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2009/05/15

「直轄支配と冊封体制」(弓削政己)メモ

 5月9日づけの南海日日新聞が手元に届く。徳之島イベントの詳細が載っていた。パネルディスカッションについては、「奄美の家日記」に「琉球侵攻400年、徳之島シンポ」あって読むことができたが、ここでは弓削政己の基調講演に着目したい。本当はこれ以上は、正確なテキストや現場の臨場感とともに考えるべきことだが、現状、これ以上は望めないので、新聞記事をもとにする。

 四百年前に何が起こったのか。これからの徳之島、奄美をどうするのかを考えたい。歴史というのは過去に何があったのかではなく、今日の課題から徳之島、奄美の課題を探り当てる。極めて現代的な学問である。

 批評としてもそうだ。四百年前のことは、当時の島人がそれをどう通過したのかということと、現在のぼくたちがそれをどう理解するのかという二重性が要る。当時のリアリティと、現在が未来へと伸びる視点と。

 一六〇九年以前の奄美は琉球王国の支配下で、コメとか粟(あわ)、稗(ひえ)と材木を上納。琉球は中国と冊封関係にあり、琉球の王が代わるたびに、中国の使者が来て、「汝(なんじ)を琉球の王に任じる」とした。いわば中国へ属していた。

 補足のように書けば、日本本土もいつ中国の冊封体制から独立したのか、明確ではないと思う。

 薩摩藩の侵攻により琉球と明とは、朝責、冊封関係を結んでいるので、明にすれば臣下の琉球が薩摩にやられたという認識になるのだろう。しかし、最近の研究で薩摩が琉球を攻めたことは知っていたが、これらの体制は継続されたことが分かった。

 ということは中国にとっても、大和の支配下にあろうとも、琉球への冊封が持続することにメリットを感じていたということだろうか。

 薩摩藩は、一七二〇年代になると、大島も屋久島も「規模帳」により統治の総括的方針を出す。屋久島についても屋久杉の専売。奄美の場合はコメとともに、琉球的な状況を維持させる。鹿児島的にさせない。一六二六年に琉球側から鹿児島に対して自分たちは中国と交易をする国家であり、冊封体制を継続するためには一時的でもいいから、奄美は琉球の名目(支配下)である、中国の冊封使が来た時の食料を搬送してほしいと要望する。藩は食料(貢物)を奄美から持っていくことを許可した。それは島民負担である。

 薩摩は琉球に「琉球は大和ではない」と規定し、それを奄美にも貫徹した。弓削の解説をもとにすると、奄美が琉球であることは、琉球にとっても関心事であったということと、その維持に必要な条件についての薩摩の低関心がうかがえる。

藩の支配の一つの柱はコメから黒糖への直轄支配。一方では琉球を介して朝貢体制を確保する形での奄美の位置付け。奄美の歴史は複雑だ。

 その複雑さをぼくは、「二重の疎外」と考える。

砂糖の場合、税金の計算をどうするか。国内はコメで換算している。奄美もそうだ。いろいろな名目を付けて税金を取っていく。それと品物も高く売る。しかし、奄美歴史研究の原型を示した『奄美史談』は砂糖一斤もなめることができないなど誇張した点もあった。島の役人は藩から名字をもらうとき鹿児島に行き、役人たちにイセエビ、アワビ、カモ、からすみといった珍味を振る舞った。砂糖は「正余計糖」といって納めた以外は残る。

 黒糖を食することのできた島人もいた。島役人は一定の蓄財があればこそ、薩摩の役人をもてなせた。

 残った砂糖で献金をして、豪農が郷士格という侍身分をもらったり、ヤンチュを買ったり、資産をつくった。税を出してほとんど残らない人たちと、砂糖政策によって内部の階層分化が激しくなった。

 小規模ながら、原始的蓄積が見られた、ということ。

 一八三〇年から幕末まで収奪が厳しかったが、人口をみると、逆の状況がある。一八二六年から一八五二年の二十六年間で奄美諸島全体の人口は10%程度、徳之島は20%伸びている。徳之島の人の力や内部の力があるだろう。それがなぜかということは今後の研究課題。

 ぼくは『奄美自立論』で、この背景に亜熱帯自然の包容力があると仮説した。

 奄美の歴史の中で、幕末、明治維新の前の奄美の位置付けをみると面白い現象がある。外国は琉球に来て開国要求をする。島津斉彬は地図を作らせて徳之島にも鉄砲を備え付ける。沖永良部でも砂糖を専売制にする。
 この中で、大島をオランダ貿易の拠点にしようと計画する。長崎のグラバーは薩摩との結び付きが強い。一八六五年に大島で、大島スキームといって、コメとか生糸をグラバーに売って上海交易の利潤によってサトウキビの機械を買う計画をしている。直轄支配と冊封体制という地域の中で奄美と上海交易、大島スキームという交易構想を東アジアに広げた、そういう地域でもある。

 奄美大島は交易拠点として着目されやすい。松下志朗は、奄美の直轄支配初期の目的も、そう想定していたと思う。


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