沖縄を訪れる「まれびと」 のひとりだった。さまざまなひとに出会い、おどろき、いろいろなことを教えられた。まれびとたちと、沖縄との出会いが生み出すドラマに惹かれたのは、私じしんの旅の記憶ともかさなったからだろう。

 ここで、著者与那原恵は、ここに取り上げてきた「まれびと」に自身を重ねる。それはたとえば、「沖縄学。おきなわがく、とつぶやくとき、私は胸がしめつけられるような気持ちになる」と書くように、『まれびとたちの沖縄』から漂ってくる切なさの背景になっている。


 欲を言えば、個々の人物像が明瞭に浮かぶような突っ込んだ取材と考察がほしかった。とくに、

 一四五〇年、トカラ列島の中間に位置する臥蛇島は、なかば薩摩、なかば琉球に属する境界領域だった。そしてこの朝鮮漂流民の四人はふたりずつ、薩摩と琉球にふりわけられたという。それ以前の十四世紀に薩摩の領域は奄美諸島の徳之島まで南下したこともあるのだが、この時代は薩摩の勢力が臥蛇島まで後退していたということだろう。このことがしめしように、日本と琉球の境界は時代によって移動していたのである。

 こういう不用意なことは書かないでほしかった。
 しかしそれはブーメランのように自分に返ってくる。深呼吸するように考える時間を奪うのが現在の社会速度だから。


    『まれびとたちの沖縄』

Marebito

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2009/06/16

ありがとう、「あまみんちゅ.com」

 「あまみんちゅ.com」の大久保さんから、20日以降、「あまみんちゅ.com」の更新がゆっくりしたものになるとお知らせをいただいた。

 正直いってショックだし、残念。お知らせをいただいて、じわじわとさびしくなってくる。

 しばらく前に、渋谷の「あまみんちゅラウンジ」が閉鎖になったとき、大変なんだろうと思った。渋谷でフリーにミーティングができる贅沢を味わってきただけに、戸惑ったが、それはそうだろうなとも。なにしろこのご時世だ。

 しかし、それでひと段落と思っていただけに、今回のお知らせは心の準備もなく、驚いた。

 何か奄美系のイベントがあると、柳澤さんや大久保さん、清水さんは取材してくれ、それがサイトにきちんと反映されていく。それを見ているうち、いつの間にか、奄美情報を知るには「あまみんちゅ.com」を見に行くようにいなっていた。「ヨーリヨーリダヨリ」のブログを読んでイベントに出かけたり、ブログリストをみて奄美つながりのブログを知ったりすることができた。かなり依存してきたのである。『奄美自立論』の取材ページをお願いしたとき、無料なのは心苦しく、せめてもと思い、紹介ページを経由して本が売れた場合は、手数料をお渡しするという提案をしたが、大久保さんはきっぱり、奄美関係の情報掲載料は無料です、と言って提案は却下されたのだけれど、すごい立ち位置だなと敬服した。大久保さんも柳澤さんも奄美出身者ではなかった。それがよかったと思う。奄美の各島にフェアな目くばせをしてくれるおかげで、ぼくは疎外感を感じずに済んだし、奄美はつながっているということをこのサイトで感じてきたのに気づく。甘えてきたものである。

 「奄美人(あまみんちゅ)」という言葉が未成熟ななか、このサイトの名称が「あまみんちゅドットコム」であるおかげで、少しずつ、「奄美人(あまみんちゅ)」という言葉にも慣れてきた。「奄美人(あまみんちゅ)」というと、まずこのサイトを思い出し、次第に、奄美の人たちみんなのことに拡がっていくように感じた。柳澤さんのつくる新キャラも、大久保さんの育てる鉄男(蘇鉄)も、奄美イメージの増幅に一役も二役も買ってきたと思う。

 お世話になったものです。そのひとりとして心から感謝したい。とうとぅがなし、「あまみんちゅ.com」

 これからはぼくたち一人ひとりが「あまみんちゅ.com」が果たしてきた役割を分担して担わなきゃいけないなあと思う。同時に、それがとても心もとない。でも、奄美をつなぐ場はやればできる。それを示してくれたことは、いろんなときにぼくたちの励みになってくれると思う。

 ほんとうにありがとうございました。

Amainchucom

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「担普日記三部作」を読みたい

 6月3日の南海日日新聞の記事。

和泊町歴史民俗資料館の先田光演さん(えらぶ郷士研究会長)は5月、「琉球・薩摩両属を生き抜いた島役人の記録-担普の日記三部作」をまとめた。薩摩藩政時代、沖永良部の島役人・担晋が鹿児島、琉球双方に足を運び、医術や文芸を習得、島民のために生涯をささげた経緯を考察した。先田さんは「両属の位直を生かしながら、活路を切り開いた先人として高く評価できる」と話した。

 担普は、「たんしん」と読む。たんしんさんの日記、ということだ。「渡琉日記」「在與中日記」「上国日記」という。「渡琉日記」は琉球、「上国日記」は鹿児島、「在與中日記」はどこだろう。とにかく、読みたい。

 和泊町歴民館は先田さんの論考「担晋の日記三部作」「藩政時代の奄美支配策」「藩政時代の沖永良部(年表)」を来場した人に無料配布している。
   ん~、読みたい。しかし、行けない(苦笑)。


 余計な追加だが、ぼくは「両属」という表現に躓いた。「琉球・薩摩両属」という言葉は、琉球の日中両属という表現を思わせる。しかし、奄美の場合、日中両属のように琉薩両属していたわけではない。そこには、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の否定の契機があった。そのことを踏まえなければ、「両属」という表現は困難を脱色させてしまう。


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2009/06/15

「400年 現代の問題として考察」

 南海日日新聞の記事(2009/05/28)を頼りに、沖永良部島でのシンポジウムについて任意にコメントする。

高橋孝代
沖永良部が島の外から影響を受け始めたのは十四世紀以降。それまでは各集落に豪族がいた。島は北山王の次男とされる真松千代(まちじょ)を世之主とし、統治されていた。権力者層は世之主系の人々が占めていたが、一六〇九年、薩摩藩の琉球侵攻後、次第に鹿児島系が取って代わるようになる。沖縄、鹿児島双方の権力者を先祖に持つ人が多い。祖先の出自が今もアイデンティティーの拠(よ)りどころになっている。

 沖永良部島は与論の隣であり、また「沖永良部島は琉球史にも日本史にも華々しく登場する島ではない」ということも共通しているが、この点、「沖縄、鹿児島双方の権力者を先祖に持つ人が多い」というのは異なっている。与論と沖永良部の微妙な差異をここに見出すことができるようだ。

弓削政己
一八五一年以後、ペリーをはじめ外国船が通商貿易を求めて琉球に来るようになる。フランス艦隊は「琉球を石炭港や水の補給に使わせてほしい」と要求する。琉球側は「琉球は貧乏で借金し、トカラの冊封体制、地名にも影響支配を受けている。琉球王府の権限はない」と弁明、十九世紀の中ごろから始まった開国要求、外圧の中で「琉球国之内」概念が徐々に崩れていく。
 一八七二(明治五)年、琉球処分で琉球藩となったとき、藩主の尚泰は政府・贋児島県に対し、奄美諸島の返還要求をする。七四年には大蔵省が大島県構想を打ち出す。明治政府は貿易赤字を少しでも解消するため、輸入品の第二位だった砂糖を増産するため、奄美を鹿児島から切り離し、県とすることで生産意欲を高めようとしたのだ。惣買い入れや大島商社の収奪を経験した島民は「鹿児島県下では労働意欲が上がらない」とみたのだ。

 農商務省の前田正名は一八八一年、黒糖の産地問屋構想を示す。当時、奄美の人々は商人の高利貨に苦しんでいた。産地問屋の資金は百万円。半分を政府が出資し、残りは島民に出してもらう。名瀬に本店を沖永良部、鹿児島に支店を置く。「奄美諸島の砂糖振興には流通問題が大事」という視点があった。
 大島県の設置に黒糖産地問屋、いずれも明治政府の政策とはならず実現はしなかった。奄美は航空運賃も高い。流通問題は現代に通じる課題だ。

