『東西/南北考―いくつもの日本へ』
赤坂憲雄の『東西/南北考―いくつもの日本へ』。複雑な印象だった。
まず、柳田国男批判。これは今に始まったことではなく、ポストモダン以降の合言葉になっているような気がする。しかしぼくは、80年代のそれは位負けの議論にしか見えなかった。曰く、柳田の一国民俗学は日本の植民地主義を補強した云々、とそういう面は確かにあるだろうけれど、それはそれを以てして柳田を否定するには小手先すぎるように思えた。
それだけ柳田民俗学の呪縛が強いということかもしれない。ぼくたちにしても、柳田民俗学も一役買ったかもしれない日琉同祖論によって、何がなんでも本土から南下した人々が自分たちの祖先であるし仮にそうでないところがあったとしても、優秀な部分は北からの所産であるという抜きがたい見解に煩わされてきた。それと同じことを背景に見るべきかもしれない。けれど、日琉同祖論がぼくたち自身の悩みになってきたことに比べると、これは学者内の問題なのかもしれない。それなら敬して遠ざかるしかない。
こう思うのは、赤坂の柳田否定にしても、こういう背景を鑑みるのでなければ、理由がよく分からないのだ。柳田のいう日本人は宝貝を求めて南から島伝いに列島を北上する。しかし東北以北へはそれは伸びず、北海道・アイヌは捨象されてしまった。これが均質な日本人像の根拠になってしまった。その欠点を批判するのは分かるのだが、柳田の日本人は、当たらずとも遠からずというものだとしたら、「当たらず」の面ばかりが槍玉にあがり、「遠からず」の面はそれこそ捨象されてしまっているのではないだろうか。柳田の日本人は、それが全てではないと考えれば、宝貝を見つけては一端、故郷に帰り、それから家族を連れて海を渡るというそのリアリティは重要なものだと思える。たしかに、ある一部は、そうやって島々に住みつき、日本人の一部を形成したに違いない信憑性があるからだ。赤坂はこの点、評価しているのだが、彼の力点はそこにないように見える。
そして柳田の否定から導き出されているのが、「ひとつの日本」に対して、「いくつもの日本」だと思う。しかし、柳田の「ひとつの日本」に対するロマンの強度の分、「いくつもの日本」はニヒリズムを呼び寄せないだろうか。赤坂の「いくつもの日本」がニヒリズムだというのではなく、柳田言説の流通の仕方が否定されている分、「いくつもの日本」の流通はロマンの反対物を引き寄せてしまわないだろうか。
そういう意味では、「いくつもの日本」からは「ばらばらな日本」という言葉を連想する。そしてそれは、右手のしていることを左手は知らないとでもいうような、解離性人格障害と事件とが結びつく社会の現在と符合しているようにも見える。「いくつもの日本」から連想する「ばらばらな日本」は、妙に現在的だ。
とはいえ、「いくつもの日本」は、ぼくはニヒリズムよりは解放感を覚えた。それはとりもなおさず、「いくつもの日本」が、日本人像の単一性から免れているからだ。ぼくは長い間、自分を日本人というようには感じられなかった。それはイデオロギーによるものではない。また、そう言うことによって、日本人になろうと躍起になった奄美を批判したいのでもない。ぼくが、日本人になろうと躍起になった経験を持たないのは、メディアと教育とから、それが彼岸かつ悲願ではなくなっていた世代的特権であるに過ぎない。ぼくが、父母以上の世代に属していれば、ぼくも少なからず日本人たらんとしただろうと思う。
ぼくが自分を日本人と感じられなかったのは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」という外国向けのステレオタイプな日本像を、あくまで単純化というのではなく、当の日本人も真面目にそう感じているらしいと察せられるときだった。現に最近もWBCではサムライ・ジャパンと称していた。ぼくは最初、冗談だろうと思っていたが、それを口にする選手もメディアも大真面目で驚いた。こうした日本像に接すると、ああどうやら自分は日本人という範疇には入ってないらしい、と感じるのだった。それが強がりになる場合は、ビートルズが曲「レボリューション」で、「破壊について云々するなら、ぼくは外してくれ」と歌うように、それを日本人というなら、ぼくは外してくれ(count me out)と思うのだった。
こういう感じ方が変化したのは二つの契機があったと思う。ひとつは、沖縄が脚光を浴び、その自然や文化が、学術的な関心や啓蒙の対象としてではなく、憧憬や好きの対象になっているのが感じられたことだ。こういう言い方にはいつも否定的な考えが張り付いていて、沖縄の問題を隠ぺいしているであったり、植民地的眼差しであるといった言説を招く。しかし、憧憬や好きという感じ方には、自分たちにはないものがそこにはあるという素直な受容があるのであり、ぼくはそこで、間接的ではあるにせよ、日本、日本人という表象がゆるくなり、風遠しのよさを感じる。
もうひとつの契機は、インターネットや都市的な現象は、その先端のところから、人間と環境世界という意味での自然の関係について、奄美、沖縄が色濃く持っていた世界に近づいてきたと感じられたことだった。このことはいま詳しく言うことができないけれど、このふたつの契機で、ぼくは自分が日本人ではないのだという強迫が薄らいできた。日本人だと感じるようになったというのでは必ずしもない。ことあるごとに、日本人ではないのだなと感じさせられる場面が減ったということだ。
