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2009/05/09

『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』

 「ある旅人の〇×な日々」のkayanoさんに出版を教えてもらって、『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』(上原兼善)を読んだ。「島津氏の琉球侵略」は今年よく見るフレーズだが、「もう一つの慶長の役」は初、ではないだろうか。上原によれば、こうだ。

 一六〇九年三月初め、三〇〇〇人の島津軍は奄美諸島以南の琉球国の島々を次々と攻略し、四月初めには首里城を包囲、尚寧王を降伏させるにいたった。琉球史のうえで「慶長の役」といえば、豊臣政権による第二次の朝鮮出兵をいうのではなく、この島津軍の琉球侵入を指している。日本史のうえではもう一つの「慶長の役」ということになる。

 なるほど琉球出兵について、海を隔てた異国への侵略という側面に焦点を当てれば、1597年の朝鮮出兵としての慶長の役に続く「もうひとつの慶長の役」ということになる。ぼくは、『奄美自立論』では、1597年ではなく1600年との対比を考えていた。それは1609年の出来事について、その後の世界を変えてしまったからだった。『奄美自立論』の文脈では、1609年は、「もうひとつの天下分け目の戦い」なのだ。
 
 この本のモチーフについて、上原は書いている。

 これからとりあげようとする戦役は、直接的には薩摩・日向・大隅を領する島津氏と琉球を支配する尚氏との間の領主間戦争であり、その点だけに着目すれば日本史の上では小さな事件といえるかもしれない。しかしいまさらいうまでもないことだが、島津氏の琉球掌握は、ひろい意味で明国に対抗して、日本を中心とした国際秩序をうちたてようとする運動の一環として引き起こされたものであり、それゆえに東アジアの国際関係にあらたな影響を及ぼさずにはおかなかった。たとえば出兵が明国にあらたな緊張をもたらし、徳川家康が強く望んだ明国との勘合復活の夢を遠のかせていった事実をあげれば、この戦争のもたらした影響の大きさは十分理解できるであろう。ここではそうした事実に着目して、島津氏による琉球占領を、より広く日本の社会変動、東アジア世界の政治変動の中に位置づけて捉えかえしてみたい。

 読んだ印象では、「より広く日本の社会変動、東アジア世界の政治変動の中に位置づけ」たものというより、侵略に至る経緯をこれまでの研究を踏まえながら網羅したもののように感じた。それは目次にも表れていると思う。

 奄美という視点に絡めていえば、それは1609年が沖縄の出来事として語られることが多かったのを、松下志朗(『近世奄美の支配と社会』)や石上英一によって奄美が80年代から90年代にかけてようやくクローズアップされたものを、上原は奄美、沖縄の両者をすくい上げるように歴史を編んだというように。

 そういう意味では、1609年を問うということは、その後の琉球の在り方を問うということの他に、奄美と沖縄を共通の土俵でみる場を提供していると言うこともできる。そしてそれは少なくとも奄美にとって歓迎すべきことだと思う。

◇◆◇

 内容と直接、関わりないことだが、歴史記述が成り立つ背景のドラマを感じさせることをひとつ挙げる。薩摩と琉球の書状のやりとりに触れた個所。

 では義久の書状はどうか。それについてはこれまで現物が発見されず、詳細については論じることはできなかったが、しかし二〇〇一年のこと、状況は一変した。鹿児島県出身の衆議院議員山中貞則氏へ故人)のご厚意によって沖縄県公文書館に、天正十八年(二五九〇)仲秋(八月三十「日付で義久が琉球国王高率)あてに、豊臣秀吉への聴聞をうながした書状が寄贈されたのである。日本国内で戦国期の文書が発見されると大きな話題になるくらいであるが、先の大戦で沖縄はほとんどの貴重な史料が灰塵に帰してしまったから、この期の文書の出現はまさに晴天の霹靂であった。

 この書状について、山中は、あの沖縄への謝罪を記した『顧みて悔いなし 私の履歴書』のなかで触れいている。しかも、その謝罪の前の個所で、だ。

 ご承知のように、鹿児島・薩摩藩の島津家は今から四百年ほど昔、琉球に武力をもって侵攻し、支配下に置いた。昨年のことだが、家で書類の整理をしていた息子が、古い文献を取り出して「お父さん、これは何ですか」と聞く。見ると相当古いもので、どうやら薩摩藩主から琉球国王にあてた書簡らしい。いつ、どこから入手したものか、あいにく私にも記憶はなかった。