 弓削の考察の愉楽は、事実に触れることができる点にある。いまも奄美論は、事実が見出されなければいかなる仮説もむなしいという無力感と、事実が希少なために仮説が荒れやすいという苛立ちとのあいだで途方に暮れ易い。だから、これが事実であるという指摘自体が考える足場になるというだけでなく、愉楽でもあれば慰安にすらなるのだ。

 ぼくは『奄美自立論』で、「独立」というテーマに歩みを進めなかったが、名称はともかく「大島県」構想は現在でも、構想の俎上に載せるべきものだと思える。 

豊見山和行
 一六二三年、薩摩藩は大島置目条々を発し、「楷船作ましきこと」とする。楷船(かいせん)は大型の船のことで、奄美でも造っていた。薩摩支配以前は自由に航海し、交易をしていた。なぜ楷船を造ることを禁止したのか。琉球を征服した後、大和船が海上交通を牛耳る。琉球の年貢米を運ぶのに運賃を含めて払う。それに対して琉球側は薩摩とのメーン航路に琉球の船を割り込ませる。年に二艘(そう)をプラス二艘にして運送力を高めていく。
 奄美、琉球が船を造らなかったのかといえば、そうではない。薩摩、琉球の役人が船改めをしているし、道の島の船が那覇に来ることが常態化している。頻繁に交易していた。名越左源太は南島雑話」に「琉球からさまざまな人が来る」と書いてある。今帰仁に来た与論や沖永良部の船は琉球王府に届けず、相対商売をしていいことになっていた。

 奄美と琉球は政治的に分断されていて交流は少ないと考えられていたが、定期的な交流や交易はあった。島と島がネットワークでつながっていた。島社会が生き延びてきた力、戦略を見ていくことで、もっと豊かな歴史が掘り起こせるだろう。

 沖縄にとっては、「奄美と琉球は政治的に分断されていて交流は少ないと考えられていたが、定期的な交流や交易はあった」のは発見かもしれない。しかし、与論島の感覚からすれば、指摘されるまでもなく、沖縄島北部とのあいだの交流は身体が知っている、と言うべきかもしれない。

原口泉
 天保の改革の際、調所笑左衛門広郷が掲げた御改革の根本が琉球貿易と奄美の黒糖。改革が始まったのは一八三五(天保六)年。長崎に食い込み、奄美に三島方をつくったあと、藩の債務五百万両を二百五十年かけて返済することを打ち出す。実質の借金踏み倒しだ。この改革プランを立てたのは調所ではない。商業と無縁の調所が発案できるわけはない。腹心の海老原清儲(えびはら・まさひろ)と、大坂商人の浜村(出雲屋)孫兵衛であった。

 東京で講演したとき、調所が浜村にあてた手紙が残っていることが分かった。天三四年のものがA3の用紙で二十枚、三五年が十枚。羽書制度を含めて細かいところまで浜村に相談している。大坂商人が砂糖専売制を指導し、入れ知恵した。大坂商人がリスクを冒してかかわったのだ。これだけ徹底した搾取は世界的にも例がなく、アジアの国際マーケットを知っている商人だからこそ発案できたのだろう。このスキームは明治になっても続いた。

 この人はまいど、言うべきことが言えてないのに視線そらしの議論を展開する。「これだけ徹底した搾取は世界的にも例がなく、アジアの国際マーケットを知っている商人だからこそ発案できたのだろう」などと、頬かむりはいよいよ責任転嫁へ歩を進めつつあるのではないだろうか。

 復帰後の奄美論の系譜は、加害の感謝へのすり替えと琉球批判への視線変更の誘導、そしてその誘導に乗った、琉球に対する薩摩の相対的優位という強引な見なしによる被害記憶の抑圧、その両者の共犯として始まったようにみえる。この能天気な論旨を見ていると、この系譜の慣性は終わらず、頬かむりと責任転嫁へと継承されている。しかしぼくたちはもうそれを、対なる鏡として受け取る必要はないのである。奄美の失語を再生産させたくないならば、だ。


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2009/06/14

『奄美自立論』新聞書評

 これまでに出た『奄美自立論』の新聞書評を一覧にした。取り上げてくれたのは顔を知っている方もいれば、どなたかも分からない記者の方もいる。とにかく、こんなマイナーなテーマの本を見つけて取り上げてくださったことに感謝したい。


    ◆「薩摩侵略から400年 「奄美」再考各地で」(篠崎弘「朝日新聞」 2009/04/25)

喜山さんも「『奄美は一つ』という言葉が成立しづらいのは、実は奄美の良さと考えるべきだ。中央集権の抱える問題を解決するためには、奄美の歴史を問い直すことが意味を持つのではないか」。
 元(はじめ)ちとせ、中(あたり)孝介ら、奄美の歌手たちの活躍を喜山さんは高く評価する。「歌で奄美が知られることの意味は大きい。奄美はあまりにも発語がなさ過ぎた」
 
    ◆「奄美自立論。」(「日本経済新聞」 2009/04/26)
与論島生まれの著者は琉球でなく、大和でもないという「二重の疎外」を受けた歴史を反転させ、沖縄と日本本土双方をつなぐ架け橋として奄美をとらえなおをうと呼びかける。


    ◆「琉球侵略400年」(向原祥隆「西日本新聞」 2009/05/03)

今年は植民地化されてからちょうど400年。この節目の年に『奄美自立論-400年の失語を越えて』を出した。
 奄美は今、鹿児島県に属している。だが、自分が鹿児島県人だと思っている奄美の人は多くない。


    ◆「一六〇九年問題を考察」(仲川文子「南海日日新聞」 2009/05/23)

 これ程、多くの文献を参照し、多方面から一六〇九年問題を検証、考察した著書は、他に類をみないのではないだろうか。
 「奄美は琉球でもない、大和でもない」とその出自を正面切って論じ、そして奄美の自立への道を強く促している喜山荘一著「奄美自立論(南方新社刊)。


    ◆「与論人による自立への叫び」(松島泰勝「沖縄タイムス」 2009/05/31)

本書は、同じ琉球文化圏の仲間である「与論人(ゆんぬんちゅ)」による、どこにも帰属しない島の自治・自立を求めた魂の叫びである。


    『奄美自立論』

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400年、節目のイベント ver.8

 400年の節目を契機にしたイベントを、気づく範囲で挙げておきたい。(新しいニュースに気づいたら随時、記事を更新します)

 今日(4/15)時点で気づくのは、東京以外は、薩摩軍が上陸した地点あるいは島でイベントが企画されていることだ。

 5/9の県立博物館のものはタイムテーブルも載っていたので掲載する。充実した内容だと思うが、語り手の顔ぶれの反復が気になってきた。

 7/5のカルチュラル・タイフーンのテーマがはっきりしたので、更新。立教大学での開催があると知り、追加。

 あまみ庵の記事で6/13に名瀬であったのを知り、追加。


1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」

 場所:沖永良部島 和泊町歴史民俗資料館
 時期:2009年

2.「薩摩の琉球侵略 400 年・琉球処分 130 年を問う学習会」

 場所:大阪
 時期:3月20日

3.「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」

 場所:沖縄島 那覇市
 時期:3月29日

 記事「「薩摩の琉球支配400年」で熱い議論」

4.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」

 場所:奄美大島
 時期:4月12日
    1)13:30:戦跡の顕彰と慰霊のゆらい
    2)15:00:津代で400年を語る会

5.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」

 場所:徳之島 亀徳秋津神社境内
 時期:4月15日

6.「さつま(薩摩)の琉球侵攻と今帰仁グスク」

 場所:沖縄島 今帰仁村コミュニティセンター
 日時:4月22日(水)18:30~20:00
 講師:上里隆史(うえざとたかし)

7.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
  テーマ「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」
  (「懐かし画像~」

