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2009/05/20

『黒い皮膚・白い仮面』

 ぼくたちがフランツ・ファノンを読む意味は、人種という大文字の問題に照らして小文字の奄美の問題を照射したいからではない。実は大文字の問題であると声を荒げたいからでもない。似てないような似ているような、あいまいな区別のなかに陥ってきた長年の思考停止から抜け出るために、だ。

 書名の『黒い皮膚・白い仮面』は、「黒い皮膚」の黒人が「白い仮面」によって白人になろうとすることを指していると受け止めれば、「琉球という身体・大和という仮面」という置き換えをすぐに想起することができる。事実、復帰運動の変身の原理はこれだった。こう見れば、ここには、ぼくたちの問題が顔を出していると見ることができる。

 「黒人は、白人といるときと、黒人同士でいるときとでは、行動の仕方が異なる。」というのも思い出しやすい現象だし、植民地であるアンティル諸島の人間がフランス本国でフランス語を覚えて帰ってくると、現地の言葉を喋らなくなるし、現地を批判するようになるというのも、思い当たる節が多い。

 私はどこに自己を位置づけるべきなのか? あるいはまた、どこにもぐりこむべきなのか?
 - マルチニック出身、《われらの》古い植民地出身の方です。私はどこに身を隠すべきか?
 - ほらニグロだよ!‥…ママ、ニグロだよ!…‥しっ! 叱られますよ……。どうぞお気になさらないで。子供なもんで、あなたが私たちと同じくらい開けていらっしゃるのがわからないんですのよ。
   この箇所など、ぼくたちなら、この場面の琉球弧バージョンとして、山之口獏の「会話」を思い出すだろう。

 「黒い皮膚の女と白人の男」、「黒い皮膚の男と白人の女」というテーマ設定は、こういう問い方で浮かび上がるものが確かにあると思わせる。島人の男と本土の女、島人の女と本土の男、本土が鹿児島である場合とそうでない場合、そして仮に二人が結婚するとして、島に住むのか、鹿児島に住むのか、それ以外に住むのかによって、そこにはそれぞれの物語がある。そこには実は口に出しても仕方がない、けれど、当事者だけで越えるには乗り越えがたい壁がときとして立ちはだかる。

 他にも、植民地解放のために戦争に直面したフランツ・ファノンは、はっとさせる言葉を吐く。

 黒人は白人になりたいと望む。白人は人間としての条件を実現することに熱中する。
 この作品の中で、「黒人-白人」の関係を理解する試みが形を整えてゆくであろう。
 白人は彼の白さの中に閉じ込められている。
 黒人は彼の黒さの中に。
 白い世界はない、白い倫理はない、ましてや白い知性はない。
 ニグロは存在しない。白人も同様に存在しない。

 これらの言葉は既にぼくたちより遥かに遠くに行ってしまっている。フランツ・ファノンは、「黒人」もない「白人」もない、「人間」に超越的な価値を見出していったようだ。ただ、このとき、「人間」であることを言うのに、「白人」であることも「黒人」であることも、「島人」であることも、その雑種的な個別性を捨てるべきではないと思う。

 しかし、ここでも、ぼくたちは逆照射されて、思考停止に気づかされる。ぼくたちの歴史は、「島人」が、「人間」に飛びついたのではなく、「日本人」に飛びつくに止まってきたのだ。


   『黒い皮膚・白い仮面』

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