 内容を読み解くと、天正十八年(一五九〇年)、島津義久から尚寧王に送った手紙で、「豊臣秀吉が小田原を攻め落とし、天下統一の見通しである。秀吉から催促されているので、官船の綾舟管絃を出し、来春には拝謁のため上洛してくれないか」といったことが書いてあった。琉球王にはそれ以前にも上洛を促したが、応じなかったらしく、秀吉の催促に島津義久も困惑している様子が伝わってくる。貴重な史料なので沖縄県に寄贈し、県の公文書館に保存されているが、稲嶺恵一知事も「琉球王国時代の史料は県内にはほとんど残っていない」と喜んでいた。

 島津義久の書状は、山中の息子さんが書類の整理をしているときに掘り出され、それが歴史の実像へアプローチするのに貴重な役割を果たす(ちなみに表紙装丁にもこの書状は使われている)。これを見ると、山中が沖縄への想いが史実の研究に寄与していると言うこともできる。人の想いが歴史を作ることの一端がうかがえる。 『奄美自立論』で、引用した山中の謝罪の箇所は、この文章に続く。

 また上原は、1606年、「琉球への出兵」が緊要な課題になっていることを示す、島津忠恒が家臣に宛てた指示を訳してくれている。

 大島入りのことは来秋必ず必ず挙行することが肝要である。ひょっとして油断するようなことがあってはならない。よく知るように当年は看滞船を作り、江戸へ運送し、また縁嫁のことなどがあって、過分の入日となり、上下とも疲れている状況にある。それゆえ当年大島のことが調わなければ、後年まで疲弊したままとなってしまう。国家のためを思うならば周到にことに当たるべき時である。

 これに続けて、こう考察を加える。

 すなわち、忠恒は現実に目の前にある財政的危機を打開するために琉球の一部である大島を占領するほかはないと考えていたのである。ここで注意を要するのは、忠恒が考えていたのは大島への出兵であって、琉球全領の掌振ではなかったことである。もっとも島津領に隣接する島々に版図を拡大することによって財政基盤の補強をはかろうとしたことになる。徳川氏の覇権確立後、領主間戦争を通じての領土拡張運動がもはや不可能となっていたこの段階において、忠恒がとれる途といえば、いまだ他の領主権力の手がおよんでいない南の島々への進出であった。

 これを奄美の方から捉えれば、そもそも薩摩は財政を理由に直接支配の意図を奄美に対して持っていたことを示すものだ。この動機はこれ以降、少なくとも三世紀近くは続くわけだから、恐ろしいものだと思う。

 もうひとつ、奄美視点からいえば、「奄美諸島の直轄化」という節。上原は「雑録後編」に収められている2つの文書から仮説している。

 右のA・B二つの史料が徳之島の情況を示すもので、検地衆の派遣によってその在地を掌握しようとする動きを伝えるものとすれば、奄美諸島もすべてにわたって慶長十五年の段階で検地の竿がおよんでいたのではなく、島によっては遅々として島津氏の支配権は浸透していなかったとみられる。それを左右したのは島役人の動向であったであろう。戦役後、大島の七間切の大親役の中には「本琉球」に引き揚げた者もいたといわれるが、非協力のかたちで島津支配に同調しない島役人も存在したのではあるまいか。伊地知らが「収納」に「辛労」し、「残米」を余儀なくされ、検地衆の派遣にいたった徳之島の情況は、奄美の島々の直轄化の道が平坦でなかったことを想定せしめるのである。

 奄美の検地を示す資料は少ないのだが、ここから推察すると、検地は思うように進まなかったのではないか。
 「大島置目條々」の、

また一九条目には「諸役人琉球にいたり、はちまきのゆるし取る事停止たるべし」とあり、島役人たちが琉球から、位階の表徴である帖を受けることを禁じている。この条目の存在は、逆にこのころまでなお島役人たちは琉球王府に結びつき、位階を受ける者がいたことを示していよう。