 場所:徳之島 徳之島町文化会館
 時期:5月2日

8.シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』

 場所:沖縄島 県立博物館
 日時:5月9日(土)
 主催:沖縄県立博物館・美術館
 共催:榕樹書林・首里城友の会・メディアエクスプレス

 1:00 - 1:05 総合司会:玉城朋彦
 1:05 - 1:10 館長あいさつ:牧野浩隆
 1:10 - 2:00 基調報告:島津氏の琉球侵略その要因・過程・結果 上原兼善(岡山大学)
 2:05 - 2:30 徳川幕府の対明政策と琉球侵攻 紙屋敦之(早稲田大学)
 2:30 - 2:55 奄美からの視座 弓削政巳
 2:55 - 3:20 女性史からみた琉球・薩摩 真栄平房昭(神戸女学院大学)
 3:20 - 3:45 琉球史への衝撃 高良倉吉(琉球大学)
 15分休憩
 4:00 - 6:00 パネルディスカッション
 司会(豊見山和行)+パネラー(各報告者)

9.「琉球侵略400年シンポジウム 
  <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」

 場所:沖永良部島
 時期:5月17日

10.「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)

 場所:東京 早稲田大学
 時期:5月29日

11.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)

 場所:大島、名瀬市
 時期:6月13日

12.「島津氏の琉球出兵400年に考える―その実相と言説―」

 場所:東京 立教大学
 時期:6月27日

13.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」

 場所:東京 東京外国語大学
 時期:7月5日


※更新日 4/1、4、9(徳之島「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」の紹介サイトを追加)、4/15 今帰仁(4/22)を追加、4/19、県立博物館のシンポジウム(5/9)を追加、5/17、東京外語大学でのパネルディスカッションのテーマ(7/5)を更新。5/30、立教大学でのイベントを追加。6/14、名瀬市のイベントを追加。


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2009/06/13

『大奄美史』は、なぜ、大・奄美史なのか?

 昇曙夢の『大奄美史』は、なぜ、「大奄美史」というのだろう。それは、奄美史ではなく、またありえないとしても、小奄美史でもなく、「大」を冠しているのはなぜだろう。それは、この本を知ったときの小さな違和感だった。似つかわしくないものが添えられている。そういう気がしたからだと思う。

 しかし、この問いかけは、小さな違和感を問いにした時点で、解答の仮説を導くような問いだ。大奄美を「大」に着目すれば、自ずとぼくたちはそれに類するものとして、大日本帝国を連想することができるからだ。
 昇は、日本を大日本としたのと同じように奄美を大奄美と記したのだろうか。そもそも、日本を大日本にするとはどういうことだろうか。

 加藤典洋は、『日本という身体―「大・新・高」の精神史』のなかで、「大」の字に着目して日本を考えている。

 明治の精神の基本性格を「大」と考える観点からすれば、明治の「大」は、二つに分かれる。
 橋川文三も前出の文章で、ある時明治八(一八七五)年生まれの長谷川如是閑から「自分は明治人ではない」といわれたという話を紹介しているが、ここにあるのは次のような問題である。
 たとえば、「スケールの大きな」明治人を一人あげよといわれてもっとも多く名前をあげられる一人に、西郷隆盛がいる。
 そこでの「大」の中身はいろんなふうにいえるだろうが、一ついえることは、この西郷からわたし達の受けとる「人格の大きさ」の感触と、たとえば明治日本が「大日本帝国」と名乗る、その「大」の感触は、まったく別物だということである。
 事実として、西郷、勝海舟、福沢諭吉ら、明治維新を三十代以上の年齢で通過した第一世代はいうにおよばず、維新以後の明治政府の中心勢力となる伊藤博文あたりまでの、橋川の先の小文中での言葉でいえば「原明治人」もしくは「旧約期の明治人」は、コトバとしての「大」、形容としての「大」とは無縁である。彼らは、「大」という形容なしにあたし達に「スケールの大きさ」を感じさせる。さきの岸田秀の実の親子の観察の話ではないが、彼らは、偉大であるため、「偉大」の語を必要としていない。

 加藤の考えを踏まえれば、「原明治人」の「スケールの大きさ」と「大奄美」は、「大日本帝国」同様、同じではないと感じられる。奄美のスケールが小さいからという意味ではなく、昇が「大奄美」に託した想いはそれではないと思える。

 「大日本帝国」にいう「大」は何か。

 「大」 の形容があらわれてくるのは、明治二十二八八七)年前後に登場してくる新しい明治人たちによってであって、このコトバとしての「大」、いわば「大」イデオロギーが前面に出てくるにしたがい、明治人のスケールの大きさは消えていく。それはかろうじて、「明るさ」、「若さ」、として残る。
 そこから逆算してこの 「原明治人」 の偉大の本質はなんだったかと考えて、いえるのは、それが福沢のいう「一身の独立」と「一国の独立」 の絶妙のバラソスを生きることから生じている、ということである。
 さて、ここで考えてみたい「大」は、いわばイデオロギーとしてのそれ、後者の「大」にはかならない。
 前者の「大」がいわば明治という時代と社会を作った「大」とすれば、この「大」は明治に作られた「大」であり、明治社会の「若さ」が内部から壊れていく一九〇〇(明治三十三)年以降、-とくに日露戦争「勝利」以後-さきの絶妙なバランスを失い、別種の「生長」主体の登場に過剰防衛的となることで一九一〇年、「大逆事件」を用意する。そして、以後、それは、ますますイデオロギー性を強め、「大政翼賛会」、「大東亜戦争」の「大」を導く。
 ここにあるのは「大日本帝国」にはじまり「大東亜戦争」にいたる日本近代イデオロギーとしての「大」なのである。

 「大日本帝国」の「大」は、「日本近代イデオロギーとしての『大』」であるとするなら、それは『大奄美史』の「大」にも連なっている。ぼくたちはそう見なすことができるのではないだろうか。ぼくはこの『大奄美史』のなかの天皇に対する無垢さが明治期のそれと通底している、そんな感触から、『大奄美史』の「大」を、日本近代イデオロギーのそれ、と見なす。

 しかし、「大日本帝国」と「大奄美」は、それこそスケールが違うが、続く加藤の考察は、ここに含みを与えてくれる。

 しかしこれは、日本という国の身体言語としては、ここにはじまるものだろうか。
 わたしは、明治期、日本が自分を「大日本」と名乗った、その身ぶりを見るたびに思うのだが、あの丸山が記紀神話の歴史記述のなかから取りだしたアシ・カどの発芽・生長するイメージは、国家的身体言語としては、「大」という形容のあり方を、古代以来もってきたのではないだろうか。
 というのも、古代において、まず中国正史に「倭人」ついで「倭」、「倭国」としてあらわれる初期のこの列島の居住民が、最初にこの「小さな人」、「小さな国」という意味をもつ他称を嫌い、これを自称化した際に行ったことが、それに「大」を冠し、「大倭(大和)」と書いてこれにヤマトの読みを重ねることだった。

 「倭」の持つ「小さな人」、「小さな国」という意味の他称を嫌い、「大」をつけて自称化した「大倭(大和)」の、名づけは、奄美を大奄美とした昇の動機と、似ている。昇は、虐げられた奄美の卑小なイメージや卑屈な意識に対して「大」で対したのだと思う。

 『大奄美史』執筆の動機で、「大」に関わると思えるのは次の箇所だ。

 第三に、著者はわが奄美同胞が、歴史上多くの貴重なものを有しなから、全然それを知ろうともしない無関心な態度に鑑み、三十万同胞の郷土認識を高めることに努める一方、余りにも圧迫された過去の悲惨な思い出と、今では潜在意識とまでなっている暗い心理より島民を解放して、明るい希望の生活に向け直したい一心から、その点を機会ある毎に強調しておいた。特に同胞の熟慮と反省とを求めて止まない次第である。

 「暗い心理より島民を解放して、明るい希望の生活に向け直したい一心」。そこで、奄美史に大を冠して大奄美史と、昇は書いた。しかし、自分をより大きく見せる身振りの、大倭と大日本帝国に倣ったとしても、それはやはり奄美に向かなかったのではないだろうか。というより、「大奄美」という呼称では奄美は励まされなかったのではないだろうか。

