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2009/05/18

「哭きうた」の全体像

 酒井正子による哭きうたの全体像。

 1.死霊アニミズム  琉球弧では、死者に霊的存在(生気・霊魂)を認めて儀礼を行う「死霊アニミズム」の世界が脈々と息づいている。それは畏怖と愛着の二元論をともない、一連の葬送歌=(供養歌)(哀惜歌)もその表象である。

 ぼくは、この段階の世界観を、

 人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 と考えている。この場合、霊魂は、イメージ的身体化された人間と見なすことができる。

 2.二人称で語りかける(供養歌)  (供養歌)は遺体への直接の声かけであり、「生きている人にいうように」名を呼び、二人称(あなた)で語りかける。死者にもその声は聞こえ、充分な声かけにより安心して生者と別れ、冥界におもむく。声をかけることは「情け」をかけることであり、儀礼的にも心情的にも別れに不可欠な行為と考えられている。それゆえ人は哭く。とくに歌をうたいかけると亡くなった人も「すっきり」して、心安らかに離別してゆくという。

 五感のうち最後まで残るのが聴覚だという話と符合して興味深いが、人間が人間のイメージ的身体である霊魂への移行を媒介するのは「声かけ」であると見なされている。

 3.困難な移行を媒介する(哀惜歌)  一方、(哀惜歌)がうたわれる四十九日間は、生から死への移行期間、あるいはそのどちらでもない期間として特徴的である。すなわち遺体から肉が落ち、骨化する時期なのである。風葬や洗骨改葬を行ってきた琉球弧では、遺体や死臭の変化は克明に観察され民俗知識として共有されていた。骨肉分離のプロセスは苦痛をともなう。この困難な時期に死者を慰めるためひんばんに墓参し、(哀惜歌)がうたわれてきたと解釈することができよ う。生から死への困難な移行が果たされるよう、絶えず声かけがなされ移行を媒介するのである。

 これも同様である。移行が困難であればこそ、歌としての声かけである「哀惜歌」が必要とされる。移行の困難の根拠になったのは、他界が時間性として表象された風葬ならではの観念だった。風葬における骨化の過程が視覚化されるということも、困難の観念醸成を助けている。

 沖縄や与那国の (哀惜歌)は、奄美に比べ四十九日という区切りは明瞭ではない。おそらく奄美とは違って、王府による位牌祭祀や焼香儀礼の制度化がすすんだことが背景にあるのではないか。移行の段階が祭祀やモノにより明示的であるため、歌による区切りを必要としなかったのではないかと考えられる。また奄美では、洞穴葬の時代に四十九日までたびたび墓参し死者の顔を見て別れを惜しんだという伝承が各地にあり、死者との一体感は格段に強かったのではないかと想像する。そうした点は今後さらに検討を要する課題である。

 奄美では、「死者との一体感は格段に強かったのではないか」。これは刺激的な仮説だ。

 4.音楽文化生成の原動力  (哀惜歌)は当該地域の重要なシマウタ二一般的なあそび歌)と関連が深い。(哀惜歌)には短詞塑歌謡の原初的な形がみられ、人と掛け合ってあそぶシマウタと様式的に連続性がある。(哀惜歌)には死や冥界が直接うたい込まれており、タブー性が強い。だが田畑のオープンな空間や重病人の見舞いの場でうたわれることなどにより、多くの人に共有され一般化していったのだろう。徳之島の《二上がり節》や与那国の《すんかに》にその具体 的なプロセスをみることができる。(中略)

 以上、琉球弧の葬送歌の状況や響きは特殊ではあるが、孤立した音楽ジャンルというよりはむしろ、当該音楽文化の基本的な特徴を共有している。たとえば与那国のカディナティは、旋律的に同地域の《子守歌》と酷似しており、また株式的にユンタジラバと共通する。葬送歌は伝承歌謡のジャンル形成において、仕事歌などと並び重要な役割を果たしてきたのではないかと考えられる。(『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』

 哭きうたに島唄の発生源を見るのは、『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』の魅力的な視線である。


『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』17

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