 そうした島役人が島津側の年貢収取に協力的であったとは思えない。二九条目は「数年百姓未進のこと」というきわめて短い条文であるが、これまで年貢収取が順調でなかったことを雄弁にものがたっている。「有馬丹後純定大嶋附肝付表代官相勤候覚」が、元和十年(一六二四・寛永元)に石高が確定した後、「大島等始めて本府に貢す」としているのも、そのことを裏付けるものといえる。奄美諸島はようやく一六二一年(元和七)の検地、二三年(元和九)の「置目條々」の発布の過程を経て、地方支配機構の整備をみ、年貢収取も軌道にのりはじめるものとみられ、それまでの一〇年間はその蔵人地化はなお容易に進展しなかったと理解したほうがよいであろう。

 要するに、琉球とのつながりが強く、島役人の抵抗があったのではないか、ということだ。

 仮説の是非はともかく、奄美について触れた個所として受け止めておきたい。

◇◆◇

 「あとがき」で上原は書いている。

 現在歴史書の出版を専門とする大手の出版社で、古代の動乱からアジア・太平洋戦争までの日本の内乱・戦争の実態を二三巻にまとめる企画が進行中である。東北地方の内国化の過程で起こった戦争については一巻があてられているが、南島の内国化の契機となった日本の幕藩権力による琉球国征服戦争についての巻はない。その理由は、国をあげての戦争ではなく、島津軍が単独で遂行した小規模な局地戦であったことによるものであろう。確かに島津軍が鹿児島を出撃して琉球国を制圧するまでに要した日数は三〇日程度で、実質的な戦闘日数は一五日にも満たないのではないかと思われる。しかも具体的な戦闘の実態にいたってはよくわかっていない。しかし、この戦争は豊臣政権の朝鮮侵略戦争(壬申・丁酉の倭乱)につぐ、中国の册封圏への軍事行動であったから、ことは琉球の尚氏と島津氏・徳川政権との関係で終わる問題ではなかった。明国・朝鮮に倭乱の悪夢をよみがえらせ、東アジアにあらたな緊張をもたらした。そして、徳川政権の外交戦略に少なからず影響を与えた。そうした観点からいえば、戦闘の規模の問題はさておいても、この戦争の意味はもっと問われてよいのではないか。本書はそうした思いからまとめられたものである。

 同様のことはぼくも感じる。国内統一の一過程という見なしに薩摩は開き直り、奄美は国内という見なしを得るために開き直りをむしろ是とすらしてきた。そのために見えなくなってきたことがあると思う。薩摩は慶長の役の際、朝鮮に対して侵略するという行為を経験する。その同じことを薩摩は、琉球に対して行っているのだ。

 さて、ぼくとしては琉球出兵の口実として惹かれる三宅国秀の琉球遠征計画について、捏造ではないかとした田中健夫の考察にも触れてほしかったが、よくばりかもしれない。文書の訳文も結構あり、辞書として頼みにする本になりそうだ。

◇◆◇

 この本は、アマゾンにはなく、ぼくは池袋ジュンク堂に求めた。ついでに、「軍事・戦略」のコーナーに行って(苦笑)、『奄美自立論』を探してみた。『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の横にはなく、はや格下げかと思ったが、どうやらない。店員さんにも聞いたが、在庫切れ、と。ここは5冊入荷していたはずなので、それだけ売れたことになる。池袋界隈は、奄美に関心のある人が多いのだろうか。驚いた。書店員さんは忘れずに入荷してほしいものだ。


『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』(上原兼善)

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コメント

もう読了ですか。首都圏に住むメリットですね。
こちらは一昨日、ガジュマル書林に注文し、昨日、発送したというメールがきたので手にするのは明日です。

とらひこさんの下記ブログに昨日の沖縄県立博物館での「薩摩の琉球侵攻400年を考える」シンポジウムに参加しての記事あり。王府の軍事的対応の視点で。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/05/post-3d57.html

投稿: kayano | 2009/05/10 06:56

kayanoさん

とらひこさんブログの情報ありがとうございます。
速報、嬉しいですね。こういう記事はありがたいなと思います。

見逃しているだけかもしれませんが、昨日のシンポジウムのこと、南日本新聞は記事にしていますが、琉球新報、沖縄タイムスには見当たらないですね。

投稿: 喜山 | 2009/05/10 13:14

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