 そういえば、昇は『奄美大島と大西郷』という書もものにしている。ここにいう「大西郷」も、西郷の「スケールの大きさ」にわざわざ後から付け加えたイデオロギー的な感触を受ける。ここにぼくたちは昇の焦慮を見るだろうか。


   『日本という身体―「大・新・高」の精神史』

Nihontoiusintai

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2009/06/12

汾陽光遠、「租税問答」註。

 小野武夫による汾陽光遠「租税問答」についての注。

明治七年薩摩の人汾陽光遠の著す所にして(中略)、薩隅日三州幵に琉球群島の租税沿革を記したるものなり。(中略)島津藩の田制を調ふる上に於て最も参考に資すべきものとす。(『近世地方経済史料』1958年)

 明治7年は、1874年。丸田南里が、勝手商売のメッセージを出した年。

 また、汾陽とは。

 汾陽家の祖先は、永禄二年(一五五九)に来日して島津氏第十六代義久に仕え、汾陽光禹(号理心)と改名した明国汾陽の郭建演(国安)であるが、現存する汾陽文書の多くは、所謂「汾陽二男家」の記録・古文書類である。汾陽二男家は、寛永四年理心の跡を二男光昌が継いだのに対し、嫡子光裎の聟春子とされていた法元仁右衛門盛尚の二男光東が別立(分家)して、二代盛春、三代盛賢(光来二男)、四代盛昭(光克一二男盛常の四男)、五代光亨(感昭二男)、六代光明、七代盛徳(光遠)と承け継がれ幕末・維新に至った系統である。初代の次郎右衝門光東は、島津氏第十九代藩主光久に近侍して惣田地奉行ときれた地方功者(農政の権威)であった。またその三男盛常は三十七年間も郡奉行職にあって、近世中期幕藩典故の理念とその政策展開の在り方を窺うに好個の農書である『農業法』の著者として知られる。そして大代光明は物奉行、琉球在番、町奉行等の要職に、七代盛徳は御記録奉行、御納戸奉行、江戸御留守居等の重職を歴任し、ともに幕末にかけて、「汾陽氏要用万留」とその間の往復書翰類をほぼ纏まった形で残している。(黒田安雄「藩政改革と対外的危機-汾陽文書の紹介-」「人間文化・第2號」愛知学院大学、1986年)

 汾陽は1559年に明から来日した家系。光遠はその七代目に当たり、藩の「御記録奉行、御納戸奉行、江戸御留守居等の重職」に就いていた。

 汾陽光遠は「薩摩の人」であるにもかかわらず、「租税問答」のなかで藩の方針に疑義を呈したり、藩の秘密を書いたりすることができたのは、明から来た家系の閲歴が、外部から客体する視線を喚起したからではないだろうか。



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2009/06/11

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」ver.3

 6月20日の「奄美を語る会」のレジュメのバージョンを更新。ほぼ、これで行くつもりだ。

 鹿児島で人前で話しをすることがあるなんて、夢にも思ってなかった。でも、鹿児島で奄美のことを話すのは、とても理に叶っていると思う。まさに、そこでこそ、奄美は現出しなければならないからだ。考えてみれば、ある意味で400年イベントをやる場として最もふさわしいのは鹿児島ではないだろうか。もっと言えば、ほんとうは鹿児島にいる奄美の人が発言するのが、ぼくなどよりはるかに重要に違いない。先日、徳之島出身の考古学の方に、霧島市で展示をやる計画はあるとお聞きした。ぼくは、語るべき主役ではないが、鹿児島を通過した者として、奄美の発語のひとつをかの地に記そうと思う。


◆「奄美にとって1609以後の核心とは何か」レジュメ


◇1.根源としての「隠された直接支配地」

・ぼくの鹿児島体験
 -親切なのに、息苦しい

・生き難さの構造としての二重の疎外
 -「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」

・県としての鹿児島への態度
 -「唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。」村上龍

・何も終わっていない、何も変わっていない
 -「窓口を一本化」「当該自治体に六割を分配し、県が四割を受け取る」
「ふるさと納税」報道。知事伊藤

・二重の疎外の起源
 -「奄美は琉球ではない、大和でもない」(「大島置目之条々」と「大島御規模帳」)

・二重の疎外とその隠蔽
 -「慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のこと」「租税問答」

・二重の疎外の構造化と漂着時の露見
 -「月代を剃り、日本人の姿に仕立て、登世村を村右衛門、島森を島右衛門と名付け置き申し候」「薩州人唐国漂流記」マリオネット化

・存在しないかのような存在としての奄美
 -「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた」島尾敏雄
 -「ぼかし」「付録」「この年を契機に、奄美諸島はその姿を南海上に没するのである」山下欣一
 -「沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである」山中貞則


◇2.奄美を出現させる。鹿児島を開く。

・維新止まり1-他者の不在
 -「日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。」『薩摩のキセキ』
 -「日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは、「明治維新」ではないかと思います。」原口泉
 -「第二次戊辰戦争」知事伊藤(「ふるさと納税」を形容して)

・維新止まり2-個の不在
 -「議を言うな」

・維新止まりは、奄美の失語と相互規定的ではないだろうか。

・薩摩は何をしたのか
 -同一性からの切断と差異の無視

・強者の論理
 -加害を感謝の要求にすり替え、その内実を不問に伏す。
 「もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる」原口虎雄

・その陰画としての屈服の論理
 -被害を感謝し、その内実を不問に伏す。

・強者の論理の解体へ-奄美の現出。鹿児島を開く。
 -北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ。
  「薩摩の黒」と「奄美の黒い輝き」原口泉
  「もう一つの郷土史 マイノリティの視線」山之内勉
  「黒糖と明治維新」大江修造

・「知ったところで今更どうしようもない。知らないなら知らない方が悩まずに済む」という若い世代の声にどう応えるか

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「ぼくたち」の広がり

 麹町の「黒うさぎ」で元同僚と飲む。仕事つながりの縁だが、『奄美自立論』を読んでくれた奇特な方。

 感想をじかに聞けるのはとても嬉しいものだが、質問にもはっとさせられる。

 本のなか。「ぼくたち」という二人称を使っているが、大和人である自分は含まれないのを感じてちょっと寂しかった、と。これは初めてのことではなく、草稿の段階で読んで、深い理解を示してくれた方にも、同じことを言われた。

 ぼくはすかさず、沖縄言説のなかで奄美が触れられるのはたぶん千分の一、鹿児島言説のなかで奄美が触れられるのはたぶん万分の一。どちらにしても、触れられることは滅多にない。だから、まず、自分たちは空虚じゃないことを確認しあうために、「ぼくたち」を連呼した。ただ、決して奄美外を含まないと思っているわけではなく、普遍的なことを語るという意味で、「ぼくたち」を使っているという面もある。

 でも、そうまくしたてた後、ちょっと無理がある説明かなと反省。で、この本を読んでほしいのはまず、奄美の人だから、「ぼくたち」にしている。次に、沖縄の人、そして鹿児島の人だ。と、ここまで説明して、そうか、ぼくはつまり、奄美に縁のない人がこの本を読んでくれるとは思ってもみなかった、ということに思い至った。そうか、それならそう感じられても仕方ないなあと思うのだった。

 気づかせてくれる問いかけに感謝である。

 「もう一杯」、「もう飲み物のオーダーは終わりました」と店員さんに飽きられながら、奄美尽くし議論の夜は心地よく更けていった。


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2009/06/10

「奄美にとってこの400年は何だったのか?」2009/07/05

 7月5日のカルチュラル・タイフーン。タイムテーブルも決まったようなので、案内文を掲載します。場所は府中の東京外国語大学。

◇◆◇

カルチュラル・タイフーン2009 / INTER-ASIA CULTURAL TYPHOON

☆パネルディスカッション

 「奄美にとってこの400年は何だったのか?--薩摩侵攻/侵略400年を考える」

☆開催日時/2009年7月5日(日)午後4時30分~午後6時10分
☆開催場所/東京外国語大学府中キャンパス「研究講義棟」102号室

◇東京外国語大学府中キャンパス

大きな地図で見る

「研究講義棟」102号室

◇交通アクセス

◆JR中央線
「武蔵境」駅のりかえ
西武多摩川線「多磨」 駅下車
徒歩5分
(JR新宿駅から約40分)

