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2009/05/02

ムヌイーナチと別れあしび

 沖縄島と周辺の島々には、葬送歌は現在ほとんどうたわれていない。しかし、その習慣の記憶は色濃い、と酒井は書いている。

 庶民の供養歌は、ムヌイーナチだ。

一般庶民の場合、個々にムヌイーナチ(物言い泣き)がなされるものの、神歌のように同じフシに声をそろえてうたうことはなかったのだろう。
 ムヌイーナチとは、名嘉真宜勝によれば「号泣もしくはすすり泣きしながら供養の言葉を述べる有様」をいう。女性の弔問客はそうして門口のほうから泣きながら入ってくる。普通の泣き方とは違う。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 ムヌイーナチでは、「自分のフシをもっており、昔の女性はこれができなければ一人前ではないといわれた」と言う。ムヌイーナチは、「棺おけを抱いたりして泣き叫ぶ情景は、死別の悲しみを表現する中国風の葬礼であ」り中国の影響が強いという考え方に対して、琉球弧の泣き歌を観察してきた酒井は、 

「礼としての突泣につられて、またひとしきり鳴咽のむせびが喚起される」という。これは中国の影響である以前に、琉球弧にベーシックな習俗と考えたほうがいいのではないか。

 と書くが、ぼくもそう思う。中国の影響という以前に、人類の母胎に届く習俗であるという意味で。

 また、庶民の哀惜歌に当たるのは、「別れあしび」である。「別れあしび」は遺体の腐敗が進む前の死後七日目くらいまでの期間、

死者を寂しくさせない、として夜も墓番をする習俗は、(中略)沖縄のみならず奄美各地でも聞かれる。その際「焼酎に酔わなければ、夜通し死者の伽をするのはやりきれない」というのはもっともで、自ずと葬宴が催されたのであろう。「別れあしび」はその延長上にあり、モアシビ仲間が墓前で死者とともにアシビを再現する特別な葬宴、とみなすことができよう。

 この、「別れあしび」は男女の歌遊びの場であるモアシビにつながり、酒井はそこに、エロスによる生と死のつながりを見ている。ジョルジュ・バタイユのエロティシズムは死にまで至る生の称揚であるという言葉が重なってくるようだ。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』13

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