赤坂の「いくつもの日本」が解放的だというのは、それが「ひとつの日本」としてぼくたちを孤立に追いやらないからだ。赤坂は、「ひとつの日本」像を前にしてそれを打破すべく「いくつもの日本」像を対置しようとするのだが、ぼくたちにとっては「いくつもの日本」というか、「ひとつの日本」の外があることは自明なので、「いくつもの日本」のなかのひとつの場から、「ひとつの日本」を破ろうとする動きを、赤坂とは反対の側に立って見ているような感じだ。
赤坂は、『もう二つの日本文化―北海道と南島の文化』で、藤本強が弥生像を「北の文化」/「中の文化」/「南の文化」と三分割に提示していることについて書いている。
藤本のいまひとつの独創は、「北の文化」/「中の文化」/「南の文化」という弥生の分割が、それゆえに産み落とした、二つの「ボカシの地帯」を浮き彫りにしたことである。「中の文化」が「北の文化」・「南の文化」それぞれと相接する地域、つまり、北では東北北部から渡島半島にかけての地域、南では九州南部から薩南諸島にかけての地域が、「ボカシの地帯」と呼ばれている。はっきりと一本の線で画することはできないし、濃淡の度合いも小さな地域ごとに、また時期や文化要素によって変化する。概念としての暖昧さは拭いがたい。それでも、この「ボカシの地帯」の設定は、幾重にも方法的な示唆に富んでいる。
ぼくたちが思わず関心を惹かれるのは、「ぼかし」とは山下欣一による奄美の謂いだと思ってきたのが、「九州南部から薩南諸島」もまたそう言われているからだ。勝手な引き取り方をすると、薩摩は自らを大和化することで、「ポカシの地帯」を奄美に追いやったということかもしれない。あるいはまた、「ボカシ」という視点は、琉球弧と薩摩に共通理解を生む土俵を提供してくれるのかもしれない。
赤坂はまた、「ボカシの地帯」の方法的な設定という言い方もしている。
政治的な社会の形成については、古墳の存在がひとつの指標となるが、東北の北側には古墳そのものがない地域が広がっている。古代東北の、のちにエミシと呼ばれる縄文の末裔たちが、部族連合の域を越えて、ついに国家を造ることがなかったことは、いかにも象徴的である。ついでに言い添えておけば、北海道のアイヌ社会もまた、国家以前の段階に留まったし、沖縄で国生みの戦いがはじまるのは、十一、二世紀以降のグスク時代になってからのことである。列島の東や北、また南には、フランスの文化人類学者ピエール・クラストルのいう「国家に抗する社会」が、根強く存在しつづけたのではなかったか。逆にいえば、王や国家を避けがたく産み落とした西日本の、稲作農耕を支配のシステムの根幹に据えた社会こそが、列島全域を視野に納めたとき、特異な社会だったことになるのかもしれない。
ぼくは、自分の島人としての見聞と実感に照らせば、琉球弧は内在的には国家を形成する必然性はなかったと思っている。
いずれであれ、弥生時代を均質な「ひとつの日本」が成立した画期と見なす、地政学的な無意識による呪縛を解きはぐさねばならない。瑞穂の国はひとつの幻影である。弥生のはじまり、稲作農耕の大陸からの渡来こそが、列島に幾筋もの亀裂を走らせ、「いくつもの日本」の発生へと突き動かしてゆく原動力となった。やがて、その、多元化への道行きを辿りはじめた列島の社会=文化を、あらたに政治的な支配/被支配の網の目をもって統合しようという欲望が、西の弥生文化の内側から芽生える。幾世紀かにわたる戦乱の時代を経て、その欲望の運動はついに、畿内に「天皇」という名の王/「日本」という名の国家を産み落とした。この天皇をいただく古代国家こそが、「ひとつの日本」という幻想を避けがたく、みずからの支配の正統性を賭けて追い求めてゆく主体となる。
思えば、蝦夷・南島を平らげずんば大和安からず-、この古代国家が掲げた欲望を真に成就しえたのが、近代に分泌された国民国家としての「日本」であったことは、いったい何を意味するのか。それはたぶん、近代を問いかけることが、縄文を問うことであり、弥生以降のすべての歴史を問うことであるような、固有の歴史への回路が必要であることを、ひとつの逆説として物語っているのではないか。そして、この歴史への回路は、東西論を包摂するかたちで、南/北の方位に眼差しを開いてゆく試みなしには、その未知なる姿を現わすことはない。それにしても、大きな民族史的景観のなかでは、「いくつもの日本」の誕生こそが、まさに「ひとつの日本」への欲望を招き寄せたのである。はじまりのときから、「いくつもの日本」と「ひとつの日本」とは表裏なす、地政学的な促しの所産だったことを、あらためて確認しておきたい。
「地政学的な無意識による呪縛」の圏外の位置からみると、「「いくつもの日本」の誕生こそが、まさに「ひとつの日本」への欲望を招き寄せた」といういい方は、何か、どちらにしても、「日本」という枠組みがアプリオリになっている印象も過ぎる。日本は、その初源から「いくつもの日本」を「ひとつの日本」にする欲望を宿していた、というのなら、まだ了解できる気がする。
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