◆京王電鉄
「飛田給」駅北口より多磨駅行き京王バスにて約10分
「東京外国語大学前」下車

☆開催趣旨

 このイベントは、カルチュラル・タイフーン(文化台風)という文化研究のためのひとつとして行われるものです。私(大橋)は、5年前から、この毎年開催都市と会場を変えて催されるカルチュラルタイフーンにおいて、奄美に特化したバネルディスカッションを開催してきました。今回で5回目となります。今年は、奄美が1609年に薩摩に侵攻/侵略されたちょうど400年にあたることことから、この400年間の来し方の意味をテーマとするものです。こうした400年を考えるイベントは、奄美や沖縄で多く開催されているものの、このたび東京でもこうした奄美の歴史と社会、文化を考えるイベントを開くことになりましたので、ここにお知らせしておきます。(「神戸まろうど通信」から)

☆参加者/パネラー

・酒井正子氏(川村学園女子大学教授/奄美歌謡研究の第一人者・著作に『奄美歌掛けのディアローグ あそび・ウワサ・死』、『奄美沖縄 哭きうたの民族誌』ほか) 
・喜山荘一氏(マーケター/著作に『奄美自立論』ほか、与論島出身、東京在住)
・前利潔氏(沖永良部・知名町中央公民館勤務、『無国籍としての奄美』を今秋刊行予定)
〈司会・進行〉大橋愛由等(図書出版まろうど社代表)

☆内容

 2009年は、奄美にとって歴史的な年であると言えよう。
 1609年に、薩摩軍が琉球王国に、軍事侵略して、今年でちょうど400年になる。
その時から、奄美の支配者は、琉球王国から、薩摩藩に変った。「那覇世(なはんゆ)」から、「大和世(やまとゆ)」となった(これはいずれも奄美独自の歴史区分である)。奄美にとって、薩摩と鹿児島に支配された400年間とは何だったのか。それはとりもなおさず、薩摩と鹿児島は、奄美に対して、なにをしてきたのか、を意味する。これに対して、奄美の内部では、どのように対応したのだろうか。また、奄美の社会や人々は、どのように変化していったのだろうか。
 奄美には、薩摩と鹿児島に対する強い感情が、現在も残っている。こうした感情の元となったものは何なのか。我々は客観的にかつ注意深く分析する必要がある。
我々は、歴史、民俗、社会、文化などさまざまな分野で、この奄美の400年間について、まさに今、総括しなければならない。
 こうした今回のパネルディスカッションの問いは、奄美にとって、新しい記憶の創出となるであろう。

☆各パネラーの発表骨子

(1)酒井正子氏
 徳之島は、1609年の琉球侵攻途上最大の激戦地(秋徳の戦い)とされる。鉄砲で武装した薩軍数千人に果敢に立ち向かったのは、琉球より派遣された統治者(首里の主)の一族であった。彼らの子孫は藩政末期にも、植民地的支配に抗し武力蜂起(犬田布騒動)の先頭に立っている。一方薩摩系の郷士格の子孫も多数島に根付く。奄美諸島の中央にあって、鹿児島、沖縄双方と独自の距離感を保ちつつ生き抜いてきた徳之島のバランス感覚とダイナミックな行動力に注目し、その島民意識の一端を、支配層、民衆各々についてみてゆく。

(2)喜山荘一氏
 四百年前を起点にした奄美の困難は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外である。その根底にあるのは、奄美が隠された直接支配地だったことだ。
 そこで奄美は、北からも南からも、存在しないかのような存在と見なされてきた。現在、それは「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」と更新されている。二重の疎外は依然としてぼくたちの課題であり、そうであるなら克服されなければならない。求められるのは、島を足場にし島に止まらない奄美の語りである。針路はこうだ。北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ。

(3)前利潔氏
 奄美諸島にとって、「薩摩・鹿児島の時代」(400年)は、「琉球の時代」よりも長い。にもかかわらず、言語、民謡、民俗などの文化は、薩摩の影響を基本的に受けることなく、現在も琉球文化圏である。琉球文化圏は、徳之島以北の奄美文化圏、沖永良部島以南から沖縄島周辺の沖縄文化園、宮古・八重山の先島文化圏に分かれる。
 その中で、沖永良部島は、「琉球」なのか、「奄美」なのか、というテーマは重要な意味を持つ。一方で、奄美諸島は、政治的、経済的な側面では、薩摩の影響を強く受けていた。薩摩藩による奄美諸島に対する経済政策は、黒糖(さとうきび)政策を中心に展開され、奄美内部に、階級分化を生み出した。明治になると、「琉球処分」(1879年)との関連で、奄美諸島がどこに帰属するかについて、琉球王府、清国政府、明治政府、鹿児島県の思惑が絡みながら決定されていたことを明らかにする。また米軍政下(1946-1953)から日本に復帰する際には、鹿児島県以外の帰属も考えられた。奄美そして沖永良部島はいったいどこに帰属するのか、道州制の導入がささやかれる今も常に問われているのだ。

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2009/06/09

「久し振りの『奄美を語る会』例会のご案内」2009/06/20

 「奄美を語る会」の仙田さんに案内状を見せていただいたので、転載します。6月20日土曜日。場所は、鹿児島市の教育会館です。

◇◆◇


「久し振りの『奄美を語る会』例会のご案内」

報告1 『南九州の石の龍について』
〇報告者 橋口 尚武さん

報告2 『奄美にとって1609以後の核心とは何か』
○報告者 喜山 荘一さん

✽日時  2009年6月20日(土) 午後2時30分~
✽場所  鹿児島県教育会館 3階会議室
(鹿児島市中央公民館向い,中央公園内。099-223‐8345 )


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○参加費  300円
(会終了後懇親会を予定。会費3000円。 場所は当日連絡。)

橋口 尚武さんのこと
・1937年生まれ。日本大学文学部史学専攻、専攻科終了。その後、都立高校の日本史の教員を35年間勤める。50歳から65歳まで千葉大学の講師。著書に『島の考古学』(東京大学出版会)『黒潮の考古学』(同成社)『食の民俗考古学』(同成社)他著書多数。

喜山 荘一さんのこと
・1963年、与論島生まれ。東京工業大学工学部卒業。マーケター。著書に『図解Eメールマーケティング実践講座』(2000年インプレス)『ビートルズ 二重の主旋律』(2005年メタ・ブレーン)『奄美自立論』(2009年南方新社)等多数。ブログ「与論島クオリア」 東京在住

・連絡先
皆村 武一 099-220-9640
出水沢 藍子 099-244-2386
中江 孝一 099-224-7068
仙田 隆宜 090-6891-7162 
《どなたでも参加できます。お知り合いの方をお誘い下さい。》

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「カルピス アイランド ヨロン」

 単純にぼくなんかには、与論の画像が見れるのが嬉しいページ。

 「家族で参加する カルピス アイランド ヨロン島 3泊4日の旅プレゼント」

 でも、ヨロンに行きたい人には絶好のチャンス!


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2009/06/08

『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』

 紙屋敦之が、400年の期に私家版『薩摩と琉球』の増刷を出版社に求められたのに、せっかくだからと、増補・改訂版で臨んだのが、『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』だ。

各論考は、その時々の求めに応じて書いたものであるが、一書にまとめてみると、日本と中国のはざまにおかれた琉球が、中国(明・清)との冊封・朝貢関係を梃子に日本(幕府・薩摩藩)と向き合い、日本に同一化されずにアイデンティティーを維持した姿が浮かび上がってくるように思われる。そうした点を読み取っていただけると幸いである。

 この紙屋のモチーフは、「おわりに」に、端的に示されている。

 おわリに  琉球の対日外交について

 琉球は日本であるが「異国」
 日本であるが「異国」というのが、江戸時代、薩摩侵入(一六〇九年)後の、日本側の琉球に対する位置づけであった。琉球は島津氏の領地として幕藩体制の中に組み込まれたが、これまでどおり中国との外交関係を容認され、琉球処分(一八七九年)で沖縄県となるまで中国から冊封され朝貢を続けた。冊封とは中国皇帝から国王に封じられることである。琉球は中国への朝貢を続けるため、日本と、具体的には薩摩藩とどのように向き合い王国を維持したのだろうか。
 このテーマは現代の沖縄県の生き方を考える上で示唆を与えてくれる。

 大和ではない地域として琉球が日本に組み入れられたとき、「日本であるが『異国』」と位置づけられたことは、「大和人と沖縄人」という構図を硬化させ、琉球は「日本ではない『異国』」であるとする主張を強化してきたと思える。

 その特異なあり方を思えば、「現代の沖縄県の生き方」への示唆とは何だろう。関心を惹かれる。

 中国に対する対日関係の隠蔽
 薩摩支配下の琉球を説明するキーワードとして「嘉吉附庸」説がある。
 これは一四四一年に島津忠国が室町幕府の六代将軍足利義教から琉球を賜ったとする所説で、薩摩藩が琉球支配を正当化するために一六三四年から主張するようになった歴史意識である。しかしそうした史実は確認できない。

 一方、琉球は中国に対して対日関係を隠蔽する政策をとった。これは琉球が中国との冊封・朝貢関係を維持するために案出した外交政策だった。かつて私は日琉関係の隠蔽を次のように理解していた。すなわち、一六八三年の尚貞冊封のとき薩摩藩は琉球に派遣した役人・船頭を宝島人と称して冊封使と対面させたが、次回一七一九年の尚敬冊封のときにはそれを中止した。その後、琉球が薩摩藩の政策を自らの政策として受け止め、一七二五年に 「トカラとの通交」という隠蔽の論理を作り上げた、と。

想い起こされた古琉球の記憶
 しかし最近、そうではないのではないかと考えるようになった。宝島人という偽装は琉球の発案だったのではないか。宝島は薩南諸島の北に位置するトカラ列島のことで、七島と呼ばれた地域である。薩摩侵入以前の七島は、半ばは琉球に属し半ばは日本に属していた。七島人は冊封のさい琉球に赴き冊封使と対面していた。こうした七島の過去を記憶していて、宝島人という偽装に応用したのは誰かと考えると、それは琉球であったと考えるのが自然だろう。

 「嘉吉附庸」説を確認できないとして退けるのは、紙屋が従来から主張してきたことだが、中国に対する日琉関係の隠蔽を薩摩主体によるものから琉球主体によるものへ変えているのは、紙屋の認識の転換を語っている。

 冊封のとき中国人が琉球に持ち渡る品物は琉球が買い取ることになっていた。これを評価(はんがー)と呼んでいる。評価には多額の銀が必要になる。琉球は銀を産出しないので日本から調達することになる。日本から多くの商船を琉球に招致する方策が宝島人という偽装だった。一七一九年の冊封では宝島人という偽装を薩摩藩が禁止したため、琉球は宝島人の来航を演出できなくなったため、評価の資金として銀五〇〇貫目(一〇〇貫目追加して六〇〇貢目)しか用意できず、琉球は中国人が持ち込んできた銀二〇〇〇貫目の品物を買い取ることができなかった。このときの評価問題で苦労した蔡温は、一七二五年に正史『中山世譜』を編纂したさい、「トカラとの通交」という論理を唱え、表向き日本との関係を否定するが、日本との貿易を内々に行うことを企図したのである。

 銀を調達する必要もあり、琉球にとっても日本との通交はメリットがあった。中国に対し日琉関係を隠蔽する内在的な理由があったことになる。この動機をもとに、古琉球の記憶を頼りに「宝島人」偽装を発案したのは琉球ではなかったか。この、古琉球の記憶を頼りにしたという根拠は説得力がある。

 しかも、それだけでなく、と紙屋は考える。

 北京への朝貢と江戸上り
 琉球は中国への朝貢が日本にとってきわめて意義のあることを指摘していたと考えられる。一七一〇年に琉球使節は日本のご威光を高める外国使節として位置づけられた。前年、五代将軍徳川綱吉が亡くなった。徳川家宣が次期将軍に予定されていたので、薩摩藩は慣例に則って将軍代替わりを祝う慶賀使の派遣を申し入れたが、幕府は「無用」と断った。そこで薩摩藩は、琉球は小国とはいえ中国に朝貢する国々の中では朝鮮につぐ第二の席次の国であることを指摘し、それに幕府が、琉球使節を迎えることは第一日本のご威光になるという理由で許可したという経緯がある。

 琉球には旅役(地下旅、大和旅、唐旅)という使者を務める制度があり、家臣の国王に対する重要な奉公であった。家臣は旅役を務めることで知行を給わった。したがって、大和旅の一つである慶賀使を派遣できなくなるということは、首里王府の権力維持にとって大きな支障になるのである。こうした事情を考えると、中国に朝貢する国々の中で朝鮮につぐ第二の席次の国であることを指摘して慶賀使の実現をはかるよう薩摩藩を動かしたのは、実は琉球だったといえるのではないか。

 ここも紙屋の認識の更新を語った箇所だ。これまで慶賀使の派遣を「無用」とした幕府に対し、薩摩は国内における薩摩の地位向上、琉球は冊封体制の維持という点で利害が共通したと言及されていたと思うが、紙屋は実はそれは琉球が薩摩を動かしたことではなかったか、と、琉球主導の観点を持ち込んでいる。

 一六九五年の元禄金銀に始まる相つぐ貨幣改鋳により、銀貨の品位が低下し、中国への朝貢に支障がある、と琉球が薩摩藩を通じて、幕府に渡唐銀を元禄銀貨並みの品位に吹き替えることを要求したのに対し、幕府は琉球に冊封使を迎えるためという理由で許可した。幕府は一七一〇年に中国に朝貢する琉球からの使節を日本のご威光を高める外国使節として位置づけたのだから当然の措置であった。これは、琉球側からみると、中国との冊封・朝貢関係を幕府に認めさせることに成功したということになる。琉球使節は一七一〇年以降、中国風の装いを要求されたが、むしろ琉球のアイデンティティーを主張するうえで好都合だった。

 琉球の国王・家臣団は毎年一万石余に上る米を薩摩藩に上納していた。「御財制」という一七二〇年代の首里王府の財政モデルによると、王府の会計は米と銀の二本立てからなっていて、米の会計は支出の六七%を薩摩関係で占めている。注目すべき点は、中国との朝貢貿易が銀の会計で運営されることになっていたことである。米の会計ではとても運営できないという事情もあるが、朝貢貿易を薩摩藩から独立して運営するためであった。渡唐銀は一七一六年に進貢料銀六〇四貫目・接貢料銀三〇二貫目に制限され、薩摩藩と首里王府が半分ずつ分け合うことになった。王府は進貢料銀三〇二貫目・接頁料銀一五一要目で朝貢貿易を運営する財政モデルを組み立てていった。

 冊封関係維持のため銀の価値向上を幕府に了承させ、薩摩の影響度を小さくするため朝貢貿易の会計を銀により行った。こうした点に、紙屋は琉球の主体性を見ている。

 薩摩藩主に対する忠誠の論理
 最後に、琉球の「トカラとの通交」論、すなわち対日関係の隠蔽を薩摩藩が許容したのはなぜかという疑問が残る。琉球国王は即位後、薩摩藩主に起請文を提出することになっていたが、一六七〇年の尚貞以降、薩摩藩主に対する忠誠の論理が「附庸国」論から「琉球安泰」論に転換したことが指摘されている。薩摩藩に従属しているから忠誠を誓うという論理から、琉球が安泰であるのは薩摩藩のお蔭であるから忠誠を誓うという論理への転換である。しかし、「琉球安泰」論は逆にいうと、琉球安泰の責任を薩摩藩に負わせる論理であった。

 将軍代替わり時に大名は幕府の仕置に従う旨の起請文を差し上げる。一六八一、一七〇九年に島津氏が差し上げた起請文にはこれまで見られなかった、琉球が日本の仕置に背き「邪儀」を企ててもそれに荷担することはしない旨が記されている。琉球の「邪儀」云々は、幕府と薩摩藩が琉球の去就を注意深く見ていたことをうかがわせる。
 こうして琉球は対日関係の隠蔽を薩摩藩に認めさせることができたのである。

 「こうして」はどうしてなのか、飛躍があって難しい。対明貿易の交渉に失敗し琉球を存続させる必要に迫られた幕府と薩摩は、琉球を「異国」化するのだから、日琉関係の隠蔽は薩摩にとってもむしろ動機がある。だから、許容も何も、利害は一致していたのではないだろうか。

 ただ、琉球の「邪儀」に加担しないという一文を起請文に追加させられたところからは、確かに、琉球が幕府や薩摩の意のままにならない部分を持ち始めた背景を思わせる。そうした点からいえば、日琉関係の隠蔽の方法を琉球が主導して発案していったのではないかという紙屋の更新認識は説得力を感じる。

 紙屋のいう「現代の沖縄県の生き方」への示唆とは何だろう。最後まで来ても、この「おわりに」からだけではそれを明瞭に知ることはできない。でもここに紙屋の言外の示唆はあると受け止めるれば、日本と中国が自らの存在を中心に据えて他との関係を捉えているのに対して、琉球は、日本や中国との関係を最優先にして自らの存在を捉えている違いがある。ここに、紙屋は琉球の主体性、アイデンティティのありようがあると考えていると思える。

 この両者の比較は、実体論と関係論の議論にも似て、しかも関係なくして実体もないと思えるリアリティからすると、琉球の関係論は現在的ではある。

 榕樹書林つながりでいえば、上原兼善の『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』は、奄美、琉球を横断して1609年の全体を概観したものとすれば、紙屋敦之の『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』は、関係としての琉球の主体性を浮かび上がらせようとしたものだと言える。それはどちらも400年の成果と言っていいのかもしれない。

◇◆◇

 ところで、「はざま」「薩摩」「琉球」とキーワードが並ぶと、「奄美」を連想してしまうが、ここでも、考慮対象としての奄美の欠落を思わないわけにいかない。

 押し寄せた波が珊瑚岩に当って跳ね返り、逆向きにも波がやってくる海辺のように。1609年を期に、奄美は直接支配化され、「奄美は琉球ではない」という規定がまず奄美に押し寄せる(「大島置目之条々」)。ついで、「琉球は大和ではない」とした規定は琉球弧に押し寄せたあと、琉球が主体性を発揮して隠蔽の論理を強化すると、それは跳ね返る波となって、「奄美は大和ではない」という規定の強化として、奄美に押し寄せた(「大島御規模帳」)。

 もうひとつ。一方的な関係を強いられた後、返す刀で琉球は独自性を発揮するモーメントを見出した。では、奄美は? 奄美にその余地はあったろうか。そういう問いが残る。そう思うのは、琉球は17世紀の後半に、「附庸国」論から「琉球安泰」論への転換を果たしたが、同じ時期、奄美は「大島代官記」の序文で、変わらず「附庸国」論を追認している。この波は奄美に訪れることはなかったと思えるのだ。


『歴史のはざまを読む―薩摩と琉球』

Satumatoryukyu

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2009/06/07

「沖縄経済-内発的発展の鍵-」

 昨日の東京は雨。子どもの運動会が順延になったので、それならば、と久しぶりに法政大学へ、「沖縄経済-内発的発展の鍵を握るもの-」を聞きに出かけた。

 「沖縄経済-内発的発展の鍵を握るもの-」

 清成さんは本を20年ほど前に読んだことがあるが、ご本人の話を聞くのは初めて。一方、松島さんは、先日の沖縄タイムスの書評へのお礼を伝えねばという想いもあり。
 
 それぞれ、講演メモをとった。


◇清成忠男

 工場誘致への期待。格差是正論。

 石垣島、西表島で議論。内発的発展論。
 ○○起こしのルーツは八重山にある。

 沖縄健康バイオ産業

 鍵は企業家活動


◇松島泰勝

 1972-2008 沖縄振興開発資金
 9兆3997億円
(7兆8893億円 公共事業)
 
       人口   産業構造
 1972  96万人 第1次 7% 第2次 28% 第3次 67%
 2005 137万人 第1次 2% 第2次 12% 第3次 90%

       県民所得 財政依存度 観光客数
 1972   44万円    23%   44万人  324億円
 2005  202万円    37%  587万人 4240億円

 「観光植民地」

 振興開発と基地がリンクするようになる。米軍再編交付金。

 国頼みの発展は止めるべきではないのか。

 沖縄の自立経済
 島のなかで経済が循環する。地産地消。

 「市場」だけではなく、「再分配」「互酬」

 公民館、共同店、憲章、コモンズ

 内発的発展。完成形ではなく過程。


 対談のところでは、質問を投げかけた。清成さんへは、奄美(大島)には、大学を希望する声があるがどう評価するか。

 長野県の飯田市、東京の三鷹など、大学はないが、大学のネットワークを巻き込むことはできる。鹿児島側は、それに対する関心は低いですね、と清成さん。

 松島さんには、ゆいまーるの自治で得られる各島の知見を琉球弧をつないでリリースしてほしいということ。たまたま与論でも、瀬良海岸の護岸工事の計画がまたぞろ持ち上がってきている。島は小さいから知らない間に役所や企業が進出してしまう。それを食い止めるのに、各島の知見を結集したいという想いからだった。

 松島さんは、人と人の出会いが何よりも大事ということ。また、「海の中の島」ではなく「島の中の海」という感覚で島をつなぎ、島同士で助け合うことも島の自治であると答えてくれた。


 終わったあとは、松島さんに小判鮫する気分で、法政つながりの方々、藤原書店つながりの方々と飲み話をさせてもらった。沖縄の人口は、奄美の約10倍。それだけディスカッションする相手もいるということ。それが羨ましくもなる夜だった。


◇◆◇

 J-WAVEでJOE奥田さんが奄美大島の魅力は夜の森にあると話すのを聞きながら、これを書いた。

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奏、疾走。

 リベンジとばかりに去年と同じペアで臨んだ二人三脚は、見事な疾走で一位。

 二人三脚も呼吸が大事だけれど、「おおむかで」は尚更そう。走るリズムが同期をとらなきゃいけない。「おおむかで」という名称だけれど、ムカデと違い、首尾と後尾の足並みもそろってなきゃならない。でも、うまくいく組は不思議と揃う。あれはどうしてだろう。シンクロニシティだ。

 六年間、観戦した「おおむかで」も見納めだね。そう語り合った。

 ああ、でも、組体操では太陽をいちばん浴びる最上段の役を去年に続き任され、しかも最上級生で四段を組む、運動会でも最大の見せ場のひとつで成功したのに、シャッターを押すタイミングを間違えてしまった。すまぬ、わが子よ。 

 終わりのラジオ体操は、英語で歌われて違和感があった。コミカルな映画の場面のようで、現実とは違う奇妙な世界に入っていくようだった。


 「六月の空に 2」
 「六月の空に」


Sissou3_5OmukadeKumitaisouChito

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2009/06/06

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」 ver.2

 6月20日の「奄美を語る会」。鹿児島で話したいことがだんだんつかめてきた。もう少し練るが、レジュメのver.2を挙げておく。


◆「奄美にとって1609以後の核心とは何か」レジュメ ver.2


◇1.根源としての「隠された直接支配地」

・ぼくの鹿児島体験
 -親切なのに息苦しい

・生き難さの構造としての二重の疎外
 -「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」

・県としての鹿児島への態度
 -「彼らへの唯一の復讐の方法は、
  彼らよりも楽しく生きることだと思う」村上龍『69』

・何も終わっていない、何も変わっていない
 -「窓口を一本化」「当該自治体に六割を分配し、県が四割を受け取る」
  「ふるさと納税」報道。知事伊藤

・二重の疎外の起源
 -「奄美は琉球ではない、大和でもない」
  (「大島置目の条々」と「大島御規模帳」)

・二重の疎外とその隠蔽
 -「慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のこと」「租税問答」

・二重の疎外の構造化と漂着時の露見
 -「月代を剃り、日本人の姿に仕立て、登世村を村右衛門、
  島森を島右衛門と名付け置き申し候」マリオネット化

・存在しないかのような存在としての奄美
 -「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと
  思いこむことになれてきた」島尾敏雄
 -「ぼかし」「付録」「この年を契機に、奄美諸島は
  その姿を南海上に没するのである」山下欣一


◇2.奄美を出現させる。鹿児島を開く。

・維新止まり1-他者の不在
 -「日本人の中で最も尊敬され、そして人気のある歴史上の人物は
  誰かと問われると、ほとんどの人が西郷隆盛と答えるだろう。」
 『薩摩のキセキ』
 「日本人にとって、おそらく最大にして永遠の歴史ドラマは、
 「明治維新」ではないかと思います。」『維新の系譜』

・維新止まり2-個の不在
 -「議を言うな」

・維新止まりは、奄美の失語と相互規定的ではないだろうか。

・薩摩は何をしたのか
 -同一性からの切断と差異の無視

・強者の論理
 -加害を感謝の要求にすり替え、その内実を不問に伏す。
 「もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、
 その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命に
 さらされたであろうと思われる」原口虎雄

・その陰画としての屈服の論理
 -被害を感謝し、その内実を不問に伏す。

・強者の論理の解体へ-奄美の現出
 -鹿児島を開く。
  「薩摩の黒」と「奄美の黒い輝き」原口泉
  「マイノリティの視線」山之内勉
  「黒糖と明治維新」大江修造

・「知ったところで今更どうしようもない。
 知らないなら知らない方が悩まずに済む」
 という若い世代の声にどう応えるか

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2009/06/05

「与論人による自立への叫び」

 5月31日付けの沖縄タイムスに『奄美自立論』の書評が載っていて、送ってもらった。

 「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」の松島さんが書いてくれたもの。

 「与論人による自立への叫び」。

 「叫び」と捉えてくださっている。叫び、なら、いつか島唄に昇華されてゆくといいなと思った。 


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2009/06/04

『1Q84』

 これは困った。これで終わり?と途惑ってしまう。しかも、『ねじまき鳥 2』のときは村上春樹は、これで作品は終えたつもりだと語っていたけれど、『1Q84』はそうではない。続きあるものとして想定されていると思う。

 BOOK2で読後感を味わえると思っていたので、作品を抜け出せない宙吊り感に居心地が悪い。

 けれど、これは『海辺のカフカ』のあとに来る作品であり、親と子の連鎖を限りなく希薄にしか感じられない子が、それでも自己への配慮を失わずに生きていくにはどうしたらいいのか。そんな問いを持っているように思えた。『1Q84』は、無限物語化していくのだろうか。

 はや、続編が読みたい。


◇◆◇

 強引に結びければ、

「この音楽を聴いているとときどき、時間というものについて不思議な感慨に打たれることがあります」と老婦人は青豆の心理を読んだように言った。「四百年前の人々が、今私たちが聴いているのと同じ音楽を聴いていたということにです。そういう風に考えると、なんだか妙な気がしませんか?」
「そうですね」と青豆は言った。「でもそれを言えば、四百年前の人たちも、私たちと同じ月を見ていました」

 このところ、400年前を昨日のことのように感じているので、ここでは作品の流とは別に反応してしまった。でも、400年前の島人だって同じ月を見ていた。さざなみを聞いていた。それはちっとも昔じゃないんだと思う。


   『1Q84』

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2009/06/03

奄美あふれる6・27

 6月27日の東京は奄美ゆかりのイベントが目白押し。

 まず、萩原かおりさんの「かおり's カフェ」がある。

 ◆「『かおり's カフェ』Vol.2 奄美味」

 赤坂コレドにて。黒糖焼酎もいただける。(^^)


 同日、国立劇場では「奄美の祭りとしま唄」。

 ◆6月民俗芸能公演「奄美の祭りとしま唄」

 【第一部】
 諸鈍シバヤ 諸鈍シバヤ保存会(大島郡瀬戸内町諸鈍)

 【第二部】
 奄美諸島のしま唄


 さらに立教大学では、400年イベント。

 ◆「島津氏の琉球出兵400年に考える ―その実相と言説―」

 13:00~
 公開講演会  司会:荒野泰典(立教大学文学部教授) 

 13:00 ~ 
 「島津氏の琉球侵略 ―その原因・経緯・影響―」
上原 兼善(岡山大学特任教授)

 14:10 ~ 
 「琉球王国の対応と言説 ―琉球はどのように対応し、語り伝えてきたか―」
 豊見山 和行(琉球大学教育学部教授)

 15:20 ~ 
 「近世説話文学に見る島津氏の琉球出兵 -日本人はどのように語り伝えてきたか―」
  小峯 和明(立教大学文学部教授)

 16:40~ シンポジウム      
 歴史学の立場から:紙屋 敦之(早稲田大学文学学術院教授)
 文学の立場から:渡辺 憲司(立教大学文学部教授)

 19:00~ 懇親会

 (立教大学文学部史学科主催公開講演会


 すごい一日だ。しかし、悩ましいぞ(笑)。


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2009/06/02

「奄美にとって1609以後の核心とは何か」

 6月20日の「奄美を語る会」での報告メモ。

 テーマは「奄美にとって1609以後の核心とは何か」。以下はレジュメ原案。


1.根源としての「隠された直接支配地」

・鹿児島体験-親切なのに息苦しい
・「奄美は沖縄ではない、鹿児島でもない」-二重の疎外
・「彼らへの唯一の復讐の方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う」-村上龍『69』
・「ふるさと納税」知事伊藤-何も終わっていない、何も変わっていない
・「奄美は琉球ではない、大和でもない」-「大島置目の条々」と「大島御規模帳」
・「慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のこと」二重の疎外とその隠蔽-「租税問答」
・二重の疎外の構造化と漂着時の露見
・存在しないかのような存在としての奄美
・島尾敏雄、山下欣一の奄美紹介の核心


2.奄美を出現させる。鹿児島を開く。

・維新止まり
・他者の不在-『薩摩のキセキ』、『維新の系譜』
・個の不在-議を言うな
・維新止まりは、奄美の失語と相互規定関係
・こわばりの論理とおおらかさの論理
・黒の文化としての奄美-原口泉
・「マイノリティの視線」-山之内勉
・黒糖と隠された直接支配地、の記述
・強者の論理と屈服の論理
・北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ

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2009/06/01

「奄美を語る会」(2009/06/20)

 「奄美を語る会」の時間修正の連絡があったので、更新する。

 「奄美を語る会」のことは、『奄美戦後史』で「『奄美を語る会』が語ってきたもの-『語る会』から見た鹿児島と奄美の社会-」という仙田さんの文章を読んで、恥ずかしながら初めて知った。最大の逆境のなかで奄美とは何かを問う大切な役割を担ってきた場だと思っている。

 今回、父の三年忌でその時期、鹿児島に行くのだが、ちょうど「奄美を語る会」のタイミングと重なるとのことで、仙田さんからお誘いをいただいた。

 ぼくは鹿児島で生活するという経験が無かったら、『奄美自立論』を書くことは無かったと思う(感謝しているのではない)。いや、奄美の自立をテーマにすることはあったとしても、「二重の疎外」という概念を手にすることは無かったのではないだろうか。だから、2009年という年に、他ならぬ鹿児島で、400年のことを話せるのは、またとない機会に思える。仙田さんのお誘いを喜んでお引き受けした次第だ。

 話すテーマは、「奄美にとって1609以後の核心とは何か」にしようと思っている。


 ◆場所:鹿児島市山下町4−18 鹿児島県教育会館3Fホール
 ◆時期:2009年6月20日(土) 14:30-17:30

 ◇報告1「石でできた龍の話」 報告者:橋口尚武
 ◇報告2「奄美にとって1609以後の核心とは何か」 報告者:喜山荘一



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